その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、中国大返しについて5分でわかるようにまとめた。
1、中国大返しとは
中国大返し(ちゅうごくおおがえし)は、天正10年6月(西暦1582年6月-7月)、備中高松城で水攻めのさなかだった羽柴秀吉が本能寺の変を知った後、毛利氏と講和して、明智光秀を討つために京に向けただちに全軍を率いて取って返したこと。秀吉軍団2万5千人が、備中高松城(岡山県岡山市北区)から山城山崎(京都府乙訓郡大山崎町)までの約230キロを約10日間で踏破したという日本史上屈指の大強行軍。
尚、この時代、備中高松城から姫路城までは約100キロ、通常4日、早くても3日はかかった距離だが、秀吉が書かせた「惟任退治記」などでは1日か1日半程度で姫路まで着いたとあり、このあり得ない速さが本当とすれば、秀吉は本能寺の変を事前に知って準備していたのではとか、どういう行程で姫路までたどり着いたのかとか、昔からいろいろな憶測がされてきた謎の多い行軍です。
が、この行軍の勢いに乗って秀吉が山崎合戦で明智光秀の軍を撃破したのは間違いないことで、最近の研究で明らかになった情報も。
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2-1、中国大返しの発端
中国大返しに至るまでの経過をご紹介しますね。
2-2、秀吉の中国攻め
織田信長配下の武将だった羽柴秀吉はこのとき46歳で、天正8年(1580年)から黒田官兵衛に譲られた姫路城(兵庫県姫路市)を居城とし、播磨国を平定しました。
そして信長に中国路平定を目的とした中国方面軍の軍団長に任じられ、天正10年(1582年)3月、居城の姫路城から備前入り。3月17日に常山城(岡山市南区)を攻め、4月中旬には備前岡山城(当時は石山城)の宇喜多秀家の軍勢(秀家は10歳のため、叔父の宇喜多忠家が代理として指揮)と合流、総勢3万の兵力となって、備中日畑城(日幡城、岡山県倉敷市)、備中冠山城(岡山市北区)、備中庭瀬城(岡山市北区)、備中加茂城(岡山市北区)など、備前、備中における毛利方の諸城を次々と陥落させる一方で、動揺していた毛利水軍を調略して、4月14日に毛利水軍帰属の伊予の来島水軍と村上(能島)水軍を織田軍に帰順させています。
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2-3、備中高松城水攻め
そして問題の備中高松城(岡山市北区)では、城主の清水宗治は、織田、毛利両陣営双方からの誘いがあったが、毛利氏に留まり秀吉軍と相対することに。秀吉は3000の兵が守る備中高松城を攻めるのに、城を大軍で包囲して一気に殲滅という作戦が意外な苦戦となりました。
そこで低湿地にある高松城は三方が深い沼、一方が広い水堀となっていたために、黒田官兵衛の提案で城の周囲に堤防を築き、城の西側にある足守川の流れを引き込んで水攻めすることに決定。5月8日に蜂須賀正勝を奉行として造成工事が始まり、秀吉は兵や人民に高額な賃金をはずみ全長4キロ弱の堤防をわずか12日間で築造。秀吉は自軍の無益な殺生を避けるために、今までも三木城や鳥取城を兵糧攻めにして長期戦に持ち込んだことがあり、この備中高松城の水攻めもそれに並ぶ秀吉の空前の奇策として有名です。
秀吉は自分の手に余ると(手柄を独り占めにして信長に疎まれないためもある)主君信長に援軍を要請し、信長は家臣明智光秀を派遣することを伝えたが、同時に高松城攻略に専心するよう秀吉に命じたそう。ということで、梅雨の時期で城の周囲が浸水したために備中高松城は孤立状態となり、宗治を救援に来た毛利方の吉川元春、小早川隆景ら毛利軍主力も手が出せず、秀吉軍との間でにらみ合いが続いていたということ。
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2-4、本能寺の変の勃発
明智光秀は甲州征伐から帰還した後、5月15日、信長の命で長年武田氏との戦いで労のあった徳川家康の安土城での接待役となり、5月15日から17日の3日間の接待をすることに。しかし同日、秀吉からの中国攻めの援軍要請と、毛利輝元が備中高松城親征に乗り出す情報も入ったために、17日に光秀は信長に家康の接待役を解任され、秀吉援護に向かうよう命令されて居城の近江坂本城(滋賀県大津市)へ帰り、さらにもうひとつの居城だった丹波亀山城(京都府亀岡市)へ赴いて出陣準備をして、5月27日には丹波、山城の国境にある愛宕山威徳山(現京都市右京区)に参籠し、戦勝祈願の連歌の会(愛宕百韻)を開催、「時は今 天が下知る 五月哉」の発句を詠んだということ。
また信長は、5月29日に秀吉の援軍に自ら出陣するため、小姓など7、80名の供回りで安土城から本能寺(京都市中京区)に入り軍勢の集結を待つことになり、信長の嫡男の信忠は、妙覚寺(京都市上京区)に入り、翌6月1日に信長は本能寺で博多の豪商島井宗室らをまねいて茶会を開催。 そして1日夕刻に光秀は1万3000人の手勢を率いて亀山城を出発して6月2日早朝に本能寺を急襲、信長、信忠も自害したのが本能寺の変ですね。
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2-5、光秀の目論見
光秀は、遠方に遠征中の織田家の諸将が本能寺の変を知ったのちに撤収し、京都に攻めてくるのには時間がかかると予想していました。
そしてその間に織田側の諸将が対戦していた毛利氏や上杉氏などと同盟し、織田家側の諸将を挟み撃ちにする体制に持っていくなどの時間稼ぎをし、朝廷を味方に付け、畿内から近江、美濃など信長の領国の核心部を制圧すれば、遠征中の柴田勝家や羽柴秀吉などの諸将が合同して光秀に立ち向かったとしても、余裕をもって対抗できると見通しを立てたようでしたが、頼みの細川藤孝親子、筒井順慶もは味方に付かず、もたもたとしている間に秀吉が予想外の速さで帰ってきちゃったんですね。
2-6、秀吉、本能寺の変の一報を受け取る
羽柴秀吉が、本能寺の変で信長が光秀に討たれた報を聞いたのは、6月3日夜から4日未明のことでした。「太閤記」では、光秀が毛利氏に送った密使を捕縛したとあり、「常山紀談」ではより詳しく、秀吉が配置した忍びの者が備中庭瀬(岡山県岡山市北区庭瀬)で怪しい飛脚を生け捕りにしたところ、光秀が毛利へ送る密書を持っていたそう。また、前もって秀吉が京の動向を知らせるように依頼した信長の側近、茶人の長谷川宗仁からの使者だったという説も。
尚、光秀の密使は明智家臣の藤田伝八郎の名が伝わっており、岡山市北区立田に「藤田伝八郎の塚」が現在もあるということです。
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