今回は薔薇戦争についてです。これは15世紀のイングランドで起こった、百年戦争後の王位継承をめぐっての内乱です。内乱では、共にプランタジネット朝の傍流となるランカスター家とヨーク家が争うことになり、紆余曲折を経てランカスター家の傍流だったヘンリーがテューダー朝を開くことにつながったんです。

それじゃあその詳しい経緯をヨーロッパ史に詳しいまぁこと一緒に解説していくからな。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー歴女のまぁこ。特にハプスブルク家やブルボン家などの王室について興味があり、関連書籍を愛読中。今回は15世紀のイングランドで起こった薔薇戦争について解説していく。

1 薔薇戦争とは?

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薔薇戦争とは、イングランドのランカスター家とヨーク家が王位継承をめぐり起こった内戦のこと。この内戦は1455年から30年にもわたって続くことに。ちなみにこの両家は先のイングランド王朝、プランタジネット朝の傍流でした。ここでは薔薇戦争が起こった経緯について見ていきましょう。

1-1 ランカスター朝のヘンリー6世

HenryVIofEngland.JPG
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ランカスター朝のヘンリー6世は1421年12月に生まれました。彼の父ヘンリー5世が急死したため、生後わずか9か月で即位することに。ちなみに歴史上の人物で幼い年齢で即位した人物に、生後6日でスコットランド女王となったメアリ・ステュアートや3歳でモスクワ大公となったイヴァン4世がいますね。

そしてヘンリーはイングランドだけではなく、フランス王にもなることに。これは1420年に結ばれたトロワ条約によって、フランス王シャルルの死後はイングランド王ヘンリー5世もしくはその後継者が統治し、両国は統合されることが決められていました。ところがヘンリーが戴冠する前にフランスの王太子シャルルが先にランスで戴冠。その後ヘンリーも戴冠しますが、百年戦争の戦局は次第にフランスに押され、劣勢となることに。

1-2 百年戦争の終焉

1339年から始まった百年戦争でしたが、ついに終戦を迎えることに。1453年の出来事でした。この戦争は、イングランドのエドワード3世フランスの王位継承権を主張したこと、イングランドとフランスの領地問題から戦争に発展することに。これまではイングランドが優勢に戦いを進めてきましたが、ジャンヌ・ダルクの出現によって次第に劣勢となったイングランド。ヘンリーの時代では、これまでフランス国内に領有していたアキテーヌやノルマンディーを失うことになります。

1-3 王妃マーガレット

百年戦争が終結する少し前にヘンリーは結婚することに。相手はマーガレット・オブ・アンジュー。彼女はフランス王妃の姪でした。しかしこの結婚では、莫大な持参金を持たずその身だけで嫁いだマーガレットに対し、ヘンリー側はイギリス領のアンジュー公領とメーヌ伯領をマーガレットの父に譲るというもの。かなりイングランド側にとって不利な条件だったかが分かりますね。このようになった要因には、ヘンリーが結婚相手を探している際にマーガレットの肖像画を見て一目ぼれしたためだと言われています。この時の屈辱的な結婚条件からヨーク家が反発するように。

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1-4 王妃の改革と精神障害に苦しんだ王

これまでの統治は、ヘンリーの親戚らが要職に就いていました。摂政にはグロスター公ハンフリー、フランスとの戦いの総責任者にベッドフォード公ジョン、司教にはヘンリー・ボーフォートがおり、前者2人が主戦派で後者が講和派でした。マーガレットは1447年に主戦派を退けることに。まず結婚後すぐにハンフリーを逮捕し、牢獄へ送りました。またライバルのヨーク家リチャードアイルランド卿に任じ、事実上の左遷。ところがハンフリーはその後獄中死し、更にボーフォートも死去したことから、ヨーク家に対抗できる有力者がいなくなり、ランカスター家は弱体化することに。

百年戦争が終結した後にヘンリーは精神に異常が表れることに。1453年に生まれた息子を彼は認識できなかったと言われています。この状況に対して絶好の機会ととらえたのがヨーク家の有力者リチャード。以前からヨーク家はランカスター家の王位継承に異議を唱えていました。

1-5 王位継承に異議を唱えたヨーク家

ところでなぜヨーク家のリチャードはランカスター家の王位継承に異議を唱えたのでしょうか。これはランカスター家が王位を奪ったため。前王朝のプランタジネット朝リチャード2世の時代の時、ランカスター朝が成立しました。リチャードの治世ではワット・タイラーの乱が起こりこれをなんとか鎮圧。ところが百年戦争が次第に不利な情勢となる中で、彼は議会を無視するように。そのため議会と国王は対立を深め、リチャードは反発したランカスター家のヘンリーを国外へ追放することに。しかしヘンリーは再び兵を引き連れイングランドへ戻り、リチャードを幽閉。その後リチャードを廃位し、貴族らの支持のもとヘンリー4世として即位しました。この経緯から当初からランカスター朝の正当性に疑念があったため、ヨーク家は異議を唱えたのです。

2 ランカスター家とヨーク家

イングランドで起こった薔薇戦争。これはプランタジネット朝の傍流のランカスター家とヨーク家の両者が王位継承をかけて争った内戦。この内戦が薔薇戦争と呼ばれるのは、ランカスター家が赤バラ、ヨーク家が白バラを紋章として使っていたことから。ではこの薔薇戦争の経緯について見ていきましょう。

2-1 リチャードの反乱

1455年についに両者は刃を交えることに。セント・オールバンズで最初の武力衝突が発生。これは現王ヘンリーの後任に、ヘンリーの息子のエドワードかヨーク家のリチャードかが争われることに。ちなみにこの戦闘ではヘンリーは首を負傷し敗北を喫しました。1460年のノーサンプトンの戦いにおいてヘンリーは捕虜となりロンドンへ連れ戻されることに。マーガレットらはスコットランドへ亡命せざるを得なくなりました。しかし同年末にはウェイクフィールドの戦いで宿敵リチャードを討ち取ることに成功。その後は一進一退を繰り返すことになりましたが、1461年の第二次セント・オールバンズでマーガレット側が勝利しヘンリー奪還に成功。ところが1461年3月になんとリチャードの息子エドワードがエドワード4世として即位することに。更に11月には議会でヘンリーの廃位が決定されました。

2-2 反撃に転じる王妃

こうして1461年にエドワード4世によってヨーク朝が開かれることに。そして4年後にはタウトンの戦いによりヨーク家の大勝。再びヘンリーは捕らえられロンドン塔へ幽閉されました。

ヘンリーが幽閉されている間もマーガレットは奮闘することに。彼女は亡命先のフランスで国王ルイ11世の支援を受けて1470年に再び渡英。この時エドワード4世と仲違いしていたウォーリク伯を味方につけます。マーガレットの突然の反撃に対し、エドワードは国外へ亡命。こうして1470年10月に幽閉されていたヘンリーが復位を果たしました。

\次のページで「2-3 再び敗北」を解説!/

2-3 再び敗北

Battle of Barnet retouched.jpg
不明 - File:Battle of barnet.jpg, Ghent manuscript, a late 15th-century document (source: Ghent University library, MS236), パブリック・ドメイン, リンクによる

ところがマーガレットの反撃も長くは続きませんでした。亡命したエドワードはフランス王と敵対していたブルゴーニュ公からの援軍を受けてイングランドへ上陸。1471年のバーネットの戦いでウォーリク伯が戦死。更にテュークスベリーの戦いではマーガレットと王太子エドワードが捕虜となることに。こうしてマーガレットはロンドン塔に幽閉され、ヘンリーとエドワードは殺害されることに。こうしてランカスター家の敗北は決定的となりました。

3 薔薇戦争の終焉とテューダー朝の誕生

こうしてランカスター家が敗北し、リチャードの息子、エドワード4世がヨーク朝を成立させることに。ところがこのヨーク朝もすぐに倒され、次のテューダー朝が開かれることに。それではその経緯について詳しく見ていきましょう。

3-1 悪名高き王、リチャード

1461年にヨーク朝を開いたエドワード4世でしたが、1483年に41歳でこの世を去ることに。この時王位を狙ったのが悪名高いリチャードでした。彼はエドワード4世の弟。1452年に生まれ、わずか3歳の時に薔薇戦争が勃発。そして18歳の時に内乱の戦闘指揮官として活躍した人物。リチャードは甥のエドワード5世の摂政となるも、ロンドン塔にエドワードと彼の弟までも幽閉することに。表向きにはエドワードの戴冠式を同年6月に行うと発表したため、前王妃エリザベスは安心しきっていたそう。ところが王子たちは行方不明となり(殺害されたのではないかと思われる)、実際に戴冠したのはリチャードでした。

3-2 消えた王子たち 

Simmler Children of King Edward.jpg
Józef Simmler - cyfrowe.mnw.art.pl, パブリック・ドメイン, リンクによる

これはドラローシュ「ロンドン塔の王子たち」。この絵画で2人の幼い少年たちが描かれています。右の少年はこれから起こる運命に気づき少し青ざめているのでしょうか。そして頬が赤く愛くるしい弟はドアの方を見つめ怯えているよう。2人の足元にはドアに向かって吠える犬。シェイクスピアの「リチャード3世」を題材に描かれたことが分かりますね(シェイクスピアではリチャードが通ると犬が吠えるというものがある)。

リチャード3世が本当に手に掛けたのか不明ですが、はっきりと分かっていることは、前王の死後すぐに王子たちをロンドン塔へ幽閉したのは彼だったということ。更に議会の場で、王子たちは前王の私生児だから王位継承権はないと言い張り自身が戴冠したという事実。悪名高いリチャードですが、これはシェイクスピアの作品からそのようなイメージがつくことに。シェイクスピアはエリザベス女王の庇護を受けていたため、いわば敵からみた人物像だったためここまで悪役として描かれたのではないかという見方もあります。

3-3 ランカスター家のヘンリー登場

こうしてリチャードは摂政から王に即位することになりました。ところが正当な王位継承者だった王子たちの行方不明と、強引に戴冠をしたリチャードのやり方に対して重臣の間では反発が起こることに。そしてフランスへ亡命していたランカスター家の傍流ヘンリー・テューダーがフランス王から援軍を受けて1485年にイングランドへ上陸。反リチャード派の貴族らは一斉にヘンリーを支持しました。リチャードはボズワーズの戦いでヘンリーと戦いましたが、戦況は味方の裏切りもあって命を落とすことに。そしてヨーク家のリチャードに勝利したことで、ヘンリー・テューダーはテューダー朝を開くことに。こうしてヨーク朝はわずか24年で幕を閉じ、広義ではリチャード3世はプランタジネット朝最期の君主となりました

\次のページで「3-4 テューダー朝を開いたヘンリ7世」を解説!/

3-4 テューダー朝を開いたヘンリ7世

Henry Seven England.jpg
作者不明 - http://www.marileecody.com/henry7images.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

ボズワースの戦いでリチャードを倒し、1485年にテューダー朝を開いたヘンリー7世。こうして薔薇戦争は終焉を迎えました。ところでヘンリーは一体どんな人物だったのでしょうか。彼はランカスター家の直系ではなく、その支流のボーフォート家系出身でした。ヘンリーは王位継承順が低かったため、自身の継承の箔付けとしてヨーク家のエリザベスと結婚することに。ちなみにこのエリザベスはロンドン塔で行方不明となった兄弟の姉に当たる人物。

ヘンリーは百年戦争と薔薇戦争によって封建貴族が没落したため、比較的強大な王権を築くことに成功しました。そして婚姻政策によって、スコットランド、スペインとの婚姻を結ぶことに。前者の結婚によってメアリ・ステュアートが誕生し、後者ではキャサリンと結婚することになったヘンリー8世が離婚問題に発展していくことになりました。

薔薇戦争によって滅んだプランタジネット朝と誕生したテューダー朝

薔薇戦争とは、百年戦争が終結した後にプランタジネット朝の傍流、ランカスター家とヨーク家が争った内乱のことです。この内乱では30年に渡って続き、両家は互いに有力な貴族らを巻き込んで戦うことに。当初は奮闘したランカスター家でしたが、1461年にエドワード4世が即位しヨーク朝が成立。その後ヘンリー6世らは命を落とすことに。しかしその後4世が亡くなると、野心家のリチャードが甥らをロンドン塔へ幽閉し(その後王子たちは行方不明に)、自身が戴冠することに。この強引な戴冠によって反リチャード派が出てくることになり、その後のランカスター家の支流ヘンリーとのボズワースの戦いでリチャードは戦死。こうしてヨーク朝は幕を下ろし、テューダー朝が開かれることに。

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イギリスヨーロッパの歴史世界史歴史

5分で分かる「薔薇戦争」ランカスター家とヨーク家の争いを歴女がわかりやすく解説

1-4 王妃の改革と精神障害に苦しんだ王

これまでの統治は、ヘンリーの親戚らが要職に就いていました。摂政にはグロスター公ハンフリー、フランスとの戦いの総責任者にベッドフォード公ジョン、司教にはヘンリー・ボーフォートがおり、前者2人が主戦派で後者が講和派でした。マーガレットは1447年に主戦派を退けることに。まず結婚後すぐにハンフリーを逮捕し、牢獄へ送りました。またライバルのヨーク家リチャードアイルランド卿に任じ、事実上の左遷。ところがハンフリーはその後獄中死し、更にボーフォートも死去したことから、ヨーク家に対抗できる有力者がいなくなり、ランカスター家は弱体化することに。

百年戦争が終結した後にヘンリーは精神に異常が表れることに。1453年に生まれた息子を彼は認識できなかったと言われています。この状況に対して絶好の機会ととらえたのがヨーク家の有力者リチャード。以前からヨーク家はランカスター家の王位継承に異議を唱えていました。

1-5 王位継承に異議を唱えたヨーク家

ところでなぜヨーク家のリチャードはランカスター家の王位継承に異議を唱えたのでしょうか。これはランカスター家が王位を奪ったため。前王朝のプランタジネット朝リチャード2世の時代の時、ランカスター朝が成立しました。リチャードの治世ではワット・タイラーの乱が起こりこれをなんとか鎮圧。ところが百年戦争が次第に不利な情勢となる中で、彼は議会を無視するように。そのため議会と国王は対立を深め、リチャードは反発したランカスター家のヘンリーを国外へ追放することに。しかしヘンリーは再び兵を引き連れイングランドへ戻り、リチャードを幽閉。その後リチャードを廃位し、貴族らの支持のもとヘンリー4世として即位しました。この経緯から当初からランカスター朝の正当性に疑念があったため、ヨーク家は異議を唱えたのです。

2 ランカスター家とヨーク家

イングランドで起こった薔薇戦争。これはプランタジネット朝の傍流のランカスター家とヨーク家の両者が王位継承をかけて争った内戦。この内戦が薔薇戦争と呼ばれるのは、ランカスター家が赤バラ、ヨーク家が白バラを紋章として使っていたことから。ではこの薔薇戦争の経緯について見ていきましょう。

2-1 リチャードの反乱

1455年についに両者は刃を交えることに。セント・オールバンズで最初の武力衝突が発生。これは現王ヘンリーの後任に、ヘンリーの息子のエドワードかヨーク家のリチャードかが争われることに。ちなみにこの戦闘ではヘンリーは首を負傷し敗北を喫しました。1460年のノーサンプトンの戦いにおいてヘンリーは捕虜となりロンドンへ連れ戻されることに。マーガレットらはスコットランドへ亡命せざるを得なくなりました。しかし同年末にはウェイクフィールドの戦いで宿敵リチャードを討ち取ることに成功。その後は一進一退を繰り返すことになりましたが、1461年の第二次セント・オールバンズでマーガレット側が勝利しヘンリー奪還に成功。ところが1461年3月になんとリチャードの息子エドワードがエドワード4世として即位することに。更に11月には議会でヘンリーの廃位が決定されました。

2-2 反撃に転じる王妃

こうして1461年にエドワード4世によってヨーク朝が開かれることに。そして4年後にはタウトンの戦いによりヨーク家の大勝。再びヘンリーは捕らえられロンドン塔へ幽閉されました。

ヘンリーが幽閉されている間もマーガレットは奮闘することに。彼女は亡命先のフランスで国王ルイ11世の支援を受けて1470年に再び渡英。この時エドワード4世と仲違いしていたウォーリク伯を味方につけます。マーガレットの突然の反撃に対し、エドワードは国外へ亡命。こうして1470年10月に幽閉されていたヘンリーが復位を果たしました。

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