今回はユトレヒト条約についてです。この条約は1701年に起こったスペイン継承戦争が終戦した際に結ばれた条約です。

ここではこの条約の内容についてやそもそもなぜスペイン継承戦争が起こったのかなどについて歴女のまぁこと一緒に解説していくからな。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー歴女。中でも700年間もヨーロッパに君臨したハプスブルク家について関心が高い。今回はスペイン・ハプスブルク家の断絶が原因で起こったスペイン継承戦争とユトレヒト条約について解説していく。

1 スペインの王位を巡る問題

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ユトレヒト条約のきっかけとなったのは1701年に起こったスペイン継承戦争でした。この戦争は200年にもわたりスペインに君臨したスペイン・ハプスブルク家が後継者を残さず断絶したことが原因で起こることに。まずは原因となったスペイン・ハプスブルク家について詳しく見ていきましょう。

1-1 スペイン・ハプスブルク家

スペイン・ハプスブルク家はフェリペ1世から始まった王朝です。2代目スペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝としてはカール5世)はドイツ、オーストリア、スペイン、南イタリアなど多くの広大な領土を支配することに。ちなみにフランス王だったフランソワ1世と神聖ローマ皇帝の座を争い、お金で買収して皇帝の座を得た人物でもありました。

もともとは1つのハプスブルク家でしたが、カルロスはオーストリアを弟のフェルディナントへ、スペインを息子のフェリペに譲ったことで王家が2つに分かれることに。ちなみに前者をオーストリア・ハプスブルク家と呼び、後者をスペイン・ハプスブルク家と言います。スペインを継承したフェリペ2世ですが、イングランドとのアルマダの海戦の敗北から次第に没落していくことに。フェリペ2世の孫、フェリペ4世の時代では王女の持参金が払えなくなるほど財政難に陥ることになりました。

1-2 後継者問題に直面したフェリペ4世

Diego Velázquez 027.jpg
ディエゴ・ベラスケス - The Yorck Project (2002年) 10.000 Meisterwerke der Malerei (DVD-ROM), distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH. ISBN: 3936122202., パブリック・ドメイン, リンクによる

さてカルロス1世から4代目に当たるフェリペ4世の時代では、後継者問題が浮上することに。フェリペはブルボン家アンリ4世の娘イザベルを娶っていました。彼女との間には後に太陽王と呼ばれたルイ14世の妃となったマリア・テレサ皇太子バルタザールが誕生。しかし妃は産褥で命を落とすことに。バルタザールも17歳という若さで亡くなったため、後継者問題に直面したフェリペ。するとなんと彼はバルタザールの婚約者であり自身の姪のマリアナと結婚することに。

こうして生まれたのは、マルガリータ王女カルロスでした。マルガリータと言えば、スペインの巨匠ベラスケス「ラス・メニーナス」「青いドレスの王女」の主役となった人物ですよね。ちなみにカルロスが生まれる前までは、マリア・テレサはルイとの結婚が決まっていたため、後継者はマルガリータだと考えられていました。(ラス・メニーナスは王女が次期後継者だというプロパガンダという見方も。)しかしフェリペが56歳の時にカルロスが誕生したことで彼女はオーストリアへ嫁ぐことが決まることに。

1-3 39年生きた王

Carlos II; Koning van Spanje.jpg
フアン・カレーニョ・デ・ミランダ - Schloss Rohrau, Graf Harrach'sche Familiensammlung, パブリック・ドメイン, リンクによる

こうしてスペインの後継者となったカルロス。ちなみに彼の名は偉大な初代王の名から取ったそう。しかし奇跡の子と呼ばれたこの王子はやがて呪われた子と呼ばれるようになりました。カルロスはこれまでの歴代の王たちが血族婚を繰り返したため、その影響をかなり受けてしまうことに。カルロスはハプスブルク家の遺伝である先端肥大症の他にも知的障害、精神障害も患うことに。フェリペはそんな息子を恥じて人目にカルロスを出さないといけない場面ではヴェールを被せたというエピソードも。

このためすぐに亡くなると思われていたカルロスでしたが、万が一のことを考え、妃を娶ることに。1人目の妃はルイ14世の弟の娘でした。しかし彼女はストレス等から亡くなることに。次にドイツのプファルツ選帝侯の娘が嫁いできましたが、その頃にはカルロスの症状はより重症化していくことに。なんと前妃の墓を暴いたのです。結局世継ぎを残すことなく彼は39歳で息を引き取りました。

1-4 スペインの次の王を決めることに

スペイン・ハプスブルク家の様子をうかがっていたオーストリア・ハプスブルク家。しかしそれはスペイン・ハプルブルク家と婚姻関係があったフランスのブルボン家も同様でした。ルイ14世はピレネー条約によってスペイン王女マリア・テレサと結婚しました。しかしこの時契約した持参金を父フェリペ4世が彼女に持たせることができず嫁がせることに。そのためスペインが断絶した時にルイは堂々と継承に関して口を挟み、持参金を貰っていないため次の後継者はブルボン家が継ぐべきだと主張しました。こうしてフランスとオーストリア・ハプスブルク家は水面下で互いにスペインを狙って争うことに。

2 スペイン継承戦争勃発

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Ludolf Bakhuizen - http://collections.rmg.co.uk/collections/objects/13692.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

スペイン・ハプスブルク家のカルロス2世の死によって起こったスペインを巡る後継者問題。彼が亡くなる前から、子のいない彼の後を誰が継ぐのか水面下では争いが起こることに。ここではブルボン家とオーストリア・ハプスブルク家の対立の行方や戦争の経緯について見ていきましょう。

2-1 ルイ14世の孫が継承することに

1700年に亡くなったカルロス2世の後継者を巡って、オーストリア・ハプスブルク家とフランスが水面下で対立することに。しかしカルロスは遺言状においてルイ14世の孫であるアンジュー公フリップを指名します。カルロスは継承条件として、フィリップのフランスの王位継承権を放棄することが条件となることに。これによってアンジュー公はフェリペ5世としてスペイン王となりました。ところが、フェリペはフランスの王位継承権を放棄していなかったため、将来フランスとスペインが合同する可能性が出ることに。これに対して、オーストリア・ハプスブルク家やイギリス、オランダ、そして大同盟を結んだ諸身分らが反発し継承戦争へと突入することに。

\次のページで「2-2 ハプスブルク家の後継者」を解説!/

2-2 ハプスブルク家の後継者

フランスではルイの孫のフェリペを後継者に推していましたが、最大のライバル、ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝レオポルト1世次男カールを推していました。レオポルトは長男ヨーゼフを皇帝にし、カールをスペイン王とすべく、カールにスペイン語カタルーニャ語をマスターさせることに。一度はフェリペが王位を継ぐことで決着がついた継承問題でしたが、両国が合同するかもしれないという事態に、ハプスブルク家は再びカールを後継者として戦争が始まりました。このため、戦争中はスペイン王が2人いる状態となることに。

2-3 スペイン継承戦争

スペイン継承戦争は、オーストリア・ハプスブルク家、イギリス、オランダなどの国がフランスに対して同盟を結び、宣戦布告し開戦しました。当初は強大な軍隊を保持していたフランス、スペインが優勢でしたが、次第に戦況は苦しくなることに。更にオーストリアのオイゲン公やイギリスの指揮官マールバラ公ジョン・チャーチルの活躍によって追い詰められていくフランス。更に1704年のブレンハイムの戦いでは同盟側が圧勝したことで、重税による負担増加や厭戦気分が高まっていたイギリスでは高揚感に包まれることに。

2-4 イギリスの反フランス感情

イギリスでは1688年から89年にかけて名誉革命が起こります。カトリック教徒のジェームズ2世を追放し、オランダ総督だったウィレムメアリを招くことになりました。この時ジェームズの亡命先を提供したのがフランス王ルイ14世。更にジェームズの死後、ルイはイギリス王位にジェームズの息子を擁立しようとしたため、イギリスでは反フランス感情が高まることに。

そしてスペイン継承戦争が1701年に始まると、翌年に国王ウィリアム3世が死去。そのため王位継承法で次の王位が確定していたメアリの妹アンが女王となることに。スペイン継承戦争では、ヨーロッパ大陸の他にイギリスとフランスは北アメリカの植民地で戦争が起こります。これを彼女の名を冠してアン女王戦争と呼ばれることに。戦況はイギリスの優勢でした。

2-5 急展開を迎えることに

スペイン継承戦争は12年にも及ぶ長期戦となることに。これによって人々の間では厭戦気分が高まりました。そんな中、オーストリア・ハプスブルク家のヨーゼフ1世が天然痘によって急死。そのため、ハプスブルク家では男子の継承者が次男カールのみとなりました。彼はカール6世としてすぐに即位。しかしイギリスやオランダはカールがスペインも継承することになれば、広大な範囲を支配したかつてのカール5世の再来となると警戒してフランスと条約を結ぶことになりました。

3 スペイン継承戦争後

Vivien - Philip V of Spain - New Castle Schleißheim.jpg
Joseph Vivien - art-prints-ondemand.com, パブリック・ドメイン, リンクによる

こうして12年にも及ぶスペイン継承戦争が終わりを迎えることになりました。オーストリア・ハプスブルク家は戦争を継続したものの、その他のイギリスやオランダなどはフランスとユトレヒト条約を結ぶことに。ではユトレヒト条約ではどのようなことが決まったのか詳しく見ていきましょう。

\次のページで「3-1 ユトレヒト条約」を解説!/

3-1 ユトレヒト条約

1713年、フランスとスペインはイギリス、オランダ、プロイセンなどの各国と講和条約を結びました。ちなみにこの条約名となったユトレヒトとは、オランダの都市の名。条約では、フランスとスペインの合同は禁止という条件でフェリペ5世の即位を承認されることに。しかしフランスは大きな代償を払うことになりました。イギリスはフランスからアカディアハドソン湾地方ニューフアンドランドを獲得。更にスペインからはジブラルタルミノルカ島を得ました。オランダはスペイン領だったネーデルラントのいくつかの都市を獲得し、プロイセン公国は王国へ昇格することに。

更にイギリスはこの条約での付帯事項(1714年に締結)で、スペイン領のアメリカ植民地での黒人奴隷の供給権を得ました。これはアシエントと呼ばれており、これによってイギリスは以後毎年1000人もの黒人奴隷をアメリカへと送ることができるように。こうしてイギリスは帝国が繁栄していくステップを踏むことになりました。

3-2 ラシュタット条約

さてユトレヒト条約よりも1年後に結ばれることになったラシュタット条約。こちらはフランス、スペインとオーストリア・ハプスブルク家が締結することに。内容は、スペインからイタリア諸地域をハプスブルク家へ割譲するというもの。この戦争の勝者はオーストリア・ハプスブルク家側であったため、これまでスペイン・ハプスブルク家領だった南ネーデルラント、ミラノ、ナポリなどの領土を手にすることに。同じ王家が領有していた領土を手にしたハプスブルク家でしたが、念願だったスペインの王位は手にすることができず、その後のスペインではブルボンが王朝を開くことになりました。

スペイン・ハプスブルク家の断絶によって起こったスペイン継承戦争

スペインではカルロス2世の死によって、継承戦争が勃発しました。特に有力候補だったオーストリア・ハプスブルク家とフランスは水面下で争うことに。その結果フランス王ルイ14世の孫、フィリップがフェリペ5世としてスペイン王となりました。ところがフェリペがフランスの王位継承権を放棄していなかったため、反発した各国が宣戦布告し戦争へ。

こうして長い戦争によって次第に劣勢となったフランスとスペイン。ところがオーストリア・ハプスブルクのヨーゼフ1世が死去したことから、弟のカールが6世として即位します。その結果、カールがスペイン王となれば均衡勢力が崩れる恐れがあるとして、各国はフェリペを承認する方向へ向かうことに。

こうして1713年にユトレヒト条約が、翌年にはラシュタット条約が結ばれました。結果的にみれば、実質的に戦争によって得をしたのはイギリス。フランスはフェリペをスペイン王として認めてもらうために多くの海外領土を手放すことになりました。更にオーストリア・ハプスブルク家は領土が増えたことで大国となり、多民族国家を束ねる苦労に見舞われることに。

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スペイン継承戦争後に締結された「ユトレヒト条約」を歴女が5分でわかりやすく解説!

今回はユトレヒト条約についてです。この条約は1701年に起こったスペイン継承戦争が終戦した際に結ばれた条約です。

ここではこの条約の内容についてやそもそもなぜスペイン継承戦争が起こったのかなどについて歴女のまぁこと一緒に解説していくからな。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー歴女。中でも700年間もヨーロッパに君臨したハプスブルク家について関心が高い。今回はスペイン・ハプスブルク家の断絶が原因で起こったスペイン継承戦争とユトレヒト条約について解説していく。

1 スペインの王位を巡る問題

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ユトレヒト条約のきっかけとなったのは1701年に起こったスペイン継承戦争でした。この戦争は200年にもわたりスペインに君臨したスペイン・ハプスブルク家が後継者を残さず断絶したことが原因で起こることに。まずは原因となったスペイン・ハプスブルク家について詳しく見ていきましょう。

1-1 スペイン・ハプスブルク家

スペイン・ハプスブルク家はフェリペ1世から始まった王朝です。2代目スペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝としてはカール5世)はドイツ、オーストリア、スペイン、南イタリアなど多くの広大な領土を支配することに。ちなみにフランス王だったフランソワ1世と神聖ローマ皇帝の座を争い、お金で買収して皇帝の座を得た人物でもありました。

もともとは1つのハプスブルク家でしたが、カルロスはオーストリアを弟のフェルディナントへ、スペインを息子のフェリペに譲ったことで王家が2つに分かれることに。ちなみに前者をオーストリア・ハプスブルク家と呼び、後者をスペイン・ハプスブルク家と言います。スペインを継承したフェリペ2世ですが、イングランドとのアルマダの海戦の敗北から次第に没落していくことに。フェリペ2世の孫、フェリペ4世の時代では王女の持参金が払えなくなるほど財政難に陥ることになりました。

1-2 後継者問題に直面したフェリペ4世

Diego Velázquez 027.jpg
ディエゴ・ベラスケス – The Yorck Project (2002年) 10.000 Meisterwerke der Malerei (DVD-ROM), distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH. ISBN: 3936122202., パブリック・ドメイン, リンクによる

さてカルロス1世から4代目に当たるフェリペ4世の時代では、後継者問題が浮上することに。フェリペはブルボン家アンリ4世の娘イザベルを娶っていました。彼女との間には後に太陽王と呼ばれたルイ14世の妃となったマリア・テレサ皇太子バルタザールが誕生。しかし妃は産褥で命を落とすことに。バルタザールも17歳という若さで亡くなったため、後継者問題に直面したフェリペ。するとなんと彼はバルタザールの婚約者であり自身の姪のマリアナと結婚することに。

こうして生まれたのは、マルガリータ王女カルロスでした。マルガリータと言えば、スペインの巨匠ベラスケス「ラス・メニーナス」「青いドレスの王女」の主役となった人物ですよね。ちなみにカルロスが生まれる前までは、マリア・テレサはルイとの結婚が決まっていたため、後継者はマルガリータだと考えられていました。(ラス・メニーナスは王女が次期後継者だというプロパガンダという見方も。)しかしフェリペが56歳の時にカルロスが誕生したことで彼女はオーストリアへ嫁ぐことが決まることに。

1-3 39年生きた王

Carlos II; Koning van Spanje.jpg
フアン・カレーニョ・デ・ミランダ – Schloss Rohrau, Graf Harrach’sche Familiensammlung, パブリック・ドメイン, リンクによる

こうしてスペインの後継者となったカルロス。ちなみに彼の名は偉大な初代王の名から取ったそう。しかし奇跡の子と呼ばれたこの王子はやがて呪われた子と呼ばれるようになりました。カルロスはこれまでの歴代の王たちが血族婚を繰り返したため、その影響をかなり受けてしまうことに。カルロスはハプスブルク家の遺伝である先端肥大症の他にも知的障害、精神障害も患うことに。フェリペはそんな息子を恥じて人目にカルロスを出さないといけない場面ではヴェールを被せたというエピソードも。

このためすぐに亡くなると思われていたカルロスでしたが、万が一のことを考え、妃を娶ることに。1人目の妃はルイ14世の弟の娘でした。しかし彼女はストレス等から亡くなることに。次にドイツのプファルツ選帝侯の娘が嫁いできましたが、その頃にはカルロスの症状はより重症化していくことに。なんと前妃の墓を暴いたのです。結局世継ぎを残すことなく彼は39歳で息を引き取りました。

1-4 スペインの次の王を決めることに

スペイン・ハプスブルク家の様子をうかがっていたオーストリア・ハプスブルク家。しかしそれはスペイン・ハプルブルク家と婚姻関係があったフランスのブルボン家も同様でした。ルイ14世はピレネー条約によってスペイン王女マリア・テレサと結婚しました。しかしこの時契約した持参金を父フェリペ4世が彼女に持たせることができず嫁がせることに。そのためスペインが断絶した時にルイは堂々と継承に関して口を挟み、持参金を貰っていないため次の後継者はブルボン家が継ぐべきだと主張しました。こうしてフランスとオーストリア・ハプスブルク家は水面下で互いにスペインを狙って争うことに。

2 スペイン継承戦争勃発

スペイン・ハプスブルク家のカルロス2世の死によって起こったスペインを巡る後継者問題。彼が亡くなる前から、子のいない彼の後を誰が継ぐのか水面下では争いが起こることに。ここではブルボン家とオーストリア・ハプスブルク家の対立の行方や戦争の経緯について見ていきましょう。

2-1 ルイ14世の孫が継承することに

1700年に亡くなったカルロス2世の後継者を巡って、オーストリア・ハプスブルク家とフランスが水面下で対立することに。しかしカルロスは遺言状においてルイ14世の孫であるアンジュー公フリップを指名します。カルロスは継承条件として、フィリップのフランスの王位継承権を放棄することが条件となることに。これによってアンジュー公はフェリペ5世としてスペイン王となりました。ところが、フェリペはフランスの王位継承権を放棄していなかったため、将来フランスとスペインが合同する可能性が出ることに。これに対して、オーストリア・ハプスブルク家やイギリス、オランダ、そして大同盟を結んだ諸身分らが反発し継承戦争へと突入することに。

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