今回は大谷吉継を取り上げるぞ。関ヶ原では石田三成のために西軍になったと聞いているが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国、安土桃山時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国、安土桃山時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、大谷吉継について5分でわかるようにまとめた。

1-1、大谷吉継は近江の生まれ

大谷吉継(おおたによしつぐ)は、永禄2年(1559年)、近江国(滋賀県)で誕生とされていたが、現在は永禄8年(1565年)生まれ説が有力

父は、大谷吉房 (吉定)または大谷盛治、または大谷泰珍で、母は東殿の長男。吉継は、父が豊後国に病気治療へ赴いて一時期、大友氏の家臣となったときに生まれた説もあるが、当時の大友家中に該当者がないために、六角氏の旧臣だった大谷吉房説が有力だということです。また「華頂要略(京都粟田口の青蓮院と延暦寺に関する事跡を集録)」の坊官大谷家系図に吉継の名があり、吉継の妹が本願寺坊官の下間頼亮室となったことなどで、青蓮院門跡坊官だった大谷泰珍の子という説もあるということ。

妹が3人で、北政所寧々の侍女で御倉番となったこや(小屋)、本願寺坊官の下間頼亮室、石川貞清室、また甥としては、栗山林斉と祐玄(祐玄坊)の2人が存在。


幼名は桂松、諱は吉継で、関ヶ原の戦い直前に吉隆と改名したという説あり。通称は紀之介、平馬、刑部少輔となったために大谷刑部と呼ばれることも。号は白頭。

吉継の母は北政所寧々に仕えた人
作者不詳の「校合雑記」によると、吉継の母は、秀吉の母の大政所、または北政所寧々の縁故者で、その後、北政所寧々の取次役であった東殿と確定。 また「関原軍記大成」によると東殿は、北政所寧々の生母朝日殿の親族で、天正14年(1586年)4月、大坂城へ伺候した豊後国の大友義鎮が国元の家老へ送った書状には、北政所寧々の秘書役で名高い孝蔵主(こうぞうす)とともに東殿についても言及されていて、東殿は秀吉夫妻がくつろぐプライベートな奥御殿の部屋の次の間に控えている側近中の側近として、かなりの政治力もあったらしいということです。

1-2、吉継、秀吉に仕える

吉継は、天正の始め頃に秀吉の小姓となり、天正5年(1577年)10月、秀吉が織田信長から播磨国攻略を命令され、黒田官兵衛から譲りうけた姫路城を本拠地としたときには、大谷平馬として、脇坂安治、福島正則、加藤清正、仙石秀久、一柳直末らと共に秀吉の御馬廻り衆の1人だったということです。

そして天正6年(1578年)5月4日に尼子勝久が上月城で毛利輝元の軍勢に包囲され、秀吉は尼子救援のために出陣したとき吉継も従軍、その後の三木城攻めには馬廻として従軍し、10月15日に平井山で開かれた秀吉陣中での宴にも名を連ねたということで、このときは150石か250石くらいで、天正10年(1582年)4月の備中高松城水攻めにも秀吉の馬廻りとして従軍、中国大返しののちには、山崎合戦にも参加。

馬廻衆とは
騎馬の武士で、侍大将に付き添い、護衛や伝令、そして決戦兵力として用いられた武家の職制のひとつ。平時にも大名、武将の護衛として近侍し、事務の取次ぎなどの側近、官僚的な職務を行った、武芸に秀でた武将のなかでもエリート親衛隊的な存在のことです。

1-3、吉継、秀吉の天下取りにも貢献

吉継は、信長没後、秀吉と柴田勝家の対立が決定的となったのちの、秀吉の美濃国侵攻にも馬廻衆として従軍、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、長浜城主だった勝家の甥の柴田勝豊を調略して内応させたということです。

また天正13年(1585年)、紀州征伐では増田長盛と共に2000の兵を率い、最後まで抵抗した紀州勢の杉本荒法師を槍で一突きで討ち取ったとか、秀吉が伊勢長島城へ織田信雄を祝いに赴いた際にも同行、称名寺へ寺領安堵状を、大谷紀之介の名で発給したなどの記録が残っているそう。

1-4、吉継、刑部少輔に

天正13年(1585年)7月、秀吉は近衛前久の猶子となり従一位関白に、吉継も従五位下刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう)に叙任されたために、大谷刑部と呼ばれるように。この頃から、本来違い鷹の羽であった家紋を対い蝶に変更。9月には秀吉の有馬温泉湯治に石田三成ら他の近臣と共に同行しました。天正14年(1586年)の九州征伐では、兵站奉行石田三成の下で功績をあげ、三成が堺奉行に任じられると、吉継は配下として実務を担当。

2-1、吉継、敦賀2万石の大名に

敦賀城中門(現・来迎寺表門)
Saigen Jiro - 投稿者自身による作品, CC0, リンクによる

天正17年(1589年)、吉継は越前国敦賀郡2万余石を与えられ、敦賀城主に。そして蜂屋頼隆の築いた敦賀城(現敦賀市結城町、三島町)を改修。しかしその前の豊臣秀勝(秀次の弟)が城主のときに天守が完成した説もあるそう。また吉継は、笙ノ川と児屋ノ川を境界として町立てを行って、川西、川中、川東の三つの町割りにしたということ。

天正18年(1590年)の小田原征伐、奥州仕置にも従軍して出羽国の検地を担当。この時、蠣崎慶広(かきざきよしひろ、後の松前慶広)に独立の承認と豊臣政権への臣従のための助力を依頼されたそう。また検地の実施中に吉継の配下の代官が抵抗する農民を斬ったのが発端で一揆が勃発、上杉景勝の支援もあって鎮圧した功績で、2万6944石を加増されて敦賀5万石に

2-2、文禄、慶長の役での吉継

吉継は、文禄元年(1592年)からの秀吉の文禄、慶長の役では、船奉行、軍監として船舶の調達、物資輸送の手配などを務め、勲功を立てました。同年6月、吉継は奉行衆の一人として石田三成、増田長盛、長谷川秀一、前野長康、木村重茲、加藤光泰らと共に朝鮮半島へ渡り、秀吉の指令で朝鮮諸将の指導と現地報告の取りまとめに。そして石田三成らとともに明との和平交渉も担当。その後、再度朝鮮へ渡ったが、戦局が和平交渉により停滞したために閏9月上旬に帰国したそう。

2-3、吉継、病気で湯治に

文禄3年(1594年)、吉継は草津に湯治に赴き目が不自由になっていたらしく、直江兼続に宛てた書状に目が悪いために印判にしたと書いているということです。そして慶長2年(1597年)9月に、秀吉が徳川家康、織田有楽斎、富田知信らを伴って、伏見城下の吉継の屋敷を訪問し、吉継は豪勢な饗宴を張ったとか、翌年には豊臣秀頼の中納言叙任の祝い病をおして参列、秀吉から菓子を賜ったなど病状が好転した様子。

\次のページで「2-4、吉継、石田三成に加担を決意」を解説!/

2-4、吉継、石田三成に加担を決意

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慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去した後、吉継は五大老の徳川家康に接近。慶長4年(1599年)、家康と前田利家の仲が険悪となって徳川屋敷襲撃の風聞が立ったときには、吉継は福島正則ら武断派の諸将と共に徳川屋敷で家康を警護しました。吉継はその後も、前田利長らによるとされた家康暗殺の噂での混乱時も、家康の命で失脚中だった石田三成の内衆と越前表に出兵し、宇喜多家中の紛争の調停も行ったそう。

そして慶長5年(1600年)、家康は会津の上杉景勝に謀反の嫌疑があると主張し、上方の兵を率いて上杉討伐軍を起こしましたが、吉継は家康と懇意だったために、所領地の敦賀などから3000の兵を率いて参加することに。

吉継は領国の敦賀から向かう途中に、石田三成の居城の佐和山城へ立ち寄って、三成にもこの機会に家康と和解させるために、三成の嫡男の重家を自分の軍勢に加えて従軍させようとしたのですが、三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられることに。吉継は、3度にわたって三成に「無謀だ、勝てないぞ」と説得。しかし三成の固い決意を知り、敗戦をわかっていながら息子達と共に三成に加勢を決意

2-5、吉継、関ヶ原では西軍として奮闘

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吉継は、西軍首脳の1人となって敦賀城へ一旦帰還し、東軍の前田利長を牽制するため越前、加賀の諸大名を調略、丹羽長重、山口宗永、上田重安らを味方として取り込み、吉継が大軍を率いて加賀へ攻め込むという偽情報を流して利長を動揺させたということです。また、大坂にいた娘婿の真田信繫(幸村)の母である真田昌幸の正室を預かるなど、大谷氏は一族挙げて西軍になり、吉継の母東殿は北政所寧々(高台院)の代理で宇喜多秀家の行った出陣式に出席したそう。

そして9月、吉継は三成の要請で、脇坂安治、朽木元綱らの諸将を率いて美濃国に進出し、9月15日には東西両軍による関ヶ原の本戦に。吉継は関ヶ原の西南の山中村の藤川台で、大谷一族、戸田勝成、平塚為広らの諸隊5700人で布陣。陣中にはこの他にも織田信吉、長次らも加わっていて、吉継は病の影響で後方で指揮。

午前中は東軍の藤堂高虎、京極高知隊を相手に奮戦したが、正午頃に松尾山に布陣した小早川秀秋の1万5000人の軍勢が東軍に寝返って、吉継の軍勢を一斉に攻撃、しかし小早川隊の寝返りに備えていたために、吉継直属の兵600が迎撃、そして前線から引き返してきた戸田勝成、平塚為広も加わり、小早川軍を一時は山へ追い返して吉継軍が追撃に。

しかし秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂、朽木らの4200人の軍勢が東軍に寝返って突如反転して吉継軍を攻撃、横槍を入れてきたということ。吉継軍は、前からの東軍、側面からの脇坂ら寝返り軍、背後からも寝返った小早川軍隊の包囲、猛攻を受けて壊滅、吉継は36歳で自害しました。尚、吉継軍の敗北は西軍の諸隊に動揺を与えて西軍潰走の端緒になり西軍はあっという間に敗北に。

3-1、吉継の逸話

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User LordAmeth on en.wikipedia Collection of The Town of Sekigahara Archive of History and Cultural Anthropology - http://www.sengoku-expo.net/flash/sekigahara/byoubu/byoubu_c.html http://inpaku02.iamas.ac.jp/sekigahara/byoubu/images/l/263.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる

吉継は人望もあり、秀吉が、百万の兵を与えて縦横に軍配させてみたいと言ったほどの器量を持っていたということで、色々な逸話があります。

3-2、吉継の病気は

吉継は癩病(ハンセン病(らい病)、または梅毒説)を患っていて顔を白い布で覆っていたとされていますが、これは江戸中期頃までの逸話集にはないということなんですね。「関ケ原合戦誌記」「関ケ原軍記大成」などの軍記がこのイメージを広めたといわれていますが、関ヶ原の合戦では目を病んで盲目となったため、輿に乗っていたのは確かだということです。また、顔を白い布で覆っていたのは、白頭という号からの連想ではという説もあるそう。

\次のページで「3-3、家康とは親しかった」を解説!/

3-3、家康とは親しかった

石田三成は、家康を毛嫌いして敵視していたと言われていますが、吉継の場合はむしろ家康とは親しく、一目置いていたということで、天正17年(1590年)、小田原征伐のとき、秀吉が家康の駿府城に立ち寄ろうとしたが、三成が家康は小田原の北条氏直と縁戚だと言って反対したときにも、吉継と浅野長政が家康はそのようなことをされる方ではないと反論して秀吉に入城を勧めた逸話もあり、慶長5年(1600年)に、家康が諸大名の反対を押し切り会津征伐を決断したときは、まさに天下の主となる人だと高く評価したそうです。

そして吉継は、会津征伐の際に、近江佐和山城に立ち寄り、石田三成に家康に対して挙兵することを打ち明けられた時も、家康と三成の石高から兵力、物量や経験、武将としての器量の差まで持ち出して、はっきりと三成が家康に勝てるわけがないと諌めたという話は有名。

3-4、石田三成との友情話その1

吉継と石田三成は、同じ近江出身で、年も近く秀吉の側近く一緒に仕えたということで、当時はあまり存在しなかったという男同士の深い友情があったとされています。秀吉は三成と吉継に計数の才があるために奉行として重用していたのですが、近江という土地柄上、近江商人っぽい価値観や考え方が似ていたのかも。

ということで、三成と吉継に関する逸話としては、天正15年(1587年)6月に九州征伐後に、吉継は筑前国筥崎で秀吉の機嫌を損ねて香椎村で蟄居中に、秀吉主催の茶会で使われた茶器の名器を、三成が神屋宗湛を通じてこっそりと吉継にも披露するよう頼み、吉継は招待されなかった茶会で披露された茶器を鑑賞出来た話とか、

天正15年(1587年)の大坂城で開かれた茶会で、諸将が茶碗に入った茶を1口ずつ飲み、次の者へ回したが、らい病持ちの吉継が口をつけた茶碗(吉継が飲む際に顔から膿が茶碗に落ちた説も)は、誰もが嫌って吉継の後は飲むふりだったが、三成だけがその茶を飲み干したために、吉継が感激したという話は有名ですが、これは飲み干したのが秀吉説もあるために事実かどうか不明ということと、三成と吉継の間はこのことだけでなくもっと長きにわたる友情だったというほうが正しいということです。

3-5、石田三成との友情話その2

吉継は、関ヶ原の挙兵の直前に、常々から思っていた三成の性格の横柄さを憂慮して三成に、「おぬしが檄を飛ばしても、普段から横柄な態度だから、豊臣家安泰を願う武将であっても家康に走るだろうから、総大将は無理。毛利輝元か宇喜多秀家を総大将にして、おぬしは影にいろ」と諫言したという話があります。

吉継は横柄な三成本人を前にして「お前は横柄だから」と率直に言い、三成も素直に聞くほどの親しい仲だったということで、他にも三成に対して、智慮才覚は天下逸品でほかに並ぶ者がないが、勇気は足りないし決断力に欠けると忠告

3-6、関ヶ原での最期

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立花左近 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで、小早川秀秋の攻撃で大谷軍が壊滅後、切腹した吉継の介錯を務めたのは側近の湯浅五助

ハンセン病を患っていた吉継は、自害する前に五助に「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな」と言い遺し、五助は主君の命を守って首を戦場から離れた場所に埋めたが、藤堂高虎の甥の高刑に発見され、五助は高刑に自分の首を差し出す代わりに、主君吉継の首をここに埋めたことを内緒にしてくれるように頼み、高刑はそれを了承

藤堂高虎はこのことを徳川家康の本陣に報告。家康は手柄を褒めたが、吉継の側近の五助ならば主君の首の在り処も知っていたはずと高刑を詰問。しかし高刑は五助との約束を守って在処を言わずに自分を処罰するよう願ったところ、家康は感心して、自分の槍と刀を与えたという話があるそうです。

ほかにも、切腹した吉継の首を家臣の三浦喜太夫が袋に包み、吉継の甥で従軍僧の祐玄が持って戦場を去り米原に埋めた話も伝わり、首塚も存在。

また吉継は切腹の際に、裏切った小早川秀秋の陣に向かい、「人面獣心なり。三年の間に必ずや祟りをなさん」と呪ったということで、吉継の祟りで秀秋は関ヶ原の戦いの2年後に狂乱して死亡という噂も。

石田三成との友情から関ヶ原で共に戦い、後世に名を残した

大谷吉継は、近江の生まれで、長浜城主だった秀吉に小姓として仕え、その後は馬廻り役として近侍し、同じ年頃で同じ近江の出身の石田三成と友情をはぐくみ、供に秀吉の豊臣政権に貢献しました。

吉継は戦場では秀吉の側に控える馬廻り役として、交渉や伝令として任務を果たしていましたが、秀吉が一度百万の大軍を指揮させたいと言ったほど器量を認められた武将で、しかも冷静に次は家康が天下を取るという見極めもあり、三成が家康に負けるという判断力もあったはず。しかし秀吉没後、家康と相まみえるという三成を、負けるぞといさめたものの聞き入れないために、吉継は三成への友情で西軍に加担して必死に戦ったが、周りの西軍が全部裏切って向かって来たため西軍の武将としてはたったひとり関ヶ原で没することに。

現代の人間にはわかりづらいことかもしれませんが、大谷刑部少輔吉継は、このことで義に篤い悲運の武将と後世にしっかりと名を残し、そしてそれは名を惜しんだ当時の武将としては冥利に尽きることであったのですね。

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室町時代戦国時代日本史歴史

石田三成との友情に殉じた武将「大谷吉継」をわかりやすく歴女が解説

今回は大谷吉継を取り上げるぞ。関ヶ原では石田三成のために西軍になったと聞いているが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国、安土桃山時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国、安土桃山時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、大谷吉継について5分でわかるようにまとめた。

1-1、大谷吉継は近江の生まれ

大谷吉継(おおたによしつぐ)は、永禄2年(1559年)、近江国(滋賀県)で誕生とされていたが、現在は永禄8年(1565年)生まれ説が有力

父は、大谷吉房 (吉定)または大谷盛治、または大谷泰珍で、母は東殿の長男。吉継は、父が豊後国に病気治療へ赴いて一時期、大友氏の家臣となったときに生まれた説もあるが、当時の大友家中に該当者がないために、六角氏の旧臣だった大谷吉房説が有力だということです。また「華頂要略(京都粟田口の青蓮院と延暦寺に関する事跡を集録)」の坊官大谷家系図に吉継の名があり、吉継の妹が本願寺坊官の下間頼亮室となったことなどで、青蓮院門跡坊官だった大谷泰珍の子という説もあるということ。

妹が3人で、北政所寧々の侍女で御倉番となったこや(小屋)、本願寺坊官の下間頼亮室、石川貞清室、また甥としては、栗山林斉と祐玄(祐玄坊)の2人が存在。


幼名は桂松、諱は吉継で、関ヶ原の戦い直前に吉隆と改名したという説あり。通称は紀之介、平馬、刑部少輔となったために大谷刑部と呼ばれることも。号は白頭。

吉継の母は北政所寧々に仕えた人
作者不詳の「校合雑記」によると、吉継の母は、秀吉の母の大政所、または北政所寧々の縁故者で、その後、北政所寧々の取次役であった東殿と確定。 また「関原軍記大成」によると東殿は、北政所寧々の生母朝日殿の親族で、天正14年(1586年)4月、大坂城へ伺候した豊後国の大友義鎮が国元の家老へ送った書状には、北政所寧々の秘書役で名高い孝蔵主(こうぞうす)とともに東殿についても言及されていて、東殿は秀吉夫妻がくつろぐプライベートな奥御殿の部屋の次の間に控えている側近中の側近として、かなりの政治力もあったらしいということです。

1-2、吉継、秀吉に仕える

吉継は、天正の始め頃に秀吉の小姓となり、天正5年(1577年)10月、秀吉が織田信長から播磨国攻略を命令され、黒田官兵衛から譲りうけた姫路城を本拠地としたときには、大谷平馬として、脇坂安治、福島正則、加藤清正、仙石秀久、一柳直末らと共に秀吉の御馬廻り衆の1人だったということです。

そして天正6年(1578年)5月4日に尼子勝久が上月城で毛利輝元の軍勢に包囲され、秀吉は尼子救援のために出陣したとき吉継も従軍、その後の三木城攻めには馬廻として従軍し、10月15日に平井山で開かれた秀吉陣中での宴にも名を連ねたということで、このときは150石か250石くらいで、天正10年(1582年)4月の備中高松城水攻めにも秀吉の馬廻りとして従軍、中国大返しののちには、山崎合戦にも参加。

馬廻衆とは
騎馬の武士で、侍大将に付き添い、護衛や伝令、そして決戦兵力として用いられた武家の職制のひとつ。平時にも大名、武将の護衛として近侍し、事務の取次ぎなどの側近、官僚的な職務を行った、武芸に秀でた武将のなかでもエリート親衛隊的な存在のことです。

1-3、吉継、秀吉の天下取りにも貢献

吉継は、信長没後、秀吉と柴田勝家の対立が決定的となったのちの、秀吉の美濃国侵攻にも馬廻衆として従軍、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、長浜城主だった勝家の甥の柴田勝豊を調略して内応させたということです。

また天正13年(1585年)、紀州征伐では増田長盛と共に2000の兵を率い、最後まで抵抗した紀州勢の杉本荒法師を槍で一突きで討ち取ったとか、秀吉が伊勢長島城へ織田信雄を祝いに赴いた際にも同行、称名寺へ寺領安堵状を、大谷紀之介の名で発給したなどの記録が残っているそう。

1-4、吉継、刑部少輔に

天正13年(1585年)7月、秀吉は近衛前久の猶子となり従一位関白に、吉継も従五位下刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう)に叙任されたために、大谷刑部と呼ばれるように。この頃から、本来違い鷹の羽であった家紋を対い蝶に変更。9月には秀吉の有馬温泉湯治に石田三成ら他の近臣と共に同行しました。天正14年(1586年)の九州征伐では、兵站奉行石田三成の下で功績をあげ、三成が堺奉行に任じられると、吉継は配下として実務を担当。

2-1、吉継、敦賀2万石の大名に

敦賀城中門(現・来迎寺表門)
Saigen Jiro投稿者自身による作品, CC0, リンクによる

天正17年(1589年)、吉継は越前国敦賀郡2万余石を与えられ、敦賀城主に。そして蜂屋頼隆の築いた敦賀城(現敦賀市結城町、三島町)を改修。しかしその前の豊臣秀勝(秀次の弟)が城主のときに天守が完成した説もあるそう。また吉継は、笙ノ川と児屋ノ川を境界として町立てを行って、川西、川中、川東の三つの町割りにしたということ。

天正18年(1590年)の小田原征伐、奥州仕置にも従軍して出羽国の検地を担当。この時、蠣崎慶広(かきざきよしひろ、後の松前慶広)に独立の承認と豊臣政権への臣従のための助力を依頼されたそう。また検地の実施中に吉継の配下の代官が抵抗する農民を斬ったのが発端で一揆が勃発、上杉景勝の支援もあって鎮圧した功績で、2万6944石を加増されて敦賀5万石に

2-2、文禄、慶長の役での吉継

吉継は、文禄元年(1592年)からの秀吉の文禄、慶長の役では、船奉行、軍監として船舶の調達、物資輸送の手配などを務め、勲功を立てました。同年6月、吉継は奉行衆の一人として石田三成、増田長盛、長谷川秀一、前野長康、木村重茲、加藤光泰らと共に朝鮮半島へ渡り、秀吉の指令で朝鮮諸将の指導と現地報告の取りまとめに。そして石田三成らとともに明との和平交渉も担当。その後、再度朝鮮へ渡ったが、戦局が和平交渉により停滞したために閏9月上旬に帰国したそう。

2-3、吉継、病気で湯治に

文禄3年(1594年)、吉継は草津に湯治に赴き目が不自由になっていたらしく、直江兼続に宛てた書状に目が悪いために印判にしたと書いているということです。そして慶長2年(1597年)9月に、秀吉が徳川家康、織田有楽斎、富田知信らを伴って、伏見城下の吉継の屋敷を訪問し、吉継は豪勢な饗宴を張ったとか、翌年には豊臣秀頼の中納言叙任の祝い病をおして参列、秀吉から菓子を賜ったなど病状が好転した様子。

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