現在の「出島」は当時の形に復元・整備されているため鎖国の時期の日本を体感できる。そんな「出島」ができる過程やそこでの生活について、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。
- 出島とは長崎にある人口島
- 江戸時代にオランダ貿易のために作られた
- 明治時代に一度失われた過去も
- 「出島」の始まりは南蛮貿易の規制
- スペイン・ポルトガルの勢力拡大に危機感が高まる
- 先立ってキリスト教は禁止された
- 江戸幕府の一大事業となった「出島」の建設
- 建設費用は現代に換算すると約4億円
- 江戸幕府と長崎の有力商人の共同出資
- オランダ商館の独占体制になった「出島」
- 江戸幕府に独占を提案したフランソワ・カロン
- 平戸のオランダ商館を出島に移動
- 長崎奉行の管理下になった「出島」
- 出島ならではの仕事が存在
- オランダ人が活動できるのは出島だけ
- ペリー来航による開国で「出島」の存在意義は消滅
- 明治時代の改修工事により出島は消滅
- 第二次世界大戦後に出島の復元がはじまる
- 観光地としての「出島」のおすすめスポット
- 江戸時代にタイムスリップする出島表門橋
- オランダ商館長が住んでいた「カピタン部屋」
- 旧長崎内外クラブは文明開化の出島版
- 出島は江戸時代の異文化交流のすべてが詰まった場所
この記事の目次
ライター/ひこすけ
文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。日本史をたどるとき「出島」を避けて通ることはできない。「出島」がある長崎は路面電車が走るレトロな街。中華街の近くではちゃんぽんや皿うどんが堪能できる、国内外の旅行者におすすめの観光地だ。そこで、オランダ貿易が営まれていた時期の「出島」についてまとめてみた。
出島とは長崎にある人口島
出島とは、外国人が外国船の出入りを制限するため、1634年に江戸幕府が命じて作った人工の島です。世界史の教科書などで、扇型の島の図面を見たことがある人も多いのではないでしょうか。
江戸時代にオランダ貿易のために作られた
出島が使われていた時期、主にふたつの国が関わりました。ひとつがポルトガル。出島がつくられた1636年から、取り引きが停止される1639年までのあいだです。そして、1641年から1859年までと、長いあいだ出島を出入りしたのがオランダ東インド会社でした。
戦国時代にポルトガル人がはじめて日本に漂着したことから日本の貿易を独占します。ポルトガル人は、地方大名と密な関係を築いて勢力を拡大しすぎたことから徳川幕府によって排除されました。それに代わってオランダの独占体制がしかれます。
明治時代に一度失われた過去も
幕末になるとアメリカの代将であるペリーの黒船が来航。江戸時代を通じて鎖国していた日本は開国する流れになります。それに伴い、出島のなかだけで活動していたオランダ人も、自由に出島を出て市中を歩けるようになりました。
そのため出島の存在意義が消失。明治時代になると出島は改修に改修を重ねて、徐々に埋め立てられていきます。明治21年には埋め立てにより完全に陸続きの状態になり、扇形の島は消えてしまいました。
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「出島」の始まりは南蛮貿易の規制
出島が作られたきっかけは南蛮貿易の規制です。日本では戦国時代頃からスペイン・ポルトガルとの貿易が活発化。それを一転、規制する手段として出島を作りました。
スペイン・ポルトガルの勢力拡大に危機感が高まる
南蛮貿易は、スペイン・ポルトガル商人と戦国大名が密につながることで発展してきました。とくに南蛮貿易で輸入された火縄銃は戦国大名にとって魅力的でした。
あまりの勢力拡大に、幕府はスペイン・ポルトガルの植民地になることを危惧するようになります。そこで出島を作り南蛮貿易の規制を開始しました。
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