「ムッソリーニ」とは第二次世界大戦の時期に登場した独裁者。ファシストという言葉を世界に広めた歴史上の人物でもある。第一次世界大戦の敗戦後、賠償金の清算により経済的貧困に苦しむイタリアで、当時のイタリア人に新たな指導者として支持された。王制を廃止するだけではなく右派と左派をひとつにまとめるなど、巧みに権力を増していった。

それじゃ、「ムッソリーニ」の政治思想や人間性、ヒトラー率いるドイツのナチス政権と枢軸国を形成する経緯など、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。世界史をたどるとき「ムッソリーニ」を避けて通ることはできない。「ムッソリーニ」は、大戦中に国民に敬礼させるスタイルなどヒトラーとの共通点も多い。ただ、彼は人種差別思想を持っていないなど、方向性の違いもあった。そこで彼が権力を増していく過程や思想上の意味など、関連することをまとめてみた。

べニート・ムッソリーニとは

image by PIXTA / 25163180

ムッソリーニは、第二次世界大戦の時期に独裁的な政治を展開した政治家。第一次世界大戦より前はイタリア社会党の党員として活動していましたが、意見の対立などから反社会主義の立場に転向しました。独裁政権を確立したあとは、ヒトラーと行動を共にするなど、ファシズムを推進していきます。

イタリアで国家ファシスト党を結成

ムッソリーニがファシズムを追求するようになったのは1920年代。第一次世界大戦の敗戦による多額の賠償金の支払いにより、イタリアが経済的苦境に陥っていた時期でした。

北イタリア各地で第一次世界大戦の復員兵などを集めて突撃隊を組織。社会主義者に対する攻撃を開始します。ムッソリーニは襲撃隊のリーダーとなり、それを基盤に国家ファシスト党をつくりました。

昔からある言葉ファシズムを政治利用

ファシズムはムッソリーニがつくったのではなく昔からあった言葉。その語源はイタリア語のファッショ。束、集団、結束を意味する言葉です。暴力的な意味合いはありませんでした。

ファッショの語源をさらにさかのぼるとラテン語のファスケスに到達。ファスケスとは斧のまわりに短い杖を束ねたもので、古代ローマの権威のシンボルでした。

幼少期は問題児だったムッソリーニ

vernacular stone building, birthplace of Benito Mussolini, now a museum
By Srecan - Own work, CC BY-SA 3.0, Link

1883年にムッソリーニは鍛冶屋の息子として生まれました。父親が社会主義者であったことから、小さいころのムッソリーニも同様の思想を持っていました。

修道会の寄宿学校でミサを妨害

ムッソリーニの母親は熱心なカトリック教徒。そのためムッソリーニは二年間の義務教育が終わったあと、サレジオ修道会の寄宿学校に入ります。

気が短く暴力的な性格だったムッソリーニは修道会の教師とたびたび対立。寄宿学校を逃げ出したりミサを妨害したりしていました。

師範学校から教師の道へ

ムッソリーニは問題行動が多かったものの成績は非常に優秀でした。そこで寄宿学校を卒業したあと師範学校に入学。教師の道を志します。

このころからムッソリーニはイタリア社会党の急進派として政治活動も開始。政治活動の影響もあり、スムーズにはいきませんでしたが、フランス語の教師として採用されます。

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イタリア戦闘者ファッシを設立したムッソリーニ

March on Rome 1922 - Mussolini.jpg
不明 - Illustrazione Italiana, 1922, n. 45, パブリック・ドメイン, リンクによる

第一次世界大戦が始まるとムッソリーニが所属していたイタリア社会党は反戦派と参戦派に分裂。ムッソリーニは非主流の参戦派となり除名されます。そこで自衛組織を発展させて自らイタリア戦闘者ファッシをつくりました。

第一次世界大戦の復員兵を組織化

イタリアの中流階級である小地主達は、第一次世界大戦で下士官や将校として戦っていました。そのような退役軍人たちは、自衛組織をつくって武力衝突を繰り返すようになります。

彼らの共通のユニフォームは黒シャツ。それはのちに黒シャツ隊とも呼ばれるようになりました。彼らのリーダーとなったムッソリーニがつくったのがイタリア戦闘者ファッシです。

ファッシの国政入りを目指すように

さらにムッソリーニはファッシの勢力を拡大させて国政入りを目指すようになります。1919年の総選挙における当選者はゼロ。創設メンバーの9割近くが離党します。

そのようなとき詩人のダンヌンツィオが自治区であるフィウメに進軍。自治政府にクーデターをしかけます。このフィウメ進軍がムッソリーニのファシスト活動に影響を与えました。

イタリアで政権を獲得したムッソリーニ

image by PIXTA / 58719526

イタリア戦闘者ファッシはゆるやかな退役兵などの集まりで十分に組織化されていませんでした。そこでファッシの組織再編を行い政権の獲得を目指すようになります。

ダンヌンツィオに影響されてローマ進軍を計画

ムッソリーニはイタリア戦闘者ファッシを解散させ、国家ファシスト党に発展させていきます。各地の自衛団も組織化。それは黒シャツ隊と呼ばれるようになりました。

次にムッソリーニが思い立ったのが黒シャツ隊を動員させたローマ進軍です。これはダンヌンツィオのフィウメ進軍に感化されたものでした。

ファシスト党単独の内閣を実現

ローマ進軍の表明は水面下でさまざまな交渉が行われるきっかけになりました。ムッソリーニは複数の支援や擁護の約束を取り付けて足場を固めていきます。

さまざまな攻防の末、最終的にイタリア国王はムッソリーニ側にまわり、組閣を命じるに至りました。政権を獲得したムッソリーニは、法律を変えて独裁体制を確立するに至ります。

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ムッソリーニの独裁政治

Bundesarchiv Bild 102-09041, Rom, Italienisches Parlament.jpg
Bundesarchiv, Bild 102-09041 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

ムッソリーニ内閣は発足したあと、すぐに独裁政治に移行したわけではありませんでした。ムッソリーニが、首相、内相、外相を兼務。そのほか、ファシスト党出身の閣僚は3名のみでした。複数の政党を人事に反映させる配慮がありましたが、1925年に独裁制を宣言します。

イタリア国民のファシスト化を宣言

1925年にムッソリーニが宣言したのが「イタリア国民のファシスト化」。国家ファシスト党の党大会がその舞台でした。ファシストの語源が「束」や「結束」。つまりファシスト化とは、国民をすべて束にまとめて結束=管理することを意味します。

ファシスト化のためにムッソリーニが行ったことが組織化。イタリア国民を、年齢、性別、職業、居住地ごとにグループ化します。それにより国民の行動や選択の自由はなくなりました。暦もローマ進軍を基準にファシスト版に変更されます。

自由経済から計画経済にシフト

当時のイタリアは第一次世界大戦の敗戦や世界恐慌の影響があり経済的に困窮。そこでムッソリーニ政権は自由経済を廃止して計画経済に移行させます。海外との貿易を制限して、イタリア国内の産業を保護する政策がとられました。

不況により農民が都市部に流れていることを受けて農業政策も重視。開拓事業を進めることで農民の失業者を減らそうとします。成果は地域ごとに異なりますが、一定の成果があってもイタリア経済を回復させるまでには至りませんでした。

日本・ドイツ・イタリアの共同防衛

日本との関わりでいえば日独伊防共協定を避けて通ることはできません。これは1936年に結ばれた協定で、共産主義の防衛を目的とするものです。最初は日本とドイツで交渉が進められていましたが、途中でイタリアも合流する形になりました。

この協定自体はほとんど機能せず自然消滅します。しかしながら、日本、ドイツ、イタリアの三国の関係は深まり、第二次世界大戦では「枢軸国」を形成。イギリス、フランス、ソ連、アメリカなどの「連合国」と対立するようになりました。

ムッソリーニとヒトラーの思想上の違い

HitlerMussolini1934Venice.jpg
Istituto Nazionale Luce (State-run production house active between 1932-1946 and 1950-1961. In 1963 it was restructured and renamed as Istituto Luce.) - This image is available from the United States Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID cph.3b45656. This tag does not indicate the copyright status of the attached work. A normal copyright tag is still required. See Commons:Licensing for more information., パブリック・ドメイン, リンクによる

ムッソリーニとヒトラーは同じ思想を共有していると思われがちですが、必ずしもそうではありません。ヒトラーと行動を共にするものの、ムッソリーニは考え方の違いを強く意識していました。

ムッソリーニは人種差別政策は実施せず

ヒトラーの政策のなかでとくに有名なのが人種差別。アーリア人至上主義を掲げる一方、ユダヤ人を迫害します。そのためファシズム=ユダヤ人迫害と思われがちですが、ムッソリーニはそのような視点は持っていませんでした。

ナチス政権のユダヤ人迫害が過激になると、ムッソリーニは思想上の違いを示すために、徐々にヒトラーと距離をとるようになります。とはいえ、黒人や黄色人と言われる人々に対しては差別的なまなざしを向けていました。

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インテリのムッソリーニ、小学校を出ていないヒトラー

ムッソリーニは、問題児であったものの頭脳明晰で、若いころから政治思想や経済理論の書物を読み込んでいました。イタリア未来派の芸術家のなかには、ムッソリーニを優れた知性を持っていると評価する人もいたようです。

一方ヒトラーは、小学校も卒業していません。ムッソリーニは知識が豊富であるがゆえに、ヒトラーと話すと教養の差が出てしまい、軽蔑しているところがあったとも言われています。

ムッソリーニの最期は公開処刑

Predappio, cimitero di san cassiano, cripta, tomba di benito mussolini 01.JPG
Sailko - 投稿者自身による作品, CC 表示 3.0, リンクによる

ムッソリーニは、第二次世界大戦の終戦間際に公開処刑により死亡します。処刑されるまでの経緯は不明なことが多数。そのため、今でも歴史家による議論や調査が続けられています。

ムッソリーニはレジスタンスと連合軍に追われる身

第二次世界大戦末期になると、日独伊の枢軸国は欧米諸国などの連合国に追い詰められていました。さらにドイツとイタリアの関係も変わり、イタリア北部はドイツが占領。ムッソリーニの権力は形式的なものになります。

さらにイタリア国内ではレジスタンス運動が活発化。ムッソリーニは逃亡を余儀なくされます。そこでムッソリーニは家族をスペインに逃し、自身は愛人女性といっしょにスイスに向かいました。その途中でレジスタンスの構成員に捕まります。

ムッソリーニの死体はミラノで吊るされる

1945年4月25日にムッソリーニと愛人女性は射殺。その亡骸はミラノに運ばれ、市民らにより激しい暴行を受けました。さらに死体は吊るされて人々の前にさらされます。その様子は写真と共に世界中で報道されました。

その後、ムッソリーニの亡骸は無記名の墓におさめられましたが、ファシズムの支持者がたびたび盗み出します。最終的に彼の亡骸はムッソリーニ家の納骨堂におさめられました。

ムッソリーニの評価は今でも分かれる

ムッソリーに対する評価は今でも分かれています。ムッソリーニには、理論家と政治家というふたつの顔があり、どこに着目するかで評価が変わりました。勉強熱心で知性あふれるムッソリーニのファシズム理論は、政治理論として高く評価できる一面も。また、ヒトラーと行動を共にするまでは、ムッソリーニの政策に理解を示す人も多かったようです。もともと経済的に苦しかったイタリアは、戦況が悪くなるなかで、追い詰められた状況にありました。政策が過激になっていったのは、ムッソリーニなりの国の守り方だったのかもしれません。

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イタリアの独裁者「ムッソリーニ」とは?ファシスト活動やナチスとの違いを元大学教員がわかりやすく解説

「ムッソリーニ」とは第二次世界大戦の時期に登場した独裁者。ファシストという言葉を世界に広めた歴史上の人物でもある。第一次世界大戦の敗戦後、賠償金の清算により経済的貧困に苦しむイタリアで、当時のイタリア人に新たな指導者として支持された。王制を廃止するだけではなく右派と左派をひとつにまとめるなど、巧みに権力を増していった。

それじゃ、「ムッソリーニ」の政治思想や人間性、ヒトラー率いるドイツのナチス政権と枢軸国を形成する経緯など、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。世界史をたどるとき「ムッソリーニ」を避けて通ることはできない。「ムッソリーニ」は、大戦中に国民に敬礼させるスタイルなどヒトラーとの共通点も多い。ただ、彼は人種差別思想を持っていないなど、方向性の違いもあった。そこで彼が権力を増していく過程や思想上の意味など、関連することをまとめてみた。

べニート・ムッソリーニとは

image by PIXTA / 25163180

ムッソリーニは、第二次世界大戦の時期に独裁的な政治を展開した政治家。第一次世界大戦より前はイタリア社会党の党員として活動していましたが、意見の対立などから反社会主義の立場に転向しました。独裁政権を確立したあとは、ヒトラーと行動を共にするなど、ファシズムを推進していきます。

イタリアで国家ファシスト党を結成

ムッソリーニがファシズムを追求するようになったのは1920年代。第一次世界大戦の敗戦による多額の賠償金の支払いにより、イタリアが経済的苦境に陥っていた時期でした。

北イタリア各地で第一次世界大戦の復員兵などを集めて突撃隊を組織。社会主義者に対する攻撃を開始します。ムッソリーニは襲撃隊のリーダーとなり、それを基盤に国家ファシスト党をつくりました。

昔からある言葉ファシズムを政治利用

ファシズムはムッソリーニがつくったのではなく昔からあった言葉。その語源はイタリア語のファッショ。束、集団、結束を意味する言葉です。暴力的な意味合いはありませんでした。

ファッショの語源をさらにさかのぼるとラテン語のファスケスに到達。ファスケスとは斧のまわりに短い杖を束ねたもので、古代ローマの権威のシンボルでした。

幼少期は問題児だったムッソリーニ

vernacular stone building, birthplace of Benito Mussolini, now a museum
By SrecanOwn work, CC BY-SA 3.0, Link

1883年にムッソリーニは鍛冶屋の息子として生まれました。父親が社会主義者であったことから、小さいころのムッソリーニも同様の思想を持っていました。

修道会の寄宿学校でミサを妨害

ムッソリーニの母親は熱心なカトリック教徒。そのためムッソリーニは二年間の義務教育が終わったあと、サレジオ修道会の寄宿学校に入ります。

気が短く暴力的な性格だったムッソリーニは修道会の教師とたびたび対立。寄宿学校を逃げ出したりミサを妨害したりしていました。

師範学校から教師の道へ

ムッソリーニは問題行動が多かったものの成績は非常に優秀でした。そこで寄宿学校を卒業したあと師範学校に入学。教師の道を志します。

このころからムッソリーニはイタリア社会党の急進派として政治活動も開始。政治活動の影響もあり、スムーズにはいきませんでしたが、フランス語の教師として採用されます。

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