今回は生物学者シュライデンについて学習しよう。

シュライデンの名前は高校の生物基礎で学ぶはずです。シュワンとともに細胞説の提唱者として紹介されるが、どんな人生を送ったのでしょうか?彼の功績や生涯をさくっと解説してもらおう。

大学で生物学を学び、現在は講師としても活動しているオノヅカユウを招いたぞ。

ライター/小野塚ユウ

生物学を中心に幅広く講義をする理系現役講師。大学時代の長い研究生活で得た知識をもとに日々奮闘中。「楽しくわかりやすい科学の授業」が目標。

シュライデンとは

マティアス・ヤーコプ・シュライデン(Matthias Jakob Schleiden)は、19世紀に活躍した生物学者です。

植物学を専門とし、「植物が細胞からできている」という植物の細胞説を唱えたことで知られています。動物について細胞説を唱えたテオドール・シュワンとは、同じ時期に同じ大学にいた知り合いという間柄です。

生涯

シュライデンは1804年、当時神聖ローマ帝国内の都市だったハンブルクで生まれました。父親は有名な医師だったといいます。ハイデルベルク大学に入学したシュライデンでしたが、初めは自然科学ではなく法律を学んでいました。

学位を取得して大学を卒業すると、彼は地元にもどり弁護士として活動を始めます。ところが、仕事がうまくいかずに精神を病み、一度は自殺未遂をするまで追い詰められてしまいました。1832年、シュライデンはまだ二十代のころのことです。

Matthias Jacob Schleiden.jpg
Carl Wilhelm Traugott Schenk - „Studien: Populäre Vorträge“ von Matthias Jacob Schleiden, Professor an der Universität Jena, Leipzig: Engelmann, 1855, パブリック・ドメイン, リンクによる

なんとか一命を取り留めたシュライデンは、思い切って職業を変えることを決めます。法律の世界から大きく離れた自然科学に興味があることに気づき、ゲッティンゲン大学へ入学。ここで医学を学び、課程を終えた後は植物学へ路線を変更して、ベルリン・フンボルト大学(以下ベルリン大学)で研究をつづけました。

ベルリン大学に在籍していた時期にシュワンと出会い、彼との意見交換を経て植物についての細胞説を提唱するようになります。

1839年、細胞説を主張する論文を出した翌年に、シュライデンはイェーナ大学へ招かれ助教授として務めるようになりました。1850年からは教授となり、1862年まで同大学で講義を受けもちます。

\次のページで「シュライデンの功績「細胞説」」を解説!/

1863年にはドルパート大学(現在のエストニアにあるタルトゥ大学)に招かれ、2年間にわたって教鞭をとります。その後はドイツに戻り、研究者としていくつかの街を転々としました。

1881年、フランクフルトで人生を終えます。77歳でした。

image by Study-Z編集部

シュライデンの功績「細胞説」

シュライデンの残した功績でもっともよく知られているのは、植物についての細胞説を提唱したことでしょう。ここでは、「細胞説とは何なのか」だけでなく、「どんな時代背景があったのか」もあわせてご紹介したいと思います。

細胞説の歴史

細胞説とは、「生物の構造・機能の最小単位は細胞である」、もう少し簡単に言うならば「生物は細胞でできている」という考え方のことです。現代の私たちにとっては常識ともなっている事実ですが、シュライデンが細胞説を発表した1838年時点では、まだ広く受け入れられていない知識でした。

image by iStockphoto

そもそも、”細胞(cell)”というものが多くの人に認識されるようになったのは、1655年にロバート・フックがコルクの薄片を観察し、細胞という名前を付けてから。その数十年後にはレーウェンフックによる原生生物や細菌の発見などもありましたが、小さなものから大きなものまで、すべての生物の全身が細胞だ、というところまではたどり着いていませんでした。

18世紀にはいると、ヨーロッパでは博物学の黄金時代がやってきます。大航海時代に流入した異国の動植物や鉱物の分類や研究が進められるなど、自然科学がとても盛り上がった時期でした。

19世紀になると科学者たちの目線は再びミクロの世界へ向いていきます。世界中に存在する多種多様な動植物を知った今、次に考えるべきはそれら多様な生物たちに“共通する原理”です。

大きなものを分解していけば、小さなものに行き着く…姿かたちの異なる生物というものをばらばらにしていくと、どんな共通点がみえてくるのでしょうか?

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技術的な面でも進歩がありました。17世紀にフックやレーウェンフックが使っていたものよりも高精度な顕微鏡が次々と生み出されていたのです。また、組織を染めて観察しやすくする染色法の開発もすすみます。

このような時代になって、シュライデンやシュワンのような細胞説を唱える人物が出てきたのは必然ともいえるでしょう。

シュライデンの細胞説

シュライデンはたくさんの植物の組織を観察し、いずれも細胞が集まってできているということを確信しました。暑いところの植物も、寒いところの植物も、すべては細胞という基本単位の集まりである…どんな植物も細胞の集まりである、というのがシュライデンの唱えた植物においての細胞説です。

彼は植物を専門に勉強していたので、動物についても同じことがいえる、という動物の細胞説を唱えるのはシュワンの役割になりました。

\次のページで「シュライデンの間違い」を解説!/

シュライデンの間違い

1838年からさかのぼること数年前。1831年にイギリスでロバート・ブラウンという植物学者がランの細胞を観察中に細胞核を発見します。シュライデンはこの細胞核に着目し、「細胞内の核は細胞の子どものようなもので、殻が成長して新しい細胞が誕生する」と考えました。

今の知識ではこれはもちろん間違いで、細胞は細胞分裂によって増えます。しかしながら、当時は細胞というものにようやく注目が集まるようになった時代。シュライデンの勘違いもいたしかなかったとしか言えないでしょう。

シュライデンとシュワン後の細胞説

シュライデンとシュワンによる植物及び動物の細胞説発表後、研究者たちは色々な生物を顕微鏡で観察して、それぞれが細胞によって成り立つことを確認していきます。細胞説が実証されていったのです。

1858年、シュライデンの論文から20年後には、ドイツ人医師のルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ウィルヒョーが「すべての細胞は細胞から生じる」という言葉を述べ、細胞説の概念を一歩前進させました。この言葉には『生物は細胞からできていて、その細胞はまた別の細胞から生じる。生命活動もすべては細胞によるものである』という主旨が含まれています。

このウィルヒョーの名言もよく知られるようになり、細胞についての研究が一段と進むようになりました。

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こうして、生命を理解するために細胞を知ろう、という細胞生物学が存在感を示すようになり、現代の生物学へつながっていきます。シュライデンとシュワンの細胞説をきっかけに、近代的な生物学が始まったといっても過言ではないでしょう。

シュライデンとシュワンから始まった細胞説

現代に生きる私たちにとって、細胞という知識は当たり前のもの。生物学を学ぶ際には何の疑いもなく、初めに細胞というものを教えられます。

今回取り上げたシュライデンは、細胞というものの重要性を大きく説いた最初期の人物です。彼だけの力で細胞説が確立されたわけではありませんが、シュライデンがいなかったら細胞というものの研究の始まりがもう少し遅くなっていたかもしれませんね。

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理科生物細胞・生殖・遺伝

科学者「シュライデン」とはどんな人物?現役講師がサクッとわかりやすく解説!

今回は生物学者シュライデンについて学習しよう。

シュライデンの名前は高校の生物基礎で学ぶはずです。シュワンとともに細胞説の提唱者として紹介されるが、どんな人生を送ったのでしょうか?彼の功績や生涯をさくっと解説してもらおう。

大学で生物学を学び、現在は講師としても活動しているオノヅカユウを招いたぞ。

ライター/小野塚ユウ

生物学を中心に幅広く講義をする理系現役講師。大学時代の長い研究生活で得た知識をもとに日々奮闘中。「楽しくわかりやすい科学の授業」が目標。

シュライデンとは

マティアス・ヤーコプ・シュライデン(Matthias Jakob Schleiden)は、19世紀に活躍した生物学者です。

植物学を専門とし、「植物が細胞からできている」という植物の細胞説を唱えたことで知られています。動物について細胞説を唱えたテオドール・シュワンとは、同じ時期に同じ大学にいた知り合いという間柄です。

生涯

シュライデンは1804年、当時神聖ローマ帝国内の都市だったハンブルクで生まれました。父親は有名な医師だったといいます。ハイデルベルク大学に入学したシュライデンでしたが、初めは自然科学ではなく法律を学んでいました。

学位を取得して大学を卒業すると、彼は地元にもどり弁護士として活動を始めます。ところが、仕事がうまくいかずに精神を病み、一度は自殺未遂をするまで追い詰められてしまいました。1832年、シュライデンはまだ二十代のころのことです。

Matthias Jacob Schleiden.jpg
Carl Wilhelm Traugott Schenk – „Studien: Populäre Vorträge“ von Matthias Jacob Schleiden, Professor an der Universität Jena, Leipzig: Engelmann, 1855, パブリック・ドメイン, リンクによる

なんとか一命を取り留めたシュライデンは、思い切って職業を変えることを決めます。法律の世界から大きく離れた自然科学に興味があることに気づき、ゲッティンゲン大学へ入学。ここで医学を学び、課程を終えた後は植物学へ路線を変更して、ベルリン・フンボルト大学(以下ベルリン大学)で研究をつづけました。

ベルリン大学に在籍していた時期にシュワンと出会い、彼との意見交換を経て植物についての細胞説を提唱するようになります。

1839年、細胞説を主張する論文を出した翌年に、シュライデンはイェーナ大学へ招かれ助教授として務めるようになりました。1850年からは教授となり、1862年まで同大学で講義を受けもちます。

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