バブル世代とは、消費が異常に拡大する日本で、希望に満ち溢れた生活を送った若者を指す。大手企業は積極的に新卒者を雇用し、接待や飲み会に桁違いのお金をつぎ込んです。ボーナスが出たらブランドの服を大量に買いあさる若者のプライベートがメディアでたびたび取り上げられた。最近は、バブル世代をネタにしたお笑いやダンスも人気を得ている。

当時のバブル世代の若者は、好景気にわく日本でどのような生活をしたのか。その後の氷河期世代に突入する経緯も含めて、現代社会に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。氷河期世代だったためバブル世代をうらやましく思っていた。今でもバルブ世代との考え方や意識の違いを感じることもある。そこで今回、バブル時代に話題となったことや、その世代が現代に残したものについてまとめてみた。

バブル世代を生んだ日本の景気とは?

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1986年から1991年までのあいだ、日本は急激に地価があがるなど異常なまでの好景気にわきました。この時期の若者をバブル世代といいます。好景気は、日本の経済成長により自然に発生したわけではありません。アメリカや日本が経済に介入することにより、そのような状況が生まれました。

アメリカの経済政策が引き金となったバブル経済

米国はドル高による貿易赤字に悩まされていました。そこで発表した政策がG5諸国と協調介入すること。協調介入とは、為替レートを安定させるために連絡を取り合いながら為替市場に介入することです。ドルを安定させるための標的とされたのが日本でした。

日本の円高がはじまったのは1985年9月のプラザ合意から。プラザ合意とは、先進5か国が結んだ為替レートの安定化に関する合意の通称です。その後、ドル安を止めるためのルーブル合意がなされるまで、日本の円高は止まりませんでした。

日銀の低金利政策により景気が膨張

日本にとって円高はショックをもたらすもの。そのままにしておくと経済が破綻する恐れもありました。そこで日本政府は、国内の経済成長をうながすために公共事業を促進。道路、ダム、巨大施設を建造するために、多額の予算を投じました。

さらに日本銀行は、一般の銀行に融資するお金の利子を引き下げて金融緩和を続けていきます。これらの政策が絡み合って、長期にわたって景気が拡大しました。その結果、たくさん余ったのがお金。それらが株や土地などの投資にまわっていきました。

「バブル世代」の就職活動は売り手市場

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アメリカをはじめとする国際的な思惑のなか生まれた日本のバブル経済。日本の企業は事業を一気に拡大し、好景気の恩恵をうけます。その時期に就職活動をするバブル世代は、引く手あまたのめぐまれた状況となりました。

内定通知書が面接後に渡されることも

一般的には、やっとの思いで面接までいき、そのあと内定を知らせる電話を待つものです。しかしながらバブル世代の就職活動は全く別。会社が優秀であると評価した人は、面接のまえから入社が決定していました。

書類審査の時点ですでに内定が決定。面接のあとに別室に呼び出され、内定通知書を渡されることも少なくありませんでした。そのあとも、ほかの企業に連れて行かれないように、定期的に会食に招待されるなど接待を受けるバブル世代もいたそうです。

会社の入社前にハワイ旅行に招待

会社は優秀な若者を入社させるため、海外旅行に招待することも。行先としてとくに多かったのがハワイです。内定が決まった学生たちが、会社の経費にてハワイに行き、豪華なバカンスを楽しむ姿がたびたび話題となりました。

今では、会社の社員旅行で海外に行けるケースは非常にまれです。しかしバブル世代は入社後も社員旅行で海外に行く機会に恵まれました。バブル景気にわく日本企業にとって、社員数百人を海外に招待することは、まったく負担にならなかったのです。

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「バブル世代」は不動産購入を通じて資産を増やす

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余ったお金のもうひとつの行先が不動産投資です。バブルがピークになったときの日本の地価を合計すると、アメリカのそれの4倍になったという試算があるほど。バブル世代は、どんどん値上がりする地価に目を付けて、土地を購入するようになりました。

地価は永久に上がり続けると信じた

もちろんバブル世代は、住むために土地を買ったのではありません。現在、家賃収入を得るために不動産投資をする人が多いでしょう。この時期は、地価があがったときに売却して利益を得るキャリタルゲインを重視していました。

とくに地価があがったのが都心です。上昇率が7割を超える異常な状態となりました。不動産投資が活発になるなか、マンションの建設ラッシュがおこります。ただ、あまりにも土地が高騰したことで、公共事業がすすめられなくなる事態も発生しました。

ビルを購入して家賃収入生活をする人も

土地の売買が落ち着いてくると、今度はビルを購入してオフィスとして貸し出し、家賃収入を得るケースも増えてきます。もちろん今でも、そのような投資方法は一般的。ただ、バブル世代の場合は、将来の給与アップを見越して、あらゆる人が投資に介入したことが特徴的です。

バブル景気にわく日本では、永遠に地価があがり、さらに収入もアップすると信じられていました。そのため一般の自営業者やサラリーマン家庭でも高額投資に参入するケースが増加。そうした人たちが、将来の成長を見越してビルを所有するようになります。

ディスコで夜な夜な踊りあかす「バブル世代」

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バブル世代と聞いたときに、多くの人が思い浮かべるのがディスコで踊り狂う若者たちでしょう。バブル景気にわく日本では、芝浦にあった「ジュリアナ東京」をはじめ、何千もの人を収容できるディスコがたくさん登場しました。

お立ち台は「バブル世代」のトップが踊るステージ

ディスコデビューをする時期は大学生。ジュリアナ東京があった芝浦のほか、六本木、青山、麻布十番などに有名ディスコが登場。そのエリアに若者たちがあつまりました。ボディコンと呼ばれる体のラインを強調する服を着た若い女性たちがディスコを彩りました。

女性たちのなかの主役を張る人たちは「お立ち台」と呼ばれるステージで、男性たちを誘うようなセクシーな踊りを披露。「お立ち台の女王」「ディスコの女王」と呼ばれるカリスマ女性も登場しました。

男女の出会いの場でもあったディスコ

バブル世代にとってディスコは男女の出会いの場でもありました。ディスコの周辺はいわゆる「ナンパスポット」。出会いを求める男女が集まる場所となります。高級車にのった男性が目当ての女性に声をかける姿が日常的に見られました。

ディスコにあつまる女性が重視するのは男性の収入。収入が多い男性ほどモテる傾向がありました。高級ブランドの洋服に身を包み、高級外車にのって好みの女性をさがす男性も。親世代としては心配になるような雰囲気がある場所でもありました。

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「バブル世代」の時代にすすんだリゾート地開発

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投資熱にわく土地を利用して大規模に開発されたのがリゾート施設です。ビーチ、スキー、避暑を目的とするリゾート施設が次々とオープンしました。CMの効果などもあり、リゾートで休日を過ごすことがバブル世代のトレンドとなります。

リゾート法の制定によりスキーリゾート施設が増加

1987年に通称「リゾート法」と呼ばれる法律が制定されます。その正式名称は総合保養地域整備法。国の承認をうけた地方自治体は、経済支援や税金の優遇措置を受けられることもあり、積極的に誘致に手を挙げます。

それにより都市から離れた地域に大企業を誘致する動きが活発化。そこで加熱したのが北海道や東北エリアなどを舞台とするスキーリゾートの開発でした。鉄道会社とも手を組み、大規模なスキー場の開発がすすめられていきます。

「バブル世代」が押し寄せた清里高原リゾート

バブル世代の人なら知っているだろうリゾート地のひとつが山梨県の清里高原です。清里人気に火をつけたのが女性誌。『an・an』や『non-no』が清里を取り上げるようになります。それによりバブル世代の女性が清里に殺到するようになりました。

清里にはヨーロピアンな雰囲気のかわいいお店やペンションが乱立。西洋風の雰囲気が女性たちを惹きつけました。ピーク時にはペンションの数は130棟をこえるほどに。小さな町はバブルの熱気に包まれました。

個性豊かな「バブル世代」のファッション

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バブル世代をネタにするお笑いやダンスが話題となり、その独特なファッションに注目が集まるようになりました。

女性はボディコン&ワンレン・ソバージュ

バブル世代の女性のファッションのいちばんの特徴はボディコン。これは「ボディ・コンシャス」の略で、体のラインを意識したドレスを意味します。ピタピタサイズの短いスカートが特徴。もともとは1981年のミラノ・コレクションが発祥で、女性の解放を目指すファッションでした。

バブル経済期の日本では、ボディコンとワンレン・ソバージュがワンセット。この時期のワンレンは、前髪をトサカのようにたてる独特なものでした。ロングヘアにソバージュをかけるのがバブル世代のヘアスタイルとして定着します。

男性はカラースーツにセカンドバッグ

男性も女性と同じく派手なファッションを好みました。原色のカラフルなカラースーツに身を包み、高級なセカンドバッグを持つことが定番。高価な時計や靴を履くことで、高収入であることをアピールしました。

髪型はムースなどでかっちり決めるのがバブル世代のスタイル。フォーマルなスーツスタイルが定着する一方、カジュアルなシャツにセーターをひっかける、さわやかなファッションも流行しました。

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「バブル世代」が憧れる花形職業も登場

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バブル経済期の日本では、広告やメディアなど急成長する業界が登場します。それに伴いみんなが憧れる花形職業が登場しました。

テレビマンは「バブル世代」の最先端

バブル景気にわく日本ではテレビ業界が急成長します。当時のテレビ業界は、セットやロケなどにも多額の予算をつぎ込むことが可能でした。もちろん、テレビ業界の人たちの給与もよく、とくにテレビプロデューサーは花形職業となります。

テレビ業界に人気が集まった理由のひとつが、バブル世代の素人のテレビに出演。なかでも女子大生ブームが加速します。それをきっかけに有名人になるケースも多々ありました。

「バブル世代」のOLはファッションリーダー

バブル世代のイメージの中核を担うのが会社に勤めている女性。当時の表現を借りるとオフィスレディいわゆるOLです。OLはバブル世代を特徴づけるファッションに身を包み、ファッションリーダーとしての役目を果たしました。

1980年代の女性は、働き続けるよりも専業主婦になるケースが目立ちました。しかしなかには、バブル景気の恩恵をうけて資産を増やし、のちに起業家として成功するエネルギッシュな女性も登場します。

バブル世代のエネルギーは今にも影響を与えている

1990年代に入ると日本銀行の主導により金融の引き締めが強化。それにより地価が一気に下落して景気が悪くなります。バブル崩壊の直前に高値で不動産を購入した人は大損するという事態に陥りました。バブル世代に続くのが就職難に直面する氷河期世代。日本は長らくバブル崩壊後のあおりを受けることになりました。しかしながらバブル世代は、好景気にわく日本で活躍した実績があります。その後の投資活用や起業活動で活躍するバブル世代も多く、日本経済に影響を与え続けていると言えるでしょう。

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現代社会

好景気に沸く「バブル世代」とは?その華やかな生活を元大学教員がわかりやすく解説

バブル世代とは、消費が異常に拡大する日本で、希望に満ち溢れた生活を送った若者を指す。大手企業は積極的に新卒者を雇用し、接待や飲み会に桁違いのお金をつぎ込んです。ボーナスが出たらブランドの服を大量に買いあさる若者のプライベートがメディアでたびたび取り上げられた。最近は、バブル世代をネタにしたお笑いやダンスも人気を得ている。

当時のバブル世代の若者は、好景気にわく日本でどのような生活をしたのか。その後の氷河期世代に突入する経緯も含めて、現代社会に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。氷河期世代だったためバブル世代をうらやましく思っていた。今でもバルブ世代との考え方や意識の違いを感じることもある。そこで今回、バブル時代に話題となったことや、その世代が現代に残したものについてまとめてみた。

バブル世代を生んだ日本の景気とは?

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1986年から1991年までのあいだ、日本は急激に地価があがるなど異常なまでの好景気にわきました。この時期の若者をバブル世代といいます。好景気は、日本の経済成長により自然に発生したわけではありません。アメリカや日本が経済に介入することにより、そのような状況が生まれました。

アメリカの経済政策が引き金となったバブル経済

米国はドル高による貿易赤字に悩まされていました。そこで発表した政策がG5諸国と協調介入すること。協調介入とは、為替レートを安定させるために連絡を取り合いながら為替市場に介入することです。ドルを安定させるための標的とされたのが日本でした。

日本の円高がはじまったのは1985年9月のプラザ合意から。プラザ合意とは、先進5か国が結んだ為替レートの安定化に関する合意の通称です。その後、ドル安を止めるためのルーブル合意がなされるまで、日本の円高は止まりませんでした。

日銀の低金利政策により景気が膨張

日本にとって円高はショックをもたらすもの。そのままにしておくと経済が破綻する恐れもありました。そこで日本政府は、国内の経済成長をうながすために公共事業を促進。道路、ダム、巨大施設を建造するために、多額の予算を投じました。

さらに日本銀行は、一般の銀行に融資するお金の利子を引き下げて金融緩和を続けていきます。これらの政策が絡み合って、長期にわたって景気が拡大しました。その結果、たくさん余ったのがお金。それらが株や土地などの投資にまわっていきました。

「バブル世代」の就職活動は売り手市場

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アメリカをはじめとする国際的な思惑のなか生まれた日本のバブル経済。日本の企業は事業を一気に拡大し、好景気の恩恵をうけます。その時期に就職活動をするバブル世代は、引く手あまたのめぐまれた状況となりました。

内定通知書が面接後に渡されることも

一般的には、やっとの思いで面接までいき、そのあと内定を知らせる電話を待つものです。しかしながらバブル世代の就職活動は全く別。会社が優秀であると評価した人は、面接のまえから入社が決定していました。

書類審査の時点ですでに内定が決定。面接のあとに別室に呼び出され、内定通知書を渡されることも少なくありませんでした。そのあとも、ほかの企業に連れて行かれないように、定期的に会食に招待されるなど接待を受けるバブル世代もいたそうです。

会社の入社前にハワイ旅行に招待

会社は優秀な若者を入社させるため、海外旅行に招待することも。行先としてとくに多かったのがハワイです。内定が決まった学生たちが、会社の経費にてハワイに行き、豪華なバカンスを楽しむ姿がたびたび話題となりました。

今では、会社の社員旅行で海外に行けるケースは非常にまれです。しかしバブル世代は入社後も社員旅行で海外に行く機会に恵まれました。バブル景気にわく日本企業にとって、社員数百人を海外に招待することは、まったく負担にならなかったのです。

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