室町時代戦国時代日本史歴史

商人出身で文治派のキリシタン大名「小西行長」をわかりやすく歴女が解説

1-4、キリシタンとなり、小豆島に高山右近を招聘

image by PIXTA / 54155280

行長は、天正12年(1584年)頃には高山右近の影響を受けて洗礼を受けてキリシタンとなっていましたが、天正13年(1585年)、小豆島(現岡山県)で1万石の大名となったのちに、領地の小豆島にグレゴリオ・デ・セスペデスを招いてキリスト教の布教を行い、島の田畑の開発も行いました。

そして天正15年(1587年)のバテレン追放令が発令、行長は表向きは秀吉に従い、キリシタンの規制に同調し、監視するという名目でキリスト教を棄てずに大名を改易となった高山右近らキリシタンや宣教師たちを小豆島に迎え入れ、秀吉に諫言もしたそう。

これは行長の信仰心もあったでしょうが、それ以上に当時の南蛮貿易を独占していたイエズス会とのつながりが重要だったためだということです。

no-img2″>
 <figcaption class=桜木建二

自分の信仰は表向きは捨てたのか、なんかややこしいけどまだこの頃はゆるい禁制だったのか。

2-1、行長、肥後国半国20万石の大名に

宇土古城址(中世宇土古城)千畳敷への虎口
Simasakon投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

行長は、天正15年(1587年)の九州平定、天正16年(1588年)の肥後国人一揆の討伐の功績で、肥後国の南半国宇土、益城、八代の三郡で20万石あまりの大名となりました。

そして天正17年(1589年)、宇土古城の東の地(現熊本県宇土市古城町)に新たに本拠地として宇土城(うと)を築城。宇戸城は行長の手で、小丘陵の城山の頂上に本丸、西に二の丸、堀と石垣三の丸を配し、それぞれを堀と石垣で囲んだ近世城郭となったそうで、鎌倉時代末期、宇土氏が築いた宇土古城とともに鶴が翼を広げているように見えたために「鶴の城」の異名も。

そして天草5人衆が宇土城普請に従わなかったために天草国人一揆が起きたが、肥後の国北半分の領主の加藤清正らとともに平定し、天草1万石あまりも行長の所領に。

2-2、行長、天草のキリシタンを保護

Amakusa Islands.jpg
Image Science and Analysis Laboratory, NASA-Johnson Space Center. “The Gateway to Astronaut Photography of Earth.” – NASA Photo ID : ISS045-E-70722, パブリック・ドメイン, リンクによる

秀吉は、後の朝鮮出兵を視野に入れて、水軍統率力のある行長を肥後に封じたのですが、またこの頃の天草には、人口3万人の3分の2に当たる2万3千人がキリシタンで、60人に上る神父と30の教会が存在。

そして志岐氏の所領の志岐には、宣教師の要請で画家でもあるイタリア人修道士のジョバンニ・ニコラオが派遣されていて、ニコラオの指導のもとでの聖像学校では、油絵、水彩画、銅版画の教授、聖画、聖像からパイプオルガンや時計までが製作されていたということです。この学校は、文禄3年(1594年)に有馬半島八良尾のセミナリオと合併して規模が拡大し、行長はこれらのイエズス会の活動をバックアップ、高山右近のキリシタンの旧臣たちの多くも家臣に取り立てたそう。

2-3、行長、宇土城の他にも支城を築城

出土した麦島城小天守台跡
見学者 – 見学者が撮影, GFDL-no-disclaimers, リンクによる

” target=”_blank”>

宇土城は水城として優れた機能を持っていたが、行長は秀吉の意を受けて、相良氏が統治していた頃からこの地域で海外貿易の中心地だった八代(徳淵津とくぶちのつ、現熊本県八代市)にも麦島城を築城して重臣の小西行重を城代として配置。

麦島城は球磨川と八代海に面する河口の島に建てられ、堀から外水を引きいれてあったために、直接、船で出入りできたという、まさに海上交通の要所で南蛮貿易の拠点だったということです。行長はまた、隈庄城(くまのしょう)、木山城、矢部城、愛藤寺城を支城として、隈庄城に弟の小西主殿介(とのものすけ)、愛籐寺城に結城弥平次らの一族や重臣を城代に任じました。

2-4、行長、文禄、慶長の役では無茶な講和が失敗に

秀吉は天正20年(1592年)、唐入りの意思を明確に表明し、行長を遠征の一番隊の隊長に任命。行長は娘婿の対馬領主の宗氏を通じて朝鮮との交渉を担当することに。秀吉は朝鮮が服属したと思い込んでいたが、行長は朝鮮が秀吉の意向を拒否するのではと考え、また戦争回避したい思いと責任逃れもあって、わざと交渉を長引かせたあげくに朝鮮側が折れないとみて、秀吉には朝鮮は服属の意を示していたのが翻意したと言い朝鮮への出兵、戦争に。

そして最初は順調に連戦連勝していた秀吉軍でしたが、講和を目指した行長の戦いと、単純に武力をもって明へと攻め込むつもりの加藤清正ら武断派に確執が生じたのですね。結局、行長は清正と対立し、朝鮮側から有利な講和条件を引き出そうとしたが、交渉では苦戦を強いられることになったということ。

外国事情に通じていたため、日本軍の明の侵略は不可能と考えていた行長は石田三成と共に明との講和交渉を行い、明側の講和担当者の沈惟敬らと共謀、秀吉には明が降伏すると偽り、明に対しては秀吉が降伏すると偽って講和する計画を画策

しかし、秀吉の求めていた講和条件と全く違うことが露見したため、行長は秀吉の怒りを買い、切腹になるところを三成、前田利家や徳川家康らのとりなしで事なきを得たそう。そして慶長2年(1597年)の慶長の役で行長は、講和交渉失敗の埋め合わせとして、何としても武功を立てるよう言われて朝鮮へ再出兵。漆川梁海戦で朝鮮水軍を殲滅し、南原城の戦いに参加したなど奮戦、秀吉の死去で帰国することに。

次のページを読む
1 2 3
Share:
angelica