「江戸時代」は平安時代に次ぐ日本で二番目に長い年代区分になる。江戸幕府の初代将軍・徳川家康くらいはは知っているでしょう?大河ドラマで戦国時代をやると必ず出てくる日本の最重要人物です。

今回は徳川家康から始まった「江戸時代」の一通りの流れと特に重要な出来事について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は源義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。今回はその舞台としてよく登場する江戸時代についてまとめてみました。

1.江戸時代のインデックス

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江戸時代は265年と長く続いた時代で、その間にたくさんの事件が起こりましたね。覚えきれないという人も多いと思います。

今回は特に重要な出来事を時代順に追っていくわけですが、まずは目だけでもスッキリわかるように江戸時代のインデックスを先に記しておきましょう。

1.関ヶ原の戦い……この大戦で勝利した徳川家が天下を治めることになります。
2.初代将軍徳川家康……江戸幕府の基盤を築いた初代将軍。
3.三代将軍徳川家光……参勤交代、鎖国の開始など、江戸幕府の政策の基礎を築きます。
4.五代将軍徳川綱吉……悪政として名高い「生類憐みの令」を発し、犬公方と呼ばれました。
5.正徳の治……六代将軍徳川家宣から七代将軍徳川家継の治世の年号「正徳」を中心に進められた政治改革のこと。実権を実権を握っていたのは「新井白石」と「真鍋詮房」。
6.八代将軍徳川吉宗……「享保の改革」を成功させ、経済を発展させた将軍で、米将軍と称されます。
7.田沼意次……九代目将軍徳川家重、十代目将軍徳川家治に重用された老中。幕府の財政が行き詰まったため、重商主義政策を実施。しかし、政敵松平定信に賄賂を非難され、またそこへ「天明の大飢饉」が重なって失脚してしまいます。
8.水野忠邦……十一代将軍徳川家斉、第十二代将軍徳川家慶に仕えた老中。「天保の改革」を実施するも失敗し、失脚します。
9.黒船来航……アメリカのペリー率いる四隻の黒船が来航して幕府に開国を要求。いよいよ江戸時代の終わりがやってきたのです。
10.井伊直弼……日米修好通商条約に調印、日本を開国を行った大老。「安政の大獄」で国内の反対派を粛正したため、「桜田門外の変」で暗殺されてしまいます。
11.大政奉還……徳川家最後の将軍、十五代徳川慶喜が政権を朝廷に返し、ここで江戸時代と江戸幕府の終わりとなりました。

2.江戸時代の始まりと幕府のシステム

天下を分けた「関ケ原の戦い」

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関白「豊臣秀吉」の死後に勃発したのが1600年の「関ケ原の戦い」です。関ケ原は現在の岐阜県不破郡関ケ原町で、ここで豊臣家方の石田三成率いる西軍と、徳川家康率いる東軍が激突します。

石田三成はたいへん頭のいい武将でしたから、関ケ原に上手に陣を敷き、その時点では西軍側が有利に思えました。ところが、豊臣家の家臣だった加藤清正や福島正則他、次々と武将が東軍に回ってしまいます。さらに薩摩の島津義弘が提案した夜襲を石田三成が蹴ったために怒って西軍を離反。そして、西軍のトドメとなったのが、小早川秀明の裏切りでした。

石田三成の布陣こそ優秀でしたが、結果、「関ケ原の戦い」は小早川秀秋の裏切りによって大打撃を受けた西軍の負けが、たった一日で決まってしまったのです。

かくして、勝利した徳川家康は1603年に征夷大将軍に就任し、自領だった江戸に幕府を開きました。これが江戸時代と江戸幕府の始まりです。

ちなみに、関ケ原の戦いで豊臣家は滅亡しません。豊臣秀吉の息子・豊臣秀頼や、西軍大将の毛利輝元は大坂城にいて関ケ原に参加しなかったのです。

豊臣家の真の滅亡はそこから14年後の「大坂の陣」。1614年の「大阪冬の陣」と1615年の「大坂夏の陣」で大坂城を攻められ、最後に豊臣秀頼の自害したことによって滅亡しました。

\次のページで「江戸幕府の「幕藩体制」」を解説!/

江戸幕府の「幕藩体制」

征夷大将軍となった徳川家康でしたが、間もなくもしないうちに息子の豊臣秀頼に将軍職を譲ってしまいます。また、この時点ではまだ豊臣家は大阪に残っている状態です。

そして、各地の大名を再配置していきます。まずは徳川家の親戚筋の大名を「親藩」として、江戸の近くや重要な土地を治めさせました。身内なら早々に裏切ることありませんからね。

次に、関ケ原の戦い以前から徳川家に味方していた大名を「譜代大名」として、重要な土地へ配置します。

最後に、関ヶ原の戦いのあとに徳川家に従うことになったあまり信用できない大名たちは「外様大名」と呼ばれ、江戸から遠い土地に配置されることになりました。

また、幕府は一万石以上の石高をもつ武士を大名とし、その武士が治める領地を「藩」といいます。将軍(幕)と大名(藩)の封建的主従関係のため、これを「幕藩体制」と呼びました。

「石高」は、簡単に言うと治める土地から上がる収入のことで、一万石を現代の金額に試算すると七億五千万くらいになります。

江戸幕府を支える職制

江戸幕府で一番偉いのはもちろん徳川家の将軍ですね。将軍の補佐を行うのが譜代大名から任命された「老中」たち。そして、重要な決定をする場合に任命される最高職「大老」。「大老」は臨時職ですが、老中よりも上に置かれ、さらに譜代大名の中でも井伊家、酒井家、土井家、堀田家の四家からしか任命されませんでした。(徳川綱吉のころの大老・柳沢吉保は例外)

また、重要な職として、京都の朝廷を監視するための「京都所司代」、大阪を監視するための「大坂城代」が置かれます。

禁中並公家諸法度の制定

ここからは豊臣家滅亡後。徳川家康は、「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」を制定します。

それまでの鎌倉幕府や室町幕府と江戸幕府の決定的な違いがこの法律。なぜなら、「禁中並公家諸法度」によって京都の天皇家や公家は幕府の言うことを聞かなければならなくなったのです。

こうして、徳川家康は押しも押されぬ江戸幕府を築き上げたのでした。

3.三代目将軍徳川家光の政策

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投稿者がファイル作成 - ブレイズマン (talk) 11:15, 4 December 2010 (UTC), パブリック・ドメイン, リンクによる

参勤交代制度でより強固な支配

徳川家康の孫で、三代目将軍となった「徳川家光」。彼は、父で二代目将軍徳川秀忠が諸大名に向けた十三ヶ条の「武家諸法度」に「参勤交代」を付け加えました。

「武家諸法度」は、徳川将軍が大名たちを統制するために制定された法律で、文武や倹約の推奨から大名家同士の婚姻の許可制など多岐に渡ります。しかし、内容はずっと同じというわけではなく、八代将軍の徳川吉宗まで改訂され続けました。

そこに徳川家光が加えた「参勤交代」は、各大名に江戸に屋敷を作らせ、そこに大名の妻子を置き、大名自身も一年ごとに領地と江戸の屋敷を往復させるというものでした。

この制度によって幕府は大名たちに多大な出費をさせ、貯蓄を貯め込まさせないようにしたのです。お金がないと、武器を作ったりできませんよね?つまり、お金のない大名たちが幕府に謀反を起こせないようにしたのでした。

島原・天草一揆から鎖国の完成へ

徳川家光が出したもうひとつ有名な政策が「鎖国」ですね。鎖国を制定するに至る凄惨な経緯がありました。

1637年、長崎の島原でキリスト教徒を中心とした農民たちの大規模な一揆「島原・天草一揆(島原の乱)」が起こったのです。島原を治める大名たちが人々に重い税や過酷な労働を強いた上に、キリスト教(カトリック)の迫害を行ったのが原因とされています。

一揆の指導者はキリスト教徒の少年「天草四郎(増田四郎時貞)」。彼は少年でありながらカリスマ性を発揮して一揆を導きます。

一揆は天草四郎のもとで粘りましたが、兵糧攻めされてあえなく失敗。幕府側の記録によると一揆に参加した三万七千人の人々が全滅、幕府も死傷者が八千人を超えるというすさまじい結末になりました。

徳川家光は「島原・天草一揆」を契機にキリスト教を国内から排除するべく弾圧し、キリスト教を入れないためように一部をのぞいた外国との関係を断つ「鎖国」を行ったのです。

4.家光に続く将軍たちの治世

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\次のページで「五代目将軍徳川綱吉が残したもの」を解説!/

五代目将軍徳川綱吉が残したもの

「犬公方」と呼ばれた評判の悪い五代目将軍徳川綱吉は、悪名高い「生類憐みの令」で極端な動物愛護を人々に強いた将軍です。違反した罰は厳しく、蚊の一匹でも殺せば謹慎処分になったとか。

他にも貨幣の質を落としてインフレを起こしたりと、当時はかなり大変なことになっていました。

新井白石と真鍋詮房の「正徳の治」

徳川綱吉が亡くなり、六代目将軍徳川家宣の時代となりました。徳川家宣は学者の新井白石と側用人の真鍋詮房を登用して、先代の徳川綱吉が残した悪法を撤廃していきます。

しかし、徳川家宣は三年後に亡くなってしまい、その子・徳川家継が七代目将軍となりました。七代目将軍となったはいいものの、徳川家継は当時たったの三歳。とても政治などできないため、新井白石と真鍋詮房が将軍に代わって政治を担うことになったのです。

この徳川家宣から徳川家継の治世を「正徳の治」といいます。このあたりから将軍が直接政治をするのではなく、老中たちによる政治がメインとなりました。

八代将軍徳川吉宗の享保の改革

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徳川家継がわずか八歳で亡くなり、八代目将軍となったのが御三家・紀伊徳川家の出身「徳川吉宗」でした。徳川吉宗は将軍になるとすぐに新井白石と真鍋詮房をクビにし、将軍自ら政治を行いはじめました。

最初に徳川吉宗は当時の幕府のひっ迫した財政状況を改善する政策を打ち出します。これが江戸時代の三大改革のひとつ「享保の改革」です。

また、人々の意見を聞くために「目安箱」を設置します。そこから出た意見によって、貧しい人たちのための病院「小石川養生所」や、現在の消防署にあたる「町火消し制度」を作りました。

日本周辺をちらつく異国船

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田沼意次の失脚、江戸時代の三大改革で松平定信の「寛政の改革」の失敗と失脚のあと。18世紀半ばごろの十二代将軍徳川家慶の時代、鎖国中の日本へ通商を求めて外国船がやってくるようになりました。幕府はこれをことごとく拒否し、ついには「異国船打払令」を出して追い返します。

しかし、水野忠邦が「天保の改革」を失敗して失脚したのち、とうとう1853年にアメリカのペリーが蒸気船を含む黒船四隻で浦賀(神奈川県の三浦半島の港)に来航しました。当時、アメリカは捕鯨船の補給地点としてどうしても日本の開国が必要だったため、結構な力づく交渉となったのです。

この黒船騒動の中、徳川家慶は急死してしまい、老中の阿部正弘が中心となってなんとか収めたのでした。

日米和親条約締結して開国

この時代の欧米諸国は帝国主義が主流であり、アジアなどに植民地をどんどん作っていた時期です。日本だって植民地にされてしまう危険がありました。

徳川家慶亡きあと、将軍となったのは息子の徳川家定のもとで阿部正弘はアメリカと「日米和親条約」と締結。そして、長い間守ってきた鎖国が解いたのです。

\次のページで「井伊直弼と日米修好通商条約」を解説!/

井伊直弼と日米修好通商条約

老中・阿部正弘が鎖国を解いたあと若くして亡くなり、そのあと大老となった井伊直弼。そこへきて1858年にアメリカから貿易の要求があって、彼は「日米修好通商条約」を締結しました。

ところが、この条約は「アメリカの治外法権」を認め、「日本に関税自主権がない」というとんでもない不平等条約だったのです。

さらに、この条約を井伊直弼は朝廷の許可なく結んでしまったために大バッシングを受けます。それで批判する反対派を井伊直弼は容赦なく弾圧する「安政の大獄」が起こりました。そのカウンターで井伊直弼は元水戸藩士たちによって暗殺(桜田門外の変)されてしまうのです。

最後の将軍徳川慶喜の大政奉還

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邨田丹陵, Tanryō Murata - 明治神宮聖徳記念絵画館, パブリック・ドメイン, リンクによる

時代が幕末に移り始めると、「尊王攘夷運動」が盛んになっていきました。

一方の幕府も、朝廷と結びついて勢力をひとつにしようという「公武合体論」が動き始めます。しかし、そんな折に起こった薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件(生麦事件)が起こり、薩摩藩とイギリス間で薩英戦争が勃発。さらに、長州藩がアメリカなど四ヶ国を敵に回して「下関事件」が起こります。

ここで欧米諸国との圧倒的な差を見せつけられた薩摩藩と長州藩は「薩長同盟」を組んで倒幕の約束を結びました。

そんな中、十五代将軍に就任した徳川慶喜は、1867年に政権を天皇に返すことしました。これを「大政奉還」といいます。

大政奉還によって江戸幕府、そして、江戸時代は265年の長い歴史に幕を下ろしたのでした。

十五代に渡った徳川将軍家と歩んだ時代

初代将軍徳川家康から十五代将軍徳川慶喜までの約260年に渡って続いた江戸時代。三代目の徳川家光までに強固な基盤が固め上げられ、歴代の将軍たちはその法を守って日本を治めてきました。

最後は諸外国に押される形で歴史から退場することとなりましたが、江戸時代は「時代劇」や「時代小説」の舞台として根強い人気があり、日本人の心に深く根付いていると言っても過言ではありません。

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幕末日本史歴史江戸時代

日本の歴史で二番目に長い「江戸時代」を歴史オタクがわかりやすく5分で解説

「江戸時代」は平安時代に次ぐ日本で二番目に長い年代区分になる。江戸幕府の初代将軍・徳川家康くらいはは知っているでしょう?大河ドラマで戦国時代をやると必ず出てくる日本の最重要人物です。

今回は徳川家康から始まった「江戸時代」の一通りの流れと特に重要な出来事について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は源義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。今回はその舞台としてよく登場する江戸時代についてまとめてみました。

1.江戸時代のインデックス

image by PIXTA / 55397014

江戸時代は265年と長く続いた時代で、その間にたくさんの事件が起こりましたね。覚えきれないという人も多いと思います。

今回は特に重要な出来事を時代順に追っていくわけですが、まずは目だけでもスッキリわかるように江戸時代のインデックスを先に記しておきましょう。

1.関ヶ原の戦い……この大戦で勝利した徳川家が天下を治めることになります。
2.初代将軍徳川家康……江戸幕府の基盤を築いた初代将軍。
3.三代将軍徳川家光……参勤交代、鎖国の開始など、江戸幕府の政策の基礎を築きます。
4.五代将軍徳川綱吉……悪政として名高い「生類憐みの令」を発し、犬公方と呼ばれました。
5.正徳の治……六代将軍徳川家宣から七代将軍徳川家継の治世の年号「正徳」を中心に進められた政治改革のこと。実権を実権を握っていたのは「新井白石」と「真鍋詮房」。
6.八代将軍徳川吉宗……「享保の改革」を成功させ、経済を発展させた将軍で、米将軍と称されます。
7.田沼意次……九代目将軍徳川家重、十代目将軍徳川家治に重用された老中。幕府の財政が行き詰まったため、重商主義政策を実施。しかし、政敵松平定信に賄賂を非難され、またそこへ「天明の大飢饉」が重なって失脚してしまいます。
8.水野忠邦……十一代将軍徳川家斉、第十二代将軍徳川家慶に仕えた老中。「天保の改革」を実施するも失敗し、失脚します。
9.黒船来航……アメリカのペリー率いる四隻の黒船が来航して幕府に開国を要求。いよいよ江戸時代の終わりがやってきたのです。
10.井伊直弼……日米修好通商条約に調印、日本を開国を行った大老。「安政の大獄」で国内の反対派を粛正したため、「桜田門外の変」で暗殺されてしまいます。
11.大政奉還……徳川家最後の将軍、十五代徳川慶喜が政権を朝廷に返し、ここで江戸時代と江戸幕府の終わりとなりました。

2.江戸時代の始まりと幕府のシステム

天下を分けた「関ケ原の戦い」

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User LordAmeth on en.wikipedia Collection of The Town of Sekigahara Archive of History and Cultural Anthropology – http://www.sengoku-expo.net/flash/sekigahara/byoubu/byoubu_c.html http://inpaku02.iamas.ac.jp/sekigahara/byoubu/images/l/263.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる

関白「豊臣秀吉」の死後に勃発したのが1600年の「関ケ原の戦い」です。関ケ原は現在の岐阜県不破郡関ケ原町で、ここで豊臣家方の石田三成率いる西軍と、徳川家康率いる東軍が激突します。

石田三成はたいへん頭のいい武将でしたから、関ケ原に上手に陣を敷き、その時点では西軍側が有利に思えました。ところが、豊臣家の家臣だった加藤清正や福島正則他、次々と武将が東軍に回ってしまいます。さらに薩摩の島津義弘が提案した夜襲を石田三成が蹴ったために怒って西軍を離反。そして、西軍のトドメとなったのが、小早川秀明の裏切りでした。

石田三成の布陣こそ優秀でしたが、結果、「関ケ原の戦い」は小早川秀秋の裏切りによって大打撃を受けた西軍の負けが、たった一日で決まってしまったのです。

かくして、勝利した徳川家康は1603年に征夷大将軍に就任し、自領だった江戸に幕府を開きました。これが江戸時代と江戸幕府の始まりです。

ちなみに、関ケ原の戦いで豊臣家は滅亡しません。豊臣秀吉の息子・豊臣秀頼や、西軍大将の毛利輝元は大坂城にいて関ケ原に参加しなかったのです。

豊臣家の真の滅亡はそこから14年後の「大坂の陣」。1614年の「大阪冬の陣」と1615年の「大坂夏の陣」で大坂城を攻められ、最後に豊臣秀頼の自害したことによって滅亡しました。

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