その辺のところを戦国時代、安土桃山時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代、安土桃山時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、島左近について5分でわかるようにまとめた。
1-1、島左近は大和の国の生まれ
島左近(しまさこん)は、天文9年(1540年)頃に大和の国で誕生。島政勝の子と言われていますが、はっきりしたことは不明。実名は勝猛(かつたけ)などの俗称で知られていますが、自筆文書では清興(きよおき)だということです。
1-2、左近の出身は
左近の先祖の島氏の本姓は藤原、現在の奈良県生駒郡平群町周辺の在地領主で、椿井城、西宮城を本拠にしていたということですが、左近の出身を対馬とする説もあるそう。
が、最近になって、奈良県生駒郡平群町の安養寺で「嶋佐近頭内儀」という位牌が発見され、左近の母親であると判明したので、現在では大和国出身であることが明らかに。また島左近というのは、ここでご紹介する左近清興だけでなく、筒井氏の家臣としての島氏の先祖の代々からの名乗りではないかという説も。
1-3、左近、畠山氏に仕える
大和国平群郡(へぐり)の国人として生まれた左近は、まず隣国の河内国の守護大名で勢力のあった畠山氏に仕え、永禄5年(1562年)に、守護大名の畠山高政対三好長慶の教興寺の戦いに参加、この戦いで畠山氏は手痛く敗北。
このとき左近は、筒井氏の指揮のもとで戦いに参加したことで、畠山氏の没落後、筒井氏に仕えるようになった、または畠山氏に仕えていたかどうかははっきりせず、島氏出身の興福寺の僧侶がいたという縁で、興福寺の衆徒だった筒井順紹に仕えたという説もあるということです。
また筒井氏縁戚の山田順延(添下郡山田城主で、筒井順延とも)の口碑として「永禄2年(1559年)に平群郡の島氏と紀氏が松永弾正から逃れてきたのを匿ったため、山田城は松永弾正に攻められて落城、順延以下城兵のほとんどが討死」とあり、この「島」が左近という可能性も。そして左近は「嶋ノ庄屋」と呼ばれていたということで、松永久秀寄りの父豊前守と関係が悪化したために、永禄10年(1567年)6月に、左近は嶋城(椿井城)を襲撃して父の後妻や弟たちなど9人を殺害したが、父の豊前守は逃走したという話も。
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1-4、左近、筒井家臣として名を上げる
この頃、大和国平群谷(現奈良県生駒郡平群町)を本拠に、奈良の興福寺の一乗院に属した国人のなかでは、筒井氏の勢力が大きかったために、島氏は筒井氏に仕え、左近は順紹の後を継いだ筒井順慶の時代に侍大将へ抜擢されたということですが、当時の日記などの史料では確認できず。
左近の名が筒井家の家臣関係の伝承、史料にあらわれたのは、元亀2年(1571年)の辰市合戦直前で、「嶋左近尉殿」が最初だそう。なのでそれ以前に起こった、順慶が松永弾正久秀と大和国の覇権を争った筒井城の戦い、東大寺大仏殿の戦いなどでの左近の動向は不明。また宇陀郡秋山氏の伝承では左近を宇陀ノ城主とあり、辰市合戦のときに左近が宇陀より出撃したとの伝承があるが、宇陀城がどこの城かも不明だということです。
そのうえ左近は、一般には松倉重信(右近)と並んで筒井家の両翼「右近、左近」と並び称されたとわれていますが、「尋憲記」「多聞院日記」等によれば、実際には島左近ではなく、松蔵権助秀政と松田善七郎盛勝。尚、左近は天正5年(1577年)の4月に、春日大社に灯籠一基を寄進、また天正7年(1579年)に、細井戸、南郷両氏らと春日大社の若宮祭の願主人を務めたという記録が残っているそうです。
1-5、左近、筒井家を去る
左近の仕えていた筒井順慶は、松永久秀や三好三人衆との抗争があったが、その後に織田信長の配下に。そして本能寺の変では光秀側につくことを期待されたが、洞ヶ峠で日和見をして、最終的に秀吉へ服従を表明したことで所領である大和一国は安堵されたということ。
左近はこの頃には椿井城主となり、吐田城(はんだ)を接収するなどで内政面で順慶を支えていたようだということです。しかし2年後に順慶が病死して養子の定次が家督を継承、左近はこの新君主とそりが合わずに天正16年(1588年)に筒井家を退去。理由は他にも、筒井家の将来性を見限ったとも、左近の領地の農民と中坊秀祐領の農民との水利を巡っての争いで対立したともいわれているそう。
尚、その後、三成に仕えた左近は、自分の家臣を筒井家の伏見屋敷に遣わして旧主の定次に馬を贈った話もあるということで、円満退去だったようです。左近が筒井家を辞したのは天正16年(1588年)2月、その後は奈良興福寺の塔頭持宝院に寄食。具体的な戦果や成果などは不明だが、左近が筒井家を離れたあと、あちこちからかなりの仕官願いが来たということなので、筒井氏に仕えている間に、左近の名が広まっていたと考えるべきだということでしょう。
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1-6、左近、蒲生氏郷に仕える
左近は筒井家を辞した後に、蒲生氏郷に仕えたということで、「多聞院日記」の天正18年(1590年)5月に、左近の妻が伊勢亀山にいた記述があるために、氏郷の与力の関一政を頼った可能性もあるということ。
尚、後世に記された山鹿素行の「武家事記」によれば、左近は筒井家を去った後、蒲生氏郷ではなく秀吉の弟の豊臣秀長に仕え、秀長の没後は豊臣秀保に仕えたと記されているそうです。
2-1、左近、石田三成に仕える
豊臣秀長の後を継いだ秀保は早世し、左近は浪人したのですが、左近の名声は各地に伝わっていたということで、またまた色々な武将から仕官の申し入れがあったということ。しかし左近はそれをすべて断っていたのですね。
当時はまだ若い石田三成も左近を家臣として迎えたいと願ったのですが、左近は謝絶、しかし三成は当時の禄高4万石の半分を与える、兄として導いてくれと言わんばかりの懇願に左近はほだされて、三成の家臣となったということです。
また、左近が石田三成に仕えたのは、三成が佐和山19万石の城主になってからという説もあるそうで、左近の屋敷は佐和山城下湖水寄りに与えられ、左近は佐和山城の改修についても三成にいろいろアドバイスしたと言われています。
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2-2、史料に残る左近
史料に左近の名が残っているものとしては、天正18年(1591年)5月、三成が佐竹義宣の家臣の東義久に宛てた文書で、義宣が秀吉に謁見する際の心構えを述べていて、その使者が左近だったとか、天正19年(1591年)4月に三成が佐和山城主となった翌年の「多聞院日記」(興福寺の院主の日記)に、天正20年(1592年)4月に左近の妻が「今江州サホノ城(=佐和山城)ニアリ」と書かれているとか、天正18年(1590年)7月、小田原征伐の後に常陸国の戦国大名、佐竹義宣の重臣小貫頼久と佐竹義久に宛てた左近の書状で、左近は三成のもとで佐竹氏と交渉するという重要な役割を果たしていたことがわかるそう。その後、左近は三成に従って朝鮮出兵に従軍。
また平成20年(2008年)、慶長元年(1595年)から慶長3年(1598年)の間に出されたという、嶋左近の名前が掲載された石田三成判物が発見。それによると、三成は、年貢収納についての年貢率を、嶋左近、山田上野、四岡帯刀に命じたために彼らの指示に従って年貢収納を行えという今井清右衛門尉に伝えた文書だということで、左近は三成の重臣として内政にも当たっていたことがわかるそう。
2-3、関ヶ原の戦いでの左近
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの前日、会津の上杉景勝、また北からの万一の伊達政宗の裏切りに備えて江戸からなかなか動けないと思われた徳川家康が、美濃国赤坂(現岐阜県大垣市赤坂町字勝山)到着したという報に西軍の兵が動揺したため、左近は500の兵を率いて東軍の中村一栄、有馬豊氏両隊に戦いを挑み、杭瀬川の戦いで宇喜多秀家の家臣の明石全登隊と共に勝利をおさめ、勢いに乗ってその夜に、島津義弘、小西行長らと共に夜襲を提案したが、三成が却下。
そして関ヶ原の戦い本戦では、最初は西軍有利に進み、左近も自ら陣頭に立って戦いました。しかし正午過ぎには小早川秀秋の東軍寝返りを皮切りに西軍は総崩れとなり、左近は再び出陣し、正面の黒田長政軍と田中吉政軍に突撃したが、敵の銃撃により討ち死。また備中早島戸川氏に伝わる伝承では再び出陣した左近を戸川達安が討ち取ったとする説もあるそう。左近は享年61歳。
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3-2、三成の知行の半分提示説は
石田三成はまだ小姓の頃、当時、柴田勝家や秀吉が1万2000石、2万石を提示して家臣にしようとした渡辺勘兵衛(渡辺了とは別人)に対し、その頃の知行500石全てを与えるとして家臣として召し抱えた話があります。なので、三顧の礼で左近を家臣に迎えたのは事実だが、知行の半分を提示して召し抱えたというのは、この勘兵衛の話の焼き直し説も。
3-3、左近、若い頃は武田信玄に仕えていた説
左近が武田家に仕えていたという俗説は、関ヶ原開戦の直前に、薩摩の島津豊久に対して左近が「若い頃は武田信玄に仕官して、山県昌景の下で家康が敗走するのを追った」と、三方ヶ原の合戦の話を語ったという、「天元実記」の逸話にあるということですが、真偽は不明。
3-4、左近、家康暗殺計画を企てるが失敗に
慶長5年(1600年)、左近は三成に家康暗殺計画を持ちかけたが、三成もすでに近江水口岡山城主の長束正家と計画、正家に会津征伐で東下する家康をもてなさせて水口城内で暗殺する作戦だったが、家康がこの企てを知ってその夜の内に水口を出立したため、計画は失敗。
3-5、黒田武士が恐れるほどの鬼神ぶりだった
左近の関ヶ原合戦での奮闘は、東軍にとっては身の毛もよだつほど恐ろしかったということです。「常山紀談」によれば、江戸の初期に黒田藩の筑前福岡城で、関ヶ原に出陣し左近を襲撃した老武士たちが若侍相手に語り合ったが、左近のそのときの様子は話せても、指物、陣羽織、具足に至るまで、それぞれの老人の記憶が違っていたということで、誰もが左近の着ているものを正確に思い出せないほどの恐ろしい獅子奮迅ぶりだったと納得したそう。
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