今回は中国大返しを取り上げるぞ。秀吉が備前岡山から信じられない速さで京都まで帰ったって話ですが、本当はどうだったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、中国大返しについて5分でわかるようにまとめた。

1、中国大返しとは

中国大返し(ちゅうごくおおがえし)は、天正10年6月(西暦1582年6月-7月)、備中高松城で水攻めのさなかだった羽柴秀吉が本能寺の変を知った後、毛利氏と講和して、明智光秀を討つために京に向けただちに全軍を率いて取って返したこと。秀吉軍団2万5千人が、備中高松城(岡山県岡山市北区)から山城山崎(京都府乙訓郡大山崎町)までの約230キロを約10日間で踏破したという日本史上屈指の大強行軍。

尚、この時代、備中高松城から姫路城までは約100キロ、通常4日、早くても3日はかかった距離だが、秀吉が書かせた「惟任退治記」などでは1日か1日半程度で姫路まで着いたとあり、このあり得ない速さが本当とすれば、秀吉は本能寺の変を事前に知って準備していたのではとか、どういう行程で姫路までたどり着いたのかとか、昔からいろいろな憶測がされてきた謎の多い行軍です。

が、この行軍の勢いに乗って秀吉が山崎合戦で明智光秀の軍を撃破したのは間違いないことで、最近の研究で明らかになった情報も。

2-1、中国大返しの発端

中国大返しに至るまでの経過をご紹介しますね。

2-2、秀吉の中国攻め

織田信長配下の武将だった羽柴秀吉はこのとき46歳で、天正8年(1580年)から黒田官兵衛に譲られた姫路城(兵庫県姫路市)を居城とし、播磨国を平定しました。

そして信長に中国路平定を目的とした中国方面軍の軍団長に任じられ、天正10年(1582年)3月、居城の姫路城から備前入り。3月17日に常山城(岡山市南区)を攻め、4月中旬には備前岡山城(当時は石山城)の宇喜多秀家の軍勢(秀家は10歳のため、叔父の宇喜多忠家が代理として指揮)と合流、総勢3万の兵力となって、備中日畑城(日幡城、岡山県倉敷市)、備中冠山城(岡山市北区)、備中庭瀬城(岡山市北区)、備中加茂城(岡山市北区)など、備前、備中における毛利方の諸城を次々と陥落させる一方で、動揺していた毛利水軍を調略して、4月14日に毛利水軍帰属の伊予の来島水軍と村上(能島)水軍を織田軍に帰順させています。

2-3、備中高松城水攻め

image by PIXTA / 47838507

そして問題の備中高松城(岡山市北区)では、城主の清水宗治は、織田、毛利両陣営双方からの誘いがあったが、毛利氏に留まり秀吉軍と相対することに。秀吉は3000の兵が守る備中高松城を攻めるのに、城を大軍で包囲して一気に殲滅という作戦が意外な苦戦となりました。

そこで低湿地にある高松城は三方が深い沼、一方が広い水堀となっていたために、黒田官兵衛の提案で城の周囲に堤防を築き、城の西側にある足守川の流れを引き込んで水攻めすることに決定。5月8日に蜂須賀正勝を奉行として造成工事が始まり、秀吉は兵や人民に高額な賃金をはずみ全長4キロ弱の堤防をわずか12日間で築造。秀吉は自軍の無益な殺生を避けるために、今までも三木城や鳥取城を兵糧攻めにして長期戦に持ち込んだことがあり、この備中高松城の水攻めもそれに並ぶ秀吉の空前の奇策として有名です。

秀吉は自分の手に余ると(手柄を独り占めにして信長に疎まれないためもある)主君信長に援軍を要請し、信長は家臣明智光秀を派遣することを伝えたが、同時に高松城攻略に専心するよう秀吉に命じたそう。ということで、梅雨の時期で城の周囲が浸水したために備中高松城は孤立状態となり、宗治を救援に来た毛利方の吉川元春、小早川隆景ら毛利軍主力も手が出せず、秀吉軍との間でにらみ合いが続いていたということ。

2-4、本能寺の変の勃発

Honnoj.jpg
楊斎延一 - ブレイズマン (talk) 10:19, 12 July 2008 (UTC), パブリック・ドメイン, リンクによる

明智光秀は甲州征伐から帰還した後、5月15日、信長の命で長年武田氏との戦いで労のあった徳川家康の安土城での接待役となり、5月15日から17日の3日間の接待をすることに。しかし同日、秀吉からの中国攻めの援軍要請と、毛利輝元が備中高松城親征に乗り出す情報も入ったために、17日に光秀は信長に家康の接待役を解任され、秀吉援護に向かうよう命令されて居城の近江坂本城(滋賀県大津市)へ帰り、さらにもうひとつの居城だった丹波亀山城(京都府亀岡市)へ赴いて出陣準備をして、5月27日には丹波、山城の国境にある愛宕山威徳山(現京都市右京区)に参籠し、戦勝祈願の連歌の会(愛宕百韻)を開催、「時は今 天が下知る 五月哉」の発句を詠んだということ。

また信長は、5月29日に秀吉の援軍に自ら出陣するため、小姓など7、80名の供回りで安土城から本能寺(京都市中京区)に入り軍勢の集結を待つことになり、信長の嫡男の信忠は、妙覚寺(京都市上京区)に入り、翌6月1日に信長は本能寺で博多の豪商島井宗室らをまねいて茶会を開催。 そして1日夕刻に光秀は1万3000人の手勢を率いて亀山城を出発して6月2日早朝に本能寺を急襲、信長、信忠も自害したのが本能寺の変ですね。

2-5、光秀の目論見

光秀は、遠方に遠征中の織田家の諸将が本能寺の変を知ったのちに撤収し、京都に攻めてくるのには時間がかかると予想していました。

そしてその間に織田側の諸将が対戦していた毛利氏や上杉氏などと同盟し、織田家側の諸将を挟み撃ちにする体制に持っていくなどの時間稼ぎをし、朝廷を味方に付け、畿内から近江、美濃など信長の領国の核心部を制圧すれば、遠征中の柴田勝家や羽柴秀吉などの諸将が合同して光秀に立ち向かったとしても、余裕をもって対抗できると見通しを立てたようでしたが、頼みの細川藤孝親子、筒井順慶もは味方に付かず、もたもたとしている間に秀吉が予想外の速さで帰ってきちゃったんですね。

2-6、秀吉、本能寺の変の一報を受け取る

羽柴秀吉が、本能寺の変で信長が光秀に討たれた報を聞いたのは、6月3日夜から4日未明のことでした。「太閤記」では、光秀が毛利氏に送った密使を捕縛したとあり、「常山紀談」ではより詳しく、秀吉が配置した忍びの者が備中庭瀬(岡山県岡山市北区庭瀬)で怪しい飛脚を生け捕りにしたところ、光秀が毛利へ送る密書を持っていたそう。また、前もって秀吉が京の動向を知らせるように依頼した信長の側近、茶人の長谷川宗仁からの使者だったという説も。

尚、光秀の密使は明智家臣の藤田伝八郎の名が伝わっており、岡山市北区立田に「藤田伝八郎の塚」が現在もあるということです。

\次のページで「2-7、秀吉のリアクション 」を解説!/

2-7、秀吉のリアクション

信長横死が伝わった際、ショックで号泣する秀吉に黒田官兵衛孝高が、今が天下取りの絶好のチャンスと冷静に囁いて、(心中ではそう思っていた)秀吉が絶句し、以後官兵衛を警戒したという話も。なのでおそらくは冷静な官兵衛のアドバイスもあって、秀吉は変報が伝わると情報が漏洩しないよう備前、備中への道を完全に遮断、自陣に対しても緘口令を敷き、毛利側に信長の死を秘して講和を結び、一刻も早い上洛を決意

そして6月3日の夜、毛利側の外交僧安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を招いて黒田孝高と和睦交渉を行いました。

2-8、秀吉、毛利と講和

秀吉は、備中、備後、美作、伯耆、出雲の5か国割譲に代えて、備後、出雲を除いた備中、美作、伯耆の3か国の割譲と高松城主清水宗治の切腹を和睦条件として提示。忠義を尽くした宗治の切腹に毛利家は難色を示したが、恵瓊は高松城兵たちの助命を条件に宗治に開城を説いたということで、秀吉は宗治に酒肴を贈り、小舟で高松城を漕ぎ出した宗治は、水上で曲舞を舞い納めた後自刃。「浮世をば今こそ渡れもののふの名を高松の苔に残して」が辞世の句。

秀吉は宗治の切腹を見届けて、古今武士の明鑑と賞したが、宗治の自刃は6月4日の午前10時頃と推定、秀吉は高松城に妻北政所寧々の叔父で腹心の杉原家次を置いて東方へ引き返したそう。尚、毛利方が本能寺の変報を入手したのは秀吉撤退翌日で、吉川元春から秀吉軍追撃の声があがったが、元春の弟小早川隆景はこれを制し、誓紙を交換している上は和睦を遵守すべきと主張、秀吉に恩を売ったと言われていますが、毛利家は追撃して秀吉を討ったとしても、そのあとに光秀や柴田勝家らの織田家の武将たちと対戦する余力がなかったので断念した説も。

3-1、中国大返しの開始

Toyotomi hideyoshi.jpg
狩野光信 - 1. Shouzou.com [1], Kōdai-ji temple warehouse, Kyoto, Japan, パブリック・ドメイン, リンクによる

秀吉の居城姫路城までが勝負だった中国大返しの経過をご紹介しますね。

3-2、備中高松から姫路まで

秀吉が備中高松城を出発したのは、6月4日の午後または6月6日の未明で、中国大返しでの姫路までの行軍ルートはいまだ不明のことも多くて、山陽道の野殿(岡山市北区)を経由し、宇喜多家の居城の沼城に立ち寄り、宇喜多軍を返したと考えられています。

しかし秀吉は、6月7日の明け方に備中高松から岡山に行くと嘘の情報を流し、光秀に通じていると言われた宇喜多家を欺いて、「奥州驪(おうしゅうぐろ)という名馬に乗り雑兵に交じって吉井川を渡り、片上(現備前市)を通って宇根(現兵庫県赤穂市有年)に着き、野殿や沼城に立寄らずに宇喜多の勢力圏内から逃げて播磨まで駆け抜けた説、5日に野殿に在陣した説も。

また播磨と備前の国境には、「山陽道第一の難処」という険しい船坂峠があり、梅雨の時期で暴風雨だったという記録もあって、道筋の河川は相次いで増水、秀吉は氾濫した川の近くの農民を雇い人の鎖を作って肩にすがりつつ川を渡らせたという逸話が残っているなど、秀吉を先頭に2万以上の軍勢が後方の毛利軍を牽制しながら行軍したということで、兵は延々と縦列になって悪天候の中1日で70キロという驚異的な速度で走破したのですね。

3-3、秀吉、中川清秀に書状を送る

秀吉が、6月5日に摂津茨木城(大阪府茨木市)の城主で、明智光秀に近かった中川清秀に対して送った返書が残っていて、それによると秀吉は野殿で中川からの書状を読んだこと、5日のうちに沼城(当時の宇喜多秀家の居城)まで行く予定であること、そして、ただ今京より下った者の確かな情報から、「上様ならびに殿様いづれも御別儀なく御切り抜けなされ候。膳所が崎へ御退きなされ候」と、なんと信長も信忠も無事で近江の膳所まで逃れ、それについて家来の福富平左衛門が比類ない働きをした、めでたい、自分も早く帰城すると、真っ赤なウソの情報を書き、中川清秀が光秀に加担しないように操作したということで、秀吉は細川藤孝にも書状を送ったそう。

尚、中川清秀は高山右近の従兄で、山崎の戦いの後、陣中見回りを駕籠で行った秀吉が「瀬兵衛(せびょうえ)、骨折り」と言ったのを「猿め、はや天下を取った気でおるわ」と言いかえし、秀吉は聞こえないふりをしたという逸話の持ち主。

3-4、姫路城へ帰還して、備蓄金銀をすべて分配

image by PIXTA / 51334715

姫路城は秀吉の中国攻め以前は姫山城といい、黒田孝高の居城であったが、天正5年(1577年)の秀吉の播磨着陣の際に孝高より秀吉に献上され、秀吉が播磨を平定した後にあらためて天守閣を築き、城下町の整備をした当時の秀吉の居城です。

沼城から姫路城までは約70キロの道のりで、秀吉の姫路城帰還は6月7日夕方、または6月4日のうちに備中高松を引き払ったのならば、姫路帰還は6月6日夜だそう。しかし6日に秀吉軍全員が姫路に到着したのではなくて、トップランナーが到着して、翌日以降も次々と兵卒が姫路に到着したと考えるのが妥当ということです。

姫路城に到着した秀吉軍は、6月9日朝まで滞留し、休養。秀吉は姫路城の蔵奉行を召集し、城内に備蓄してあった金銭、米穀の数量を調べさせたうえで、身分に応じて配下の将兵にことごとく分配。これは姫路城で籠城はないことと、目的は光秀討伐であること明確にして城へ帰らないという決死の姿勢のあらわれで、勝てば更に恩賞が期待できると期待させる処置だということです。

\次のページで「3-5、秀吉、姫路を出発し山崎合戦で勝利」を解説!/

3-5、秀吉、姫路を出発し山崎合戦で勝利

image by PIXTA / 58032682

その後、秀吉は6月9日に義弟の浅野長政を留守居役に残して、全軍を率いて姫路を出発しました。備中高松城から姫路までは毛利方の追撃のおそれもありスピード重視だったが、ここから畿内までは光秀の伏兵を警戒しながら慎重着実に進みつつ、同盟者を募るために情報戦を繰り広げる行軍に。

秀吉は明石城を経て、夜半には兵庫城に到着、そこで別働隊を組織し明石海峡から淡路島東岸に進軍させて、光秀側に加担する可能性があり、水軍を持つ菅達長(菅平右衛門)の洲本城(兵庫県洲本市)を攻撃、その日のうちに陥落。秀吉は同時に光秀軍の移動と急襲に備えるために播磨、摂津国境付近の岩屋砦も普請し、翌6月11日朝に出発して夕刻には摂津尼崎へ到着。

秀吉は亡君の弔い合戦の決意として、当時、尼崎東郊にあった栖賢寺(廃寺)で髻(もとどり)を切った逸話があるということ。さらに秀吉は大坂在陣中の丹羽長秀や、信長の三男の神戸信孝、有岡城(現兵庫県伊丹市)の城主だった池田恒興らに対して書状を送り、尼崎へ着陣したこと、逆賊明智光秀を討つための義戦を強調して、富田(大阪府高槻市)に陣取ったところ、恒興、中川清秀、高山右近ら摂津の諸将が相次いで秀吉陣営に参加秀吉連合軍は4万から2万と言われ、光秀軍は1万6千から5千ということで、山崎の戦いでは自然の勢いで秀吉が主導権を握り、また大勝利につながったということです。

4-1、中国大返しの新説

従来の中国大返しは、前述のごとく、秀吉以下の軍団が梅雨のさなかに道なき道を泥だらけで必死になって駆け抜けて姫路城へたどり着くというイメージでしたが、NHK-BSプレミアムの番組「英雄たちの選択」では、最近、「中国大返し」を取り上げて奇跡ではないと解説

まず、行軍の速さは、日本陸軍の一日の行軍が約40キロで、現在の自衛隊の行軍も50キロが上限に比べて、中国大返しの秀吉は78キロでかなりの速さであるということ。しかし、鎧兜を着たままの重装備の移動と思いきや、甲冑武者は鎧兜や槍なども数人の従者に持たせて平服で馬に乗って移動、雑兵小者は自分で鎧を背負って移動し、戦場に近づいて戦闘前になってから鎧を着用、または合戦屏風などを見ても鎧兜なしで平服で戦う武者も多かったということで、兜をかぶれという法令さえあったそう。

そして各自が持つ腰兵糧は3日分程度で、戦国大名は戦場に近い支城を持っており、そこに兵糧米の備蓄をしていたために、我々の想像以上に身軽な移動であったことが判明。そして戦国大名は領内の道の整備を行っており、信長軍は、特に行軍に必要な軍道を整備するのに熱心だったので、意外と道路も整備されていたのではということ。

4-2、信長の御座所を利用

それに京都から中国大返しのルート上では城郭考古学者の千田嘉博教授によると、兵庫城(現兵庫県神戸市兵庫区)とか、小谷城(こたにじょう、現兵庫県加西市)など、信長の天正時代に改修された城の遺跡の発掘研究がすすんでいるということ。

これらの城は、もし本能寺で討たれなければ、四国、中国征伐に向かっていたはずの信長の「御座所(ござどころ)」となる城だったそう。御座所というのは、上様である信長とその軍勢の行き先の要所にある城を改修し、信長をもてなすための食糧を備蓄し、休憩、宿泊施設として使われるために整えられた施設。

秀吉とその軍勢は中国大返しで、その信長のために山陽道に用意された「御座所」を、マラソンの給水所のように利用して、信長接待に使うはずだった食糧で補給を行い、休憩を取り、信長のために整備された道を進んだので、意外なまでに早くしかも快適に帰って来られたと考えられるそう。

4-3、情報収集もバッチリだった

しかも秀吉は信長が来ることに神経を使っていたために、京都からの情報がすぐ手に入る情報網を完備し、街道を移動する者を監視するシステムも持っていたので、本能寺の変についての情報も素早く手に入れたのではということも推測。

また、このように秀吉が信長の四国、中国征伐のために万全の用意をしたことで、光秀は立場がなくて追い詰められたのではという説も出ていました。極めつけは、その後、秀吉が備中高松城から姫路城までの27里(108キロ)を2日かかったのに1昼夜で移動と手紙に書き大げさに吹聴したことで、奇跡の行軍と言われるようになったという結論でした。

秀吉の天下人への道を確定した強行軍

中国大返しは、尾張の織田信長が甲州、近江、畿内、播磨平定から中国征伐に乗り出し、信長の武将の羽柴秀吉が当時中国地方の大勢力だった毛利家と備中高松城で対戦中、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれたため、秀吉が急いで毛利と講和し、あり得ない速さで姫路城に取って返した出来事。

そして光秀が信長を討ったのちに信長にとって代わろうと京都で近隣の武将たちと交渉中に、秀吉は光の速さと破竹の勢いで畿内に乗り込み諸将と合流して、山崎合戦で光秀に圧倒的に勝利し、織田家の武将の中でアドバンテージをとり、以後は天下人の道まっしぐらとなったきっかけに。明智光秀が信長を討ったのは、色々な面からこれ以上はないという千載一遇のチャンスでしたが、秀吉もまた中国大返しで万に一つのチャンスをつかんだのですね。

それにしても秀吉がこの出来事を振り返って大げさに盛って吹聴したので、後世の人々がそのまま奇跡的な強行軍と思い込んだのが中国大返しの真相というのは、秀吉おそるべしと言うほかないかも。

" /> 秀吉が山崎合戦にこぎつけた強行軍「中国大返し」をわかりやすく歴女が解説 – Study-Z
室町時代戦国時代日本史歴史

秀吉が山崎合戦にこぎつけた強行軍「中国大返し」をわかりやすく歴女が解説

今回は中国大返しを取り上げるぞ。秀吉が備前岡山から信じられない速さで京都まで帰ったって話ですが、本当はどうだったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、中国大返しについて5分でわかるようにまとめた。

1、中国大返しとは

中国大返し(ちゅうごくおおがえし)は、天正10年6月(西暦1582年6月-7月)、備中高松城で水攻めのさなかだった羽柴秀吉が本能寺の変を知った後、毛利氏と講和して、明智光秀を討つために京に向けただちに全軍を率いて取って返したこと。秀吉軍団2万5千人が、備中高松城(岡山県岡山市北区)から山城山崎(京都府乙訓郡大山崎町)までの約230キロを約10日間で踏破したという日本史上屈指の大強行軍。

尚、この時代、備中高松城から姫路城までは約100キロ、通常4日、早くても3日はかかった距離だが、秀吉が書かせた「惟任退治記」などでは1日か1日半程度で姫路まで着いたとあり、このあり得ない速さが本当とすれば、秀吉は本能寺の変を事前に知って準備していたのではとか、どういう行程で姫路までたどり着いたのかとか、昔からいろいろな憶測がされてきた謎の多い行軍です。

が、この行軍の勢いに乗って秀吉が山崎合戦で明智光秀の軍を撃破したのは間違いないことで、最近の研究で明らかになった情報も。

2-1、中国大返しの発端

中国大返しに至るまでの経過をご紹介しますね。

2-2、秀吉の中国攻め

織田信長配下の武将だった羽柴秀吉はこのとき46歳で、天正8年(1580年)から黒田官兵衛に譲られた姫路城(兵庫県姫路市)を居城とし、播磨国を平定しました。

そして信長に中国路平定を目的とした中国方面軍の軍団長に任じられ、天正10年(1582年)3月、居城の姫路城から備前入り。3月17日に常山城(岡山市南区)を攻め、4月中旬には備前岡山城(当時は石山城)の宇喜多秀家の軍勢(秀家は10歳のため、叔父の宇喜多忠家が代理として指揮)と合流、総勢3万の兵力となって、備中日畑城(日幡城、岡山県倉敷市)、備中冠山城(岡山市北区)、備中庭瀬城(岡山市北区)、備中加茂城(岡山市北区)など、備前、備中における毛利方の諸城を次々と陥落させる一方で、動揺していた毛利水軍を調略して、4月14日に毛利水軍帰属の伊予の来島水軍と村上(能島)水軍を織田軍に帰順させています。

2-3、備中高松城水攻め

image by PIXTA / 47838507

そして問題の備中高松城(岡山市北区)では、城主の清水宗治は、織田、毛利両陣営双方からの誘いがあったが、毛利氏に留まり秀吉軍と相対することに。秀吉は3000の兵が守る備中高松城を攻めるのに、城を大軍で包囲して一気に殲滅という作戦が意外な苦戦となりました。

そこで低湿地にある高松城は三方が深い沼、一方が広い水堀となっていたために、黒田官兵衛の提案で城の周囲に堤防を築き、城の西側にある足守川の流れを引き込んで水攻めすることに決定。5月8日に蜂須賀正勝を奉行として造成工事が始まり、秀吉は兵や人民に高額な賃金をはずみ全長4キロ弱の堤防をわずか12日間で築造。秀吉は自軍の無益な殺生を避けるために、今までも三木城や鳥取城を兵糧攻めにして長期戦に持ち込んだことがあり、この備中高松城の水攻めもそれに並ぶ秀吉の空前の奇策として有名です。

秀吉は自分の手に余ると(手柄を独り占めにして信長に疎まれないためもある)主君信長に援軍を要請し、信長は家臣明智光秀を派遣することを伝えたが、同時に高松城攻略に専心するよう秀吉に命じたそう。ということで、梅雨の時期で城の周囲が浸水したために備中高松城は孤立状態となり、宗治を救援に来た毛利方の吉川元春、小早川隆景ら毛利軍主力も手が出せず、秀吉軍との間でにらみ合いが続いていたということ。

2-4、本能寺の変の勃発

Honnoj.jpg
楊斎延一ブレイズマン (talk) 10:19, 12 July 2008 (UTC), パブリック・ドメイン, リンクによる

明智光秀は甲州征伐から帰還した後、5月15日、信長の命で長年武田氏との戦いで労のあった徳川家康の安土城での接待役となり、5月15日から17日の3日間の接待をすることに。しかし同日、秀吉からの中国攻めの援軍要請と、毛利輝元が備中高松城親征に乗り出す情報も入ったために、17日に光秀は信長に家康の接待役を解任され、秀吉援護に向かうよう命令されて居城の近江坂本城(滋賀県大津市)へ帰り、さらにもうひとつの居城だった丹波亀山城(京都府亀岡市)へ赴いて出陣準備をして、5月27日には丹波、山城の国境にある愛宕山威徳山(現京都市右京区)に参籠し、戦勝祈願の連歌の会(愛宕百韻)を開催、「時は今 天が下知る 五月哉」の発句を詠んだということ。

また信長は、5月29日に秀吉の援軍に自ら出陣するため、小姓など7、80名の供回りで安土城から本能寺(京都市中京区)に入り軍勢の集結を待つことになり、信長の嫡男の信忠は、妙覚寺(京都市上京区)に入り、翌6月1日に信長は本能寺で博多の豪商島井宗室らをまねいて茶会を開催。 そして1日夕刻に光秀は1万3000人の手勢を率いて亀山城を出発して6月2日早朝に本能寺を急襲、信長、信忠も自害したのが本能寺の変ですね。

2-5、光秀の目論見

光秀は、遠方に遠征中の織田家の諸将が本能寺の変を知ったのちに撤収し、京都に攻めてくるのには時間がかかると予想していました。

そしてその間に織田側の諸将が対戦していた毛利氏や上杉氏などと同盟し、織田家側の諸将を挟み撃ちにする体制に持っていくなどの時間稼ぎをし、朝廷を味方に付け、畿内から近江、美濃など信長の領国の核心部を制圧すれば、遠征中の柴田勝家や羽柴秀吉などの諸将が合同して光秀に立ち向かったとしても、余裕をもって対抗できると見通しを立てたようでしたが、頼みの細川藤孝親子、筒井順慶もは味方に付かず、もたもたとしている間に秀吉が予想外の速さで帰ってきちゃったんですね。

2-6、秀吉、本能寺の変の一報を受け取る

羽柴秀吉が、本能寺の変で信長が光秀に討たれた報を聞いたのは、6月3日夜から4日未明のことでした。「太閤記」では、光秀が毛利氏に送った密使を捕縛したとあり、「常山紀談」ではより詳しく、秀吉が配置した忍びの者が備中庭瀬(岡山県岡山市北区庭瀬)で怪しい飛脚を生け捕りにしたところ、光秀が毛利へ送る密書を持っていたそう。また、前もって秀吉が京の動向を知らせるように依頼した信長の側近、茶人の長谷川宗仁からの使者だったという説も。

尚、光秀の密使は明智家臣の藤田伝八郎の名が伝わっており、岡山市北区立田に「藤田伝八郎の塚」が現在もあるということです。

\次のページで「2-7、秀吉のリアクション 」を解説!/

次のページを読む
1 2 3
Share: