その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
- 1-1、加藤清正は尾張の国の生まれ
- 1-2、清正の子供時代
- 2-1、清正、賤ヶ岳の7本槍として名をあげる
- 2-2、清正、肥後半国の大名に
- 2-3、清正、意外にも統治を任されていた
- 2-4、清正、文禄、慶長の役で活躍
- 2-5、清正、秀吉の死後は家康に接近
- 2-6、清正、関ヶ原の戦いに参加せず
- 2-7、清正、二条城での家康と秀頼の会見に同行
- 2-8、清正、突然死
- 3-1、清正の逸話
- 3-2、築城、土木技術に優れた名人だった
- 3-3、熊本に改名
- 3-4、常に腰に兵糧をぶら下げていた
- 3-5、清正ゆかりの食べ物
- 3-6、清正、死後に信仰の対象に
- 秀吉子飼いで戦前は軍神、忠臣としてもてはやされた武将
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国、安土桃山時代時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、加藤清正について5分でわかるようにまとめた。
1-1、加藤清正は尾張の国の生まれ
Bariston – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる
加藤清正(かとうきよまさ)永禄5年(1562年)6月、尾張国愛知郡中村(現名古屋市中村区)で誕生。父は刀鍛冶の加藤清忠、母は鍛冶屋清兵衛の娘伊都で、母と後の豊臣秀吉の母大政所が従姉妹、または遠縁ということです。幼名は夜叉若、通称は虎之助、主計頭、諱は清正。
1-2、清正の子供時代
清正の父は通称正左衛門、五郎助といい、斎藤道三に仕えたが、合戦で負傷して武士を辞めたのちに刀鍛冶清兵衛のもとで修行して娘の伊都と結婚、清正が生まれたが、清正が3歳のときに38歳で死去。
清正は母と共に津島に移り、天正元年(1573年)に、当時は信長の武将で、近江長浜城主となったばかりで清正より25歳年上の秀吉に小姓として仕え、天正4年(1576年)には170石を与えられたということです。
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2-1、清正、賤ヶ岳の7本槍として名をあげる
当時の秀吉は播磨平定から中国征伐に向かう時期で、清正の初陣は天正8年(1581年)の鳥取城の戦い。このとき20歳の清正は武功を挙げて加増されたということで、姫路城を居城としていた秀吉からの天正8年((1580年)9月に播磨国神東郡内(現兵庫県姫路市付近)に120石を与えた知行宛行状が残っているそう。
また、天正10年(1582年)4月には中国征伐中の秀吉が冠山城(現岡山市足守)を攻めたとき、清正は城に一番乗りをして竹井将監という将を討ち取り、当然のことながら秀吉に従って備中高松城水攻め、その後の中国大返し、そして山崎の戦いにも参加しています。
清正はその翌年の柴田勝家との賤ヶ岳の戦いで、敵将山路正国を討ち取るという武功を挙げたなどで、秀吉に「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3000石を与えられました。
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2-2、清正、肥後半国の大名に
天正13年(1585年)7月、秀吉が関白に就任すると、清正は従五位下主計頭(かずえのかみ)に叙任され、翌年からは秀吉の九州平定に従軍しました。
そして肥後国領主となった佐々成政が、早急に検地を行ったことで反発されて肥後国で一揆が起こり、成政が自力で鎮められずに改易、切腹の後、清正が肥後北半国19万5000石を与えられ(後の半国は小西行長に)、23歳で大名にランクアップ。これは清正が肥後国人一揆後に、上使として派遣されたので現地に通じていると見込んでのことで、清正は隈本城に入って、天正19年(1591年)頃から改修を加えて熊本城と改名。
肥後での清正は、治水工事も行い、田麦(たむぎ、水田の裏作として栽培した麦のこと)を特産品化して南蛮貿易の決済に当てたりと、商業政策にも優れた手腕を発揮。また天正17年(1589年)、小西領の天草で一揆が起きたときは小西行長の説得を無視して出兵を強行して鎮圧したということです。
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