今回は川路聖謨を取り上げるぞ。幕末に外国との条約で活躍した幕臣ですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末、明治維新が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末、明治維新は勤皇佐幕に関わらず興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、川路 聖謨について5分でわかるようにまとめた。

1-1、川路聖謨は豊後国日田の生まれ

川路聖謨(かわじとしあきら)は、享和元年(1801年)4月25日、豊後国日田(現大分県日田市)で誕生。父は日田代官所属吏の内藤吉兵衛歳由で、母は日田代官所手付の高橋誠種の娘の次男。幼名は弥吉、通称は左衛門尉、諱は萬福(かずとみ)、のちに聖謨と改名、号は敬斎、頑民斎。

兄弟は4人で長兄は夭折、3弟が外国奉行を務めた井上信濃守清直、4弟が内藤家を継いだ幸三郎。母方の従弟に江戸幕府最後の西国郡代の窪田鎮勝(しげかつ)、海軍伝習所から海軍軍人となった根津勢吉、幕臣から明治後に宮崎県知事となった永峰弥吉もいとこ。

1-2、聖謨の子供時代

聖謨の先祖は甲斐の武田家家臣で、武田家の滅亡後は代々甲州で漢書を教えていたが、父吉兵衛が全国を流浪して豊後国日田で代官所の下級役人となり、文化5年(1808年)、聖謨が7歳の時に江戸に出て御家人株を入手、幕府徒歩組の西丸徒士になりました。

聖謨一家の生活は極貧なるも、父母の聖謨への期待は大きく、生活を切り詰めて学習塾へ通わせ、父も学問の手ほどきをしたそう。聖謨が6歳の時、父は通りすがりの馬に乗った身分の高い武士を見て、一生懸命勉強すればああなれると言うと、聖謨は必ずなる、がんばると言って父を喜ばせたという話です。

1-3、聖謨、御家人の養子となる

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文化9年(1812年)、聖謨は12歳で小普請組の川路三佐衛門光房の養子となり、翌年元服して、弥吉から萬福(かずとみ)と名乗り、小普請組に。文化14年(1817年)、勘定奉行所の下級吏員資格試験である筆算吟味に及第。文化16年(1816年)、聖謨は川路家の家督を相続して就職活動を始めたが、勘定奉行や勘定吟味役が登城する前に日参する毎日で、父は酒断ち、母は寒中に水垢離をとって祈ったそう。

そして就職活動3年目の文政元年 (1818年)に、根回しも功を奏したらしく、普通でも早くて5、6年かかるという幕府へ出仕がかなって、勘定奉行所(幕府の財政の他に民事訴訟なども担当)支配勘定の下役となって4年ほど務めて御勘定に昇進、旗本に。文政6年 (1823年) には評定所留役に昇進して将軍への謁見を許される御目見以上の資格も得たが、その直前に父が病で急逝した無念を日記に著しています。

2-1、聖謨、仙石騒動の裁定で注目

聖謨は天保6年( 1835年)、寺社奉行所に出向中、出石藩の家老が主家乗っ取り未遂を起こしたお家騒動の「仙石騒動」が勃発、寺社奉行の脇坂安重を助けて事件を裁いた功績で、同年11月には支配勘定から勘定吟味役(御勘定、勘定奉行に次ぐ重職)に抜擢されました。

これは異例の大出世だったために当時の幕臣の間で噂になったほどで、聖謨も旗本となり西洋諸国の動向に関心を持って、当時の海外事情や西洋の技術などに通じた佐久間象山、間宮林蔵、藤田東湖、江川英龍、渡辺崋山など洋学の俊英の有名人たちと交流するように。特に江川や渡辺とは蘭学や海防に関する興味から親しくなって尚歯会に参加、この人脈が後日、日記によれば「我らも既に危うき目に遭いき」に。

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2-2、聖謨、蛮社の獄で危うく連座

天保9年 (1838年)米国艦モリソン号への砲撃事件が発端になり、蘭学者が弾圧された「蛮社の獄」が勃発。聖謨も渡辺崋山らと親交があったために連座しかけました。しかし当時の幕閣が厳罰に消極的だったことと、幕閣の同僚の救済運動もあって聖謨は事なきを得たのですが、以降外国に関する話題は自戒して封印したそう。

また、聖謨、それに江川英竜が処罰されなかったのは、尚歯会に参加していなかった、または蛮社の獄は尚歯会を標的としていなかったという説も。

2-3、聖謨、佐渡奉行に就任

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天保10年(1839年)、聖謨は佐渡奉行に任命され赴任。約1年余りの間、異国船の取締り、金山の管理、農民、町民からの年貢、商業税の取立て、金堀牢人(佐渡送りという罪で金を掘らされた江戸の罪人)の待遇改善などを行ったが、佐渡奉行の職務はその後の人生や幕府の職務を行うために良い経験になったそう。

天保12年 (1841年)5月に聖謨は江戸に帰還、老中水野忠邦の推薦で小普請奉行に任ぜられましたが、部下に任せず自分で現場を回って監督、出費を抑えて成果を上げたが、天保14年 (1843年)、水野忠邦が失脚、聖謨も処罰されるところを次の老中阿部正弘に実績を買われて小普請奉行から普請奉行に転任で済んだそう。

2-4、聖謨、奈良奉行に

そして聖謨は弘化3年(1846年)1月、45歳で奈良奉行に任命。本人は左遷と思っていたが、老中阿部正弘が奈良奉行の汚職などを一掃するために手腕を期待されての任命だそう。

聖謨は約6年間の任期内で、犯罪、特に博打を厳しく取り締まり、拷問を禁止し、裁判の迅速化を行って奉行所の事務処理能力の大幅向上、また貧民を救済するための基金設立、地場産業の育成、学問の奨励、山陵の保護を行い、神鹿を傷つけても故意でなければ罰せず、乱伐ではげ山になっていた多聞山城跡に約50万本の木を植樹、興福寺や東大寺から佐保川の堤まで、数千本の桜と楓の木を植え、現在の桜の名所、奈良公園の元を作りました

このため「五泣百笑の奉行(博徒、悪徳僧侶、役人、商人、公事宿の悪い奴5つが泣き、百姓が笑う)」と慕われたそう。また聖謨は、嘉永2年(1849年)に行方不明になっていた神武天皇陵を本居宣長が「古事記伝」でスイセン塚古墳としたことへの批判もあり、自ら捜索して「神武御陵考」を執筆。後に孝明天皇がこれを元に神武天皇陵の所在地を確定されたということです。

その後、聖謨は大坂東町奉行を経て、嘉永5年(1852年)には公事方勘定奉行に就任。家禄が200俵(200石相当)から500石の知行取に加増に。ついに大老、老中、大目付に次ぐ4番目の役職についたのですね。

3-1、ペリーの黒船来航後、対露応接係に

聖謨は、あらかじめオランダ風説書によってペリー来航の情報を得ていた老中阿部正弘により、海岸防禦御用掛に任命。そして嘉永6年 (1853年)6月、ペリーの米国艦隊が浦賀へ来航したとき聖謨は阿部正弘に開国を唱えました。

そして7月になると、今度はロシア海軍中将のエフィム・プチャーチン率いる艦隊3隻が長崎に現れ、通商に加えて北方領土の国境策定について交渉を要求、応じなければ江戸に赴くと告げて一旦上海に引きあげたそう。10月に聖謨は公事方から勝手方に異動し、52歳で露使応接掛に任命されましたが、幕府は国内情勢の多難なことを説明し、ロシアに通商を諦めさせるように仕向けるという、「ぶらかし作戦」でいくことになり、聖謨は12月に長崎に赴いて、12月14日に再来日したプチャーチン一行と初顔合わせ、そして20日から翌年1月4日までの計6回、日露の北方領土の国境、和親通商について交渉したのです。

その後幕末に活躍したイギリス人外交官のアーネスト・サトウなども言っていたのですが、西欧列強の外交官が最も嫌ったのは、言を左右にして責任逃れをする幕府の「役人」。しかし聖謨の知的な対応に対してプチャーチンは尊敬しないわけにはいかないと絶賛、聖謨もプチャーチンを目差しがただならないよほどの人物と評したなど、お互いを認め合い信頼関係が出来たのですね。

ロシア側が老中の公文書を引用し、日本に通商の意思があるというと聖謨は即座にゴローニンの著書を引用し、択捉島が日本の領土と主張したなどロシア側の要求を上手にかわして、最終的に、将来日本が他国と条約を締結した際はロシアにも同様の条件を与えると約束して引き揚げさせたということです。

その後、日米和親条約が締結されたために、ロシアとの間にも条約を結ぶ必要ができたので、聖謨は下田表取締江戸掛に任命されて引き続きロシアと交渉を行うことに。

尚、この年の3月に吉田松陰が密航を企てたことで師の佐久間象山も逮捕され、江戸町奉行所では死罪も検討されたが、聖謨は象山と親しかったために阿部正弘に軽い処分で済むように直訴し死罪を免れたそう。

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3-2、聖謨、再来したロシアと再交渉、安政の大地震が勃発

安政元年(1854年)10月プチャーチンが再交渉を求めて下田に来航。聖謨は大目付格槍奉行の筒井政憲、勘定吟味役村垣範正、儒者古賀謹一郎らと共に下田に赴いて、会見、交渉再開。しかし11月4日、紀伊半島南端を震源地とする「安政の大地震」が起きて、ロシア軍監ディアナ号が津波の直撃で大破したのです。

このときに上陸していたロシア人乗組員たちが日本人被災者の救助を懸命に行ったことで聖謨は感動、それまでは日記にロシア人のことを魯戎(ろじゅう、おろかな野蛮人)と書いていたが、住民の救助後は魯人と呼び方を改めて書いたほど。

3-3、日露合同で船の建造に

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Anonymous Japanese painter, 1855 - [1], パブリック・ドメイン, リンクによる

プチャーチンは座礁したディアナ号修理のため、下田から戸田(へだ)村(現静岡県沼津市)へ回航途中、風浪でディアナ号は沈没、今度は浜の漁民たちがロシア人乗組員500人全員を救助しました。

そして新たな船の建造を幕府に申請したプチャーチンに聖謨は全面協力、江川英竜とともに責任者となり、ロシア人の弱味につけこまずに条約交渉は行いつつ、造船に必要な物資、日本国中の船大工を送り込んだということ。戸田村民たちも滞在中のロシア人に対して、「もらうな、やるな(与えるな)、つきあうな」という禁制があったにもかかわらず、愛想よく迎えて住居と生活に必要なものをすべて提供したうえに、友情に厚く同情心に富んだ対応で、滞在中、誰一人として侮辱を受けず常に好意と尊敬を示されたし、日本を去るときにも友情を示し別れを惜しんだとロシア人は歓喜して記録したということです。

船の設計は、技術将校モジャイスキー大尉指導のもとに、工学士、士官が担当、日本人大工が同席して行われ、建造は安政元年(1854年)12月24日に開始して順調に進行、設計から百日余の翌安政2年(1855年)3月15日ころに竣工。この船はプチャーチンによって「戸田号(ヘダ)」と命名。2本マストの帆船で87トン、50人乗りで建造費は三千百両二分かかったそうで、プチャーチンと部下47人は、3月22日にヘダ号で帰国の途について、7カ月後に首都サンクトペテルブルグに到着。その他の乗組員は、下田に入港していたアメリカ船とドイツ船に分かれて乗り込み帰国。

3-4、聖謨、日露和親条約を締結

船の建造と並行して5回の交渉が行われ、議論の末に条約は日米和親条約に近い内容で合意。北方領土交渉は、聖謨とプチャーチンの間で激論になり、プチャーチンは択捉島までが日本領、以北の諸島はロシア領で樺太は全てロシア領と主張したが、聖謨は日本側の樺太調査の歴史をあげて反論、結果的には択捉島まで日本領、樺太の国境は画定しないことでに決定。安政元年12月21日(1855年2月7日)、日露和親条約が結ばれ、現在は2月7日が北方領土の日となっているということ。

聖謨は安政2年 (1855年)1月、再度下田へ出向いた後、江戸に戻って、蕃書調所やお玉ヶ池種痘所の創設に携わり、また、8月に禁裏御造営御用掛を兼務して、京都へ出向いて精力的に働いたそう。

3-5、聖謨、安政の大獄で左遷

聖謨は安政5年(1858年)、朝廷に日米修好通商条約の承認を得るために、老中堀田正睦に同行して上洛したが失敗に終わり、江戸へ戻った後、井伊直弼が大老に就任、聖謨は一橋派だったために西丸留守居役に左遷となり、翌年の8月、さらに西丸留守居役も罷免され、隠居差控に

3-6、聖謨、病気を理由に引退

聖謨は文久の改革後の文久3年(1863年)、勘定奉行格外国奉行に復帰したが、外国奉行は名ばかりのもので一橋慶喜関係の御用聞きのような役回りだったため、わずか4カ月で病気を理由に退職しました。

晩年は、3度中風の発作を起こして半身不随となったり、弟の井上清直が亡くなるなどの不幸が続き、慶応4年(1868年)3月15日、新政府軍の江戸城総攻撃が予定された日に、割腹のうえで拳銃で喉を撃ち抜いて自害、68歳で死去。

自殺の理由は、勝海舟と西郷隆盛の会談で無血の江戸開城が決定したことを知らなかったために、病躯の身で幕臣として足手まといと考えた、または江戸開城の報を聞いて幕府に殉じたとも言われ、半身不随で刀ではうまく死ねないと拳銃を使ったのではと言われています。

4-1、聖謨の逸話

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published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) - The Japanese book "幕末・明治・大正 回顧八十年史" (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho), [1], パブリック・ドメイン, リンクによる

聖謨は日記を残していて、色々な逸話が伝わっているのでご紹介しますね。

4-2、聖謨の日常

聖謨は日課として、なんと午前2時起き執筆、読書、夜が白んでくると庭に出て刀の素振りと槍のしごきを平均2千回。その後に来客の相手をして午前10時に江戸城に登城(籠の中で読書)して午後5時まで勤務(この時代は普通10時から2時)。

帰宅後は待っていた客と一緒に晩飯を食べて話を聞き、酒は1合まで。客の応接が済むのが午後10時頃なので執筆、読書をして12時に就寝という、睡眠時間はわずか2時間でも平気だったそうで、59歳の時にさすがに医師に止められたが、それでは御奉公が出来ないと続けたということです。

\次のページで「4-3、日露交渉で驚嘆」を解説!/

4-3、日露交渉で驚嘆

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パブリック・ドメイン, リンク

日露交渉のとき、ロシア側は聖謨のユーモア交じりで聡明な人柄に魅せられ、ヨーロッパの上流社会で立派に通用すると記録したほど。

そして「百代の過客」ドナルド・キーン著によれば、聖謨の残した「下田日記」に、プチャーチンに写真をとりたいといわれたとき聖謨は、自分は元来の醜男で年を取って妖怪のようになったのに、ロシアの女性に日本人男子の代表と思われては困るというと、プチャーチンは、ロシアの婦人でもバカは男の良し悪しを、才人は官職を言うもので男の顔の美醜をいうのは愚人だから心配はいらないと返され、聖謨は醜男とはわかっているが、そこまでとは思わないのにプチャーチンも返事に困ったのかと日記に残したとか、ロシア人は女性の話をすると喜ぶというので、自分の妻は江戸でも1、2を争う美人だというと予想通り受けたとか、ほかにもなかなかにユーモアのある打ち解けた応対の様子を書き残しているようです。

またプチャーチンに随行し、後に作家となったイワン・ゴンチャロフも、聖謨は私たちを反駁する巧妙な弁論をもって知性を閃かせたので、尊敬しないわけにいかないし、一言一句から物腰まで、すべて良識、機知、炯眼、練達を顕すほどだと記述し、プチャーチンも、聖謨はヨーロッパでも珍しいほどのウィットと知性を備えた人物だったと書き残したということ。

4-4、その後も日露交流があった

明治20年(1887年)、プチャーチンの孫娘のオルガ・プチャーチナ伯爵が戸田村を訪ねて100ルーブルを寄付、その後の歴史の激動の中にも両家の交流は続き、平成20年(2008年)の日露修好150年式典にも聖謨、プチャーチンらの子孫が招待されたということです。

ロシア人にも尊敬された外交手腕を持った幕臣

川路聖謨は幕末に活躍した人物によくある、生まれながらの幕臣ではなく養子として幕臣となった人物。小普請組から出て出世と言うのはなかなか難しいのですが、この人は仙石騒動の裁定で認められ、とんとん拍子に出世し、佐渡奉行、奈良奉行時代も領民に慕われて業績を残し、蛮社の獄にも水野忠邦の失脚にも影響を受けず、ペリー来航の後、次々と条約を結びに外国船が来航したなかでロシアの担当になり、交渉するうちにロシア代表のプチャーチンと信頼関係を結びました。

圧巻は安政の大地震でロシア人が津波で遭難した日本人を助けるのに感心し、ロシア船が座礁後、静岡の戸田で日本中の船大工を集めて日露合同でヘダ号を作るという、前代未聞のコラボの責任者となったこと。失礼ながら年配の幕臣とは思えないユーモア交じりの柔軟な対応でロシア側からもヨーロッパの社交界でも通用する紳士と大絶賛され、言葉の壁も何のそので聖謨がいればこそ、この合同造船が成功したのだといわれています。

激動の幕末、明治維新は劇的な出来事が次々と起こったカオス状態のため、ヘダ号の話も最近になって知られるようになったのですが、それにつれて川路聖謨の有能さ、外交手腕も脚光を浴びて再評価されるのは間違いないことでしょう。

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ロシア代表と渡り合った幕臣「川路聖謨」をわかりやすく歴女が解説

今回は川路聖謨を取り上げるぞ。幕末に外国との条約で活躍した幕臣ですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末、明治維新が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末、明治維新は勤皇佐幕に関わらず興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、川路 聖謨について5分でわかるようにまとめた。

1-1、川路聖謨は豊後国日田の生まれ

川路聖謨(かわじとしあきら)は、享和元年(1801年)4月25日、豊後国日田(現大分県日田市)で誕生。父は日田代官所属吏の内藤吉兵衛歳由で、母は日田代官所手付の高橋誠種の娘の次男。幼名は弥吉、通称は左衛門尉、諱は萬福(かずとみ)、のちに聖謨と改名、号は敬斎、頑民斎。

兄弟は4人で長兄は夭折、3弟が外国奉行を務めた井上信濃守清直、4弟が内藤家を継いだ幸三郎。母方の従弟に江戸幕府最後の西国郡代の窪田鎮勝(しげかつ)、海軍伝習所から海軍軍人となった根津勢吉、幕臣から明治後に宮崎県知事となった永峰弥吉もいとこ。

1-2、聖謨の子供時代

聖謨の先祖は甲斐の武田家家臣で、武田家の滅亡後は代々甲州で漢書を教えていたが、父吉兵衛が全国を流浪して豊後国日田で代官所の下級役人となり、文化5年(1808年)、聖謨が7歳の時に江戸に出て御家人株を入手、幕府徒歩組の西丸徒士になりました。

聖謨一家の生活は極貧なるも、父母の聖謨への期待は大きく、生活を切り詰めて学習塾へ通わせ、父も学問の手ほどきをしたそう。聖謨が6歳の時、父は通りすがりの馬に乗った身分の高い武士を見て、一生懸命勉強すればああなれると言うと、聖謨は必ずなる、がんばると言って父を喜ばせたという話です。

1-3、聖謨、御家人の養子となる

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文化9年(1812年)、聖謨は12歳で小普請組の川路三佐衛門光房の養子となり、翌年元服して、弥吉から萬福(かずとみ)と名乗り、小普請組に。文化14年(1817年)、勘定奉行所の下級吏員資格試験である筆算吟味に及第。文化16年(1816年)、聖謨は川路家の家督を相続して就職活動を始めたが、勘定奉行や勘定吟味役が登城する前に日参する毎日で、父は酒断ち、母は寒中に水垢離をとって祈ったそう。

そして就職活動3年目の文政元年 (1818年)に、根回しも功を奏したらしく、普通でも早くて5、6年かかるという幕府へ出仕がかなって、勘定奉行所(幕府の財政の他に民事訴訟なども担当)支配勘定の下役となって4年ほど務めて御勘定に昇進、旗本に。文政6年 (1823年) には評定所留役に昇進して将軍への謁見を許される御目見以上の資格も得たが、その直前に父が病で急逝した無念を日記に著しています。

2-1、聖謨、仙石騒動の裁定で注目

聖謨は天保6年( 1835年)、寺社奉行所に出向中、出石藩の家老が主家乗っ取り未遂を起こしたお家騒動の「仙石騒動」が勃発、寺社奉行の脇坂安重を助けて事件を裁いた功績で、同年11月には支配勘定から勘定吟味役(御勘定、勘定奉行に次ぐ重職)に抜擢されました。

これは異例の大出世だったために当時の幕臣の間で噂になったほどで、聖謨も旗本となり西洋諸国の動向に関心を持って、当時の海外事情や西洋の技術などに通じた佐久間象山、間宮林蔵、藤田東湖、江川英龍、渡辺崋山など洋学の俊英の有名人たちと交流するように。特に江川や渡辺とは蘭学や海防に関する興味から親しくなって尚歯会に参加、この人脈が後日、日記によれば「我らも既に危うき目に遭いき」に。

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