今回は荒木村重を取り上げるぞ。信長に反逆したんだって、その後どうなったか、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、荒木村重について5分でわかるようにまとめた。

1-1、荒木村重は摂津国池田の生まれ

荒木村重(あらきむらしげ)は、天文4年(1535年)、摂津国池田城主で摂津池田家の家臣荒木信濃守義村(よしむら)の嫡男として、摂津の池田(現大阪府池田市)で誕生。祖父の高村の子と言う説もあるそうで、母は不詳。幼名は十二郎、後に弥介(または弥助)、諱は村重、号は道糞、道薫。村重は子供の頃、他の少年よりも力が強くて弓と乗馬を好んだとか、大食だったとか、常に槍太刀で勝負とかで遊んだという話も伝わっているとか。

荒木氏は波多野氏の一族で先祖は藤原秀郷となっていますが、村重の祖父高村が摂津国河辺郡小部庄に移って、摂津池田城主の池田長正の家臣になってから史料に登場したという、氏素性がはっきりしないお家柄。

1-2、村重の主君、信長の配下に

村重は、最初は摂津池田城主の池田長正の一族だった池田勝正の家臣として仕えていましたが、主君池田長正の娘と結婚し、自分も池田一族の親戚になりました。そして永禄6年(1563年)城主の長正の死後、一族から選ばれた勝正(長正の嫡男説も)が城主に。もともと池田氏は三好氏の盟友でしたが、翌年の永禄7年(1564年)、三好長慶が死去して三好氏が弱体化したので、勝正は三好三人衆の三好長逸(ながやす)、三好政康、岩成友通と組んで三好氏家臣の松永久秀と戦い、この合戦で東大寺大仏殿が焼失したのは有名です。

そして永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると、三好三人衆が逃亡し、松永久秀や摂津の他の豪族が降伏していく中で池田勝正は抵抗を試み、池田城は織田信長軍の攻撃を受けて落城したのですが、勝正は信長に逆に評価されて6万石をもらって家臣となったのですね。

1-3、村重、主君の池田家を乗っ取る

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村重の主君池田勝正は、信長によって室町幕府から摂津三守護の1人に任命され、伊丹親興、和田惟政を配下とし摂津を治めることになりました。そして永禄12年(1569年)の三好三人衆による本圀寺の変(六条合戦)では、桂川で細川藤孝や三好義継と共に三好三人衆と戦って功績をあげ、あの金ヶ崎の退き口では織田方の武将として明智光秀、羽柴秀吉らと殿(しんがり)を務めるなど活躍。

そこに村重が池田家の重臣の「池田21人衆」のひとりとして頭角をあらわしてきて、三好三人衆の調略で前城主の長正の息子の池田知正と共に三好家に寝返り、知正に勝正を追放させ、その混乱に乗じて村重は池田家を掌握したのです。そして、村重は元亀2年(1571年)8月、対和田惟政、茨木重朝連合軍との白井河原の戦いで勝利、村重は織田信長に気に入られて三好家から織田家配下に移ることを許されたのですね。

村重は天正元年(1573年)に摂津茨木城主となって、信長が足利義昭を攻めた時には城に信長を迎え入れ、若江城の戦いで功績をあげたそう。尚、前主君の池田知正は義昭方に属していたが、信長に降参して村重の家臣となり、村重はこれぞ下克上というかたちで池田城主となって、摂津は南北朝時代以降は郡に分かれた支配体制だったのが、村重によって一国一大名体制になったということ。

1-4、村重、摂津の国を任され、有岡城を中心地に

村重は、その後、天正2年(1574年)11月、摂津国人の伊丹氏の支配する伊丹城(現兵庫県伊丹市)を攻め落とし、摂津一国を任され、翌年、有馬郡の分郡守護赤松氏を継承した摂津有馬氏を滅ぼし、有馬郡を平定しました。

そして村重は、摂津の国の中心を、足利幕府の守護大名の細川氏、その後の三好氏が統治していた頃の中心だった芥川山城(あくたがわやまじょう、現大阪府高槻市)、越水城(こしみずじょう、現兵庫県西宮市)の両城を廃し、伊丹城を改称した有岡城を中心とし、新しい支配体制を構築

村重は以後、信長に従って、越前一向一揆討伐や石山本願寺との石山合戦、紀州征伐など各地を転戦して武功を挙げたということ。村重は従五位下摂津守となり、茶人としての素養もあったので、天正4年(1576年)には信長に茶会を催す許可を得たり、信長主宰のお茶会にも招いてもらえるほどの信長お気に入り武将となったのです。

2-1、村重、信長に反旗を翻す

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天正6年(1578年)10月、村重は、播磨国の三木城での合戦で羽柴秀吉軍に加わっていたが、有岡城(伊丹城)で突然、信長に対して反旗を翻しました。信長は村重を重用していたため驚いて翻意をうながそうと、村重の長男の嫁の父でもある明智光秀、松井友閑、万見重元らの糾問の使者を送り込み説得に。

そして村重は説得応じて、信長への釈明のために安土城に向かったが、途中で立ち寄った茨木城で家臣の中川清秀に、信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼす人だと進言されて伊丹に逆戻り。そこで秀吉が、村重と旧知の仲でもある黒田官兵衛孝高を使者として有岡城に派遣して説得させたが、村重は丸腰でひとりで訪れた官兵衛をを拘束、官兵衛は以後1年も土牢に監禁されることに。

尚、官兵衛が帰って来ないために信長は官兵衛が寝返ったと思い込み、秀吉に預けていた官兵衛の一人っ子松寿丸(のちの長政)を殺すように命令したが、官兵衛の同僚で軍師の竹中半兵衛が黙って松寿丸を殺したことにして自分の領地にかくまった話は有名です。

2-2、有岡城籠城後、村重は逃亡

村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦。信長は村重の側近だった中川清秀と高山右近を説得、高山右近は信長に降伏(のちに中川清秀も)したので村重は孤立無援となり、圧倒的に不利な情勢になったそう。

しかし村重はその後も万見仙千代重元らの軍を打ち破るなど、一時は織田軍を退ける奮戦をしたが、兵糧も尽き始め、期待した毛利氏の援軍も現れなかったため(毛利からは兵糧は送られたが、信長軍の包囲で届かないようになった)、絶体絶命の窮地に陥ったのですね。

そして村重は、城から兵を出して合戦をしている間に退却して、うまくいかなければ尼崎城と花隈城とを明け渡して助命を請うと言いつつ、天正7年(1579年)9月2日、なんとわずかな家臣とともに、家宝の茶壺(銘兵庫)を背負って、名鼓「立桐筒」を腰にくくりつけて有岡城を脱出して、嫡男村次の居城の尼崎城(尼崎古城、現在の尼崎城趾とは別もの)へ

籠城する城の城主が家来や家族を置いて逃亡するなどあり得ない出来事なので、村重は味方を見捨てて逃げたと言われてもしょうがない行動ですが、じつは毛利の援軍を頼みに行くためだったという説もあるそう(その場合、名物茶器は手土産ということに)。

2-3、村重の家臣も逃亡

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10月15日、間者によって村重逃亡が信長陣に伝わったために有岡城は総攻撃を受け、11月19日、城守の村重の家臣荒木久左衛門(池田知正)は開城を決意しました。

そして織田軍の津田信澄が接収部隊を率いて本丸に入城し、有岡城の戦いは終結。信長は、荒木久左衛門ら村重の家臣と、尼崎城と花隈城を明け渡せば妻子を助けるという約束をし、久左衛門らは織田方への人質として妻子を有岡城に残して、手勢300名と尼崎城へ村重を説得に行ったが、村重は説得に応じなかったので、困った久左衛門らも妻子を見捨てて遁走(淡路に逃げたそう)。

2-4、村重と家臣の妻子たちは処刑

村重だけでなく家臣も逃亡したと知った信長は激怒し、村重らを「侫人」(ねいじん)と呼び、不憫といいつつみせしめのために「荒木一族は武道人にあらず」と人質全員を処刑するように命令しました。

まず村重の室(継室、または側室)の「だし」(今楊貴妃と言われた美女)ら荒木一族と重臣36名が妙顕寺に移送。12月13日には尼崎城の近くの七つ松に有岡城の本丸にいた家臣の妻子ら122名が護送されたのち、97本の磔柱を立てて死の晴着をつけて、鉄砲や長槍で殺害。3日後の16日に、京都に護送された村重一族と重臣の家族が京都市中を引き回された後、六条河原で斬首。その後男性124名、女性388名が4軒の農家に入れられ、生きたまま農家ごと火をつけて焼殺されるという、約670名が処刑されました。

その後も信長は避難していた荒木一族を発見次第皆殺しにしたなど、徹底的に村重を追及。また天正9年(1581年)8月には高野山金剛峯寺が村重の家臣をかくまって探索の信長家臣を殺害したことから、全国の高野山の僧数百人を捕らえて殺害したということです。

2-5、村重と息子たち、家臣も生きながらえる

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しかし肝心の村重本人は長男村次、次男村基と共に荒木元清の花隈城(現神戸市兵庫区)に移り、信長の武将の池田恒興と長男元助、次男輝政らが攻めてきたため、4カ月ほど籠城して戦ったが、最後は毛利氏に亡命して尾道(現広島県尾道市)に隠遁。 家臣の久左衛門も逃亡し、その後秀吉に仕えたということです。

尚、村重の嫡男の正室だった明智光秀の娘は籠城前に離縁、人質だった高山右近の妹と息子、城内で抗戦した右近の父は許され、黒田官兵衛孝高も家臣が助け出して無事。信長は官兵衛が無事と知り、殺せと命令した孝高の子松寿丸も生きていると知りほっとしたそうです。

2-6、晩年の村重、 茶人として復活

尾道に隠棲していた村重は、天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変で横死後、大坂の堺に戻って居住するようになりました。そして豊臣秀吉が天下人となり覇権を握ると千利休らと親交して、「利休七哲」の1人に数えられるほどの茶人となりました。

しかし有岡城の戦いでキリシタンに恨みを持っていたために、小西行長、高山右近を讒訴したが失敗、秀吉の勘気をこうむって長く引見を許されなかったとか、秀吉が出陣で留守の間、村重が秀吉の悪口を言ったことが北政所に聞こえたと知るや、処刑を恐れて出家、荒木道薫(どうくん)と号するようになったそう。そして村重は天正14年(1586年)5月、堺で52歳で死去。

尚、村重と一緒に脱出した長男村次も後に許されて秀吉に仕えて賤ヶ岳合戦で足を怪我した後大阪に住み、秀吉にも親しく呼び出されたが、慶長4年(1599年)頃に38歳で死去、次男村基は早世したということです。

\次のページで「3-1、村重、謀反の理由は」を解説!/

3-1、村重、謀反の理由は

信長は村重を重用していたので反逆に驚き、何度も翻意を促したほどで、なぜ急に信長に対して反旗を翻したのかは、諸説があって今もはっきりとは解明されていませんが、色々な説をご紹介しますね。

3-2、足利義昭、石山本願寺の意向説

村重の支配下にあった摂津は、当時、中国征伐中の羽柴秀吉と播磨、丹波方面に進出中だった明智光秀らにとっては重要な地点だったので、村重が反旗を翻せば秀吉と光秀は孤立し、織田軍にとって打撃になるために、村重と親しかった足利義昭と石山本願寺の要請の上での反逆と言う説。

実際、幕府奉公衆のひとりだった小林家孝が有岡城に入城し、義昭らと連絡係を務めていたということですが、有岡城籠城時には石山本願寺からの援軍はなかったそう。

3-3、家臣が石山本願寺と通じたため説

村重の家臣(中川清秀らしい)が密かに石山本願寺に兵糧を横流ししたのを知り、信長に発覚後の処罰を恐れたため、または村重が信長の命令で石山本願寺に和睦の交渉役として出向いた際、城内の困窮ぶりをみて交渉を有利にするために独断で米100石を提供したという説があります。

3-4、助命した旧知の裏切りから

「武功夜話」には羽柴秀吉の播磨攻めで、神吉城(現加古川市)の攻城戦が行われたときに、城内の内通者となった城主頼定の叔父神吉貞光は、村重と旧知の間。なので村重の要望で落城後に秀吉は貞光を助命したが、貞光は直後に三木城の別所長治のもとに走ったために、村重も疑われることになったという説。

3-5、信長の側近との対立説

信長の側近の長谷川秀一(ひでかず)の傲慢に耐えかねたという説で、「当代記」には、秀一が村重に小便をひっかけたとあるそうですが、これは竹中重治が稲葉山場を乗っ取るときと同じ逸話。なので信頼性は乏しいとはいえ、信長の側近と何らかのトラブル、対立があったとみることもできるそう。

また、村重が天正元年(1573年)、信長を近江国の瀬田で出迎えた際、挨拶をした村重に信長が刀の先に餅(または饅頭)を突き刺して差し出して食べろと言ったが、それを村重は顔色も変えずに食べ、さらに刀を袖でふき取るという行為で信長に豪胆さを気に入られた有名な話があるのですが、これを村重が根に持っていたという怨恨説もあるそう。

3-6、領民の影響説

村重の治める摂津国内では、摂津の国人や農民が織田政権の下での支配強化に対し反発していたということで、領民の突き上げに押された村重が信長に反旗を翻した説。

村重の反逆の直後、石山本願寺を目の前にして信長との石山合戦に中立的だった摂津西部の一向一揆が蜂起し、尼崎城や花隈城の戦いでは農民主導の抵抗があったということで、信長軍は西宮から須磨の村々を焼き討ちにし、兵庫の津では僧俗男女の区別なく皆殺しを行ったということ。

3-7、官兵衛との謀略説

当時は小寺孝隆を名乗っていた黒田官兵衛孝高と相談したうえの謀略説で、信長暗殺のために、のちの本能寺の変のごとく、手勢が手薄なところへ信長を誘い出して夜襲する計画を立てたということ。

\次のページで「3-8、将来に希望が持てなくなった説」を解説!/

3-8、将来に希望が持てなくなった説

村重は石山合戦では先鋒を務め播磨国衆との繋がりもあったが、本願寺攻めの指揮官が佐久間信盛になり、播磨方面も羽柴秀吉が司令官に就任したため、信長の武将として活躍の場がなくなって悲観したという説。

また村重は主君を追い落としたとはいえ、戦の相手にも寛容な態度だったということで、信長に従い転戦するうちに信長の残虐さにいたたまれなくなったという説もあるそうです。

4、村重の子孫

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岩佐又兵衛 - 岩佐又兵衛<新潮日本美術文庫 6>, パブリック・ドメイン, リンクによる

江戸時代初期に絵師として活躍し、俵屋宗達と並ぶ江戸初期を代表する大和絵絵師で浮世絵の祖といわれる岩佐又兵衛は、荒木村重の息子で、乳母に守られて石山本願寺に逃れて生き延びた人。

落城の際に細川忠興が預かって細川家中で育ち、成長後は無役の御知行三百石を賜り、後に丹後大江山の細川家高守城代などを務めた荒木善兵衛。

そして大阪府岸和田市荒木町は、伊丹城陥落時に村重の息子のひとりの岩楠が乳母と共にへ逃れ、荒地だった土地を開墾して土着して出来た村と言い伝えが。

熊本藩には村重の息子の村勝の子克之が仕官、荒木流拳法は創始者を村重の孫荒木夢仁斎源秀縄としているなど、皆殺しを逃れた子孫はほかにもいたようです。

信長に反逆して籠城、しかし家族皆殺しでも自分だけ生き残った

荒木村重は摂津の国の土豪としてまさに下克上で主家池田家を追い落としたのちに、天下取りを目指して上洛した信長に接近、気に入られて摂津の国を任されたうえ信長の武将として働くうちに、何が原因かは不明だが信長に反逆して籠城、挙句の果てに家臣や家族を置いて逃亡し、怒り心頭の信長に家族や家来が皆殺しに。

こういう場合、常識的に考えても大将は自分が切腹して家族や家臣の助命をしたり、もし自分だけが生き延びたとしても出家して菩提を弔いつつ隠棲するものですが、村重は夜半に紛れて城から逃亡して最終的には毛利家の領土に亡命。

そして信長が本能寺の変で横死すると、堺へのこのこと帰ってきて茶人となり秀吉に仕え、自分を裏切った高山右近らの悪口を言ったり、秀吉の悪口を言ったりと、ちょっと何を考えているのかわからない行動に出たよう。こうなればいっそのこと信長に反旗を翻した事情から家族や家臣が皆殺しに会った時の胸中まで、赤裸々に書いて残していればよかったのにとそれだけが残念ですね。

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室町時代戦国時代日本史歴史

信長に反逆した戦国武将「荒木村重」をわかりやすく歴女が解説

今回は荒木村重を取り上げるぞ。信長に反逆したんだって、その後どうなったか、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、荒木村重について5分でわかるようにまとめた。

1-1、荒木村重は摂津国池田の生まれ

荒木村重(あらきむらしげ)は、天文4年(1535年)、摂津国池田城主で摂津池田家の家臣荒木信濃守義村(よしむら)の嫡男として、摂津の池田(現大阪府池田市)で誕生。祖父の高村の子と言う説もあるそうで、母は不詳。幼名は十二郎、後に弥介(または弥助)、諱は村重、号は道糞、道薫。村重は子供の頃、他の少年よりも力が強くて弓と乗馬を好んだとか、大食だったとか、常に槍太刀で勝負とかで遊んだという話も伝わっているとか。

荒木氏は波多野氏の一族で先祖は藤原秀郷となっていますが、村重の祖父高村が摂津国河辺郡小部庄に移って、摂津池田城主の池田長正の家臣になってから史料に登場したという、氏素性がはっきりしないお家柄。

1-2、村重の主君、信長の配下に

村重は、最初は摂津池田城主の池田長正の一族だった池田勝正の家臣として仕えていましたが、主君池田長正の娘と結婚し、自分も池田一族の親戚になりました。そして永禄6年(1563年)城主の長正の死後、一族から選ばれた勝正(長正の嫡男説も)が城主に。もともと池田氏は三好氏の盟友でしたが、翌年の永禄7年(1564年)、三好長慶が死去して三好氏が弱体化したので、勝正は三好三人衆の三好長逸(ながやす)、三好政康、岩成友通と組んで三好氏家臣の松永久秀と戦い、この合戦で東大寺大仏殿が焼失したのは有名です。

そして永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると、三好三人衆が逃亡し、松永久秀や摂津の他の豪族が降伏していく中で池田勝正は抵抗を試み、池田城は織田信長軍の攻撃を受けて落城したのですが、勝正は信長に逆に評価されて6万石をもらって家臣となったのですね。

1-3、村重、主君の池田家を乗っ取る

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村重の主君池田勝正は、信長によって室町幕府から摂津三守護の1人に任命され、伊丹親興、和田惟政を配下とし摂津を治めることになりました。そして永禄12年(1569年)の三好三人衆による本圀寺の変(六条合戦)では、桂川で細川藤孝や三好義継と共に三好三人衆と戦って功績をあげ、あの金ヶ崎の退き口では織田方の武将として明智光秀、羽柴秀吉らと殿(しんがり)を務めるなど活躍。

そこに村重が池田家の重臣の「池田21人衆」のひとりとして頭角をあらわしてきて、三好三人衆の調略で前城主の長正の息子の池田知正と共に三好家に寝返り、知正に勝正を追放させ、その混乱に乗じて村重は池田家を掌握したのです。そして、村重は元亀2年(1571年)8月、対和田惟政、茨木重朝連合軍との白井河原の戦いで勝利、村重は織田信長に気に入られて三好家から織田家配下に移ることを許されたのですね。

村重は天正元年(1573年)に摂津茨木城主となって、信長が足利義昭を攻めた時には城に信長を迎え入れ、若江城の戦いで功績をあげたそう。尚、前主君の池田知正は義昭方に属していたが、信長に降参して村重の家臣となり、村重はこれぞ下克上というかたちで池田城主となって、摂津は南北朝時代以降は郡に分かれた支配体制だったのが、村重によって一国一大名体制になったということ。

1-4、村重、摂津の国を任され、有岡城を中心地に

村重は、その後、天正2年(1574年)11月、摂津国人の伊丹氏の支配する伊丹城(現兵庫県伊丹市)を攻め落とし、摂津一国を任され、翌年、有馬郡の分郡守護赤松氏を継承した摂津有馬氏を滅ぼし、有馬郡を平定しました。

そして村重は、摂津の国の中心を、足利幕府の守護大名の細川氏、その後の三好氏が統治していた頃の中心だった芥川山城(あくたがわやまじょう、現大阪府高槻市)、越水城(こしみずじょう、現兵庫県西宮市)の両城を廃し、伊丹城を改称した有岡城を中心とし、新しい支配体制を構築

村重は以後、信長に従って、越前一向一揆討伐や石山本願寺との石山合戦、紀州征伐など各地を転戦して武功を挙げたということ。村重は従五位下摂津守となり、茶人としての素養もあったので、天正4年(1576年)には信長に茶会を催す許可を得たり、信長主宰のお茶会にも招いてもらえるほどの信長お気に入り武将となったのです。

2-1、村重、信長に反旗を翻す

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天正6年(1578年)10月、村重は、播磨国の三木城での合戦で羽柴秀吉軍に加わっていたが、有岡城(伊丹城)で突然、信長に対して反旗を翻しました。信長は村重を重用していたため驚いて翻意をうながそうと、村重の長男の嫁の父でもある明智光秀、松井友閑、万見重元らの糾問の使者を送り込み説得に。

そして村重は説得応じて、信長への釈明のために安土城に向かったが、途中で立ち寄った茨木城で家臣の中川清秀に、信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼす人だと進言されて伊丹に逆戻り。そこで秀吉が、村重と旧知の仲でもある黒田官兵衛孝高を使者として有岡城に派遣して説得させたが、村重は丸腰でひとりで訪れた官兵衛をを拘束、官兵衛は以後1年も土牢に監禁されることに。

尚、官兵衛が帰って来ないために信長は官兵衛が寝返ったと思い込み、秀吉に預けていた官兵衛の一人っ子松寿丸(のちの長政)を殺すように命令したが、官兵衛の同僚で軍師の竹中半兵衛が黙って松寿丸を殺したことにして自分の領地にかくまった話は有名です。

2-2、有岡城籠城後、村重は逃亡

村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦。信長は村重の側近だった中川清秀と高山右近を説得、高山右近は信長に降伏(のちに中川清秀も)したので村重は孤立無援となり、圧倒的に不利な情勢になったそう。

しかし村重はその後も万見仙千代重元らの軍を打ち破るなど、一時は織田軍を退ける奮戦をしたが、兵糧も尽き始め、期待した毛利氏の援軍も現れなかったため(毛利からは兵糧は送られたが、信長軍の包囲で届かないようになった)、絶体絶命の窮地に陥ったのですね。

そして村重は、城から兵を出して合戦をしている間に退却して、うまくいかなければ尼崎城と花隈城とを明け渡して助命を請うと言いつつ、天正7年(1579年)9月2日、なんとわずかな家臣とともに、家宝の茶壺(銘兵庫)を背負って、名鼓「立桐筒」を腰にくくりつけて有岡城を脱出して、嫡男村次の居城の尼崎城(尼崎古城、現在の尼崎城趾とは別もの)へ

籠城する城の城主が家来や家族を置いて逃亡するなどあり得ない出来事なので、村重は味方を見捨てて逃げたと言われてもしょうがない行動ですが、じつは毛利の援軍を頼みに行くためだったという説もあるそう(その場合、名物茶器は手土産ということに)。

2-3、村重の家臣も逃亡

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10月15日、間者によって村重逃亡が信長陣に伝わったために有岡城は総攻撃を受け、11月19日、城守の村重の家臣荒木久左衛門(池田知正)は開城を決意しました。

そして織田軍の津田信澄が接収部隊を率いて本丸に入城し、有岡城の戦いは終結。信長は、荒木久左衛門ら村重の家臣と、尼崎城と花隈城を明け渡せば妻子を助けるという約束をし、久左衛門らは織田方への人質として妻子を有岡城に残して、手勢300名と尼崎城へ村重を説得に行ったが、村重は説得に応じなかったので、困った久左衛門らも妻子を見捨てて遁走(淡路に逃げたそう)。

2-4、村重と家臣の妻子たちは処刑

村重だけでなく家臣も逃亡したと知った信長は激怒し、村重らを「侫人」(ねいじん)と呼び、不憫といいつつみせしめのために「荒木一族は武道人にあらず」と人質全員を処刑するように命令しました。

まず村重の室(継室、または側室)の「だし」(今楊貴妃と言われた美女)ら荒木一族と重臣36名が妙顕寺に移送。12月13日には尼崎城の近くの七つ松に有岡城の本丸にいた家臣の妻子ら122名が護送されたのち、97本の磔柱を立てて死の晴着をつけて、鉄砲や長槍で殺害。3日後の16日に、京都に護送された村重一族と重臣の家族が京都市中を引き回された後、六条河原で斬首。その後男性124名、女性388名が4軒の農家に入れられ、生きたまま農家ごと火をつけて焼殺されるという、約670名が処刑されました。

その後も信長は避難していた荒木一族を発見次第皆殺しにしたなど、徹底的に村重を追及。また天正9年(1581年)8月には高野山金剛峯寺が村重の家臣をかくまって探索の信長家臣を殺害したことから、全国の高野山の僧数百人を捕らえて殺害したということです。

2-5、村重と息子たち、家臣も生きながらえる

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しかし肝心の村重本人は長男村次、次男村基と共に荒木元清の花隈城(現神戸市兵庫区)に移り、信長の武将の池田恒興と長男元助、次男輝政らが攻めてきたため、4カ月ほど籠城して戦ったが、最後は毛利氏に亡命して尾道(現広島県尾道市)に隠遁。 家臣の久左衛門も逃亡し、その後秀吉に仕えたということです。

尚、村重の嫡男の正室だった明智光秀の娘は籠城前に離縁、人質だった高山右近の妹と息子、城内で抗戦した右近の父は許され、黒田官兵衛孝高も家臣が助け出して無事。信長は官兵衛が無事と知り、殺せと命令した孝高の子松寿丸も生きていると知りほっとしたそうです。

2-6、晩年の村重、 茶人として復活

尾道に隠棲していた村重は、天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変で横死後、大坂の堺に戻って居住するようになりました。そして豊臣秀吉が天下人となり覇権を握ると千利休らと親交して、「利休七哲」の1人に数えられるほどの茶人となりました。

しかし有岡城の戦いでキリシタンに恨みを持っていたために、小西行長、高山右近を讒訴したが失敗、秀吉の勘気をこうむって長く引見を許されなかったとか、秀吉が出陣で留守の間、村重が秀吉の悪口を言ったことが北政所に聞こえたと知るや、処刑を恐れて出家、荒木道薫(どうくん)と号するようになったそう。そして村重は天正14年(1586年)5月、堺で52歳で死去。

尚、村重と一緒に脱出した長男村次も後に許されて秀吉に仕えて賤ヶ岳合戦で足を怪我した後大阪に住み、秀吉にも親しく呼び出されたが、慶長4年(1599年)頃に38歳で死去、次男村基は早世したということです。

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