
江戸幕府の「幕藩体制」
征夷大将軍となった徳川家康でしたが、間もなくもしないうちに息子の豊臣秀頼に将軍職を譲ってしまいます。また、この時点ではまだ豊臣家は大阪に残っている状態です。
そして、各地の大名を再配置していきます。まずは徳川家の親戚筋の大名を「親藩」として、江戸の近くや重要な土地を治めさせました。身内なら早々に裏切ることありませんからね。
次に、関ケ原の戦い以前から徳川家に味方していた大名を「譜代大名」として、重要な土地へ配置します。
最後に、関ヶ原の戦いのあとに徳川家に従うことになったあまり信用できない大名たちは「外様大名」と呼ばれ、江戸から遠い土地に配置されることになりました。
また、幕府は一万石以上の石高をもつ武士を大名とし、その武士が治める領地を「藩」といいます。将軍(幕)と大名(藩)の封建的主従関係のため、これを「幕藩体制」と呼びました。
「石高」は、簡単に言うと治める土地から上がる収入のことで、一万石を現代の金額に試算すると七億五千万くらいになります。
江戸幕府を支える職制
江戸幕府で一番偉いのはもちろん徳川家の将軍ですね。将軍の補佐を行うのが譜代大名から任命された「老中」たち。そして、重要な決定をする場合に任命される最高職「大老」。「大老」は臨時職ですが、老中よりも上に置かれ、さらに譜代大名の中でも井伊家、酒井家、土井家、堀田家の四家からしか任命されませんでした。(徳川綱吉のころの大老・柳沢吉保は例外)
また、重要な職として、京都の朝廷を監視するための「京都所司代」、大阪を監視するための「大坂城代」が置かれます。
禁中並公家諸法度の制定
ここからは豊臣家滅亡後。徳川家康は、「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」を制定します。
それまでの鎌倉幕府や室町幕府と江戸幕府の決定的な違いがこの法律。なぜなら、「禁中並公家諸法度」によって京都の天皇家や公家は幕府の言うことを聞かなければならなくなったのです。
こうして、徳川家康は押しも押されぬ江戸幕府を築き上げたのでした。
参勤交代制度でより強固な支配
徳川家康の孫で、三代目将軍となった「徳川家光」。彼は、父で二代目将軍徳川秀忠が諸大名に向けた十三ヶ条の「武家諸法度」に「参勤交代」を付け加えました。
「武家諸法度」は、徳川将軍が大名たちを統制するために制定された法律で、文武や倹約の推奨から大名家同士の婚姻の許可制など多岐に渡ります。しかし、内容はずっと同じというわけではなく、八代将軍の徳川吉宗まで改訂され続けました。
そこに徳川家光が加えた「参勤交代」は、各大名に江戸に屋敷を作らせ、そこに大名の妻子を置き、大名自身も一年ごとに領地と江戸の屋敷を往復させるというものでした。
この制度によって幕府は大名たちに多大な出費をさせ、貯蓄を貯め込まさせないようにしたのです。お金がないと、武器を作ったりできませんよね?つまり、お金のない大名たちが幕府に謀反を起こせないようにしたのでした。
こちらの記事もおすすめ

生まれながらの将軍と宣言した3代目将軍「徳川家光」を歴女がわかりやすく解説
島原・天草一揆から鎖国の完成へ
徳川家光が出したもうひとつ有名な政策が「鎖国」ですね。鎖国を制定するに至る凄惨な経緯がありました。
1637年、長崎の島原でキリスト教徒を中心とした農民たちの大規模な一揆「島原・天草一揆(島原の乱)」が起こったのです。島原を治める大名たちが人々に重い税や過酷な労働を強いた上に、キリスト教(カトリック)の迫害を行ったのが原因とされています。
一揆の指導者はキリスト教徒の少年「天草四郎(増田四郎時貞)」。彼は少年でありながらカリスマ性を発揮して一揆を導きます。
一揆は天草四郎のもとで粘りましたが、兵糧攻めされてあえなく失敗。幕府側の記録によると一揆に参加した三万七千人の人々が全滅、幕府も死傷者が八千人を超えるというすさまじい結末になりました。
徳川家光は「島原・天草一揆」を契機にキリスト教を国内から排除するべく弾圧し、キリスト教を入れないためように一部をのぞいた外国との関係を断つ「鎖国」を行ったのです。
こちらの記事もおすすめ

江戸時代に行った幕府の対外政策「鎖国」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説
\次のページで「五代目将軍徳川綱吉が残したもの」を解説!/