世界史の教科書に必ず登場するイエズス会。男子のみの修道会で、宣教師たちは設立当初から世界各国に拡散して国際的に教育活動を展開した。その一環で訪日したひとりがフランシスコ・ザビエル。彼らは、キリスト教の布教や著述のみならずスペイン・ポルトガル貿易の橋わたしの役割も担った。

イエズス会がもたらしたものは現在の日本に数多く残っている。それじゃ、イエズス会の挑戦の日々を日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。日本史をたどるとき「イエズス会」を避けて通ることはできない。「イエズス会」は、ヨーロッパの宗教改革の対抗的勢力で、戦国時代の人々が西洋に対する興味を深めるきっかけを作った会派だ。そんな「イエズス会」の多岐にわたる活動についてまとめてみた。

イエズス会はカトリック系の男子修道会

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イエズス会とはキリスト教のカトリック系修道会。会員は男子のみで女性は入会できません。16世紀の宗教改革の時期に、カトリック教会の改革の機運が高まるなか設立されました。

1534年に創設されたイエズス会

イエズス会を設立した主要メンバーは、イグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルら7名。パリの郊外にあるモンマルトルの丘にある教会堂のミサで誓いを立てたことが出発点です。

そのとき7名が立てた誓いとは「清貧と貞節、エルサレムへの巡礼」というものでした。エルサレムの巡礼とは、その地に巡礼をして奉仕活動をするという意味です。

日本で宣教活動をしたことでも知られる

イエズス会は海外における布教活動を積極的に行うアクティブな教団でした。新大陸が次々と「発見」される大航海時代にさしかかっていたこともあり、彼らはスペイン・ポルトガル船に乗って世界各国に向かいます。

彼らの渡航先のひとつとなったのが日本。現在の鹿児島県にやってきたフランシスコ・ザビエルらは、九州を手始めにキリスト教の布教活動を展開します。それによりキリスト教に改宗するキリシタン大名が増えていきました。

初期イエズス会の主要メンバー

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イエズス会の出発点となるメンバーは、イグナチオ・デ・ロヨラと彼の学友たち。学友のなかでも、特に宣教師としての能力を発揮したのがフランシスコ・ザビエルでした。そこで、このふたりの宣教師についてご紹介します。

霊的指導者と崇められたイグナチオ・デ・ロヨラ

イグナチオ・デ・ロヨラはイエズス会のなかで精神的な指導者としての役割を担いました。ロヨラのルーツは、スペインとフランスの国境付近の山岳地方に住むバスク人。カスティーリャ王国の軍隊に所属して各地を回りました。

戦いで負傷したロヨラは療養生活に入ります。そこで出会ったのが、イエス・キリストの伝記や弟子たちの布教活動。人々が改宗するプロセスを読み、自分も布教活動をしたいと思うようになります。そこでカトリックの修道院の門を叩くに至りました。

イグナチオ・デ・ロヨラはイエズス会の組織を作った人物。彼はイエズス会をピラミッド型の組織として作り上げました。イエズス会の会員にとって、ローマ教皇や上層部の会員は絶対的な存在。さらに自己犠牲も重視しました。絶対服従するヒエラルキーのモデルとなったのが軍隊です。彼が唱えた「霊躁」は魂を鍛えるトレーニング。宗教者というと心穏やかなタイプを思い浮かべます。しかし彼の場合は体育会系のキャラだったよう。

フランシスコ・ザビエルはグローバルビジネスマン

フランシスコ・ザビエルもロヨラと同じくバスク人。パリ大学の留学経験があるなど頭脳明晰で、ビジネスマンとしての営業能力も高く評価されていました。そこでザビエルは貿易の重要拠点に先陣を切るかたちで送り込まれます。

ザビエルが活動したのは、日本、インド、アフリカ、マレーシア、インドネシアなど。日本における布教活動を終えたあと、中国に渡る準備を始めますが、志半ばで病気が悪化します。ザビエルは中国の上川島で亡くなりました。

\次のページで「イエズス会のミッション」を解説!/

イエズス会のミッション

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By Johann Christoph Handke - Self-photographed, Public Domain, Link

イエズス会はキリスト教を世界に広めるためにいくつかのミッションを掲げていました。そのミッションは、イエズス会の勢力拡大に貢献します。

高等教育を充実させる

イエズス会の活動の特徴のひとつが高等教育の充実です。イエズス会は、16世紀の時点ですでに70以上の大学を各国に設立。神学だけではなく、ギリシャ語やラテン語、古典文学や芸術学など、あらゆる教養を学べました。

とくにイエズス会が重視したのが修辞学です。それを学ぶことで宣教師としての魅力がアップ。その素養を活かして、官公使となる卒業生も増えていきました。有能な卒業生を輩出することで、イエズス会の拡大が勢いづきます。

非キリスト教徒を導く

非キリスト教徒を改宗に導くこともイエズス会の主要なミッション。そのために海を渡り世界各国で布教活動を展開しました。イエズス会が日本事業に力を入れたのも、このミッションの実現のためでした。

イエズス会は、非キリスト教徒の布教活動のため、翻訳の出発にも力を入れます。日本では、宣教師ルイス・フロイスを中心に聖書やイエス・キリストの伝記などが翻訳されました。

プロテスタント拡大の防波堤となる

とくにヨーロッパ本土では、イエズス会はプロテスタントの勢力拡大の防波堤としての役割も担っていました。プロテスタントとは、宗教改革でカトリックと袂を分かちた新教です。

その勢力拡大に当時のカトリックは危機感を持っていました。イエズス会の積極的な布教活動により、一部の地域ではプロテスタントの勢いが減退します。

カトリック改革の先陣を切ったイエズス会

Saint Peter's Basilica
By Jebulon - Own work, CC0, Link

設立当初のイエズス会は、プロテスタントの波からカトリックを守るだけではなく、カトリック教会の改革の必要性を訴えました。教会内部の腐敗や不正を糾弾。教会の幹部と対立ことも少なくありませんでした。

カトリック教会の腐敗を糾弾

カトリック教会の改革を訴える運動として有名なのがマルティン・ルター。1517年に提出した「95か条の論題」によりカトリックの改革を訴えました。ルターはカトリック教会と対立し、最終的にプロテスタントを生み出す流れを加速させます。 

その前からカトリック教会内部でも改革が叫ばれはじめており、イエズス会もその流れのひとつ。イエズス会の会員はローマ教皇に対する忠誠を誓った存在。そこで教会の腐敗や堕落を厳しく糾弾し、たびたび聖職者たちと衝突します。

「霊躁」による心のトレーニングを重視

イエズス会が訴えたのが心の改革でした。イグナチオ・デ・ロヨラは、内的な改心に導くために独自の方法を提案。それが「霊躁」というものでした。

これは、司祭の指導を受けながら神が求めているものは何かを考える瞑想のプログラム。神秘主義的である一方、軍隊的な性格も。心穏やかに瞑想するというよりは心を鍛えるトレーニングのような位置づけでした。

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世界で宣教活動を開始するイエズス会

Jesuit map NF.jpg
By Père Jésuites - http://www.emse.fr/~bsimon/documents%20p%E9dagogiques/p%E9dagogie/cours%20Canada/IMAGES%20POUR%20COURS/jesuit%20map.jpg from http://www.emse.fr/~bsimon/documents%20p%E9dagogiques/p%E9dagogie/cours%20Canada/IMAGES%20POUR%20COURS/, Public Domain, Link

優秀な宣教師を育成したイエズス会は、非キリスト教徒を改修に導くというミッションを達成するために、世界各国で布教活動を展開します。

フランシスコ・ザビエルをインドに派遣

宣教師としての評価が高かったのがフランシスコ・ザビエル。ポルトガル王から、西インド植民地に駐在している高級官吏たちの霊的指導者になることを要請されます。

そこでザビエルは、インドのゴアに行ってイエズス会の布教拠点を作りました。それからマカオそしてマラッカで布教。マカオは日本や中国の布教活動の拠点となりました。

ヤジローと出会い日本に注目

フランシスコ・ザビエルはマカオに滞在しているとき、非キリスト教国である日本に興味を持つようになります。鹿児島生まれのヤジローとの出会いがきっかけでした。

ヤジローの詳細は不明ですが、人を殺した罪を逃れてマカオにきていたようです。ザビエルと行動を共にするなかでキリスト教に目覚め、日本人で初めての洗礼を受けました。

イエズス会が日本に来たのは戦国時代

Jesuit with Japanese nobleman circa 1600.jpg
Anonymous Japanese - "Nouvelle Asie" Belin, パブリック・ドメイン, リンクによる

1543年にポルトガル船が鹿児島の種子島に漂着。それをきっかけに南蛮貿易が開始されました。そこでザビエルもヤジローと一緒に来日。九州などで布教活動を始めます。

このときの日本は戦国時代。イエズス会は積極的に戦国大名に改宗を働きかけます。キリスト教に改宗するキリシタン大名が徐々に増加。イエズス会は勢力拡大に成功します。

南蛮貿易と共にイエズス会の勢力拡大

イエズス会が日本の宣教活動に成功したのは南蛮貿易とセットで行ったから。ヨーロッパ生まれの食べ物や製造物のプレゼント攻撃をしかけます。とくに鉄砲は戦国大名の心を惹きつけました。

フランシスコ・ザビエルは、布教するとともに南蛮文化の拠点づくりの交渉も同時に展開。日本でニーズが高い商品リストを作成するなど、貿易促進に向けて情報提供も行いました。

\次のページで「日本人のキリスト教徒増加を江戸幕府は警戒」を解説!/

日本人のキリスト教徒増加を江戸幕府は警戒

そのあともイエズス会の勢力は拡大。キリスト教徒は50万人にのぼったという説もあります。そのため江戸時代になると布教は規制されるようになりました。

幕府としては南蛮貿易を継続したいというのが本音。そこで貿易と布教を切り放そうとします。徳川家康の頃にはキリスト教は禁止。南蛮貿易も密輸や独占発覚が相次ぎ禁止となりました。

現代にも大きな影響を与えるイエズス会

Pope Francis at Vargihna.jpg
By Tânia Rêgo/ABr - Agência Brasil, CC BY 3.0 br, Link

現在のイズス会の会員は2万人ほどと言われています。活動している地域は112カ国。世界で2番目に大きいカトリック系の男子修道会となりました。

ローマ教皇フランシスコはイエズス会出身

イエズス会の影響力の大きさを物語るのがローマ教皇がイエズス会から選出されたこと。イエズス会出身のホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿が第266代ローマ教皇に選出されます。

それがフランシスコ教皇。イエズス会出身のローマ教皇は世界初でした。またアルゼンチンのブエノスアイレス大司教という経歴も、これまでのカトリックの伝統から逸脱したものです。

イエズス会により開設された上智大学

日本の名門である上智大学はイエズス会が明治時代に設立した大学です。大学を作る構想はザビエルの時代からありましたが、キリスト教が禁止されていたこともあり明治時代となりました。

イエズス会の本部の頂点となる総長に上智大学で教鞭をとっていた宣教師が就任することも。28代目のペドロ・アルペ、第30代のアドルフォ・ニコラスは、上智大学ゆかりの人物です。

どうしてイエズス会が受け入れられたのかも考えてみよう

イエズス会は、世界史を学ぶときに必ず登場しますが、日ごろの生活のなかではあまり接点がありません。しかし実際は、大航海時代からの積極的な宣教活動の成果もあり、現在も世界中でたくさんのイエズス会員が活動しています。戦国時代、イエズス会がキリスト教をもたらしたとき、たくさんの日本人が改宗しました。なかには熱心に信仰を深める大名や民衆があらわれます。当時の人々はどうしてキリスト教に惹かれたのでしょうか。「布教する側」と「布教される側」の両方の視点から関連する歴史を学ぶと、いろいろと思いを巡らせることができそうです。

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ヨーロッパの歴史世界史歴史

日本と世界をつないだ「イエズス会」とは?その活動を元大学教員がわかりやすく解説

世界史の教科書に必ず登場するイエズス会。男子のみの修道会で、宣教師たちは設立当初から世界各国に拡散して国際的に教育活動を展開した。その一環で訪日したひとりがフランシスコ・ザビエル。彼らは、キリスト教の布教や著述のみならずスペイン・ポルトガル貿易の橋わたしの役割も担った。

イエズス会がもたらしたものは現在の日本に数多く残っている。それじゃ、イエズス会の挑戦の日々を日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。日本史をたどるとき「イエズス会」を避けて通ることはできない。「イエズス会」は、ヨーロッパの宗教改革の対抗的勢力で、戦国時代の人々が西洋に対する興味を深めるきっかけを作った会派だ。そんな「イエズス会」の多岐にわたる活動についてまとめてみた。

イエズス会はカトリック系の男子修道会

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イエズス会とはキリスト教のカトリック系修道会。会員は男子のみで女性は入会できません。16世紀の宗教改革の時期に、カトリック教会の改革の機運が高まるなか設立されました。

1534年に創設されたイエズス会

イエズス会を設立した主要メンバーは、イグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルら7名。パリの郊外にあるモンマルトルの丘にある教会堂のミサで誓いを立てたことが出発点です。

そのとき7名が立てた誓いとは「清貧と貞節、エルサレムへの巡礼」というものでした。エルサレムの巡礼とは、その地に巡礼をして奉仕活動をするという意味です。

日本で宣教活動をしたことでも知られる

イエズス会は海外における布教活動を積極的に行うアクティブな教団でした。新大陸が次々と「発見」される大航海時代にさしかかっていたこともあり、彼らはスペイン・ポルトガル船に乗って世界各国に向かいます。

彼らの渡航先のひとつとなったのが日本。現在の鹿児島県にやってきたフランシスコ・ザビエルらは、九州を手始めにキリスト教の布教活動を展開します。それによりキリスト教に改宗するキリシタン大名が増えていきました。

初期イエズス会の主要メンバー

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イエズス会の出発点となるメンバーは、イグナチオ・デ・ロヨラと彼の学友たち。学友のなかでも、特に宣教師としての能力を発揮したのがフランシスコ・ザビエルでした。そこで、このふたりの宣教師についてご紹介します。

霊的指導者と崇められたイグナチオ・デ・ロヨラ

イグナチオ・デ・ロヨラはイエズス会のなかで精神的な指導者としての役割を担いました。ロヨラのルーツは、スペインとフランスの国境付近の山岳地方に住むバスク人。カスティーリャ王国の軍隊に所属して各地を回りました。

戦いで負傷したロヨラは療養生活に入ります。そこで出会ったのが、イエス・キリストの伝記や弟子たちの布教活動。人々が改宗するプロセスを読み、自分も布教活動をしたいと思うようになります。そこでカトリックの修道院の門を叩くに至りました。

イグナチオ・デ・ロヨラはイエズス会の組織を作った人物。彼はイエズス会をピラミッド型の組織として作り上げました。イエズス会の会員にとって、ローマ教皇や上層部の会員は絶対的な存在。さらに自己犠牲も重視しました。絶対服従するヒエラルキーのモデルとなったのが軍隊です。彼が唱えた「霊躁」は魂を鍛えるトレーニング。宗教者というと心穏やかなタイプを思い浮かべます。しかし彼の場合は体育会系のキャラだったよう。

フランシスコ・ザビエルはグローバルビジネスマン

フランシスコ・ザビエルもロヨラと同じくバスク人。パリ大学の留学経験があるなど頭脳明晰で、ビジネスマンとしての営業能力も高く評価されていました。そこでザビエルは貿易の重要拠点に先陣を切るかたちで送り込まれます。

ザビエルが活動したのは、日本、インド、アフリカ、マレーシア、インドネシアなど。日本における布教活動を終えたあと、中国に渡る準備を始めますが、志半ばで病気が悪化します。ザビエルは中国の上川島で亡くなりました。

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