
その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
- 1-1、藤堂高虎は近江の生まれ
- 1-2、高虎、浅井氏を皮切りに転々と主を変える
- 2-1、秀吉の弟秀長家臣として活躍、大名に
- 2-2、作事奉行として家康の屋敷を作る
- 2-3、高虎、その後も戦争と城つくりに活躍
- 2-4、関ヶ原の戦いでも活躍
- 2-5、高虎、家康の信頼を得て江戸城天下普請に尽力
- 2-6、大坂の陣でも活躍
- 2-7、高虎、最終的に32万石の大名に
- 2-8、晩年の高虎
- 3-1、高虎の逸話
- 3-2、かなりの大男だった
- 3-3、餅屋の恩に報いる
- 3-4、築城名人だった
- 3-5、関ヶ原で大谷吉継の墓を建立
- 3-6、家臣、元主君の子への対応
- 3-7、殉死を禁じた
- 次々主君を変えたが、裏切りはせず築城技術も最高だった武将
この記事の目次

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、藤堂高虎について5分でわかるようにまとめた。
1-1、藤堂高虎は近江の生まれ
藤堂高虎(とうどうたかとら)は、弘治2年(1556年)1月、近江国犬上郡藤堂村(現滋賀県犬上郡甲良町在士)の土豪、藤堂虎高の次男として誕生。幼名は与吉、きょうだいは兄高則(21歳で戦死)、姉ひとり、弟が2人で妹が2人の7人きょうだいです。
高虎の父は、近江鯰江城主三井乗綱の次男三井虎高で、江戸時代の豪商三井家とも近縁だそう。また、虎高は若い頃に近江から甲斐の武田信虎に仕えて虎の字をもらったほどだが、他国から来たためか他の家臣に嫉妬されて藤堂村に戻り、藤堂忠高の娘婿となったという話です。尚、藤堂氏は先祖代々藤堂村の小領主だったが、戦国時代に没落、農民となっていたそう。
1-2、高虎、浅井氏を皮切りに転々と主を変える
高虎は父と兄とともに近江国の戦国大名浅井長政に足軽として仕え、13歳の頃に父と兄の後を追って北近江の一揆の平定に向かい一揆の一人を討ち取るなどで浅井長政に金一枚と兼光の刀を拝領。元亀元年(1570年)姉川の戦いに参戦して首級を取る武功を挙げ、長政から感状を受けたが、不意のいさかいで同僚を殺害して逃走。
その後は、浅井氏の旧臣で信長に仕えた阿閉貞征(あつじさだゆき)、次に同じく浅井氏旧臣で信長に仕えた磯野員昌(かずまさ)の家臣となった相性が合わず、その後近江国を去り、信長の甥織田信澄の家臣となったが丹波攻めの武功のわりに恩賞が少なかったなどが不満で出奔、転々として流浪生活をした間に、無銭飲食をした話は有名に。
こちらの記事もおすすめ

義理か縁かで悩んだ末滅んだ「浅井長政」の生涯を歴女がわかりやすく解説
2-1、秀吉の弟秀長家臣として活躍、大名に
高虎は天正4年(1576年)に、信長の重臣となった羽柴秀吉の弟秀長に300石で仕官し、天正9年(1581年)には但馬国の土豪を討った功績で3000石の所領を加増され鉄砲大将になりました。
その後も秀長のもとで中国攻めに参加、そして賤ヶ岳の戦いでは佐久間盛政を銃撃して敗走させ、戦勝の端緒を開く戦功で1300石を加増。天正13年(1585年)の紀州征伐にも従軍、10月に湯川直晴を降伏させ、山本主膳を斬るなどの活躍をし、秀長の命令で雑賀党の鈴木重意を謀略で自害に追い込んだ話もあるそう。
そして戦後は紀伊国粉河に5000石を与えられ、猿岡山城、和歌山城の築城の普請奉行に任命されて高虎にとって最初の築城を行ったのですね。また四国攻めで功績が認められて、秀吉から5400石の加増があり、ついに1万石の大名に。
2-2、作事奉行として家康の屋敷を作る
天正14年(1586年)、関白となった秀吉は、京都の聚楽第に、秀吉への謁見のため上洛予定の徳川家康の屋敷を作るよう秀長に指示し、秀長は作事奉行として高虎を指名。高虎は設計図に警備上の難点があったと独断で設計を変更して、自前の費用で直したそう。
そして家康に、設計図と違う点を尋ねられたときに、天下の家康様に御不慮があれば、主人秀長の不行き届きとなり関白秀吉公の面目に関わるために、自分の一存で変更したが、御不興であればご容赦なくお手討ちをと返したために、家康は高虎の心遣いに感心したという話があり、このときから家康に注目され、手紙のやり取りをするようになったらしいです。
2-3、高虎、その後も戦争と城つくりに活躍

高虎は天正15年(1587年)の秀吉の九州征伐にも参加して、根白坂の戦いで島津軍に攻められた宮部継潤を救援して2万石に加増、秀吉の推挙で正五位下佐渡守に叙任しました。また天正17年(1589年)、北山一揆の鎮圧の拠点として赤木城(現三重県熊野市紀和町)を築城。高虎は一揆鎮圧も容赦なく行って多数の農民が田平子峠で斬首され、「行たら戻らぬ赤木の城へ、身捨てどころは田平子じゃ」と歌に歌われたほど。
高虎は天正19年(1591年)に秀長が死去後、跡を継いだ秀長の甥で養子の秀保に仕え、若い秀保の代理で翌年の文禄の役に出征しましたが、文禄4年(1595年)に秀保が早世したので出家して高野山入り。しかし秀吉が高虎の将才を惜しみ、生駒親正に説得させて召還。高虎は還俗したうえに5万石加増で、伊予国板島(現在の宇和島市)7万石の大名にランクアップ。
そして慶長2年(1597年)の慶長の役には水軍を率いて参加、漆川梁海戦で、朝鮮水軍の武将元均率いる水軍を殲滅、南原城の戦い、鳴梁海戦にも参加したなどで、帰国後、大洲城1万石を加増されて8万石となったので、居城の板島丸串城の大規模な改修を行って宇和島城に改称しました。朝鮮の官僚で儒学者の姜沆(カン・ハン、きょうこう)を捕虜にして日本へ移送したのもこの時期だったということ。
\次のページで「2-4、関ヶ原の戦いでも活躍」を解説!/