人類は過去に何度も感染症に苦しめられてきた。中でも「黒死病」と呼ばれた病気は、歴史を通して世界各地で度々パンデミックを引き起こしている。今回は、特に壊滅的な被害をもたらしたと言われる14世紀の様子を中心に見ながら、社会的・文化的にも大きなインパクトを残した黒死病の流行について学んでいこう。

世界史に詳しいライター万嶋せらと一緒に解説していきます。

ライター/万嶋せら

会社員を経て、イギリスに進学し修士号を取得した経歴を持つライター。歴史が好きで関連書籍をよく読み、中でも近代以降の歴史と古典文学系が得意。今回は、「黒死病(ペスト)」について解説する。

黒死病とは何か

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14世紀に大流行した黒死病

14世紀ごろ、ある伝染病が大流行しました。当時、この病気は正体も原因も判明していませんでした。そのため、多くの人が成す術もなく次々に命を落としていきました。正確な数字はわかっていませんが、全世界で1億人にものぼる人々が亡くなったと言われています。

世界を大混乱におとしいれたこの伝染病の正体は「ペスト」でした。ペストは、別名「黒死病(black death)」とも呼ばれて恐れられる病気です。病気にかかると皮下出血のために皮膚が黒くなって見えることから、この名前が付けられたと言われています。

人類の長い歴史を通して何度か、ペストは大規模な流行を繰り返してきました。中でも壊滅的な被害がもたらされたことから、14世紀の流行が特によく知られています。特に甚大な被害を受けたヨーロッパでは、当時の人口がおよそ3分の1から半分程度も減少したと言われているのです。

ペストとはどのような病気か

ペストは、ペスト菌という感染力の強い細菌によって引き起こされる、致死率の非常に高い病気です。「腺ペスト」「敗血症ペスト」「肺ペスト」などのタイプがありますが、14世紀のヨーロッパでは主に「腺ペスト」が流行していたと考えられています。

「腺ペスト」は、ペストの中では最もよくあるタイプです。発症するとリンパ節が大きく腫れあがり、多くの場合は発熱や悪寒、下痢などの症状を伴います。治療をしなければ、数日間で死に至ることも珍しくありません。

「敗血症ペスト」にかかると、全身に黒いあざができます。ペスト菌が血液に運ばれて身体中に広がり、敗血症を引き起こして手足などが壊死するからです。「黒死病」の名前は、この敗血症ペストの症状に由来しています。

どのタイプであって多くの場合は数日間の潜伏期間を経て発症し、適切に治療を行わなければ通常は数日以内に命を落とすという、非常に怖い病気です。「黒死病」の正体がまだ知られていなかった14世紀のヨーロッパでは、正しい治療法も伝染を防ぐ方法もまったくわかっていませんでした。そのため病気がまたたく間に蔓延し、多くの被害をもたらしたのです。

ヨーロッパで大流行した黒死病

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流行の始まり

14世紀のヨーロッパでの黒死病の流行は、イタリアの南にあるシチリア島から始まったと言われています。

1347年10月、シチリア島の港町メッシーナに12隻のガレー船が到着しました。東ローマ帝国のコンスタンティノープルから出航したこの船は、ヨーロッパで販売される毛皮などを積んだ商船でした。衛生状態の良くなかった当時、船内には多くのネズミがいて、このネズミがペスト菌を保有していたと言われています。一説によると、メッシーナに到着したときにはすでに多くの船員がペストを発症していて、船内は死人や病人で溢れていたようです。

こうして、ペスト菌がヨーロッパに上陸しました。その後、当時の交易ルートに沿って、イタリアからフランス、そしてその先へとまたたく間に広がり、ヨーロッパ全土に拡大していったのです。ペストの被害から逃れることができたのは、離島など周囲との交流が遮断されたごく一部の地域だけでした。それ以外のほとんどの場所には甚大な被害がもたらされ、感染症の歴史の1ページとして残されたのです。

被害の全容は?

シチリア島から広がったペストは、何度か流行の波を繰り返しながら15世紀の初頭まで続いていたと考えられています。その被害は初めに上陸したイタリアやその近隣地域に留まらず、北欧や島国のイギリス、それに北アフリカなど、周辺一帯に及びました。ヨーロッパでは、およそ3,000万とも言われる数の人々が亡くなっています。これは、当時のヨーロッパの人口の3分の1を超えるほどの数でした。

当時の悲惨な状況がよくわかるエピソードがあります。ある村では、住人全員がペストに感染して1人も生存者が残らなかったのです。村全体が文字通り黒死病に侵され、消えてしまいました。村はそのまま、人々の記憶からも消えていったのです。時代が流れて航空技術が発達し、空から再発見されるまで、歴史に埋もれたままとなっていました。

14世紀の黒死病の流行は、ヨーロッパだけにはとどまりませんでした。大陸を超えて全世界に広がり、合計でおよそ8,000万人から1億人もの人々が命を落としたと推定されています。世界の人口が大幅に減少したことで、人々の暮らしや経済活動にも多大な影響がもたらされました。

どうして黒死病は大流行したのか

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アジアから交易ルートにのって広まってきた

なぜ、ペストのパンデミックが引き起こされたのでしょうか。14世紀にヨーロッパを恐怖に陥れた黒死病ですが、もともとはアジアからやってきたと考えられています。中国で発生し、そこからモンゴルやインド、ペルシャ、シリアなどへ拡大していったのです。そしてシチリアに上陸し、さらにヨーロッパ各地へと広がりました。

これは、当時シルクロードを利用した交易が活発に行われていたことと関係していると考えられています。ユーラシア大陸の東西を結ぶ交流が盛んで、モノやヒトが頻繁に行き来をしていたのです。黒死病の拡大経路は、この交易ルートに沿ったものでした。

また、黒死病の流行拡大とモンゴル帝国の繁栄にも切っても切れない関係があります。当時、アジアではモンゴル帝国が一大勢力として支配地域を拡大させていました。それに伴い、中央アジアにおけるヒトやモノの交流も徐々に増加していったのです。ヒトの動きが増えることで、それまでは風土病であった病気が別の地域へと流入してしまいます。その先にいる人々は通常、この病気に対する免疫を持っていません。これは歴史上で何度も繰り返されている現象ですが、14世紀の黒死病の拡大にも同様のメカニズムが働いたと考えることができます。

感染力が非常に高かった

ペストの感染力の高さも、大流行の原因と言えるでしょう。

ペスト菌は通常、ネズミやノミなどの生物を介して感染しますが、そもそもが非常に感染力の高い病原体です。そのうえ、流行の過程で細菌が変異し、より感染力が高まることもあります。14世紀のヨーロッパでも、ペスト菌が変異して簡単に空気感染するようになり、急速に流行が広がったようです。

罹患した人の咳やくしゃみなどの飛沫を通して、ペスト菌はほかの人へと広がります。ときには、患者に触れるだけで感染することもあったようです。また、発症前に通常は潜伏期間が数日ありますが、その段階でも人に感染させてしまう可能性がありました。症状が現れる前から感染の拡大が生じるため、予防が非常に困難だったのです。

当時の人々は黒死病の感染力の高さを非常に恐れていたようで、「視線が合うだけでも罹患するので感染者と目を合わせてはいけない」とまで噂されました。治療を拒否する医者も続出したと言われています。

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黒死病の治療法が確立していなかった

当時、伝染病に関する知見はそれほどありませんでした。そのため、人々はこの流行を防ぐ術をまったく知らない状態だったと言っても過言ではありません。ときには誤った治療が信じられ、よけいに感染が拡大してしまうような状況も生じていました。

たとえば、瀉血(しゃけつ)という治療法があります。体液のバランスを正常化することで体調が良くなるという考えのもと、血管などを一部切断して血液を体外に排出する治療法です。瀉血は当時、まだ一般的に行われていました。しかし、これはペストの治療として効果がないばかりでなく、患者の血液に触れることによって施術を行った医師への感染の危険性も高まってしまう治療法だったのです。

科学技術が未発達だった当時、「黒死病」の効果的な治療法が確立していなかったのは仕方がないことでしょう。けれどしばしば、治療として行われた施術が原因で感染が拡大することもあったのです。誤った治療法が選択されたために患者数が余計に増加し、救えたはずの命が失われていきました。治療中に感染して命を落とした医師も多かったと言われています。

14世紀の黒死病大流行の裏に隠れた知られざる真実

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感染経路はネズミではなかった?

ペストの流行はネズミが原因となることが多い、というのが定説です。14世紀のヨーロッパにおける大流行ももともと、貿易船に生息していたネズミを介して人間に広まったと考えられていました。しかし近年の研究で、当時の黒死病の感染経路はネズミではなかったかもしれない、との説も出始めています。

歴史上何度か世界的な大流行を引き起こしているペストですが、その多くのケースでは、流行が始まる直前に原因不明のネズミの大量死が観察されていました。けれど、14世紀に生じた大流行において、ネズミが大量死していたことを示す記述は残されていません。そのため、当時ペスト菌を媒介していたのはネズミではなかったと考える研究者もいるのです。

実際に当時のペストの拡大パターンを分析した結果、ネズミではなくノミやシラミがペスト菌を媒介したのではないか、ということを示す研究が発表されました。ペスト菌に感染した人の血を吸ったノミやシラミがほかの人に飛び移ると、その人も高確率でペストに感染します。そのため最近では「ネズミ犯人説」ではなく、ノミやシラミによって感染が拡大したと考えられることも多くなっているようです。

ほかの病気も同時に流行していた?

14世紀にヨーロッパで流行していた伝染病はペストだけではなかった可能性がある、と指摘する研究もあります。ペスト以外にも様々な病気の流行が重なったせいで、被害が大きくなったのかもしれないのです。

ある研究で当時の共同墓所を調査した結果、多くの遺体から炭疽菌が発見されました。炭疽症を引き起こす炭疽菌は、動物などを介して感染する病原体で、当時はペスト菌と同じく未知の病気でした。適切な治療を行わなければ致死率が高いのも、ペストと同様です。もしもペストと同時に炭疽病が流行していたと考えると、流行が急速に拡大して壊滅的な状況になったことの説明がつきやすくなります。

「黒死病」の大流行が後世に残る大惨事となったのは、ペストだけでなく炭疽症などほかの病気も同時発生的に流行していたからなのかもしれないのです。

黒死病の流行が社会に与えた影響

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農民の暮らしは良くなった

黒死病の流行により数えきれないほどの人々が命を落としたことで、ヨーロッパには社会的な変化も生じました。

たとえば、農民の暮らしぶりです。当時、農民は抑圧された社会階級でした。しかし、黒死病の大流行で人口が減り、農民の解放も進んだと言われています。労働力が不足したことに伴って、耕作地が拡大したり、税金の軽減・賃金の向上が行われたりしたからです。

もちろん、正体の分からない病気に多くの農民が苦しめられたことは忘れてはいけません。けれど、感染症の拡大で社会が大きく変わったために封建制度の中で生きてきた農民の自由が拡大した、というのもまた事実なのでしょう。

文化の転換点となった

また、文化的な側面でも社会は変容しました。たとえば、ヨーロッパにおける中世から近世への転換点とも言われる「ルネサンス」です。ルネサンスは、ペストの大流行という社会的背景の中で活発になったと言われています。人知の及ばない出来事に遭遇し、人々の死生観や思想は大きく変化せざるを得ず、文化的な表現や活動が転換したのです。

宗教に対する信頼が揺らいだ時期でもありました。当時権力を持っていたカトリック教会はペストの拡大防止に対して有効な策を講じることができず、人々を不安から救う術をもたなかったからです。教会に対する失望が広がったことで、宗教改革の間接的なきっかけとなったと言われています。

このように、伝染病の大規模な流行は社会の様子を大きく変えてしまう可能性があるのです。

14世紀以外のペストの流行

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不明 - http://www.adthree.com/exanim/50nen/fac/kitazato.htm, パブリック・ドメイン, リンクによる

歴史上、ペストは何度も大流行している

ペストが流行したのは、14世紀だけではありません。諸説ありますが、記録に残る限りで一番最初のペストの流行は6世紀のことだと考えられています。東ローマ帝国で発生し、ヨーロッパやアジアへと広がりました。交通網が未発達だった当時、被害は地域差が大きく、地中海地域では人口が激減した反面、西ヨーロッパでの感染拡大は比較的軽微で収まったようです。

またヨーロッパでは、14世紀の流行からしばらく後の17世紀から18世紀にかけても、各地を巻き込んで何度かペストが流行しました。17世紀にペストが流行したとき、イギリスでは各地の学校が休校となったと言われています。当時ケンブリッジ大学の学生だったアイザック・ニュートンが一時的に故郷に戻っている間に「万有引力の法則」の着想を得た、というのは有名な話です。

ペスト菌が発見され、大流行はなくなった

「黒死病」と呼ばれて恐れられ、社会を何度も恐怖に陥れたペストですが、最近では衛生環境や医療環境の良くない発展途上国などにおける地域的な流行を除いて、大規模な流行はほとんど見られません。その理由としては、19世紀末にペストの正体が解明された功績が大きいと考えられます。

1894年、ペストの原因菌であるペスト菌が発見されました。日本の医学博士である北里柴三郎らの功績です。北里柴三郎はペストの原因究明のために香港に派遣され、調査を進める中でペスト菌を発見しました。ペスト菌が発見されたことでペストの診断が容易となり、流行拡大の抑止に貢献したのです。ほかに破傷風の治療法開発などでも名高い北里柴三郎は、「日本の細菌学の父」として称えられています。

人類は黒死病に立ち向かえるようになった!

歴史上、人類は何度もペストに苦しめられてきました。世界の人口が激減した14世紀のパンデミックだけでなく、それよりはるか以前からかなり最近まで長い間、数えきれないほど多くの人がペストにより命を落としていたのです。けれど、科学の進歩に助けられ、私たちはペストと戦うことができるようになりました。これは、先の時代を生きた研究者たちの絶え間ない努力の結果です。

地球上に生きるのは人間や目に見える動物、植物などだけではありません。目には見えない細菌やウイルスなど、想像できないほど多くの生物が活動しているこの世界には、まだ私たちの知らないものがたくさんあります。これからも、人類が未知の感染症に襲われることもあるでしょう。時には甚大な被害を受けるかもしれません。けれどこれまでそうだったように、この先も、人々は必ず新しい感染症に立ち向かう方法を見つけるはずです。歴史を振り返ると、少し希望が見えてくるのではないでしょうか。

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世界を恐怖に陥れた「黒死病(ペスト)」とは?世界史通のライターが感染症の歴史をわかりやすく解説

人類は過去に何度も感染症に苦しめられてきた。中でも「黒死病」と呼ばれた病気は、歴史を通して世界各地で度々パンデミックを引き起こしている。今回は、特に壊滅的な被害をもたらしたと言われる14世紀の様子を中心に見ながら、社会的・文化的にも大きなインパクトを残した黒死病の流行について学んでいこう。

世界史に詳しいライター万嶋せらと一緒に解説していきます。

ライター/万嶋せら

会社員を経て、イギリスに進学し修士号を取得した経歴を持つライター。歴史が好きで関連書籍をよく読み、中でも近代以降の歴史と古典文学系が得意。今回は、「黒死病(ペスト)」について解説する。

黒死病とは何か

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14世紀に大流行した黒死病

14世紀ごろ、ある伝染病が大流行しました。当時、この病気は正体も原因も判明していませんでした。そのため、多くの人が成す術もなく次々に命を落としていきました。正確な数字はわかっていませんが、全世界で1億人にものぼる人々が亡くなったと言われています。

世界を大混乱におとしいれたこの伝染病の正体は「ペスト」でした。ペストは、別名「黒死病(black death)」とも呼ばれて恐れられる病気です。病気にかかると皮下出血のために皮膚が黒くなって見えることから、この名前が付けられたと言われています。

人類の長い歴史を通して何度か、ペストは大規模な流行を繰り返してきました。中でも壊滅的な被害がもたらされたことから、14世紀の流行が特によく知られています。特に甚大な被害を受けたヨーロッパでは、当時の人口がおよそ3分の1から半分程度も減少したと言われているのです。

ペストとはどのような病気か

ペストは、ペスト菌という感染力の強い細菌によって引き起こされる、致死率の非常に高い病気です。「腺ペスト」「敗血症ペスト」「肺ペスト」などのタイプがありますが、14世紀のヨーロッパでは主に「腺ペスト」が流行していたと考えられています。

「腺ペスト」は、ペストの中では最もよくあるタイプです。発症するとリンパ節が大きく腫れあがり、多くの場合は発熱や悪寒、下痢などの症状を伴います。治療をしなければ、数日間で死に至ることも珍しくありません。

「敗血症ペスト」にかかると、全身に黒いあざができます。ペスト菌が血液に運ばれて身体中に広がり、敗血症を引き起こして手足などが壊死するからです。「黒死病」の名前は、この敗血症ペストの症状に由来しています。

どのタイプであって多くの場合は数日間の潜伏期間を経て発症し、適切に治療を行わなければ通常は数日以内に命を落とすという、非常に怖い病気です。「黒死病」の正体がまだ知られていなかった14世紀のヨーロッパでは、正しい治療法も伝染を防ぐ方法もまったくわかっていませんでした。そのため病気がまたたく間に蔓延し、多くの被害をもたらしたのです。

ヨーロッパで大流行した黒死病

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