今回は福島正則を取り上げるぞ。秀吉の親戚の武将だって、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国、安土桃山時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、福島正則について5分でわかるようにまとめた。

1-1、福島正則は尾張の国の生まれ

Hukushima Masanori.JPG
Bariston - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

福島正則(ふくしままさのり)は、永禄4年(1561年)頃、尾張国海東郡(現愛知県あま市)で誕生。

父は桶屋だった福島正信(正光)、母、豊臣秀吉の叔母(秀吉の母大政所の姉妹)の長男、姉と弟がふたり。星野成政の子で福島正信の養子説もあるそう。幼名は市松、諱は正則。

1-2、秀吉に仕えて賤ヶ岳の7本槍で名を挙げる

image by PIXTA / 63774094

織田信長の武将としてなりあがった秀吉は親代々の家来がいないので、数少ない親族の母と姉と異母弟妹、そして正室の北政所寧々とその親族を頼りにしていました。なので母の妹の息子である従弟の正則、母の従兄の息子の加藤清正らは心を許せる貴重な血縁兼家臣だったはず。正則のほうも、親戚一番の出世頭である24歳年上の従兄の秀吉に頼る気持ちは大きかったでしょう。

というわけで、正則は幼少のころから長浜城主となった秀吉に小姓として仕えるようになり、初陣は天正6年(1578年)の播磨三木城攻め、最初に禄高200石をもらって姫路城主となった秀吉に付いて中国征伐へ、もちろんそのあとの秀吉の中国大返しも経験し、そして山崎の戦いでは、勝龍寺城攻撃での軍功で300石加増されて500石に。そして天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いのときは一番槍、一番首として敵将拝郷家嘉(はいごう)を討ち取るという大功で他の6人は3000石のところ、特に5000石を与えられ、武将としての出世街道まっしぐら。

2-1、正則、26歳で大名に

天正12年(1584年)、小牧、長久手の戦いでは、父正信とともに後備えとして兵300を率いて従軍、本陣から美濃に撤退する際に敵と戦い、秀吉に胴肩衣(襦袢)の褒美をもらったということです。その後秀吉の根来寺攻め、四国征伐に従い、天正15年(1587年)の九州平定の後、伊予国今治11万3千余石をゲットして大名に。

小田原征伐では、織田信雄の軍に所属して、蜂須賀家政、細川忠興、蒲生氏郷らの武将とともに韮山城を攻撃、包囲するなどで貢献したそう。

2-2、正則、朝鮮出兵にも従軍

文禄元年(1592年)からの文禄の役では朝鮮半島に出兵し、五番隊の主将として戸田勝隆、長宗我部元親、蜂須賀家政、生駒親正、来島通総などを率いて京畿道の攻略を行い、年末には京畿道竹山の守備を受け持ちました。

そして正則は一度日本に帰国した後に、文禄3年(1594年)1月、再び朝鮮半島へ。その後、講和交渉が進展したので、正則は巨済島の松真浦城、場門浦城を守備したり、兵糧の補給という兵站活動の担当になったが、10月に李舜臣が朝鮮水軍を率いた場門浦海戦では、正則は軍船に乗って指揮を執って敵船を焼き討ちするなどで撃退。

2-3、正則、秀次切腹事件で命令を伝達

文禄4年(1595年)7月、一旦は秀吉の後継者として関白にまで引き上げられた秀吉の甥秀次(秀吉の姉の子で正則には従姉の息子)が、秀頼の誕生後に邪魔にされて失脚させられた秀次事件が勃発しましたが、このときに正則は日本にいて秀次に切腹の命令を伝えたと言われています(秀次が自主的に切腹の説もあり)。

その後、正則は秀次の所領から尾張国清洲24万石を与えられたということで、慶長3(1598年)に、羽柴姓、豊臣姓も与えられ、侍従任官もされました。

また、秀吉は慶長4年(1599年)、朝鮮半島に再び大軍勢を派遣して大規模な軍事行動をする予定で、正則は石田三成と増田長盛とともに大将として抜擢されていたのですが、慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去したために計画倒れとなり日本軍は朝鮮半島から撤兵したのですね。

2-4、正則、石田三成襲撃事件に関与

慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去すると、葬儀では従兄弟である正則と青木一矩が秀頼の名代に。その後、正則は秀吉の身内、武断派の武将として、朝鮮出兵を契機に近江出身で文治派の石田三成、小西行長らと一気に険悪になったのですが、秀吉死去直後は前田利家がそういう動きを押さえ込んでいました。

それが慶長4年(1599年)の前田利家の死後、正則は幼馴染でもある武断派の加藤清正らと7人と共に三成襲撃を計画。しかし五大老の筆頭でもある徳川家康に慰留されて襲撃を翻意。

そういう経緯もあって家康に接近し、姉の子で正則の養子になっていた正之と家康の養女満天姫(家康の異父弟松平康元の娘)との縁組を行ったのですね。これは諸大名の私婚を禁じた秀吉の遺命に反するものでしたが、家康が秀吉恩顧の大名のナンバーワンとして影響力のある正則と手を組みたがっていたということでしょう。

2-5、正則、小山評定で真っ先に発言

正則は慶長5年(1600年)、家康の会津征伐に6000人の軍勢を率いて従軍。そしてその途中で上方で三成が挙兵した報を受けて行われた小山評定では、正則は家康の意を受けた黒田長政に懐柔されていたせいで、真っ先に進み出て家康の味方につくことを誓約したのですね。

これで三成挙兵に動揺していた諸大名は一斉に家康の味方に付き、会津征伐のための軍勢は反転して西上する方針が決定したということで、正則は、奥方から届いた三成の書状を家康に見せ、掛川城を提供すると申し出た山内一豊と並んで、家康にとっては諸大名の動向を一挙に自分に傾けさせた功労者に。

2-6、正則、関ヶ原合戦で活躍

image by PIXTA / 1297782

正則は清洲から美濃方面に進軍し、西軍の織田秀信が守る岐阜城攻めでは元の岐阜城主の池田輝政と先鋒を争い、黒田長政らと共同で城を陥落させたが、このときに激しい先陣争いをした輝政が正則にあっさりと手柄を譲ったという話は有名です。

関ヶ原の戦い本戦での正則は、宇喜多秀家勢1万7000と戦闘を行い、宇喜多勢の前衛8000を率いた明石全登の奮戦もあり一時退却したものの結果的に宇喜多勢の進撃を防いだということで、その後は小早川秀秋の背信を機に西軍はあっさり崩壊、宇喜多勢も東軍の集中攻撃に持ちこたえられず壊滅。

そして関ヶ原戦後の後始末として正則は、西軍総大将で関ヶ原には参戦しなかった毛利輝元のいた大坂城接収に奔走し、これらの功績で家康から安芸広島と備後鞆の合計49万8000石をゲットしました。

2-7、正則、広島藩49万石の大大名に

image by PIXTA / 47866276

正則は慶長6年(1601年)3月に広島に入封、すぐに領内を巡検して検地、石高の再算出を行い、家臣への知行も事実上の給米制としたということです。

この検地の結果を農民に公開した上で、実収に伴った年貢を徴収し、農民の年貢の負担を軽くするという善政を行い、慶長6年(1601年)の検地で知行高49万8,000石だったのを元和5年(1619年)に51万5000石まで増加、領内の寺社の保護にも熱心に取り組み、慶長7年(1602年)、領内の厳島神社の平家納経を修復などの文化的貢献もしたそう。

正則は広島城の修復にも力を入れて、石垣作りに定評のある穴太衆(あのうしゅう)を雇入れ、毛利氏が築城したときに不十分だった城の整備と城下町づくりまで本格的に行い、城の外郭を整備、内堀、中堀、外堀のある約1キロ四方の広大な城に作り上げた上に、西国街道を城下の南側を通るように付け替え、雲石街道を整備、町人町を拡大しました。広島城は三角州に築かれ水害に悩まされていたため、新たに堤防を設置し、毛利家への対策などから領国には6ヶ所の支城を設け、慶長8年(1603年)には、安芸最西端の地に巨大な亀居城の築城を開始しましたが、これは広島から長州へ追いやられた毛利領の最東端にある岩国城に対してのもので、山陽道の交通を遮断する能力もあったそう(一国一城令で3年後に破却)。

正則は、慶長9年(1604年)からは、江戸幕府による江戸城や名古屋城修築の動員、いわゆる天下普請に参加しましたが、広島城や亀居城が大規模すぎたために徳川家康が怒って、慶長14年(1609年)正則は一時的に謹慎をくらったということです。

2-8、正則、大坂の陣には参加せず

慶長13年(1608年)に豊臣秀頼が疱瘡を患ったとき、正則は見舞に大坂城へ駆けつけ、慶長16年(1611年)3月、家康が19歳の秀頼に対し二条城での会見を迫った時には、ヒステリー気味に強硬に反対した淀殿を、加藤清正や浅野幸長とともに説得して、秀頼の上洛を実現。なお正則自身は病と称して会見に同席せず、枚方から京の街道筋を1万の軍勢で固めて変事に備えました。

この会見直後に、清正、浅野長政、幸長父子、池田輝政らの豊臣恩顧大名が相次いで急死したのですが、正則自身も慶長17年(1612年)に病を理由に隠居を願い出たが許されず

そして大坂の陣が勃発後、大坂の秀頼方に加勢を求められたが拒絶、ただし大坂の蔵屋敷の蔵米8万石の接収を黙認、一族の福島正守、正鎮が大阪方に加わったそう。正則は幕府には従軍が許可されず、冬の陣、夏の陣ともに江戸留守居役となり、嫡男の忠勝が兵を率いて幕府軍に参加。しかし大坂の陣の後、正則の弟の高晴が豊臣方に内通、大坂城へ兵糧を運び入れたとして改易に。

2-9、正則、家康の死後、改易に

正則は家康の死後まもなく、元和5年(1619年)に台風で水害の被害を受けた広島城の本丸、二の丸、三の丸と石垣等を無断修復したとして、武家諸法度違反と言われる事態に。正則は修復作業を行う2ヶ月前から幕府に届けを出していたが、正式な許可をもらっていなかったのですね。これはそれ以前の一国一城令発布後、正則が新規に築城を行ったと毛利家から報告を受けた幕府が新規築城した城の破却を命じたこともあって、おおごとにされたよう。

正則は江戸へ参勤中、雨漏りする一部分を修繕しただけと謝罪、修繕した部分を破却することで一旦は沙汰止みとなったが、本丸以外の修築分を破却に対して、本丸の修築分のみ破却して、他の二の丸、三の丸の修築分はそのままにしたため、幕府側は破却が不十分とインネンをつけたわけです。また、人質として江戸に送るはずの息子忠勝の出発が遅れたことや、それに対しての弁明拒否などもあって将軍秀忠の怒りを買ってしまい、安芸、備後50万石は没収、代わりに信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5000石(高井野藩)に減封のうえ転封されることに。移封後、正則は嫡男忠勝に家督を譲り、隠居、出家して高斎と号しました。

2-10、晩年の正則

元和6年(1620年)に2代目の息子忠勝が早世したので、正則は2万5000石を幕府に返上し、寛永元年(1624年)、高井野(長野県高山村)で64歳で死去。正則は高井野での5年間で、領内の総検地、用水の設置と新田開発、治水工事などの功績を残したということです。

尚、正則の死去が夏場だったので、すぐに家臣津田四郎兵衛が正則の遺体を火葬したが、幕府の検死役の堀田正吉が到着する前だったことで咎められて、残りの2万石も没収されて福島家は取り潰しとなり、正則の子正利に旧領の3112石を与えてかろうじて旗本として存続。正利が嗣子なく没して断絶したが、忠勝の孫正勝が再興して、代々御書院番などを務めて明治維新まで存続したそう。

3-1、正則の逸話

Masanori Fukushima.JPG
不明 - 福島正則画像。東京国立博物館所蔵品。A portrait of Masanori Fukushima. A holding of the Tokyo National Museum., パブリック・ドメイン, リンクによる

正則は武断派で乱暴者と言うイメージが濃厚ですが、色々な逸話をご紹介しますね。

3-2、出生地では英雄

正則は、出生地の現在の愛知県あま市では英雄視されており、明治22年(1889年)には正則村が発足、正則村は合併で消滅したが、正則保育園、正則小学校が現存、大江川に架かる橋は「正則橋」と命名。

\次のページで「3-3、子供の頃は乱暴者で、長じては酒乱」を解説!/

3-3、子供の頃は乱暴者で、長じては酒乱

正則は、武勇に長けるが智謀に乏しい猪武者で、智謀に優れた人たらしで有名な秀吉の従弟とは思えない単細胞の体育会系だったよう。

乱暴者としての逸話に事欠かず、子供の頃、父の桶屋を継ぐために修行していたが、大人と喧嘩をして鑿(のみ)で相手を殺害したのに始まって、50万石の大名として安芸広島に入国する際、船に地嵐と呼ばれる風が吹いたため、「国入りの初めに地が荒れてよきものか」と言い、何の罪もない水主(水夫)を斬り捨てた話まで残っています。

そして大酒飲みのうえに酒癖が悪かった正則は泥酔して家臣に切腹を命じたが、翌朝、素面になってから間違いに気付いても取り返しがつかず、家臣の首に泣いて詫びたという逸話とか、大人になって丸くなるどころではなくエスカレートするばかりだったよう。

3-4、黒田節のネタになる

正則は酒席で、黒田長政の使者の家臣母里友信に酒を大杯で勧めて断られ、さらにしつこく勧めたうえに、「飲み干せたならば好きな褒美をとらす」とさらに勧めた話があり、じつは母里友信は家中でも有名な酒豪で、使者の役目があるために断っていたのですが、正則はついには「黒田武士は酒に弱く、酔えば何の役にも立たない」と罵倒したために、家名を貶められた母里友信が本気を出してしまい、酒を見事に一気に飲み干し、褒美に正則が秀吉から拝領した家宝の名槍「日本号」を所望。正則は、武士に二言はないということで、不覚にも家宝の槍を呑み取られたという話は、黒田節となって伝えられることになったのは有名です。

しかし、酒の話では正則が大阪から江戸へ取り寄せた酒を積んだ船が暴風で八丈島へ避難したとき、八丈島の流人の宇喜多秀家が酒を所望したのですが、正則家臣が独断で1樽を進呈、秀家は感謝して正則に一首をしたためて言伝を託したところ、正則はその家臣に酒船一艘失っても大したことはないが、秀家公によく酒一樽を贈ってくれた、もし惜しんでいれば自分はなんてケチなんだと汚名を残したはずと、独断で樽を進呈したことを称賛したということで、意外に太っ腹をみせた逸話も。

3-5、後先考えなしの言動が多かった

正則は、関ヶ原の戦いで第一の武功と言われたが、関ヶ原では豊臣恩顧の大名として家康に必要以上に従順になるべきところを、考えなしの言動が多くあったということで、岐阜城を攻略後に城主で信長の孫の織田秀信の助命を嘆願をしたときに、正則の家臣が徳川家の足軽に侮辱されて自害したので、正則は怒ってその足軽の上司の旗本の伊奈昭綱の切腹を要求、「聞き容れられなければ城地を立ち去る」と脅したりしたために、徳川方に資性強暴と強く記憶されたということ。

また、名古屋城の天下普請のときも、「江戸城や駿府城ならまだいいが、家康の妾の子の城つくりまでこき使われたのでは堪らない」と愚痴り、同僚の池田輝政に「家康の婿殿ならば、我々の為にこの事を直訴してくれ」と迫ったが、輝政沈黙、加藤清正が怒りつつ「そんなに嫌なら国元に帰って戦の支度をしろ。それが無理なら黙ってさっさと仕事をしろ」と言ったのは有名。

そして家康が死の床に就いたとき、正則は駿府を訪れて見舞ったが、家康は「一度安芸に帰って、将軍家(徳川秀忠)に不服があれば、遠慮せず兵を挙げよ」と冷たく言ったので、正則は退出後に、「今日まで家康公に一生懸命尽くしたのに、あんなこと言われちゃったなんて情けない」と人目もはばからず号泣。それを聞いた家康は安心した(むしろその言葉を引き出すために冷たくあしらった)という話も。

3-6、養子を廃嫡

正則は嫡男正友(正長)が夭折したので、姉の息子である別所重宗の7男正之を跡継ぎにし、正之は慶長4年(1599年)に徳川家康の養女満天姫(実父は松平康元)と結婚、翌年の関ヶ原の戦いに出陣して軍功を挙げ、満天姫との間に息子も生まれたのですが、慶長12年(1607年)に、正則は正之が乱行を行なうなどして狂疾となったと江戸幕府に訴えて幽閉処分に

これは正則に実子忠勝が生まれたため正之を廃嫡して跡を継がせたかったという説もあり、正之は慶長13年(1608年)3月(5月)に幽閉のまま24歳で餓死、満天姫は息子を連れて実家へ戻り、後に津軽信枚に再嫁、正之の子は後に津軽氏家臣の大道寺直英の婿養子となったということ。真偽のほどはわからないが、正之に問題があってもその息子は家康の義理の孫だし跡継ぎにして、せっかくの家康の縁戚という立場を放り出さなければ改易は免れたかも。

3-7、豊臣家一門として別格扱いだった

秀吉の時代、豊臣譜代の諸将は「諸大夫成」(従五位下叙位)として扱われていたが、正則と青木一矩(秀吉の従弟で重吉、木村重成の母宮内卿の局の父)だけは「公家成」(侍従任官)で、北政所寧々の妹婿の浅野長政、秀吉の母の従妹の息子の加藤清正らよりも格上だったということで、正則と青木一矩が秀吉の母方の縁者のために、豊臣氏の准一門として他の譜代家臣とは別格扱いされていたということです。

秀吉の従弟で子飼いの武将

福島正則は織田信長の武将として成りあがる秀吉の側で従弟、小姓として仕えて色々学び、成長した武将。加藤清正と並んで太閤秀吉恩顧の武断派として豪胆で酒乱の武将のイメージが売りで、近江出身の文治派の石田三成らと対立、そして秀吉の死後には北政所派として関ヶ原では家康に付いて活躍、その功績で広島50万石の大名となりました。

正則は秀吉の豊臣家一門で他の大名よりも別格扱いだったのですが、三成憎しという一本気の武骨さを家康に利用され、関ヶ原、大坂の陣はなんとか乗り切ったが、慎重に対処すべきところを要領悪く幕府に付け込まれて改易となるなんて、あの人たらしで気配り万全で、気難しい信長に気に入られた秀吉の従弟とは思えない脇の甘さですよね。

その後は歴史から消えて、長野でほぼ幽囚のような静かな生活を5年ほど送って死去、子孫は旗本としてかろうじて存続したということです。

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室町時代戦国時代日本史歴史

秀吉子飼いの熱血武将「福島正則」の生涯をわかりやすく歴女が解説

今回は福島正則を取り上げるぞ。秀吉の親戚の武将だって、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国、安土桃山時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、福島正則について5分でわかるようにまとめた。

1-1、福島正則は尾張の国の生まれ

Hukushima Masanori.JPG
Bariston投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

福島正則(ふくしままさのり)は、永禄4年(1561年)頃、尾張国海東郡(現愛知県あま市)で誕生。

父は桶屋だった福島正信(正光)、母、豊臣秀吉の叔母(秀吉の母大政所の姉妹)の長男、姉と弟がふたり。星野成政の子で福島正信の養子説もあるそう。幼名は市松、諱は正則。

1-2、秀吉に仕えて賤ヶ岳の7本槍で名を挙げる

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織田信長の武将としてなりあがった秀吉は親代々の家来がいないので、数少ない親族の母と姉と異母弟妹、そして正室の北政所寧々とその親族を頼りにしていました。なので母の妹の息子である従弟の正則、母の従兄の息子の加藤清正らは心を許せる貴重な血縁兼家臣だったはず。正則のほうも、親戚一番の出世頭である24歳年上の従兄の秀吉に頼る気持ちは大きかったでしょう。

というわけで、正則は幼少のころから長浜城主となった秀吉に小姓として仕えるようになり、初陣は天正6年(1578年)の播磨三木城攻め、最初に禄高200石をもらって姫路城主となった秀吉に付いて中国征伐へ、もちろんそのあとの秀吉の中国大返しも経験し、そして山崎の戦いでは、勝龍寺城攻撃での軍功で300石加増されて500石に。そして天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いのときは一番槍、一番首として敵将拝郷家嘉(はいごう)を討ち取るという大功で他の6人は3000石のところ、特に5000石を与えられ、武将としての出世街道まっしぐら。

2-1、正則、26歳で大名に

天正12年(1584年)、小牧、長久手の戦いでは、父正信とともに後備えとして兵300を率いて従軍、本陣から美濃に撤退する際に敵と戦い、秀吉に胴肩衣(襦袢)の褒美をもらったということです。その後秀吉の根来寺攻め、四国征伐に従い、天正15年(1587年)の九州平定の後、伊予国今治11万3千余石をゲットして大名に。

小田原征伐では、織田信雄の軍に所属して、蜂須賀家政、細川忠興、蒲生氏郷らの武将とともに韮山城を攻撃、包囲するなどで貢献したそう。

2-2、正則、朝鮮出兵にも従軍

文禄元年(1592年)からの文禄の役では朝鮮半島に出兵し、五番隊の主将として戸田勝隆、長宗我部元親、蜂須賀家政、生駒親正、来島通総などを率いて京畿道の攻略を行い、年末には京畿道竹山の守備を受け持ちました。

そして正則は一度日本に帰国した後に、文禄3年(1594年)1月、再び朝鮮半島へ。その後、講和交渉が進展したので、正則は巨済島の松真浦城、場門浦城を守備したり、兵糧の補給という兵站活動の担当になったが、10月に李舜臣が朝鮮水軍を率いた場門浦海戦では、正則は軍船に乗って指揮を執って敵船を焼き討ちするなどで撃退。

2-3、正則、秀次切腹事件で命令を伝達

文禄4年(1595年)7月、一旦は秀吉の後継者として関白にまで引き上げられた秀吉の甥秀次(秀吉の姉の子で正則には従姉の息子)が、秀頼の誕生後に邪魔にされて失脚させられた秀次事件が勃発しましたが、このときに正則は日本にいて秀次に切腹の命令を伝えたと言われています(秀次が自主的に切腹の説もあり)。

その後、正則は秀次の所領から尾張国清洲24万石を与えられたということで、慶長3(1598年)に、羽柴姓、豊臣姓も与えられ、侍従任官もされました。

また、秀吉は慶長4年(1599年)、朝鮮半島に再び大軍勢を派遣して大規模な軍事行動をする予定で、正則は石田三成と増田長盛とともに大将として抜擢されていたのですが、慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去したために計画倒れとなり日本軍は朝鮮半島から撤兵したのですね。

2-4、正則、石田三成襲撃事件に関与

慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去すると、葬儀では従兄弟である正則と青木一矩が秀頼の名代に。その後、正則は秀吉の身内、武断派の武将として、朝鮮出兵を契機に近江出身で文治派の石田三成、小西行長らと一気に険悪になったのですが、秀吉死去直後は前田利家がそういう動きを押さえ込んでいました。

それが慶長4年(1599年)の前田利家の死後、正則は幼馴染でもある武断派の加藤清正らと7人と共に三成襲撃を計画。しかし五大老の筆頭でもある徳川家康に慰留されて襲撃を翻意。

そういう経緯もあって家康に接近し、姉の子で正則の養子になっていた正之と家康の養女満天姫(家康の異父弟松平康元の娘)との縁組を行ったのですね。これは諸大名の私婚を禁じた秀吉の遺命に反するものでしたが、家康が秀吉恩顧の大名のナンバーワンとして影響力のある正則と手を組みたがっていたということでしょう。

2-5、正則、小山評定で真っ先に発言

正則は慶長5年(1600年)、家康の会津征伐に6000人の軍勢を率いて従軍。そしてその途中で上方で三成が挙兵した報を受けて行われた小山評定では、正則は家康の意を受けた黒田長政に懐柔されていたせいで、真っ先に進み出て家康の味方につくことを誓約したのですね。

これで三成挙兵に動揺していた諸大名は一斉に家康の味方に付き、会津征伐のための軍勢は反転して西上する方針が決定したということで、正則は、奥方から届いた三成の書状を家康に見せ、掛川城を提供すると申し出た山内一豊と並んで、家康にとっては諸大名の動向を一挙に自分に傾けさせた功労者に。

2-6、正則、関ヶ原合戦で活躍

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正則は清洲から美濃方面に進軍し、西軍の織田秀信が守る岐阜城攻めでは元の岐阜城主の池田輝政と先鋒を争い、黒田長政らと共同で城を陥落させたが、このときに激しい先陣争いをした輝政が正則にあっさりと手柄を譲ったという話は有名です。

関ヶ原の戦い本戦での正則は、宇喜多秀家勢1万7000と戦闘を行い、宇喜多勢の前衛8000を率いた明石全登の奮戦もあり一時退却したものの結果的に宇喜多勢の進撃を防いだということで、その後は小早川秀秋の背信を機に西軍はあっさり崩壊、宇喜多勢も東軍の集中攻撃に持ちこたえられず壊滅。

そして関ヶ原戦後の後始末として正則は、西軍総大将で関ヶ原には参戦しなかった毛利輝元のいた大坂城接収に奔走し、これらの功績で家康から安芸広島と備後鞆の合計49万8000石をゲットしました。

2-7、正則、広島藩49万石の大大名に

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正則は慶長6年(1601年)3月に広島に入封、すぐに領内を巡検して検地、石高の再算出を行い、家臣への知行も事実上の給米制としたということです。

この検地の結果を農民に公開した上で、実収に伴った年貢を徴収し、農民の年貢の負担を軽くするという善政を行い、慶長6年(1601年)の検地で知行高49万8,000石だったのを元和5年(1619年)に51万5000石まで増加、領内の寺社の保護にも熱心に取り組み、慶長7年(1602年)、領内の厳島神社の平家納経を修復などの文化的貢献もしたそう。

正則は広島城の修復にも力を入れて、石垣作りに定評のある穴太衆(あのうしゅう)を雇入れ、毛利氏が築城したときに不十分だった城の整備と城下町づくりまで本格的に行い、城の外郭を整備、内堀、中堀、外堀のある約1キロ四方の広大な城に作り上げた上に、西国街道を城下の南側を通るように付け替え、雲石街道を整備、町人町を拡大しました。広島城は三角州に築かれ水害に悩まされていたため、新たに堤防を設置し、毛利家への対策などから領国には6ヶ所の支城を設け、慶長8年(1603年)には、安芸最西端の地に巨大な亀居城の築城を開始しましたが、これは広島から長州へ追いやられた毛利領の最東端にある岩国城に対してのもので、山陽道の交通を遮断する能力もあったそう(一国一城令で3年後に破却)。

正則は、慶長9年(1604年)からは、江戸幕府による江戸城や名古屋城修築の動員、いわゆる天下普請に参加しましたが、広島城や亀居城が大規模すぎたために徳川家康が怒って、慶長14年(1609年)正則は一時的に謹慎をくらったということです。

2-8、正則、大坂の陣には参加せず

慶長13年(1608年)に豊臣秀頼が疱瘡を患ったとき、正則は見舞に大坂城へ駆けつけ、慶長16年(1611年)3月、家康が19歳の秀頼に対し二条城での会見を迫った時には、ヒステリー気味に強硬に反対した淀殿を、加藤清正や浅野幸長とともに説得して、秀頼の上洛を実現。なお正則自身は病と称して会見に同席せず、枚方から京の街道筋を1万の軍勢で固めて変事に備えました。

この会見直後に、清正、浅野長政、幸長父子、池田輝政らの豊臣恩顧大名が相次いで急死したのですが、正則自身も慶長17年(1612年)に病を理由に隠居を願い出たが許されず

そして大坂の陣が勃発後、大坂の秀頼方に加勢を求められたが拒絶、ただし大坂の蔵屋敷の蔵米8万石の接収を黙認、一族の福島正守、正鎮が大阪方に加わったそう。正則は幕府には従軍が許可されず、冬の陣、夏の陣ともに江戸留守居役となり、嫡男の忠勝が兵を率いて幕府軍に参加。しかし大坂の陣の後、正則の弟の高晴が豊臣方に内通、大坂城へ兵糧を運び入れたとして改易に。

2-9、正則、家康の死後、改易に

正則は家康の死後まもなく、元和5年(1619年)に台風で水害の被害を受けた広島城の本丸、二の丸、三の丸と石垣等を無断修復したとして、武家諸法度違反と言われる事態に。正則は修復作業を行う2ヶ月前から幕府に届けを出していたが、正式な許可をもらっていなかったのですね。これはそれ以前の一国一城令発布後、正則が新規に築城を行ったと毛利家から報告を受けた幕府が新規築城した城の破却を命じたこともあって、おおごとにされたよう。

正則は江戸へ参勤中、雨漏りする一部分を修繕しただけと謝罪、修繕した部分を破却することで一旦は沙汰止みとなったが、本丸以外の修築分を破却に対して、本丸の修築分のみ破却して、他の二の丸、三の丸の修築分はそのままにしたため、幕府側は破却が不十分とインネンをつけたわけです。また、人質として江戸に送るはずの息子忠勝の出発が遅れたことや、それに対しての弁明拒否などもあって将軍秀忠の怒りを買ってしまい、安芸、備後50万石は没収、代わりに信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5000石(高井野藩)に減封のうえ転封されることに。移封後、正則は嫡男忠勝に家督を譲り、隠居、出家して高斎と号しました。

2-10、晩年の正則

元和6年(1620年)に2代目の息子忠勝が早世したので、正則は2万5000石を幕府に返上し、寛永元年(1624年)、高井野(長野県高山村)で64歳で死去。正則は高井野での5年間で、領内の総検地、用水の設置と新田開発、治水工事などの功績を残したということです。

尚、正則の死去が夏場だったので、すぐに家臣津田四郎兵衛が正則の遺体を火葬したが、幕府の検死役の堀田正吉が到着する前だったことで咎められて、残りの2万石も没収されて福島家は取り潰しとなり、正則の子正利に旧領の3112石を与えてかろうじて旗本として存続。正利が嗣子なく没して断絶したが、忠勝の孫正勝が再興して、代々御書院番などを務めて明治維新まで存続したそう。

3-1、正則の逸話

Masanori Fukushima.JPG
不明 – 福島正則画像。東京国立博物館所蔵品。A portrait of Masanori Fukushima. A holding of the Tokyo National Museum., パブリック・ドメイン, リンクによる

正則は武断派で乱暴者と言うイメージが濃厚ですが、色々な逸話をご紹介しますね。

3-2、出生地では英雄

正則は、出生地の現在の愛知県あま市では英雄視されており、明治22年(1889年)には正則村が発足、正則村は合併で消滅したが、正則保育園、正則小学校が現存、大江川に架かる橋は「正則橋」と命名。

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