現在のハワイ州はアメリカ合衆国の一部です。しかし、歴史をさかのぼると先住民による独自の王朝が存在していた。それがカメハメハ一族によるハワイ王国です。白人や日本人の移民が増える時期、国王が主権を持っていたが西洋化の道を歩んです。米国によるハワイ併合の結果、王朝は終焉を迎える。

ハワイの観光スポットとして、ハワイ王国に関連するものが数多く残されている。そんなハワイ王国の歴史と文化を、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。当時の「ハワイ王国」は、砂糖やサトウキビに関連する産業で栄えた王朝だ。明治時代に日本人も数多く移住している。アロハシャツは当時の日本人の作業服から発展したと言われている。日本とのゆかりも深いハワイ王国の情報を写真と共にまとめてみた。

ハワイ王国とは?

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ハワイ王国とは、現在のハワイ諸島に実際にあった王国のこと。1795年から1893年までのあいだ存在していました。1893年にアメリカ政府が傀儡政権をたちあげたことで国王は権力を失います。そしてハワイ併合によりハワイ諸島は合衆国となり、王国は消滅しました。

ハワイの歴史はポリネシア系の先住民から始まる

ハワイ諸島の歴史は、南太平洋にあるマルケサス諸島やタヒチからカヌーで渡ってきたポリネシア系の先住民から始まります。

その時期は諸説ありますが、紀元前500年前後から3世紀頃までのあいだが濃厚。先住民たちは最初はハワイとタヒチを往来。その過程で、タロイモやココナッツなどの食文化やハワイアンダンスのフラが継承されました。

キリスト教の信仰が西洋化を加速

大航海時代にイギリス人の探検家ジェームズ・クックがオアフ島そしてカウアイ島を「発見」して上陸します。さらに南北戦争後は、新たなプランテーションをもとめるアメリカ人移民が増えていきました。

ハワイ諸島で台頭してきたカメハメハ一族は、イギリス人やアメリカ人と交流しながら武力を拡大します。ハワイ諸島の統一後は、西洋化の道を進み始めました。

ハワイ王国の創始者カメハメハ1世

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ハワイ王国の創始者はカメハメハ1世。日本ではNHKの「おかあさんといっしょ」の歌の影響もあり「カメハメハ大王」の知名度は抜群です。歌のタイトルは「南の島のハメハメハ大王」。ハメハメハはカメハメハ大王の友達という設定だそうです。

カメハメハ1世は西欧諸国との外交を重視

カメハメハ1世は外交手腕に優れた国王でした。イギリスやアメリカをはじめとするヨーロッパ諸国と良好な関係を築きました。それによりハワイは植民地化されることなく、合衆国の一部になるまで長らく独立を維持できたと言えるでしょう。

武器を調達してハワイ諸島の統合を進める

この時期のハワイ諸島の統一をサポートしたのがイギリス。初代国王のカメハメハ1世は、安全保障を確約するなどイギリスを優遇します。その見返りとして武器をもらい、ハワイ諸島の制圧を実現しました。

このとき独立を守ったのが首長カウムアリイが統治するニイハウ島。のちに、遠征軍との戦いに敗れたニイハウ島は、ハワイ王国の支配下に置かれます。

現在のニイハウ島は個人所有。スコットランド人のエリザベス・シンクレアの奥さんが、カメハメハ5世から島民付きで買い取りました。ピアノ1台と10,000ドルのお値段だったそうです。現在、ロビンソン家が島を所有。家族と一部の関係者しかニイハウ島に入ることはできません。今はツアーに参加すれば上陸は可能。ただ、島民との接触は禁止されているそうです。

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義母カアフマヌの影響下にあったカメハメハ2世

Hawaiians in theatre box
By J. W. Gear - National Library of Australia, Public Domain, Link

1819年にカメハメハ1世が亡くなると、その第一王妃との間に生まれた息子リホリホが後継者に。リホリホは若かったこともあり、実権は義母が握っていました。

ハワイ王国でアルファベット教育を開始

カメハメハ2世の時代にキリスト教の宣教師が上陸。布教を開始します。しかしハワイ語は文字がありません。そこでキリスト教の教えを広めるためにアルファベット教育を開始しました。

それによりハワイ諸島は教育水準がアップ。しかし、ハワイ語とアルファベットの混合がすすみ、正確なハワイ語の発音が失われていきました。

ハワイのタブーであるマナを廃止する

また、カメハメハ2世はハワイに昔から伝わる「マナ」を廃止します。マナとは、神聖な力を信じるなかで生まれた戒律のこと。首長たちは、マナを持っているとされ、カリスマ化されていました。

ハワイ諸島の首長の権力と結びつけられているため、王国を維持するためには不都合。そこで廃マナを廃止したと思われます。

ハワイ王国で初めての憲法を作ったカメハメハ3世

House of Kamehameha (restored).jpg
By Hugo Stangenwald - Bernice P. Bishop Museum, Public Domain, Link

カメハメハ3世はカメハメハ2世の弟。初代国王の息子にあたります。兄が亡くなったことをうけてハワイ王国の王となりました。兄と同じく義母が実践をにぎります。

カトリックの神父の排斥を加速

1825年に義母カアフマヌはプロテスタントに改宗。それによりハワイ王国のローマ・カトリック教会は排斥されていきます。しかしながらハワイ王国にはカトリック信者が一定数おり、神父たちをかくまっていました。そこでカメハメハ3世の時代に布教と信仰が公式に禁止されます。

ハワイ語による憲法を制定

カメハメハ3世の時代の重要な出来事は、1840年にハワイ語の憲法を制定したこと。それにより西欧諸国から独立国として認められました。しかし、1832年に義母のカアフマヌが亡くなると、白人がハワイ王国の政治に参入。とくに憲法の制定後は、カメハメハ3世が実権を握ることはありませんでした。

プロテスタントの教育を受けたカメハメハ4世

Honolulu-StAndrews-Cathedral-Royalty.JPG
By Joel Bradshaw - Own work, Public Domain, Link

次にハワイ王国を引き継いだのが甥にあたるカメハメハ4世です。カメハメハ1世は彼の祖父。継承者に指名されていたため、幼少期からホノルルの王宮学校にてプロテスタント教育を受けていました。

アメリカに征服されることを恐れたカメハメハ4世

カメハメハ4世が即位した時期、ハワイ王国はアメリカ移民の力が増幅。ハワイ王国はアメリカに征服されると感じるようになりました。そこでカメハメハ4世は、アメリカから距離を置くためイギリスに接近します。

また、ハワイ王国の国力を保つため病院を設立することを提案。島民が減少するとハワイ王国の力が弱まると考えたからです。しかしながら議会の否決により実現しません。そこでカメハメハ4世は自らの資金で病院を作りました。

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元延元年遣米使節団と面会

カメハメハ4世の活動は国際派の国王でした。即位前には欧米諸国のほかパナマやジャマイカを訪問。外国語も積極的に学びました。また、江戸幕府が派遣した万延元年遣米使節とも面会します。

この面会でカメハメハ4世は日本人移民をハワイ王国に送ることを要請。ハワイ王国はサイトウキビのプランテーションが増加し、ハワイ島民だけでは必要な労働力を確保できなかったからです。ちょうど日本は江戸時代末期の混乱期。その実現はもう少しあとになります。

イギリス寄りの政策を模索したカメハメハ5世

'Japanese Laborers on Spreckelsville Plantation', oil on canvas painting by Joseph Dwight Strong, 1885, private collection.jpg
Joseph Dwight Strong (1853-1899) - private collection (Taito Co., Ltd., Tokyo), パブリック・ドメイン, リンクによる

カメハメハ4世は29歳で死去。そこで兄がカメハメハ5世として即位します。アメリカの影響力を排除するため、王権を強化する憲法を制定するなど、ハワイ王国の自立を目指しました。

幼少期から欧米諸国を訪問

カメハメハ5世は若き日に亡くなった弟と一緒に欧米を周遊した経験があります。イギリスで手厚くもてなされた経験から親英的な立場をとるようになりました。

アメリカについては、滞在中に冷遇されたこともあり、影響がおよぶことを嫌悪。そこで1864年にアメリカ主導で作られた以前の憲法を破棄します。かわりに国王の力を強める新憲法を制定しました。

サトウキビ畑の労働力として日本人に注目

カメハメハ5世は在日ハワイ領事を通じて日本人労働者の招聘を交渉。徳川幕府は承認しますが、明治政府に切り替わったためすべて白紙に。しかし在日ハワイ領事は無許可で日本人をハワイ王国に送り出してしまいました。

日本人労働者が初めてハワイ王国に来たのが明治元年。そのため日本人労働者は元年者(がんねんもの)と呼ばれました。半分弱の日本人は帰国。しかしなかには、ハワイに身をささげた日本人移民もあらわれました。

ハワイ王国初選挙で国王となったルナリロ

Lunalilo Crypt.jpg
By Mark Miller - Own work, CC BY-SA 3.0, Link

後継者が指名されていなかったハワイ王国では初めての国王選挙が実施されます。そこで選ばれたのがルナリロ。彼の母親はカメハメハ1世の姪っ子でした。

閣僚にアメリカ人を登用

親英派のカメハメハ5世とは対照的に、ルナリロは親米派でした。そのためアメリカ人を閣僚として積極的に登用します。ただ、在位期間が短かったため、アメリカ人の登用による政策上の影響はありませんでした。

ルナリロは在位1年1カ月で死去

ルナリロは国王選挙で圧勝するなど島民に親しまれた存在。しかし、アルコール依存症の傾向があり健康不安がありました。ルナリロは民衆寄りの憲法制定を目指していましたが、肺結核により死去。在位はたったの1年1カ月でした。

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初めてハワイ王国から日本に来たカラカウア

image by PIXTA / 25905836

ハワイ王国の第7代目の国王がカラカウア。前回の国王選挙でルリナロに敗北。そこで再び立候補し、カメハメハ4世の未亡人であるエンマ王女と争って勝利しました。

砂糖と米の輸入自由化に成功

この時期のハワイ王国は経済不況。そこでカラカウアはアメリカ大統領のグラントに会い、砂糖と米の輸入の自由化を認めさせました。一方、アメリカ系の移民の参政権を認める憲法を受け入れるなど、自身の権力を弱体化させていきます。

明治天皇と会見したカラカウア

カラカウアは日本を初めて公式訪問した国王でもあります。明治天皇にプランテーションの労働力として日本人の送り出しを依頼。さらに彼の養女であるカイウラニ王女を宮家に嫁がせることも提案しました。

カラカウアはかなりの野心家。ポリネシア帝国の形成に向けて動いていました。日本の宮家との政略結婚も、その壮大なプロジェクトの一部だったのかもしれません。

ハワイ王国の滅亡

Liliuokalani entering palace for trial of 1895 (PP-98-12-010).jpg
By James J. Williams - Hawaii State Archives. Call Number: PP-98-12-010 http://files.hawaii.gov/dags/archives/PP-98-12/PP-98-12-010.pdf Hawaii State Archives. Call Number: PP-98-12-010, Public Domain, Link

カラカウアの親米的な政策の結果、国王の権力はなくなり、アジア系移民やハワイ島民の選挙権も制限。アメリカ人移民の影響が強まっていきます。

サトウキビ栽培でハワイ王国は国力を拡大

アメリカはハワイ王国のサトウキビなど豊富な生産物による経済力の拡大を危険視していました。そこで多大な権力を手にした白人プランテーション経営者たちは米国の支配下に置くためにクーデターを仕掛けます。

ハワイ併合にて合衆国に編入

カラカウアの死去後にハワイ女王となっていたリリウオカラニを幽閉。2000人の捕虜の命と引き換えに、女王は王政を廃止する署名をさせられます。このようにして首謀者たちはハワイの王政を廃止。臨時政府を樹立しました。

その後、傀儡政権であるハワイ共和国が樹立されたのち、ハワイ準州となります。そして1898年のハワイ併合により、ハワイは合衆国の50番目の州となりました。

アメリカ合衆国とは異なるハワイ王国の歴史

現在のハワイ諸島は合衆国の一部ですが、風習や文化は全く異なります。フラに代表される独自の文化は、ハワイ王国が生き残るために西洋化の道を歩むなか、消滅の危機にさらされました。しかし今では、ハワイ王国時代に消滅の危機にさらされた文化は、観光資源として大きな経済効果をもたらしています。ハワイを歴史的に見てみると、観光地とは異なる側面が見えてくるはずです。

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世界史歴史

西洋化の道を歩んで滅びた「ハワイ王国」の歴史を元大学教員がわかりやすく解説

現在のハワイ州はアメリカ合衆国の一部です。しかし、歴史をさかのぼると先住民による独自の王朝が存在していた。それがカメハメハ一族によるハワイ王国です。白人や日本人の移民が増える時期、国王が主権を持っていたが西洋化の道を歩んです。米国によるハワイ併合の結果、王朝は終焉を迎える。

ハワイの観光スポットとして、ハワイ王国に関連するものが数多く残されている。そんなハワイ王国の歴史と文化を、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。当時の「ハワイ王国」は、砂糖やサトウキビに関連する産業で栄えた王朝だ。明治時代に日本人も数多く移住している。アロハシャツは当時の日本人の作業服から発展したと言われている。日本とのゆかりも深いハワイ王国の情報を写真と共にまとめてみた。

ハワイ王国とは?

image by PIXTA / 44074048

ハワイ王国とは、現在のハワイ諸島に実際にあった王国のこと。1795年から1893年までのあいだ存在していました。1893年にアメリカ政府が傀儡政権をたちあげたことで国王は権力を失います。そしてハワイ併合によりハワイ諸島は合衆国となり、王国は消滅しました。

ハワイの歴史はポリネシア系の先住民から始まる

ハワイ諸島の歴史は、南太平洋にあるマルケサス諸島やタヒチからカヌーで渡ってきたポリネシア系の先住民から始まります。

その時期は諸説ありますが、紀元前500年前後から3世紀頃までのあいだが濃厚。先住民たちは最初はハワイとタヒチを往来。その過程で、タロイモやココナッツなどの食文化やハワイアンダンスのフラが継承されました。

キリスト教の信仰が西洋化を加速

大航海時代にイギリス人の探検家ジェームズ・クックがオアフ島そしてカウアイ島を「発見」して上陸します。さらに南北戦争後は、新たなプランテーションをもとめるアメリカ人移民が増えていきました。

ハワイ諸島で台頭してきたカメハメハ一族は、イギリス人やアメリカ人と交流しながら武力を拡大します。ハワイ諸島の統一後は、西洋化の道を進み始めました。

ハワイ王国の創始者カメハメハ1世

image by PIXTA / 50455950

ハワイ王国の創始者はカメハメハ1世。日本ではNHKの「おかあさんといっしょ」の歌の影響もあり「カメハメハ大王」の知名度は抜群です。歌のタイトルは「南の島のハメハメハ大王」。ハメハメハはカメハメハ大王の友達という設定だそうです。

カメハメハ1世は西欧諸国との外交を重視

カメハメハ1世は外交手腕に優れた国王でした。イギリスやアメリカをはじめとするヨーロッパ諸国と良好な関係を築きました。それによりハワイは植民地化されることなく、合衆国の一部になるまで長らく独立を維持できたと言えるでしょう。

武器を調達してハワイ諸島の統合を進める

この時期のハワイ諸島の統一をサポートしたのがイギリス。初代国王のカメハメハ1世は、安全保障を確約するなどイギリスを優遇します。その見返りとして武器をもらい、ハワイ諸島の制圧を実現しました。

このとき独立を守ったのが首長カウムアリイが統治するニイハウ島。のちに、遠征軍との戦いに敗れたニイハウ島は、ハワイ王国の支配下に置かれます。

現在のニイハウ島は個人所有。スコットランド人のエリザベス・シンクレアの奥さんが、カメハメハ5世から島民付きで買い取りました。ピアノ1台と10,000ドルのお値段だったそうです。現在、ロビンソン家が島を所有。家族と一部の関係者しかニイハウ島に入ることはできません。今はツアーに参加すれば上陸は可能。ただ、島民との接触は禁止されているそうです。

\次のページで「義母カアフマヌの影響下にあったカメハメハ2世」を解説!/

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