その辺のところを幕末、明治維新が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
- 1-1、川路聖謨は豊後国日田の生まれ
- 1-2、聖謨の子供時代
- 1-3、聖謨、御家人の養子となる
- 2-1、聖謨、仙石騒動の裁定で注目
- 2-2、聖謨、蛮社の獄で危うく連座
- 2-3、聖謨、佐渡奉行に就任
- 2-4、聖謨、奈良奉行に
- 3-1、ペリーの黒船来航後、対露応接係に
- 3-2、聖謨、再来したロシアと再交渉、安政の大地震が勃発
- 3-3、日露合同で船の建造に
- 3-4、聖謨、日露和親条約を締結
- 3-5、聖謨、安政の大獄で左遷
- 3-6、聖謨、病気を理由に引退
- 4-1、聖謨の逸話
- 4-2、聖謨の日常
- 4-3、日露交渉で驚嘆
- 4-4、その後も日露交流があった
- ロシア人にも尊敬された外交手腕を持った幕臣
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末、明治維新は勤皇佐幕に関わらず興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、川路 聖謨について5分でわかるようにまとめた。
1-1、川路聖謨は豊後国日田の生まれ
川路聖謨(かわじとしあきら)は、享和元年(1801年)4月25日、豊後国日田(現大分県日田市)で誕生。父は日田代官所属吏の内藤吉兵衛歳由で、母は日田代官所手付の高橋誠種の娘の次男。幼名は弥吉、通称は左衛門尉、諱は萬福(かずとみ)、のちに聖謨と改名、号は敬斎、頑民斎。
兄弟は4人で長兄は夭折、3弟が外国奉行を務めた井上信濃守清直、4弟が内藤家を継いだ幸三郎。母方の従弟に江戸幕府最後の西国郡代の窪田鎮勝(しげかつ)、海軍伝習所から海軍軍人となった根津勢吉、幕臣から明治後に宮崎県知事となった永峰弥吉もいとこ。
1-2、聖謨の子供時代
聖謨の先祖は甲斐の武田家家臣で、武田家の滅亡後は代々甲州で漢書を教えていたが、父吉兵衛が全国を流浪して豊後国日田で代官所の下級役人となり、文化5年(1808年)、聖謨が7歳の時に江戸に出て御家人株を入手、幕府徒歩組の西丸徒士になりました。
聖謨一家の生活は極貧なるも、父母の聖謨への期待は大きく、生活を切り詰めて学習塾へ通わせ、父も学問の手ほどきをしたそう。聖謨が6歳の時、父は通りすがりの馬に乗った身分の高い武士を見て、一生懸命勉強すればああなれると言うと、聖謨は必ずなる、がんばると言って父を喜ばせたという話です。
1-3、聖謨、御家人の養子となる
文化9年(1812年)、聖謨は12歳で小普請組の川路三佐衛門光房の養子となり、翌年元服して、弥吉から萬福(かずとみ)と名乗り、小普請組に。文化14年(1817年)、勘定奉行所の下級吏員資格試験である筆算吟味に及第。文化16年(1816年)、聖謨は川路家の家督を相続して就職活動を始めたが、勘定奉行や勘定吟味役が登城する前に日参する毎日で、父は酒断ち、母は寒中に水垢離をとって祈ったそう。
そして就職活動3年目の文政元年 (1818年)に、根回しも功を奏したらしく、普通でも早くて5、6年かかるという幕府へ出仕がかなって、勘定奉行所(幕府の財政の他に民事訴訟なども担当)支配勘定の下役となって4年ほど務めて御勘定に昇進、旗本に。文政6年 (1823年) には評定所留役に昇進して将軍への謁見を許される御目見以上の資格も得たが、その直前に父が病で急逝した無念を日記に著しています。
2-1、聖謨、仙石騒動の裁定で注目
聖謨は天保6年( 1835年)、寺社奉行所に出向中、出石藩の家老が主家乗っ取り未遂を起こしたお家騒動の「仙石騒動」が勃発、寺社奉行の脇坂安重を助けて事件を裁いた功績で、同年11月には支配勘定から勘定吟味役(御勘定、勘定奉行に次ぐ重職)に抜擢されました。
これは異例の大出世だったために当時の幕臣の間で噂になったほどで、聖謨も旗本となり西洋諸国の動向に関心を持って、当時の海外事情や西洋の技術などに通じた佐久間象山、間宮林蔵、藤田東湖、江川英龍、渡辺崋山など洋学の俊英の有名人たちと交流するように。特に江川や渡辺とは蘭学や海防に関する興味から親しくなって尚歯会に参加、この人脈が後日、日記によれば「我らも既に危うき目に遭いき」に。
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