長崎県長崎市にある「出島」は、江戸時代以降、貿易を許可されていたオランダ人が出入りできた唯一の場所。鎖国時代の日本のなかで西洋の生活や貿易活動が営まれていた歴史的なスポットです。「出島」の周辺には関連する施設が復元されており、鎖国中の日本を堪能できる観光地として高く評価されている。

現在の「出島」は当時の形に復元・整備されているため鎖国の時期の日本を体感できる。そんな「出島」ができる過程やそこでの生活について、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。日本史をたどるとき「出島」を避けて通ることはできない。「出島」がある長崎は路面電車が走るレトロな街。中華街の近くではちゃんぽんや皿うどんが堪能できる、国内外の旅行者におすすめの観光地だ。そこで、オランダ貿易が営まれていた時期の「出島」についてまとめてみた。

出島とは長崎にある人口島

image by PIXTA / 49293760

出島とは、外国人が外国船の出入りを制限するため、1634年に江戸幕府が命じて作った人工の島です。世界史の教科書などで、扇型の島の図面を見たことがある人も多いのではないでしょうか。

江戸時代にオランダ貿易のために作られた

出島が使われていた時期、主にふたつの国が関わりました。ひとつがポルトガル。出島がつくられた1636年から、取り引きが停止される1639年までのあいだです。そして、1641年から1859年までと、長いあいだ出島を出入りしたのがオランダ東インド会社でした。

戦国時代にポルトガル人がはじめて日本に漂着したことから日本の貿易を独占します。ポルトガル人は、地方大名と密な関係を築いて勢力を拡大しすぎたことから徳川幕府によって排除されました。それに代わってオランダの独占体制がしかれます。

明治時代に一度失われた過去も

幕末になるとアメリカの代将であるペリーの黒船が来航。江戸時代を通じて鎖国していた日本は開国する流れになります。それに伴い、出島のなかだけで活動していたオランダ人も、自由に出島を出て市中を歩けるようになりました。

そのため出島の存在意義が消失。明治時代になると出島は改修に改修を重ねて、徐々に埋め立てられていきます。明治21年には埋め立てにより完全に陸続きの状態になり、扇形の島は消えてしまいました。

「出島」の始まりは南蛮貿易の規制

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狩野内膳 - Kobe Catalogue, パブリック・ドメイン, リンクによる

出島が作られたきっかけは南蛮貿易の規制です。日本では戦国時代頃からスペイン・ポルトガルとの貿易が活発化。それを一転、規制する手段として出島を作りました。

スペイン・ポルトガルの勢力拡大に危機感が高まる

南蛮貿易は、スペイン・ポルトガル商人と戦国大名が密につながることで発展してきました。とくに南蛮貿易で輸入された火縄銃は戦国大名にとって魅力的でした。

あまりの勢力拡大に、幕府はスペイン・ポルトガルの植民地になることを危惧するようになります。そこで出島を作り南蛮貿易の規制を開始しました。

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先立ってキリスト教は禁止された

出島の建設と合わせて規制が開始されたのがキリスト教です。南蛮貿易はキリスト教の布教とワンセット。イエズス会の宣教活動により各地に拠点が形成されていました。

最初、幕府はキリスト教のみを禁止して、南蛮貿易は継続しようと思っていました。しかしふたつを切り離すことは難しく、キリスト教に続いて南蛮貿易も締め出されることになりました。

江戸幕府の一大事業となった「出島」の建設

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Isaac Titsingh - Koninklijke Bibliotheek Bijzonderheden over Japan, behelzende een verslag van de huwelijks plegtigheden, begrafenissen en feesten der Japanezen, de gedenkschriften der laatste Japansche keizers, en andere merkwaardigheden nopens dat rijk, パブリック・ドメイン, リンクによる

出島は湾上に人工の島を作ること。当時の日本としては最新の技術を集結させた一大事業でした。そこで多額の費用と労働力が投入されます。

建設費用は現代に換算すると約4億円

出島の建設は1634年に始まり、完成までに2年もの月日がかかりました。建設のための費用を負担したのは長崎の有力商人。その額は約4,000両でした。

出島の建設費用をを現代のお金に換算すると4億円ほどになります。これだけの費用を負担してでも南蛮貿易を続けようとしたのは、それだけの儲けがあったからなのでしょう。

江戸幕府と長崎の有力商人の共同出資

門・橋・塀などについては幕府が支払うことに。お金を出資した商人たちは、ポルトガル人に出島の使用料を支払わせ、費用を回収することになりました。

ここで出島建設のために出資した商人は25人。彼らは長期にわたって使用料を徴収する出島町人と呼ばれました。

オランダ商館の独占体制になった「出島」

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川原慶賀 - MIT Visualizing Cultures MIT Visualizing Cultures, パブリック・ドメイン, リンクによる

1638年の島原の乱のあと幕府のキリスト教弾圧は本格化。そこでスペイン・ポルトガルとの貿易を断ち切りたいと思うようになります。そこで新たな取引先として浮上したのがオランダでした。

江戸幕府に独占を提案したフランソワ・カロン

幕府は、これまでの輸入品が途絶えることを恐れてポルトガル人の排除に踏み切れませんでした。そんな幕府に積極的に排除を進言したのはオランダでした。

オランダ商館長だったフランソワ・カロンは、ポルトガルから仕入れていた物品をオランダが用意することを約束。オランダは欧州のなかで唯一日本と取り引きできる国となりました。

\次のページで「平戸のオランダ商館を出島に移動」を解説!/

平戸のオランダ商館を出島に移動

ポルトガル人は貿易が断ち切られたため出島から退去。そこで多額の資金をつぎ込んで作られた出島は無人状態になります。利用料の支払いもなくなり、長崎の町は瞬く間に廃れていきました。

出島をつくるときに出資した商人たちは窮状を訴えます。そこで平戸にあったオランダ商館を出島に移動させることになりました。オランダ人もまた、ポルトガル人と同じように、宗教や行動を管理されていきます。

長崎奉行の管理下になった「出島」

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川原慶賀 - はがき, scanned by Fraxinus2, パブリック・ドメイン, リンクによる

出島を管理していたのが長崎奉行。長崎奉行は、長崎の行政だけではなく中国やオランダとの貿易も担当していました。貿易による利益を幕府に収めることも長崎奉行の役割。出島の管理は重要任務でした。

出島ならではの仕事が存在

長崎奉行のもと出島ではさまざまな仕事が営まれていました。「出島乙名」は、出島の貿易を監督する責任者。貿易そのものだけではなく、関係する日本人も管理。出島の出入り口となる橋で、通行許可書を発行するのも「出島乙名」の役目でした。

また、出島には専属の通訳も常駐。オランダ語の通訳は「オランダ通詞」と呼ばれ、その能力に応じて階級が分けられていました。オランダ人のサポートや書類の翻訳など、オランダ語に関わる様々な仕事をしていました。

オランダ人が活動できるのは出島だけ

オランダ人は西欧諸国のなかでは日本との通商ができる唯一の国。しかしながら活動は小さな出島のなかに限られていました。出島を無断で出ると厳しく罰せられることに。脱走者を見つけて密告した人には褒美が与えられました。

唯一、出島から出ることを許されていたのがオランダ商館医のシーボルト。彼は出島で暮らしていましたがオランダ人ではなくドイツ人。西洋医学を日本に紹介するなど、幕府からも信頼を得ていました。

ペリー来航による開国で「出島」の存在意義は消滅

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Ziko - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

江戸時代を通じてオランダとの貿易拠点とされてきた出島ですが、アメリカ海軍の代将であるペリーが来たことで状況が一転。日本の鎖国政策は終了、それに伴い出島の存在意義は消滅しました。

明治時代の改修工事により出島は消滅

オランダ商館が閉鎖されたあとの出島は、オランダの軍人を招いて幕府の海軍士官の訓練場として使われていました。明治時代になったら、出島の改修工事が始まり、その形が徐々になくなっていきます。

出島が陸続きになったのが明治21年。明治37年には本土と一体化し、出島のシンボルである扇形は完全に消滅しました。出島のなかには、普通の住宅やお店、病院が建てられるようになり、貿易の拠点としての独自性も消えていきます。

\次のページで「第二次世界大戦後に出島の復元がはじまる」を解説!/

第二次世界大戦後に出島の復元がはじまる

しかしながら第二次世界大戦が終わったあと、オランダの提案で出島を復元するプロジェクトが進みだします。出島のなかの民有地を買い取り公有化していきました。そして公有化が完了したら、出島に関連する史跡を整備していきます。

出島を復元する際は19世紀初頭の出島が基準。陸続きになっていた出島の境界線を調査して、その範囲を調べました。本格的な出島の整備が始まったのは平成8年。当時の建物などが復元されました。

観光地としての「出島」のおすすめスポット

image by PIXTA / 44721592

現在、出島は長崎県の観光地のひとつ。扇形に復元された出島の姿を見ることができます。オランダ貿易に関わる建物も存在。当時の生活が部分的に再現されるなど、歴史が学べるスポットとなっています。

江戸時代にタイムスリップする出島表門橋

鎖国時代に出島の出入り口として通行許可書が発行されていたのが出島表門橋です。この橋は明治時代に壊されて消滅。しかしながら復元プロジェクトを通じて再び作られました。

江戸時代、橋を渡ると表門があり、探番(さぐりばん)が出入りする人をチェック。この橋を渡って出島の中に入ると、当時のオランダ人の気持ちを共有できそうですね。

オランダ商館長が住んでいた「カピタン部屋」

江戸時代、オランダ商館長はカピタンと呼ばれていました。もともとカピタンは仲間の長を意味するポルトガル語。オランダ商館長が住んでいた家がカピタン部屋は、かわいらしさがあるカラフルでレトロモダンな雰囲気が特徴的です。

畳のうえにじゅうたんが敷かれ、天井にはシャンデリア。遠い異国の地でなんとか西洋風の空間をこしらえていました。カピタン部屋は、パーティーを開いたり要人を接待したりと、大使館的な役割も担っていたようです。

旧長崎内外クラブは文明開化の出島版

明治時代に関連する建物が明治36年につくられた旧長崎内外クラブ。外国人と日本人の交流の場という文明開化を象徴する建物でした。鹿鳴館の出島バージョンと言ってもいいでしょう。

建物は現在、レストランとして使用。長崎のご当地グルメであるトルコライスのほか、長崎ちゃんぽんやミルクセーキをいただけます。旧長崎内外クラブの2階は展示室。歴史を学べるスペースになっています。

出島は江戸時代の異文化交流のすべてが詰まった場所

日本には歴史を感じさせるさまざまなスポットが残っています。そのなかでも出島は世界でも珍しい歴史的背景に持った場所。人工の島をつくって、そのなかに外国人を住まわせたことで、不思議な空間が生まれました。そのような不思議な場所だからこそ、オランダは出島の復元を提案したのでしょう。出島の歴史は、ポルトガル人の駐在だけではありません。幕末に幕府軍の養成に使われ、明治時代に陸続きになり、戦後に復元が始まる、これらすべてが出島の歴史です。現在の長崎に行くと、そんな稀有な歴史を持った出島を楽しめますよ。

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日本史歴史江戸時代

南蛮貿易の拠点「出島」の歴史と現在を元大学教員がわかりやすく解説

長崎県長崎市にある「出島」は、江戸時代以降、貿易を許可されていたオランダ人が出入りできた唯一の場所。鎖国時代の日本のなかで西洋の生活や貿易活動が営まれていた歴史的なスポットです。「出島」の周辺には関連する施設が復元されており、鎖国中の日本を堪能できる観光地として高く評価されている。

現在の「出島」は当時の形に復元・整備されているため鎖国の時期の日本を体感できる。そんな「出島」ができる過程やそこでの生活について、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。日本史をたどるとき「出島」を避けて通ることはできない。「出島」がある長崎は路面電車が走るレトロな街。中華街の近くではちゃんぽんや皿うどんが堪能できる、国内外の旅行者におすすめの観光地だ。そこで、オランダ貿易が営まれていた時期の「出島」についてまとめてみた。

出島とは長崎にある人口島

image by PIXTA / 49293760

出島とは、外国人が外国船の出入りを制限するため、1634年に江戸幕府が命じて作った人工の島です。世界史の教科書などで、扇型の島の図面を見たことがある人も多いのではないでしょうか。

江戸時代にオランダ貿易のために作られた

出島が使われていた時期、主にふたつの国が関わりました。ひとつがポルトガル。出島がつくられた1636年から、取り引きが停止される1639年までのあいだです。そして、1641年から1859年までと、長いあいだ出島を出入りしたのがオランダ東インド会社でした。

戦国時代にポルトガル人がはじめて日本に漂着したことから日本の貿易を独占します。ポルトガル人は、地方大名と密な関係を築いて勢力を拡大しすぎたことから徳川幕府によって排除されました。それに代わってオランダの独占体制がしかれます。

明治時代に一度失われた過去も

幕末になるとアメリカの代将であるペリーの黒船が来航。江戸時代を通じて鎖国していた日本は開国する流れになります。それに伴い、出島のなかだけで活動していたオランダ人も、自由に出島を出て市中を歩けるようになりました。

そのため出島の存在意義が消失。明治時代になると出島は改修に改修を重ねて、徐々に埋め立てられていきます。明治21年には埋め立てにより完全に陸続きの状態になり、扇形の島は消えてしまいました。

「出島」の始まりは南蛮貿易の規制

Namban byobu R.jpg
狩野内膳 – Kobe Catalogue, パブリック・ドメイン, リンクによる

出島が作られたきっかけは南蛮貿易の規制です。日本では戦国時代頃からスペイン・ポルトガルとの貿易が活発化。それを一転、規制する手段として出島を作りました。

スペイン・ポルトガルの勢力拡大に危機感が高まる

南蛮貿易は、スペイン・ポルトガル商人と戦国大名が密につながることで発展してきました。とくに南蛮貿易で輸入された火縄銃は戦国大名にとって魅力的でした。

あまりの勢力拡大に、幕府はスペイン・ポルトガルの植民地になることを危惧するようになります。そこで出島を作り南蛮貿易の規制を開始しました。

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