今回は小西行長を取り上げるぞ。秀吉の家来だったが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国、安土桃山時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国、安土桃山時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、小西行長について5分でわかるようにまとめた。

1-1、小西行長は京都の生まれ

小西行長(こにしゆきなが)は、永禄元年(1558年)に京都で誕生。父は和泉国堺の商人小西隆佐で、母はワクサ(マグダレーナ)。行長は次男で、兄弟は兄、弟が3人と妹が1人など。通称は弥九郎、号は如信、洗礼名はアウグスティヌス(アゴスチノ)。

1-2、行長、10代で侍に抜擢される

行長は最初、備前国福岡(現岡山県備前市)の豪商阿部善定の手代の源六で後に改名して岡山下之町で呉服商を営んだ魚屋九郎右衛門の養子となり、商売のため領主の宇喜多直家(秀家の父)を訪れていたが、直家が才能が見出して家臣に抜擢

そして信長の武将だった羽柴秀吉が播磨平定で三木城攻めの最中に、行長は直家の使いとして秀吉のもとへ行き、気に入られてそのまま秀吉に仕えるようになった、または直家の息子秀家が秀吉のもとに人質として送られたときの付き添いとして赴き、秀吉に気に入られたという説も。

小西家とそのコネクション
行長の父の小西隆佐は、堺の豪商で天正13年(1585年)から秀吉に仕え、母ワクサは、北政所寧々に仕えたといわれています。
父隆佐もキリシタンで、当時は外国との貿易も盛んな国際都市だった大坂、堺で、九州と堺の海上輸送を一手に握るほどのキリシタンで豪商の日比屋了珪(ひびやりょうけい)と何重もの姻戚関係で結びつきがあったそうなので、秀吉は行長のこういったコネも利用したのでは。

1-3、行長、秀吉近臣として舟奉行に

行長は、天正13年(1585年)、28歳で摂津守に任ぜられて豊臣姓を許可されたそう。同年の紀州征伐では、水軍を率いて参戦したが、雑賀衆の抵抗を受けて敗退したが、太田城の水攻めでは、安宅船や大砲も動員して攻撃し、開城のきっかけを作り、宣教師のルイス・フロイスに「水軍司令長官」と評されたということで、秀吉が天下を取ったのちの豊臣政権内では舟奉行に任命され、水軍を率いることに。

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1-4、キリシタンとなり、小豆島に高山右近を招聘

image by PIXTA / 54155280

行長は、天正12年(1584年)頃には高山右近の影響を受けて洗礼を受けてキリシタンとなっていましたが、天正13年(1585年)、小豆島(現岡山県)で1万石の大名となったのちに、領地の小豆島にグレゴリオ・デ・セスペデスを招いてキリスト教の布教を行い、島の田畑の開発も行いました。

そして天正15年(1587年)のバテレン追放令が発令、行長は表向きは秀吉に従い、キリシタンの規制に同調し、監視するという名目でキリスト教を棄てずに大名を改易となった高山右近らキリシタンや宣教師たちを小豆島に迎え入れ、秀吉に諫言もしたそう。

これは行長の信仰心もあったでしょうが、それ以上に当時の南蛮貿易を独占していたイエズス会とのつながりが重要だったためだということです。

2-1、行長、肥後国半国20万石の大名に

宇土古城址(中世宇土古城)千畳敷への虎口
Simasakon - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

行長は、天正15年(1587年)の九州平定、天正16年(1588年)の肥後国人一揆の討伐の功績で、肥後国の南半国宇土、益城、八代の三郡で20万石あまりの大名となりました。

そして天正17年(1589年)、宇土古城の東の地(現熊本県宇土市古城町)に新たに本拠地として宇土城(うと)を築城。宇戸城は行長の手で、小丘陵の城山の頂上に本丸、西に二の丸、堀と石垣三の丸を配し、それぞれを堀と石垣で囲んだ近世城郭となったそうで、鎌倉時代末期、宇土氏が築いた宇土古城とともに鶴が翼を広げているように見えたために「鶴の城」の異名も。

そして天草5人衆が宇土城普請に従わなかったために天草国人一揆が起きたが、肥後の国北半分の領主の加藤清正らとともに平定し、天草1万石あまりも行長の所領に。

2-2、行長、天草のキリシタンを保護

Amakusa Islands.jpg
Image Science and Analysis Laboratory, NASA-Johnson Space Center. "The Gateway to Astronaut Photography of Earth." - NASA Photo ID : ISS045-E-70722, パブリック・ドメイン, リンクによる

秀吉は、後の朝鮮出兵を視野に入れて、水軍統率力のある行長を肥後に封じたのですが、またこの頃の天草には、人口3万人の3分の2に当たる2万3千人がキリシタンで、60人に上る神父と30の教会が存在。

そして志岐氏の所領の志岐には、宣教師の要請で画家でもあるイタリア人修道士のジョバンニ・ニコラオが派遣されていて、ニコラオの指導のもとでの聖像学校では、油絵、水彩画、銅版画の教授、聖画、聖像からパイプオルガンや時計までが製作されていたということです。この学校は、文禄3年(1594年)に有馬半島八良尾のセミナリオと合併して規模が拡大し、行長はこれらのイエズス会の活動をバックアップ、高山右近のキリシタンの旧臣たちの多くも家臣に取り立てたそう。

2-3、行長、宇土城の他にも支城を築城

出土した麦島城小天守台跡
見学者 - 見学者が撮影, GFDL-no-disclaimers, リンクによる

宇土城は水城として優れた機能を持っていたが、行長は秀吉の意を受けて、相良氏が統治していた頃からこの地域で海外貿易の中心地だった八代(徳淵津とくぶちのつ、現熊本県八代市)にも麦島城を築城して重臣の小西行重を城代として配置。

麦島城は球磨川と八代海に面する河口の島に建てられ、堀から外水を引きいれてあったために、直接、船で出入りできたという、まさに海上交通の要所で南蛮貿易の拠点だったということです。行長はまた、隈庄城(くまのしょう)、木山城、矢部城、愛藤寺城を支城として、隈庄城に弟の小西主殿介(とのものすけ)、愛籐寺城に結城弥平次らの一族や重臣を城代に任じました。

2-4、行長、文禄、慶長の役では無茶な講和が失敗に

秀吉は天正20年(1592年)、唐入りの意思を明確に表明し、行長を遠征の一番隊の隊長に任命。行長は娘婿の対馬領主の宗氏を通じて朝鮮との交渉を担当することに。秀吉は朝鮮が服属したと思い込んでいたが、行長は朝鮮が秀吉の意向を拒否するのではと考え、また戦争回避したい思いと責任逃れもあって、わざと交渉を長引かせたあげくに朝鮮側が折れないとみて、秀吉には朝鮮は服属の意を示していたのが翻意したと言い朝鮮への出兵、戦争に。

そして最初は順調に連戦連勝していた秀吉軍でしたが、講和を目指した行長の戦いと、単純に武力をもって明へと攻め込むつもりの加藤清正ら武断派に確執が生じたのですね。結局、行長は清正と対立し、朝鮮側から有利な講和条件を引き出そうとしたが、交渉では苦戦を強いられることになったということ。

外国事情に通じていたため、日本軍の明の侵略は不可能と考えていた行長は石田三成と共に明との講和交渉を行い、明側の講和担当者の沈惟敬らと共謀、秀吉には明が降伏すると偽り、明に対しては秀吉が降伏すると偽って講和する計画を画策

しかし、秀吉の求めていた講和条件と全く違うことが露見したため、行長は秀吉の怒りを買い、切腹になるところを三成、前田利家や徳川家康らのとりなしで事なきを得たそう。そして慶長2年(1597年)の慶長の役で行長は、講和交渉失敗の埋め合わせとして、何としても武功を立てるよう言われて朝鮮へ再出兵。漆川梁海戦で朝鮮水軍を殲滅し、南原城の戦いに参加したなど奮戦、秀吉の死去で帰国することに。

\次のページで「2-5、行長、関ヶ原では西軍に加担」を解説!/

2-5、行長、関ヶ原では西軍に加担

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立花左近 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、行長は12月に帰国、肥前唐津藩主でキリシタンだった寺沢広高とともに徳川家康の取次役を勤め、家康に接近したが、慶長5年(1600年)の家康の会津征伐では、上方に残留を命じられました。そして関ヶ原の戦いでは、盟友の石田三成に呼応して西軍として参戦。

9月15日の関ヶ原本戦では、東軍の田中吉政、筒井定次らの部隊と交戦して奮戦したが、小早川秀秋らの裏切りで大谷吉継隊が壊滅し行長勢、宇喜多勢も崩れたのち、行長は伊吹山中に逃亡、9月19日に関ヶ原の庄屋林蔵主にかくまわれることに。行長は観念して自らを家康に差し出して褒美をもらうように林蔵主に薦めたが、林はよしとせずに地元領主の竹中重門家臣に事情を話して行長を護衛して草津の村越直吉の陣に連行。

行長はキリシタンであったので、自害、切腹は出来ないため、10月1日に市中引き回しの後、六条河原で石田三成、安国寺恵瓊と共に42歳で斬首の刑となり、三条大橋にさらし首にされたということです。

3-1、行長の逸話

キリシタン大名関係の色々な逸話があります。

3-2、加藤清正らとの対立

尾張出身で秀吉の親戚、家来となった時期も先だったという武断派の加藤清正や福島正則と、近江出身で秀吉の家来となったのは清正らよりも後となった文治派の石田三成、行長らの対立は、とても有名です。

そして行長と清正は肥後の国の領地の境界線をめぐっての争いもあり、また清正は熱心な日蓮宗信者で、行長がキリシタンと言うのも一因だったといわれています。天正17年(1589年)の天草五人衆の一揆では、行長はキリシタンとして事態を穏便に済ませようとしたが、清正は強引に兵を出してきたために武力征伐になったとか、清正は商人出身の行長を「薬問屋の小倅」とののしったので、行長は薬袋に朱の丸を付けた軍旗を用いて反発したとか、文禄の役の京城攻めでは一番乗りを争って、行長が一日の差で清正に勝ったとか、行長が李氏朝鮮に配下を派遣して清正軍の上陸時期を密告し、李氏朝鮮は李舜臣に攻撃を命じたものの李が罠だと疑って攻撃を躊躇して陰謀は失敗に終わったという話まであり、文禄、慶長の役を通じて、作戦や講和の方針をめぐり清正との対立は深まる一方で、関ヶ原にまでつながることに。

3-3、最期もキリスト教式を希望

行長はキリシタンとして処刑の前も浄土宗の僧侶に頭上に経文を置かれるのを拒絶、ポルトガル王妃(マルガレーテ、フランス王妃アンヌ・ドートリッシュ、フェリペ4世の母)から贈られたキリストとマリアのイコンを掲げ、三度頭上に戴いたということ。

また、カトリック教徒として臨終の秘蹟と告解を行うために同じキリシタンであった黒田長政に依頼したが、家康の命令で断られ、処刑当日も司祭が秘蹟を行おうとしたが、接近を許されず。イエズス会側の史料によれば、行長の遺体は教会に引き取られ、改めて終油の秘蹟を受けてカトリック式で埋葬されたが、場所は不明。

当時の教皇クレメンス8世は行長の死を惜しんだということで、行長没後の1607年にイタリアのジェノバで行長を主人公とするオペラが作られたということです。尚、行長は処刑されたが、親族は罪を許されたそう。

3-4、ジュリアおたあ

「おたあ」は日本名で、文禄の役の戦乱で戦死した朝鮮軍兵士の娘、捕虜となった李氏朝鮮の両班の娘ともいわれる女性で、生没年や実名は不詳だが、日本軍に平壌近郊で保護されたのちに日本へ連れてこられて行長夫妻に育てられました。

おたあと呼ばれ、小西家の家業に関係深い薬草について学び、キリシタンとしての洗礼も受けたが、関ヶ原の戦いで小西家が没落後、徳川家康に薬草の知識などを買われ、駿府城で家康付きの侍女として側近く仕えたということです。おたあは侍女の仕事を終えた後、夜には祈祷して聖書を読む日々で、同僚の侍女たちや原胤信ら家臣たちをキリスト教信仰に導いたのですね。

おたあはその後、棄教を拒否、家康の側室にというのも断って、慶長17年(1612年)、キリスト教禁教令で駿府から追放されて、伊豆諸島の八丈島(または新島)、神津島(こうづしま)への流罪に。おたあはどこへ行っても信仰生活を守り、見捨てられた弱者、病人を保護し、若い流人を励ますなど島民に献身的に尽くしたそう。その後の消息は不明だが、大坂に移住して後に長崎に移った説と神津島で亡くなった説があるということです。

商人出身で秀吉に重用された文治派の武将

小西行長は堺の豪商だった小西隆佐の次男として生まれ、宇喜多直家に仕えたのちに秀吉に気に入られて武将として出世し大名になった人物。行長は父のおかげで外国との貿易、船の流通、水軍にも通じていて、キリシタンとして宣教師などへのコネも生かして活躍、石田三成とともに文治派として豊臣政権に貢献しました。

しかし、文禄、慶長の役では外国通として先鋒となって、秀吉を欺いてまで明と講和をしようとして失敗、またもともとあった武骨な加藤清正や福島正則らの武断派で尾張コネクションの北政所寧々派に対して、近江派、淀殿派というべき派閥争いの対立も激化して、結果的に関ヶ原の合戦につながり、敗戦で終了。

キリシタン大名としては信仰に生きた感のある高山右近と比べると、キリシタンとしてのコネを利用していた感のある行長ですが、処刑後は宣教師らがキリシタンとして埋葬し、ローマ教皇が死を惜しみ後にオペラが作られたなど、キリスト教徒として本望だったかも。

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室町時代戦国時代日本史歴史

商人出身で文治派のキリシタン大名「小西行長」をわかりやすく歴女が解説

今回は小西行長を取り上げるぞ。秀吉の家来だったが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国、安土桃山時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国、安土桃山時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、小西行長について5分でわかるようにまとめた。

1-1、小西行長は京都の生まれ

小西行長(こにしゆきなが)は、永禄元年(1558年)に京都で誕生。父は和泉国堺の商人小西隆佐で、母はワクサ(マグダレーナ)。行長は次男で、兄弟は兄、弟が3人と妹が1人など。通称は弥九郎、号は如信、洗礼名はアウグスティヌス(アゴスチノ)。

1-2、行長、10代で侍に抜擢される

行長は最初、備前国福岡(現岡山県備前市)の豪商阿部善定の手代の源六で後に改名して岡山下之町で呉服商を営んだ魚屋九郎右衛門の養子となり、商売のため領主の宇喜多直家(秀家の父)を訪れていたが、直家が才能が見出して家臣に抜擢

そして信長の武将だった羽柴秀吉が播磨平定で三木城攻めの最中に、行長は直家の使いとして秀吉のもとへ行き、気に入られてそのまま秀吉に仕えるようになった、または直家の息子秀家が秀吉のもとに人質として送られたときの付き添いとして赴き、秀吉に気に入られたという説も。

小西家とそのコネクション
行長の父の小西隆佐は、堺の豪商で天正13年(1585年)から秀吉に仕え、母ワクサは、北政所寧々に仕えたといわれています。
父隆佐もキリシタンで、当時は外国との貿易も盛んな国際都市だった大坂、堺で、九州と堺の海上輸送を一手に握るほどのキリシタンで豪商の日比屋了珪(ひびやりょうけい)と何重もの姻戚関係で結びつきがあったそうなので、秀吉は行長のこういったコネも利用したのでは。

1-3、行長、秀吉近臣として舟奉行に

行長は、天正13年(1585年)、28歳で摂津守に任ぜられて豊臣姓を許可されたそう。同年の紀州征伐では、水軍を率いて参戦したが、雑賀衆の抵抗を受けて敗退したが、太田城の水攻めでは、安宅船や大砲も動員して攻撃し、開城のきっかけを作り、宣教師のルイス・フロイスに「水軍司令長官」と評されたということで、秀吉が天下を取ったのちの豊臣政権内では舟奉行に任命され、水軍を率いることに。

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