
それじゃ、「ムッソリーニ」の政治思想や人間性、ヒトラー率いるドイツのナチス政権と枢軸国を形成する経緯など、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。
- べニート・ムッソリーニとは
- イタリアで国家ファシスト党を結成
- 昔からある言葉ファシズムを政治利用
- 幼少期は問題児だったムッソリーニ
- 修道会の寄宿学校でミサを妨害
- 師範学校から教師の道へ
- イタリア戦闘者ファッシを設立したムッソリーニ
- 第一次世界大戦の復員兵を組織化
- ファッシの国政入りを目指すように
- イタリアで政権を獲得したムッソリーニ
- ダンヌンツィオに影響されてローマ進軍を計画
- ファシスト党単独の内閣を実現
- ムッソリーニの独裁政治
- イタリア国民のファシスト化を宣言
- 自由経済から計画経済にシフト
- 日本・ドイツ・イタリアの共同防衛
- ムッソリーニとヒトラーの思想上の違い
- ムッソリーニは人種差別政策は実施せず
- インテリのムッソリーニ、小学校を出ていないヒトラー
- ムッソリーニの最期は公開処刑
- ムッソリーニはレジスタンスと連合軍に追われる身
- ムッソリーニの死体はミラノで吊るされる
- ムッソリーニの評価は今でも分かれる
この記事の目次

ライター/ひこすけ
文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。世界史をたどるとき「ムッソリーニ」を避けて通ることはできない。「ムッソリーニ」は、大戦中に国民に敬礼させるスタイルなどヒトラーとの共通点も多い。ただ、彼は人種差別思想を持っていないなど、方向性の違いもあった。そこで彼が権力を増していく過程や思想上の意味など、関連することをまとめてみた。
べニート・ムッソリーニとは

イタリアで国家ファシスト党を結成
ムッソリーニがファシズムを追求するようになったのは1920年代。第一次世界大戦の敗戦による多額の賠償金の支払いにより、イタリアが経済的苦境に陥っていた時期でした。
北イタリア各地で第一次世界大戦の復員兵などを集めて突撃隊を組織。社会主義者に対する攻撃を開始します。ムッソリーニは襲撃隊のリーダーとなり、それを基盤に国家ファシスト党をつくりました。
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昔からある言葉ファシズムを政治利用
ファシズムはムッソリーニがつくったのではなく昔からあった言葉。その語源はイタリア語のファッショ。束、集団、結束を意味する言葉です。暴力的な意味合いはありませんでした。
ファッショの語源をさらにさかのぼるとラテン語のファスケスに到達。ファスケスとは斧のまわりに短い杖を束ねたもので、古代ローマの権威のシンボルでした。
幼少期は問題児だったムッソリーニ
By Srecan – Own work, CC BY-SA 3.0, Link
1883年にムッソリーニは鍛冶屋の息子として生まれました。父親が社会主義者であったことから、小さいころのムッソリーニも同様の思想を持っていました。
修道会の寄宿学校でミサを妨害
ムッソリーニの母親は熱心なカトリック教徒。そのためムッソリーニは二年間の義務教育が終わったあと、サレジオ修道会の寄宿学校に入ります。
気が短く暴力的な性格だったムッソリーニは修道会の教師とたびたび対立。寄宿学校を逃げ出したりミサを妨害したりしていました。
師範学校から教師の道へ
ムッソリーニは問題行動が多かったものの成績は非常に優秀でした。そこで寄宿学校を卒業したあと師範学校に入学。教師の道を志します。
このころからムッソリーニはイタリア社会党の急進派として政治活動も開始。政治活動の影響もあり、スムーズにはいきませんでしたが、フランス語の教師として採用されます。
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