
その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、高山右近について5分でわかるようにまとめた。
1-1、高山右近は摂津の生まれ
高山右近(たかやまうこん)は、天文21年(1552年)または天文22年(1553年)に高山飛騨守友照(ともてる)と母マリアの嫡男として誕生。きょうだいは弟と妹。通称は彦五郎、右近大夫、右近允、右近助で諱は友祥(ともなが)、長房、重友、千利休の七高弟(利休七哲)の一人で、号は南坊、等伯。洗礼名はジュスト(ユスト)。
高山氏の出自は、秩父氏の一派の高山党の庶流、または甲賀五十三家の一つともいわれ、右近の家は摂津国三島郡高山庄(現大阪府豊能郡豊能町高山)の領主。父の友照が当主になってからは、畿内で大きな勢力だった三好長慶に仕えて三好氏の重臣松永久秀の家来になりました。
1-2、右近がキリスト教徒になったきっかけ

右近の父が仕えていた摂津国滝山城主松永久秀が大和国に侵攻、永禄3年(1560年)に宇陀郡の沢城を陥落させたのちに、右近の父友照はその城主に。友照は、最初は主君の松永久秀と同じくキリスト教を迫害する立場だったそう。
で、永禄6年(1563年)、イエズス会の宣教師ガスパル・ヴィレラの堺訪問を知った大和の国の僧たちが、領主の松永久秀に宣教師の追放を依頼。久秀は宣教師と仏教関係者を議論させ、キリスト教の不審な点をあげて追放しようと画策したのですね。そこで公卿で儒者だった清原枝賢(えだかた、細川家の親戚でガラシアの侍女清原マリアの父)に議論の相手をさせ、仏教に造詣の深い友照と結城忠正を討論の審査役で討論の場を設けたそう。キリシタン側は日本語のたどたどしいヴィレラに代わり、盲目の琵琶法師だった日本人宣教師のロレンソ了斎が議論を行いましたが、なんと右近の父友照と結城忠正の審査役のほうがキリスト教の教えに感化されてしまい、その年のうちに友照はヴィレラを沢城に招き、嫡子で10歳だった右近以下、家族、家臣たちとともに洗礼を受けたということ。
右近の洗礼名はポルトガル語で「正義の人、義の人」を意味するジュスト(ユストとも)、ジュスト右近と呼ばれるように。尚、清原枝賢、結城忠正も感化されまくって洗礼を受けたそう。そしてこれまで禅宗を厚く信仰していたらしい右近の父はキリスト教の保護、普及に熱心となり、外国人宣教師たちから絶大な信頼を得て、宣教師ルイス・フロイスに「都地方の柱」と評され、右近も父と同様に熱心なキリシタンとなったということです。
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1-3、右近父子、和田惟政に仕える
永禄7年(1564年)に三好長慶の死亡後、三好氏は内紛などで急速に衰退し、右近の高山家の本来の所領がある摂津国でも豪族の池田氏、伊丹氏などが台頭。右近父子の主君松永久秀は中央での政争に敗れ、右近父子も攻め込まれて一時逃走したが、のちの15代将軍足利義昭の側近だった和田惟政に救われたそう。
永禄11年(1568年)に織田信長の強力な軍事力の庇護で、流浪の足利義昭が室町幕府15代将軍に就任後、義昭は摂津国の土着領主の入江氏を滅ぼして直臣の和田惟政を高槻城に置き、伊丹親興、池田勝正の3人を摂津守護に任命。右近父子は以後和田惟政に仕えることになり、右近の妹は和田惟政の正室に。
しかし元亀2年(1571年)、和田惟政が池田氏の家臣だった荒木村重と右近の従兄の中川清秀の軍に敗れて討死、村重が池田氏を乗っとる下克上が発生、村重は信長に、摂津国の領有権確保という切り取り勝手を得て、三好氏に接近した伊丹氏を攻め滅ぼし、摂津国は石山本願寺領有の石山周辺(現大阪市)を除いて村重の領有に。
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2-1、右近、和田惟政家のお家騒動に巻き込まれ、結果的に高槻城主に
和田惟政の死後、高槻城はその子惟長が城主となったが、まだ17歳だったため、叔父の和田惟増が彼を補佐。しかし惟長はなぜか叔父の惟増を殺害したため、惟政の正室の実家で家老格の右近父子が主な相談役となったが、これを良く思わない和田家臣が惟長に右近父子の暗殺を進言、右近父子にも惟長が好機があれば右近父子を殺す所存であることが知らされたため、右近または父友照が荒木村重に相談。村重は、それが本当ならば、むざむざ殺される前に惟長を殺すべき、そのときは兵をもって援助すると約束、惟長の所領から2万石を与えるという書状まで与えたということ。
そして元亀4年(1573年)3月、惟長は反右近父子派の家臣と共に、話し合いと称して右近父子を呼び出したのですね。罠と知りつつ右近父子は14~15名の家臣とともに高槻城へ赴き、惟長らと斬り合いに。夜間、室内で部屋の明かりが消えて真っ暗闇の中の乱闘となったが、右近は明かりが消える前に惟長の位置を確認、腕に傷を受けつつ惟長に致命傷を負わせたということ。しかし騒ぎを聞いて駆けつけた右近父子の家臣があやまって右近に斬りつけたため、右近は首を半分ほども切断する重傷を負ったのですね。右近はこの重傷から奇跡的に回復、一層キリスト教へ傾倒するようになったということ。尚、惟長は輿に乗せられ家族や家臣たちと近江国甲賀郡へ逃亡(死亡または生存説も)。
右近父子は城主が逃亡した高槻城を乗っ取り、この事件の後、右近父子は荒木村重の支配下に入ったが、村重は既に信長から摂津一円の支配権を得ていたので、和田家での事件は問題にされずに右近父子は高槻城主に。右近父子は高槻城の修築工事を行い、石垣や塗り壁などの当時畿内で流行していた最新様式を取り入れたものに改修。
以後は、村重配下の武将として活躍し、天正2(1574)年に本願寺との戦で功を挙げると、信長が摂津地域で力を有していた村重を重用する方針もあって、右近父子の高槻城の所有が正式に認められました。そして父友照は50歳を過ぎると高槻城主の地位を右近に譲り、自らは隠居としてキリシタンとしての生き方を実践するように。
2-2、荒木村重の反乱で父子が対立
天正6年(1578年)、10月末、右近が与力として従っていた荒木村重が主君織田信長に反乱。村重の謀反を知った右近は翻意させるために妹と息子を村重の有岡城に人質に出し、説得を試みるが失敗。右近は村重と信長の板挟みとなって、尊敬するイエズス会のオルガンティノ神父に助言を求めたところ、「信長に降るのが正義、よく祈って決断を」とアドバイスし、高槻城は要衝の地でもあり、信長は右近を味方につけるために降伏しなければキリシタンを迫害すると通達し、説得役の羽柴秀吉、松井友閑と機内の宣教師達を向かわせたそう。
右近は織田方につく意思だったが、村重に人質達を差し出していることと、父友照らが徹底抗戦を主張して対立、城内の家臣も真っ二つに分かれたが、信長に領地を返上して戦を回避し、そのうえに村重に対しての出兵も回避して人質が処刑されないような打開策として、右近は紙衣一枚で城を出て、信長に降参。
村重は右近の家族や家臣、人質は殺さなかったが、結果的に右近の離脱が村重敗北の大きな要因となり、村重は逃亡、抗戦した右近の父友照は捕縛されて処刑されるところを右近らの助命嘆願もあって越前国へ追放に。越前では柴田勝家から客将として扱われたということ。
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