ビル・クリントンは第42代アメリカ大統領。妻のヒラリーと共に国民的人気を誇る、民主党の顔と言える政治家です。ルインスキーとの不倫スキャンダルのニュースが話題になったことも記憶に新しい。政治活動だけではなくプライベートが何かと話題となる政治家でもある。

女性問題のイメージが強いクリントン元大統領ですが、当時の政治・経済政策はどうだったのでしょうか。関連する話題や写真と共に、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。「ビル・クリントン」は、大統領選でジョージ・H・W・ブッシュに勝利して米国大統領になった人物。のちに妻ヒラリーが立候補してトランプと戦ったときは夫として選挙運動に参加した。そんな元大統領に関係する情報をまとめてみた。

「ビル・クリントン」とは?

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ビル・クリントンとは、弁護士そしてアーカンソー州知事を経て合衆国大統領となった政治家です。彼の妻はヒラリー・ロダム・クリントン。ファーストレディであると同時に、女性として初めて大統領候補に指名された人物です。

不遇だった幼少期時代

1946年にアーカンソー州で生まれたビル・クリントン。当時の名前はウィリアム・ジェファーソン・ブライス・ジュニア。父親は、彼が生まれる前に自動車事故で亡くなっていました。

母親がロジャー・クリントンと再婚、3人の生活がはじまります。新しい父親はアルコール中毒の傾向がありました。そのためビル・クリントンは幼少期、かなりの暴力を振るわれることに。父親が発砲した銃弾で危険な目に合うこともありました。

弁護士時代にヒラリーと出会う

ジョージタウン大学を卒業したあと、ビル・クリントンは奨学生としてオックスフォード大学に留学する機会を得ます。帰国したあとはロー・スクールに入学。そこで妻となるヒラリーと出会いました。

1973年博士号を取得したあとは、アーカンソー大学のロースクールの教員となります。同時にビル・クリントンは政治に対する興味を深め、民主党の選挙運動に参加するようになりました。

「ビル・クリントン」はアーカンソー州にて政治活動を開始

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By White House photo office - http://www.reagan.utexas.edu/archives/photographs/large/C39192-3.jpg, Public Domain, Link

ビル・クリントンの最初の政治活動は1974年に行われた中間選挙。連邦下院議員選挙の出馬でした。アーカンソー州の民主党予備選で勝利し、本選挙に進出します。

連邦下院議員選は共和党に敗北

本選挙で議論となっていたのがウォーターゲート事件。これは、1972年の大統領選挙戦のときにワシントンD.C.の民主党本部で起こった、不審者の侵入、盗聴、もみ消し、隠ぺいなどの、一連のスキャンダルです。

このスキャンダルから、リチャード・ニクソン大統領は、大統領弾劾発議の末に辞任することになりました。ニクソン政権の不正に対する世論の反発は強く、民主党の躍進が期待されます。しかし、クリントンは僅差で共和党候補者に敗北しました。

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知事選挙にて初当選を果たす

次のビル・クリントンのチャレンジは1978年のアーカンソー州知事選挙。民主党の予備選に勝ったクリントンは、本選挙にも勝利して初めての当選を果たします。このときのクリントンは32歳という若さでした。

知事時代のクリントンは教育水準を向上させる政策や、道路の整備などの公共事業に取り組みます。さらに全米知事協会会長や全州教育委員会委員長などの要職にも就きました。ヒラリー・クリントンとのあいだに娘であるチェルシーが生まれたのも知事時代です。

アメリカ合衆国大統領となった「ビル・クリントン」

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アーカンソー州で実績を積んだビル・クリントンは大統領繊に出馬を果たします。このときの対立候補はジョージ・H・W・ブッシュ。大々的にネガティブ・キャンペーンを展開する戦略で知られていました。そこで、彼のネガティブ・キャンペーンで敗れた陣営を味方につけて見事に勝利します。

経済政策優先が支持されて勝利

ジョージ・H・W・ブッシュが重視してきたのが外交政策です。そこでクリントンは、自分が得意とする国内政策に力を入れました。そのひとつが財政赤字削減。ブッシュ政権時代に後回しにされていたことです。

このときアドバイザーとなったのがアラン・グリーンスパンFRB議長。FRBとは、アメリカの中央銀行の制度のこと。それを取りまとめる議長の助言をうけながら、クリントンは2300億ドルの財政黒字の達成に成功しました。

インターネットバブルでアメリカ経済を好転させる

とくに力を入れたのがアメリカの経済政策の方向性の転換です。アメリカ経済の中心はもともと重化学工業でした。それをITやハイテクにシフトさせます。そこで生じたのがインターネットバブル。大学を卒業したばかりの若手技術者や起業家たちが台頭しました。

なかでもインターネットバブルの拠点となったのがシリコンバレー。ITを活用する新しいビジネスが生まれます。インターネットブラウザや検索エンジン開発などが進んだのもこの時期でした。このバブルは2002年ごろにバブル崩壊するまで続きます。

インターネットバブルの評価はさまざまですが、わたしたちの生活を大きく変えたことは間違いないでしょう。とくに大きなインパクトを与えた出来事が、1995年に発売されたWindows95です。マイクロソフト社である創業者のビル・ゲイツは時代の寵児となりました。インターネットバブルは、有能な技術者が世界的な大富豪になれる可能性を切り開きます。バブルは崩壊したと言われていますが、その影響は現在にも及んでいるんですよ。

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「ビル・クリントン」のアジア外交は親中派

Mountain Gate of Hsi Lai Temple.JPG
By Tktru2 - Own work, CC BY-SA 3.0, Link

ビル・クリントンは外交は不得意であると言われていましたが、中国との交流は積極的に行っていました。そのため彼のアジア外交は親中派と言われ、日本では批判の対象となることもありました。

中国優遇の経済政策を進める

ビル・クリントン大統領は、中国を主要な貿易相手国と考えて優遇措置を行いました。また、中国を訪問するときは、台湾について、独立を支持しない旨を表明。当時の江沢民国家主席の方針を支持する立場を示しました。

クリントンは中国を積極的に訪問する一方、近くにある日本に立ち寄らないことが問題視されます。そこでクリントンの立場は日本を無視する「ジャパン・パッシング」と言われました。

日本に円高不況をもたらす政策も

クリントン政権が日本に大きな影響を与えたのが経済政策です。当時の金融委員長であったロイド・ベンツェン財務長官がリーダーシップをとり、円高政策を強力にすすめていきます。その結果、日本は円高不況に陥り、とくに輸出貿易が深刻なダメージをうけました。

「ジャパン・パッシング」を意識してか、後半になると、クリントンは日本を配慮した動きを見せるように。日米の安全保障問題については、日本に歩み寄る姿勢を見せるようになりました。

バブル崩壊により苦しくなった日本経済に追い打ちをかけたのが円高です。日米の貿易摩擦は以前から問題視されていました。この背景にあったのが日本企業の進出。アメリカへの日本製品の輸出量も増えていきます。それにより、米国の貿易赤字が拡大。日本の輸出拡大が、米国企業を苦境に陥らせていると考えられました。そこでわき起こったのが日本企業を締め出す流れです。とくに敵視されたのが家電と車。そこで強行された円安誘導によりアメリカ市場における日本製品のシェアは低下します。日本経済はさらに弱まることになりました。

中東問題はパパブッシュの方針を継承

President Clinton talks with Col. Paul Fletcher, USAF.jpeg
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中東エリアの政策については、湾岸戦争を開始してから和平交渉に取り組んだ、ジョージ・H・W・ブッシュ前大統領の方針を引き継ぎます。1993年には、イスラエルとパレスチナ解放機構のあいだでオスロ合意を締結。そこにクリントンは立会人として参加しました。

湾岸戦争の和平交渉は結果を残せず

オスロ合意とは「暫定自治政府原則の宣言」の略。イスラエルとパレスチナの自治政府は、互いの独立性を承認しました。さらに、イスラエル軍の撤退と、5年間のパレスチナ自治政府による自治も承認されます。

しかし、その後にオスロ合意は破綻し、ふたたび中東情勢は悪化。そこでクリントンは和平交渉を再開しますが、大きな成果は残せませんでした。現在も、この問題は未解決のままとなっています。

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サダム・フセインとの対立が続く

とくにビル・クリントン大統領はサダム・フセインに対して厳しい態度をとります。サダム・フセインとは、イラク共和国の第5代大統領。イラン・イラク戦争の開戦の引き金を引いた軍人・政治家としても知られています。

1988年にイラン・イラク戦争は終わるものの、1990にフセイン率いるイラクがクウェートを侵攻したことにより湾岸戦争が開始。ブッシュ政権時代にアメリカ軍はイラク攻撃に加担します。サダム・フセインに対する態度もパパブッシュの方針の継続と言えるでしょう。

スキャンダル多発の人生だった「ビル・クリントン」

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By Clinton White House - https://clinton.presidentiallibraries.us/items/show/47839, Public Domain, Link

ビル・クリントンのイメージとして女性スキャンダルを思い浮かべる人も多いでしょう。ホワイトハウス内で行われたさまざまな行為が発覚し、メディアを通じて詳細に取り上げられました。

モニカ・ルインスキー事件は生々しいものに

数あるクリントンの女性スキャンダルのなかで、もっとも有名なものが、モニカ・ルインスキー事件です。ホワイトハウス実習生のとき、クリントン元大統領と不倫関係にあったことで話題となりました。

不倫関係にあったことを証明するために、ドレスのDNA鑑定が行われるほど、深入りする調査となります。クリントンは最終的に、不適切な関係にあったことを認めました。

妻ヒラリーのフォローで弾劾裁判を乗り切る

モニカ・ルインスキー事件は、生々しく詳細が暴露されたこともあり、大統領の品格を問われるようになります。そこで、アメリカ大統領としては第17代大統領のアンドリュー・ジョンソン以来の弾劾裁判にかけられました。

このときホワイトハウス内の執務室にて行われた行為がマスコミを通じて暴露されるなど、まったく立場がない状態に。妻ヒラリーの擁護と民主党の援護もあり、なんとか罷免をまぬがれました。

ビルクリントンの評価はスキャンダル発覚と共に低下

ビル・クリントンは、後半の女性スキャンダルのインパクトがあまりに大きく、政治家としての仕事の評価はあやふやになってしまった印象があります。パパブッシュから大統領職を引き継ぎ、息子であるジョージ・W・ブッシュに引き渡しました。外交的に強硬路線をとる親子のあいだにで、政治家としての存在感は薄らいでしまったと言えます。ただ、妻であるヒラリーは今でも積極的に政治に関わっており、クリントンは背後でサポート。彼の政治活動は、妻を通じて継続されているとも言えるでしょう。

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アメリカの歴史世界史歴史独立後

女性スキャンダルで世間を賑わせた大統領「ビル・クリントン」の生涯を元大学教員がわかりやすく解説

ビル・クリントンは第42代アメリカ大統領。妻のヒラリーと共に国民的人気を誇る、民主党の顔と言える政治家です。ルインスキーとの不倫スキャンダルのニュースが話題になったことも記憶に新しい。政治活動だけではなくプライベートが何かと話題となる政治家でもある。

女性問題のイメージが強いクリントン元大統領ですが、当時の政治・経済政策はどうだったのでしょうか。関連する話題や写真と共に、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。「ビル・クリントン」は、大統領選でジョージ・H・W・ブッシュに勝利して米国大統領になった人物。のちに妻ヒラリーが立候補してトランプと戦ったときは夫として選挙運動に参加した。そんな元大統領に関係する情報をまとめてみた。

「ビル・クリントン」とは?

image by PIXTA / 833542

ビル・クリントンとは、弁護士そしてアーカンソー州知事を経て合衆国大統領となった政治家です。彼の妻はヒラリー・ロダム・クリントン。ファーストレディであると同時に、女性として初めて大統領候補に指名された人物です。

不遇だった幼少期時代

1946年にアーカンソー州で生まれたビル・クリントン。当時の名前はウィリアム・ジェファーソン・ブライス・ジュニア。父親は、彼が生まれる前に自動車事故で亡くなっていました。

母親がロジャー・クリントンと再婚、3人の生活がはじまります。新しい父親はアルコール中毒の傾向がありました。そのためビル・クリントンは幼少期、かなりの暴力を振るわれることに。父親が発砲した銃弾で危険な目に合うこともありました。

弁護士時代にヒラリーと出会う

ジョージタウン大学を卒業したあと、ビル・クリントンは奨学生としてオックスフォード大学に留学する機会を得ます。帰国したあとはロー・スクールに入学。そこで妻となるヒラリーと出会いました。

1973年博士号を取得したあとは、アーカンソー大学のロースクールの教員となります。同時にビル・クリントンは政治に対する興味を深め、民主党の選挙運動に参加するようになりました。

「ビル・クリントン」はアーカンソー州にて政治活動を開始

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By White House photo office – http://www.reagan.utexas.edu/archives/photographs/large/C39192-3.jpg, Public Domain, Link

ビル・クリントンの最初の政治活動は1974年に行われた中間選挙。連邦下院議員選挙の出馬でした。アーカンソー州の民主党予備選で勝利し、本選挙に進出します。

連邦下院議員選は共和党に敗北

本選挙で議論となっていたのがウォーターゲート事件。これは、1972年の大統領選挙戦のときにワシントンD.C.の民主党本部で起こった、不審者の侵入、盗聴、もみ消し、隠ぺいなどの、一連のスキャンダルです。

このスキャンダルから、リチャード・ニクソン大統領は、大統領弾劾発議の末に辞任することになりました。ニクソン政権の不正に対する世論の反発は強く、民主党の躍進が期待されます。しかし、クリントンは僅差で共和党候補者に敗北しました。

\次のページで「知事選挙にて初当選を果たす」を解説!/

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