室町時代戦国時代日本史歴史

商人出身で文治派のキリシタン大名「小西行長」をわかりやすく歴女が解説

2-5、行長、関ヶ原では西軍に加担

Site of Konishi Yukinaga's Position.jpg
立花左近投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、行長は12月に帰国、肥前唐津藩主でキリシタンだった寺沢広高とともに徳川家康の取次役を勤め、家康に接近したが、慶長5年(1600年)の家康の会津征伐では、上方に残留を命じられました。そして関ヶ原の戦いでは、盟友の石田三成に呼応して西軍として参戦。

9月15日の関ヶ原本戦では、東軍の田中吉政、筒井定次らの部隊と交戦して奮戦したが、小早川秀秋らの裏切りで大谷吉継隊が壊滅し行長勢、宇喜多勢も崩れたのち、行長は伊吹山中に逃亡、9月19日に関ヶ原の庄屋林蔵主にかくまわれることに。行長は観念して自らを家康に差し出して褒美をもらうように林蔵主に薦めたが、林はよしとせずに地元領主の竹中重門家臣に事情を話して行長を護衛して草津の村越直吉の陣に連行。

行長はキリシタンであったので、自害、切腹は出来ないため、10月1日に市中引き回しの後、六条河原で石田三成、安国寺恵瓊と共に42歳で斬首の刑となり、三条大橋にさらし首にされたということです。

3-1、行長の逸話

キリシタン大名関係の色々な逸話があります。

3-2、加藤清正らとの対立

尾張出身で秀吉の親戚、家来となった時期も先だったという武断派の加藤清正や福島正則と、近江出身で秀吉の家来となったのは清正らよりも後となった文治派の石田三成、行長らの対立は、とても有名です。

そして行長と清正は肥後の国の領地の境界線をめぐっての争いもあり、また清正は熱心な日蓮宗信者で、行長がキリシタンと言うのも一因だったといわれています。天正17年(1589年)の天草五人衆の一揆では、行長はキリシタンとして事態を穏便に済ませようとしたが、清正は強引に兵を出してきたために武力征伐になったとか、清正は商人出身の行長を「薬問屋の小倅」とののしったので、行長は薬袋に朱の丸を付けた軍旗を用いて反発したとか、文禄の役の京城攻めでは一番乗りを争って、行長が一日の差で清正に勝ったとか、行長が李氏朝鮮に配下を派遣して清正軍の上陸時期を密告し、李氏朝鮮は李舜臣に攻撃を命じたものの李が罠だと疑って攻撃を躊躇して陰謀は失敗に終わったという話まであり、文禄、慶長の役を通じて、作戦や講和の方針をめぐり清正との対立は深まる一方で、関ヶ原にまでつながることに。

3-3、最期もキリスト教式を希望

行長はキリシタンとして処刑の前も浄土宗の僧侶に頭上に経文を置かれるのを拒絶、ポルトガル王妃(マルガレーテ、フランス王妃アンヌ・ドートリッシュ、フェリペ4世の母)から贈られたキリストとマリアのイコンを掲げ、三度頭上に戴いたということ。

また、カトリック教徒として臨終の秘蹟と告解を行うために同じキリシタンであった黒田長政に依頼したが、家康の命令で断られ、処刑当日も司祭が秘蹟を行おうとしたが、接近を許されず。イエズス会側の史料によれば、行長の遺体は教会に引き取られ、改めて終油の秘蹟を受けてカトリック式で埋葬されたが、場所は不明。

当時の教皇クレメンス8世は行長の死を惜しんだということで、行長没後の1607年にイタリアのジェノバで行長を主人公とするオペラが作られたということです。尚、行長は処刑されたが、親族は罪を許されたそう。

3-4、ジュリアおたあ

「おたあ」は日本名で、文禄の役の戦乱で戦死した朝鮮軍兵士の娘、捕虜となった李氏朝鮮の両班の娘ともいわれる女性で、生没年や実名は不詳だが、日本軍に平壌近郊で保護されたのちに日本へ連れてこられて行長夫妻に育てられました。

おたあと呼ばれ、小西家の家業に関係深い薬草について学び、キリシタンとしての洗礼も受けたが、関ヶ原の戦いで小西家が没落後、徳川家康に薬草の知識などを買われ、駿府城で家康付きの侍女として側近く仕えたということです。おたあは侍女の仕事を終えた後、夜には祈祷して聖書を読む日々で、同僚の侍女たちや原胤信ら家臣たちをキリスト教信仰に導いたのですね。

おたあはその後、棄教を拒否、家康の側室にというのも断って、慶長17年(1612年)、キリスト教禁教令で駿府から追放されて、伊豆諸島の八丈島(または新島)、神津島(こうづしま)への流罪に。おたあはどこへ行っても信仰生活を守り、見捨てられた弱者、病人を保護し、若い流人を励ますなど島民に献身的に尽くしたそう。その後の消息は不明だが、大坂に移住して後に長崎に移った説と神津島で亡くなった説があるということです。

商人出身で秀吉に重用された文治派の武将

小西行長は堺の豪商だった小西隆佐の次男として生まれ、宇喜多直家に仕えたのちに秀吉に気に入られて武将として出世し大名になった人物。行長は父のおかげで外国との貿易、船の流通、水軍にも通じていて、キリシタンとして宣教師などへのコネも生かして活躍、石田三成とともに文治派として豊臣政権に貢献しました。

しかし、文禄、慶長の役では外国通として先鋒となって、秀吉を欺いてまで明と講和をしようとして失敗、またもともとあった武骨な加藤清正や福島正則らの武断派で尾張コネクションの北政所寧々派に対して、近江派、淀殿派というべき派閥争いの対立も激化して、結果的に関ヶ原の合戦につながり、敗戦で終了。

キリシタン大名としては信仰に生きた感のある高山右近と比べると、キリシタンとしてのコネを利用していた感のある行長ですが、処刑後は宣教師らがキリシタンとして埋葬し、ローマ教皇が死を惜しみ後にオペラが作られたなど、キリスト教徒として本望だったかも。

1 2 3
Share:
angelica