3-6、左近、生存説
左近は、関ヶ原合戦で戦死したと言われていますが、遺体や首は不明のまま。
そして合戦後に京都での目撃情報が相次いだ話もあり、京都市の立本寺には島清興の墓があり、関ヶ原の戦い後、逃れてこの寺の僧として、32年後の寛永9年(1632年)に死去したということが、位牌や過去帳が塔頭に残されているそう。
また、静岡県浜松市天竜区に左近の後裔が在住、23代目に当たる方子孫によれば、左近は島金八と名を変えて百姓に変装してこの地に住み、春には部下だった者たちを集めて桜の下で酒宴を催したそうで、居住地を「おさか」と呼んだということです。
熊本市の西岸寺には、この寺の中興の祖である泰岩和尚が、島左近の後身で、左近は鎌倉光明寺で出家して細川忠興に仕えて小倉に知足寺を建立。加藤忠広の改易後の細川忠利の肥後入国の際には、忠利の命で先に熊本入りして情報収集に努めたという由来記が残っているということです。
滋賀県伊香郡余呉町奥川並にも、関ヶ原合戦後も左近は生き延び、この村に潜伏していたという伝承あり。そして左近の墓は奈良市川上町の三笠霊苑内、京都市上京区の立本寺塔頭教法院墓地、対馬、陸前高田などにもあるそう。
3-7、子孫は柳生兵庫助
左近の娘の珠は柳生兵庫助利厳の継室となっており、剣豪として名高い尾張柳生家の柳生厳包は左近の外孫。
また、白牡丹(東広島市西条最古の酒造業)では創業に関して、関ヶ原合戦の時に左近の次男の彦太郎忠正が母と共に京都にいたが、敗戦後に西へ逃げて安芸国西条に住み着き、彦太郎忠正の孫の六郎兵衛晴正が、延宝3年(1675年)に酒造業を創めたという由来があり、現在の社長さんも島左近の子孫。
石田三成に仕え、伝説の名将として記憶される
島左近は大和の国の国人として、畠山氏や筒井順慶に仕えたことで名声を博し、筒井氏のもとを去って浪人すると、色々な武将からぜひ家臣として迎えたいと言われたほどの人。
しかしどこも気に入らずに断ったが、石田三成がしつこくどうしてもとお願いしたために、とうとう三成の家臣となったのですが、このとき三成は自分の禄の半分を左近に提示したという伝説が出来ました。三成は豊臣政権の奉行として実務をこなしつつ、自身の佐和山城を自分に与えられた禄以上の堅固な作りにしたこと、左近のような大物を家臣にしたことで、将来への野望を持っていたし、その実現に備えていたといわれます。そして関ヶ原での激戦で、左近は討ち死にしたと言われたが、遺体が発見されていないことから、生存説がいくつもあり、また後に関ヶ原で左近と対戦した黒田家の家臣たちの思い出話でも、対戦時の左近の鎧などの記憶がまるで違っていたほど、左近を恐れることがはなはだしかったと言う伝説ありという、まさに幻の名将的な存在に。
三成に仕える以前から名高かった左近ですが、三成に仕えたことと関ヶ原でのインパクトがあまりに大きすぎ、それ以前のことなどはどうでもよくなったのではと思うほど、謎に包まれた伝説的な存在に昇華してしまったのではないでしょうか。









