今回は加藤清正を取り上げるぞ。秀吉の親戚の武将だったっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国、安土桃山時代時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、加藤清正について5分でわかるようにまとめた。

1-1、加藤清正は尾張の国の生まれ

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Bariston - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

加藤清正(かとうきよまさ)永禄5年(1562年)6月、尾張国愛知郡中村(現名古屋市中村区)で誕生。父は刀鍛冶の加藤清忠、母は鍛冶屋清兵衛の娘伊都で、母と後の豊臣秀吉の母大政所が従姉妹、または遠縁ということです。幼名は夜叉若、通称は虎之助、主計頭、諱は清正。

1-2、清正の子供時代

清正の父は通称正左衛門、五郎助といい、斎藤道三に仕えたが、合戦で負傷して武士を辞めたのちに刀鍛冶清兵衛のもとで修行して娘の伊都と結婚、清正が生まれたが、清正が3歳のときに38歳で死去。

清正は母と共に津島に移り、天正元年(1573年)に、当時は信長の武将で、近江長浜城主となったばかりで清正より25歳年上の秀吉に小姓として仕え、天正4年(1576年)には170石を与えられたということです。

2-1、清正、賤ヶ岳の7本槍として名をあげる

当時の秀吉は播磨平定から中国征伐に向かう時期で、清正の初陣は天正8年(1581年)の鳥取城の戦い。このとき20歳の清正は武功を挙げて加増されたということで、姫路城を居城としていた秀吉からの天正8年((1580年)9月に播磨国神東郡内(現兵庫県姫路市付近)に120石を与えた知行宛行状が残っているそう。

また、天正10年(1582年)4月には中国征伐中の秀吉が冠山城(現岡山市足守)を攻めたとき、清正は城に一番乗りをして竹井将監という将を討ち取り、当然のことながら秀吉に従って備中高松城水攻め、その後の中国大返し、そして山崎の戦いにも参加しています。

清正はその翌年の柴田勝家との賤ヶ岳の戦いで、敵将山路正国を討ち取るという武功を挙げたなどで、秀吉に「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3000石を与えられました。

2-2、清正、肥後半国の大名に

image by PIXTA / 15082598

天正13年(1585年)7月、秀吉が関白に就任すると、清正は従五位下主計頭(かずえのかみ)に叙任され、翌年からは秀吉の九州平定に従軍しました。

そして肥後国領主となった佐々成政が、早急に検地を行ったことで反発されて肥後国で一揆が起こり、成政が自力で鎮められずに改易、切腹の後、清正が肥後北半国19万5000石を与えられ(後の半国は小西行長に)、23歳で大名にランクアップ。これは清正が肥後国人一揆後に、上使として派遣されたので現地に通じていると見込んでのことで、清正は隈本城に入って、天正19年(1591年)頃から改修を加えて熊本城と改名。

肥後での清正は、治水工事も行い、田麦(たむぎ、水田の裏作として栽培した麦のこと)を特産品化して南蛮貿易の決済に当てたりと、商業政策にも優れた手腕を発揮。また天正17年(1589年)、小西領の天草で一揆が起きたときは小西行長の説得を無視して出兵を強行して鎮圧したということです。

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2-3、清正、意外にも統治を任されていた

清正は秀吉子飼いの武将として、賤ヶ岳の戦い以降も小牧、長久手の戦い、四国征伐、九州平定に参加しましたが、華々しい戦功を挙げたのではなく、ほとんど秀吉の周囲を守るか後方支援が主な役目だったということです。

清正の伝記「清正記」にあるような、多くの武功に関しての記述や秀吉の感状の引用は後世の創作ということで、当時の清正は、豊臣政権の財務官僚としての役割を担っていて、播磨国、和泉国の蔵入地の代官九州平定後の上使としての戦後処理、四国の讃岐での前領主の改易後、新領主が入国までに臨時に統治する代官としての記録があるそう。清正は、和泉国の代官を務めたために堺の商人との関係も深まったということです。

2-4、清正、文禄、慶長の役で活躍

秀吉の天下統一後の文禄元年(1592年)、文禄、慶長の役が勃発、清正は秀吉の命令で朝鮮半島へ渡って戦うことに。

当初は朝鮮軍を次々と倒したために、清正は朝鮮軍は「鬼上官」と恐れられたが、明、朝鮮との講和推し進める小西行長と対立、清正は行長の讒言によって秀吉の怒りを買い、京に戻されて謹慎となったということです。

その後、清正は文禄5年(1596年)閏7月13日の慶長伏見地震で、謹慎中にもかかわらず伏見城の秀吉のもとへ真っ先に駆け付け、感激した秀吉に罪を許されたという「地震加藤」という有名な逸話がありますが、残された手紙によれば清正はこの時に大坂屋敷にいて、地震直後に伏見城には行っていないということで事実ではなく、徳川家康や前田利家ら有力者たちのおかげで秀吉の許しを得たのが真相では、ということ。

清正は、文禄の役での和平交渉が決裂したのち、再び慶長の役の朝鮮出兵が開始され、左軍の小西行長と共に右軍の先鋒として黄石山城を陥落、全羅道(朝鮮半島の南西部分)に侵攻して道都の全州を占領、蔚山倭城(うるさんじょう)を築き、完成目前で約5万7000の敵軍に攻め込まれて籠城、なかなか援軍が来ないために食料が枯渇、耐え抜いて城を守ったが、慶長3年(1598年)、秀吉の死去で清正らは朝鮮半島から撤退しました。

2-5、清正、秀吉の死後は家康に接近

慶長3年(1598年)の秀吉が死去後、帰国した清正は五大老の徳川家康に接近して家康の養女(水野忠重の娘)を継室にし、慶長4年(1599年)3月に前田利家が死去後には福島正則、浅野幸長ら7人で石田三成暗殺未遂事件を起こしたが失敗。 ところが、慶長4年(1599年)島津氏の重臣の伊集院氏が島津家に対して起こした庄内の乱(現在の宮崎県都城市及びその周辺)で、清正が反乱を起こした伊集院忠真を支援していたことが発覚、五大老として家康が庄内の乱についての事態の収拾を図っていたために重大な背信行為とされ、家康は清正の上洛を禁止。

翌年清正は大坂で家康とも対面したが、家康は清正に会津征伐参加を許さずに国元で謹慎を命じたということです。

2-6、清正、関ヶ原の戦いに参加せず

ということで、関ヶ原合戦の前には肥後熊本にいた清正に対し、毛利輝元らが西軍に加わるように説得したが、清正は大坂にいた家臣を家康に願って会津征伐の家康軍に派遣していたのです。そして家康は石田三成らの挙兵後には清正の家臣を肥後に返して清正の東軍参加を認めたということ。

そういうわけで、清正は福岡城を守っていた黒田如水と連絡を取り、東軍に協力すると約束。家康の書状とともに家臣が熊本に帰国した8月後半からは黒田軍とともに出陣して、西軍の小西行長の宇土城、立花宗茂の柳川城などを開城調略したりと、九州の西軍勢力を次々と打破。このために清正は関ヶ原後の論功行賞で、小西行長の旧領の肥後の南半分を与えられて52万石の大大名に。

2-7、清正、二条城での家康と秀頼の会見に同行

image by PIXTA / 60094228

清正は、慶長15年(1610年)、家康の10男義直の居城となる尾張名古屋城の天下普請に携わったが、このときに福島正則が、なんで家康の妾の子の城普請まで手伝わされないといけないんだと文句を言うと、清正は、嫌なら領国に帰って戦の準備をすることだ、と言ったという話は有名です。

そして清正は慶長16年(1611年)3月、二条城での家康と豊臣秀頼との会見を取り持ち和解を斡旋。当時19歳の秀頼が妻千姫の祖父家康に挨拶するという名目だったが、清正は秀頼の護衛役ではなくて、この会見に出席した次女八十姫の婚約者である家康の十男頼宣(当時9歳)の付き添いで徳川家臣として列席したそうで、清正は頼宣に付き添い浅野幸長とともに秀頼の豊国神社の参詣、鳥羽の見送りに随行。

2-8、清正、突然死

清正は二条城での家康と秀頼の会見後、熊本に帰る途中に船で発病して口がきけなくなり、6月24日に熊本で50歳で死去。

清正の死因は梅毒、ハンセン病、または家康による二条城で出た料理による毒殺説もあるということです。そして息子の忠広が11歳で2代目藩主を継承したが、寛永9年(1632年)、駿河大納言事件に連座した罪(諸説あり)で改易となって出羽国庄内に配流され、加藤家は断絶。

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3-1、清正の逸話

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不明 - 京都市勧持院所蔵品, パブリック・ドメイン, リンクによる

清正は身長が6尺3寸(約190wp_)の大男で、さらに大きく見える長烏帽子形兜を用い、片刃が折れても片鎌槍を愛用、そして熱心な法華宗信者で白地に朱色で南無妙法蓮華経を書いた旗を戦場になびかせたなど、トレードマークが多い人、ほかにも色々な逸話をご紹介しますね。

3-2、築城、土木技術に優れた名人だった

清正は、秀吉の側で長浜城や姫路城などを改修するのを見て学んだ、また朝鮮半島で色々な技術を学んだなどで、藤堂高虎、黒田孝高と並ぶ築城の名手として知られていて、熊本城、名護屋城(現佐賀県唐津市)、蔚山倭城、江戸城、名古屋城など数々の城の築城に携わったことで有名です。

また、飯田直景、大木土佐らと近江の穴太衆を用いて、領内の治水事業も積極的に取り組み、400年以上たった現在も熊本県内には清正による土木技術の遺構が多く実用されているということ。清正は土木作業に男女の別なく動員したが、給金をきちんと払って必要以上の労役を課さず農閑期に行うことや、自身も一緒に作業するなどで喜んで参加する人が多かったそうです。

3-3、熊本に改名

清正は、当時は隈本だったのを熊本に改称したのですが、理由は、城の改修工事の落成後、隅本より熊本の方が勇ましいじゃないかと言ったからということです。

3-4、常に腰に兵糧をぶら下げていた

清正は、戦闘時ではなく平時でも、いつも腰に米3升と味噌、銀銭300文を入れて歩いていたということで、親友の福島正則が、腰が重いだろうと言うと、自分がこうしていれば家臣も見習って戦時の備えを怠らないからと答えたということで、平時に腰兵糧をつけるのを忘れた小姓を怠慢として免職にした話もあるそう。

3-5、清正ゆかりの食べ物

清正は朝鮮出兵の際、非常食としてもち米、水あめ、砂糖などが原料の長生飴を常備したが、今では長生飴は朝鮮飴と名を変えて熊本の銘菓となっているということです。また、清正が朝鮮から持ち帰ったのが、清正人参とよばれるセロリ(ヨーロッパ原産)であるとか、赤唐辛子はアメリカ産ですが、日本に入ってきたのは清正が朝鮮から持ち帰った、または逆に清正が朝鮮に持ち込んだという両方の説あり。

3-6、清正、死後に信仰の対象に

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Bariston - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

清正の息子が改易後、代わって54万石の熊本藩主となったのは細川忠興の息子の忠利でしたが、国人の一揆が多い熊本入部に際して清正を尊重し、清正公位牌を行列の先頭に掲げて入国、そして熊本城天主に登って、あなたの城地をお預かりしますと、清正の墓所の浄池廟(本妙寺)に向かって遥拝するなど、清正に敬意をあらわして領民を宥和しようと、さらに加藤家の元家臣や肥後国人を多く召抱えたということです。

また、清正の菩提寺だった本妙寺は、細川氏に細川家の菩提寺並の寺領を寄進されましたが、以後は民衆に対して信仰を広めることに力を注ぐようになったそう。そして清正の最期は毒殺の疑いもある急死だったためか、水害や普賢岳の噴火や一揆などが起こるたびに清正の霊のしわざという噂が出たということで、文政元年(1818年)、清正の200年忌が行われると、藩主の細川家も清正を崇敬することで人心の収攬を図ろうとして、清正信仰が広まるように

そして明治後の神仏分離で、熊本には清正を祭神とする加藤神社が創建。そしてその直後に西南戦争が勃発して熊本は戦場となったが、清正の建てた熊本城は西郷隆盛率いる薩摩軍の攻撃に対して最後まで落城せず持ちこたえ、政府軍が最終的に勝利となったことで、乃木希典をはじめ西南戦争を戦った軍人たちの支援を受けて全国各地に清正を祀る神社が建てられ、清正の300回忌である明治42年(1909年)明治政府は清正に従三位を追贈したなど、清正の忠勇、武運長久の軍神としてのイメージが定着

しかし太平洋戦争での敗戦後、このもてはやされ方から急転直下、清正は軍国主義の象徴とみなされて敬遠されることに。そして学術的にも清正研究が大きく遅れているということで、戦後70年以上たったこともあり、新たな清正研究が進展すると見込まれているそうです。

秀吉子飼いで戦前は軍神、忠臣としてもてはやされた武将

加藤清正は秀吉の母の親戚として子供の時に福島正則らとともに、信長の武将として出世していく秀吉の側近くに仕え、北政所寧々に可愛がられておふくろ様と呼ぶ環境で武将として成長し大名となった人。

太平洋戦争前のイメージでは賤ヶ岳の7本槍として売り出し、秀吉の天下取りに貢献、朝鮮出兵でも活躍した上に虎退治までする勇猛さだったが、計算高い石田三成らの讒言で秀吉の怒りを買って謹慎、しかし地震では真っ先に秀吉のもとに駆け付ける健気な忠臣、清正公として神社に祀られ信仰されるほどでしたが、じつは築城の名人として熊本城や名古屋城、江戸城を作り、肥後熊本の領主として善政を行った実務的な民政家でもあったのですね。

清正の生前とはまったく関係なく、戦前の軍神としてもてはやされた軍国主義のマイナスイメージのあおりを食って最近まで敬遠されがちでしたが、現在は築城や土木工事の技術のすごさなどの功績が見直され、再評価が期待されています。

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室町時代戦国時代日本史歴史

熊本城など築城名人だった戦国武将「加藤清正」をわかりやすく歴女が解説

今回は加藤清正を取り上げるぞ。秀吉の親戚の武将だったっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国、安土桃山時代時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、加藤清正について5分でわかるようにまとめた。

1-1、加藤清正は尾張の国の生まれ

Kiyomasaseitanhi.jpg
Bariston投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

加藤清正(かとうきよまさ)永禄5年(1562年)6月、尾張国愛知郡中村(現名古屋市中村区)で誕生。父は刀鍛冶の加藤清忠、母は鍛冶屋清兵衛の娘伊都で、母と後の豊臣秀吉の母大政所が従姉妹、または遠縁ということです。幼名は夜叉若、通称は虎之助、主計頭、諱は清正。

1-2、清正の子供時代

清正の父は通称正左衛門、五郎助といい、斎藤道三に仕えたが、合戦で負傷して武士を辞めたのちに刀鍛冶清兵衛のもとで修行して娘の伊都と結婚、清正が生まれたが、清正が3歳のときに38歳で死去。

清正は母と共に津島に移り、天正元年(1573年)に、当時は信長の武将で、近江長浜城主となったばかりで清正より25歳年上の秀吉に小姓として仕え、天正4年(1576年)には170石を与えられたということです。

2-1、清正、賤ヶ岳の7本槍として名をあげる

当時の秀吉は播磨平定から中国征伐に向かう時期で、清正の初陣は天正8年(1581年)の鳥取城の戦い。このとき20歳の清正は武功を挙げて加増されたということで、姫路城を居城としていた秀吉からの天正8年((1580年)9月に播磨国神東郡内(現兵庫県姫路市付近)に120石を与えた知行宛行状が残っているそう。

また、天正10年(1582年)4月には中国征伐中の秀吉が冠山城(現岡山市足守)を攻めたとき、清正は城に一番乗りをして竹井将監という将を討ち取り、当然のことながら秀吉に従って備中高松城水攻め、その後の中国大返し、そして山崎の戦いにも参加しています。

清正はその翌年の柴田勝家との賤ヶ岳の戦いで、敵将山路正国を討ち取るという武功を挙げたなどで、秀吉に「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3000石を与えられました。

2-2、清正、肥後半国の大名に

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天正13年(1585年)7月、秀吉が関白に就任すると、清正は従五位下主計頭(かずえのかみ)に叙任され、翌年からは秀吉の九州平定に従軍しました。

そして肥後国領主となった佐々成政が、早急に検地を行ったことで反発されて肥後国で一揆が起こり、成政が自力で鎮められずに改易、切腹の後、清正が肥後北半国19万5000石を与えられ(後の半国は小西行長に)、23歳で大名にランクアップ。これは清正が肥後国人一揆後に、上使として派遣されたので現地に通じていると見込んでのことで、清正は隈本城に入って、天正19年(1591年)頃から改修を加えて熊本城と改名。

肥後での清正は、治水工事も行い、田麦(たむぎ、水田の裏作として栽培した麦のこと)を特産品化して南蛮貿易の決済に当てたりと、商業政策にも優れた手腕を発揮。また天正17年(1589年)、小西領の天草で一揆が起きたときは小西行長の説得を無視して出兵を強行して鎮圧したということです。

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