今回は藤堂高虎を取り上げるぞ。7人主君を変えたというが、再評価されてるんだって、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、藤堂高虎について5分でわかるようにまとめた。

1-1、藤堂高虎は近江の生まれ

藤堂高虎(とうどうたかとら)は、弘治2年(1556年)1月、近江国犬上郡藤堂村(現滋賀県犬上郡甲良町在士)の土豪、藤堂虎高の次男として誕生。幼名は与吉、きょうだいは兄高則(21歳で戦死)、姉ひとり、弟が2人で妹が2人の7人きょうだいです。

高虎の父は、近江鯰江城主三井乗綱の次男三井虎高で、江戸時代の豪商三井家とも近縁だそう。また、虎高は若い頃に近江から甲斐の武田信虎に仕えて虎の字をもらったほどだが、他国から来たためか他の家臣に嫉妬されて藤堂村に戻り、藤堂忠高の娘婿となったという話です。尚、藤堂氏は先祖代々藤堂村の小領主だったが、戦国時代に没落、農民となっていたそう。

1-2、高虎、浅井氏を皮切りに転々と主を変える

高虎は父と兄とともに近江国の戦国大名浅井長政に足軽として仕え、13歳の頃に父と兄の後を追って北近江の一揆の平定に向かい一揆の一人を討ち取るなどで浅井長政に金一枚と兼光の刀を拝領。元亀元年(1570年)姉川の戦いに参戦して首級を取る武功を挙げ、長政から感状を受けたが、不意のいさかいで同僚を殺害して逃走。

その後は、浅井氏の旧臣で信長に仕えた阿閉貞征(あつじさだゆき)、次に同じく浅井氏旧臣で信長に仕えた磯野員昌(かずまさ)の家臣となった相性が合わず、その後近江国を去り、信長の甥織田信澄の家臣となったが丹波攻めの武功のわりに恩賞が少なかったなどが不満で出奔、転々として流浪生活をした間に、無銭飲食をした話は有名に。

2-1、秀吉の弟秀長家臣として活躍、大名に

高虎は天正4年(1576年)に、信長の重臣となった羽柴秀吉の弟秀長に300石で仕官し、天正9年(1581年)には但馬国の土豪を討った功績で3000石の所領を加増され鉄砲大将になりました。

その後も秀長のもとで中国攻めに参加、そして賤ヶ岳の戦いでは佐久間盛政を銃撃して敗走させ、戦勝の端緒を開く戦功で1300石を加増。天正13年(1585年)の紀州征伐にも従軍、10月に湯川直晴を降伏させ、山本主膳を斬るなどの活躍をし、秀長の命令で雑賀党の鈴木重意を謀略で自害に追い込んだ話もあるそう。

そして戦後は紀伊国粉河に5000石を与えられ、猿岡山城、和歌山城の築城の普請奉行に任命されて高虎にとって最初の築城を行ったのですね。また四国攻めで功績が認められて、秀吉から5400石の加増があり、ついに1万石の大名に。

2-2、作事奉行として家康の屋敷を作る

天正14年(1586年)、関白となった秀吉は、京都の聚楽第に、秀吉への謁見のため上洛予定の徳川家康の屋敷を作るよう秀長に指示し、秀長は作事奉行として高虎を指名。高虎は設計図に警備上の難点があったと独断で設計を変更して、自前の費用で直したそう。

そして家康に、設計図と違う点を尋ねられたときに、天下の家康様に御不慮があれば、主人秀長の不行き届きとなり関白秀吉公の面目に関わるために、自分の一存で変更したが、御不興であればご容赦なくお手討ちをと返したために、家康は高虎の心遣いに感心したという話があり、このときから家康に注目され、手紙のやり取りをするようになったらしいです。

2-3、高虎、その後も戦争と城つくりに活躍

image by PIXTA / 43116780

高虎は天正15年(1587年)の秀吉の九州征伐にも参加して、根白坂の戦いで島津軍に攻められた宮部継潤を救援して2万石に加増、秀吉の推挙で正五位下佐渡守に叙任しました。また天正17年(1589年)、北山一揆の鎮圧の拠点として赤木城(現三重県熊野市紀和町)を築城。高虎は一揆鎮圧も容赦なく行って多数の農民が田平子峠で斬首され、「行たら戻らぬ赤木の城へ、身捨てどころは田平子じゃ」と歌に歌われたほど。

高虎は天正19年(1591年)に秀長が死去後、跡を継いだ秀長の甥で養子の秀保に仕え、若い秀保の代理で翌年の文禄の役に出征しましたが、文禄4年(1595年)に秀保が早世したので出家して高野山入り。しかし秀吉が高虎の将才を惜しみ、生駒親正に説得させて召還。高虎は還俗したうえに5万石加増で、伊予国板島(現在の宇和島市)7万石の大名にランクアップ。

そして慶長2年(1597年)の慶長の役には水軍を率いて参加、漆川梁海戦で、朝鮮水軍の武将元均率いる水軍を殲滅、南原城の戦い、鳴梁海戦にも参加したなどで、帰国後、大洲城1万石を加増されて8万石となったので、居城の板島丸串城の大規模な改修を行って宇和島城に改称しました。朝鮮の官僚で儒学者の姜沆(カン・ハン、きょうこう)を捕虜にして日本へ移送したのもこの時期だったということ。

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2-4、関ヶ原の戦いでも活躍

高虎は、慶長3年(1598年)8月の秀吉の死の直前頃から徳川家康に接近。元々家康とは親交があったが、豊臣家臣団が福島正則や加藤清正らの武断派と石田三成らの文治派に分裂後、徳川家康側につき、家康襲撃の企みがあるとの噂があったときには、高虎は駆けつけて徹夜で徳川家康の警護にあたったり、慶長4年(1599年)には弟正高を江戸に人質として出したということ。これはなんと前田利長が家康の加賀征伐の脅しで母芳春院を江戸に送る前のことなんですね。

そして高虎は慶長5年(1600年)、家康の会津征伐に従軍、その後、黒田長政、田中吉政らとともに河渡川(ごうど)の戦いに参戦して石田軍を敗走させ、9月15日の関ヶ原本戦では京極高知らとともに大谷吉継隊を相手に戦闘。また、留守中の伊予国での毛利輝元の策動からの一揆を鎮圧、そして脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らへ東軍へ寝返りの調略を行うなど大活躍。

これらの軍功で、それまでの宇和島城8万石に加えて今治城12万石が加増されて合計20万石の大名となったのです。高虎は新たに今治城を居城として改築、それまでの宇和島城には従弟藤堂良勝を城代に。

2-5、高虎、家康の信頼を得て江戸城天下普請に尽力

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高虎は家康に才覚と忠義を高く評価され、大事ある時は高虎を一番手とせよとまで信頼され、外様大名ながら別格譜代と譜代大名格となり、家康に江戸城改築なども任されました

そして慶長13年(1608年)、伊賀上野藩主だった筒井定次の改易、伊勢津藩主だった富田信高が伊予宇和島藩へ転封となった後釜として、伊賀国10万石と伊勢安濃郡一志郡内10万石の22万石に加増移封されて津藩主に。また今治城周辺の越智郡2万石を飛び地として高虎の養子の高吉を城代にしたということです。

高虎は大坂城の豊臣秀頼との戦に備えて、伊賀上野城を改修。それまでの3倍に拡張して石垣も30メートルにと大改修、守りに強い屈強な城になるはずが、改修途中で大坂の陣によって中断して未完成に。

2-6、大坂の陣でも活躍

高虎は慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣、翌年の大坂夏の陣も徳川方として参戦し、河内方面の先鋒を志願して、八尾で豊臣方の長曾我部盛親隊と対戦し、長曾我部軍の猛攻で一族の藤堂良勝、藤堂高刑など600人余りの死傷者を出したのですが、その功績で伊賀国内と伊勢鈴鹿郡、安芸郡、三重郡、一志郡内で5万石が加増されて27万石にアップ、同年閏6月には従四位下に昇任。

高虎は、創建当時に焼失した南禅寺三門を再建し、釈迦三尊像、十六羅漢像を安置するなど、戦没者の供養も怠らなかったそう。

2-7、高虎、最終的に32万石の大名に

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高虎は、家康が死去するときに枕元に侍るのを許されたほどの重用ぶりで、2代将軍秀忠の信頼も厚く、元和3年(1617年)には、新たに伊勢度会郡(わたらい)田丸城5万石を加増、弟正高の下総国での3000石を編入して、津藩32万3000石となったが、田丸5万石は、元和5年(1619年)、和歌山藩が御三家の徳川頼宣のものとなったため、替地として大和国と山城国の5万石となりました。

また、元和6年(1620年)、秀忠の5女和子が後水尾天皇に入内したとき、高虎は志願して露払い役として、和子の入内反対派公家衆の前で、「入内できなかった場合は、自分が責任をとって御所で切腹する」と、強引に押し切ったということです。

\次のページで「2-8、晩年の高虎」を解説!/

2-8、晩年の高虎

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Unkei6hokusai4 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

高虎は、寛永4年(1627年)、江戸屋敷内に現在の上野東照宮を建立

また津藩の内政にも取り組んで、上野城と津城の城下町を建設し、農地を開発、寺社復興などを行って、藩政を確立させました。そして幕府の命令で、陸奥会津藩、讃岐高松藩、肥後熊本藩の後見役となり、家臣を派遣して藩政をとったということです。

高虎は元和9年(1623年)ころから眼病を患い、寛永7年(1630年)についに失明し、同年10月に江戸の藤堂藩邸で75歳で死去。次男の高次が2代藩主を継承。

3-1、高虎の逸話

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不明。 - 個人所蔵品。, パブリック・ドメイン, リンクによる

色々な逸話をご紹介しますね。

3-2、かなりの大男だった

高虎の身長は6尺2寸(約190センチ)という当時にしては大変な大男だったということで、また長年の戦場生活のために身体は弾傷や槍傷で傷だらけ。右手の薬指と小指はちぎれていて、左手の中指も短く爪は無く、左足親指も爪がなかったということで、高虎が死去した際に若い近習が遺骸を清めて驚いた話が伝わっています。

3-3、餅屋の恩に報いる

高虎は織田信澄のもとから出奔後、仕官先を求め三河まできて手持ちの金がなくなり空腹となって、ついに三河国吉田宿(現愛知県豊橋市)の餅屋で無銭飲食をしてしまいました。しかしこの餅屋の主人与左衛門は、高虎の話を聞き、餅代を請求せずに路銀を与えて、故郷の近江に帰って親孝行しろと励ましたのです。

その30年後、大名となった高虎が参勤交代で吉田宿通過の際に餅屋を訪れて、30年前の忠告と餅の振る舞いに感謝し、おかげで大名になれたということで、餅代の何倍もの銭を与え、供の者に餅をふるまい、以後、藤堂家が参勤交代の際はこの餅屋に立ち寄る習慣となったそう。

また高虎の旗印は白い餅が3つの三ツ餅で、「白餅」と「城持ち」にかけた意味があるということ。

3-4、築城名人だった

高虎は、加藤清正と並んで「戦国二大築城名人」とか、黒田官兵衛孝高(如水)を加え「戦国三大築城名人」と言われていて、生涯で築城に携わった城が20を超え、家康に特に請われて江戸城の縄張りをしたほどで、城に限らず、日光東照宮の大造替えも行ったということ。

近江の出身で石工職人の多い穴太衆とコネがあったのか、当時の最先端技法の「野面積み」という技法を取り入れたり、朝鮮出兵では朝鮮半島で学んだ朝鮮の城の総構えを取り入れたりと実戦に即した新しい技術を導入する才能もあったそう。

またそれまでの城の天守閣の主流は、物見櫓を乗せた上の層と下の層が別々の構造の望楼型の天守でしたが、高虎が今治城本丸で採用した層塔型の五重天守は、規格を統一して工期も短縮できる利点があったので、その後の天守の主流になったということです。

\次のページで「3-5、関ヶ原で大谷吉継の墓を建立」を解説!/

3-5、関ヶ原で大谷吉継の墓を建立

関ヶ原で高虎の藤堂軍と対戦した大谷吉継は、自軍の裏切りもあって善戦及ばず。吉継は人目につかない場所で自刃し、家臣の湯浅五助が首を絶対に敵に渡すなと言われて土中に埋めたのですが、そのときに高虎の甥の高刑(たかのり)に見つかったのですね。

湯浅五助は高刑に対して、自分の首を差し出す代わりに主君吉継の首のありかを黙っていてくれと嘆願、高刑は湯浅の首をとったのですが、その後、高刑は家康直々に吉継の首のありかを聞かれても、武士に二言はないと言わなかったため、家康は感動して高刑に褒美を与えたそう。そして叔父の高虎は関ヶ原に吉継の墓を建て菩提を弔ったということです。

3-6、家臣、元主君の子への対応

高虎は自身も何度も主君を変えたため、家臣の転職にもこだわりがなかったということで、暇を願い出るものがあれば、茶を振るまって退職金代わりに自分の刀を与えて、いつでも帰っておいでと送り出し、帰参を願い出ると、元の所領を与えて帰参させました。これに対して家臣が反発すると、人に情けを掛けると意気に感じて命を捨てて恩に報いようとするもの。情けをもって接しなければ、禄を無駄に捨てるようなものだと諭したそうです。

また、高虎は昔仕えた磯野員昌の息子の行信を自分の配下に入れて面倒を見、秀長が養子にしたが跡を継げなかった丹羽長秀の息子高吉を自分の養子とするなど、もとの主君の子供たちの面倒をみるなど義理人情に篤い人だったということ。

3-7、殉死を禁じた

戦国時代から江戸時代初期までは、忠義と言うのは主君と家臣の一対一のもので、主君の子や主家に対するものではなかったので、主君が亡くなると、重用された家臣は殉死するものという風潮さえあり、実際、主君を慕って殉死する者が多く出たのですが、高虎は殉死を厳禁としたのですね。これは頼りない嫡子の高次を自分が重用した有能な家臣に支えてほしいという思いからだったそう。

ということで高虎は、国元の城の書院に箱を置いて、自分が死ねば殉死を考えている者は姓名を書いた札を入れるように、と命じたところ、40人余りの札があり、同じく駿府屋敷では30人余りだったということで、高虎はこの70人余の名を書いて駿府の家康を訪ねて、徳川家の先鋒とされた藤堂家にあってお役に立つ者たちばかりなので、上意をもって殉死を差し止めてほしいと嘆願、家康も了承し、高虎は、殉死志望の70余名を集めて家康の上意と伝え、自分の死後は切腹したつもりで藤堂、徳川両家のために働くようにと命令したそう。

尚、江戸時代を通じて津藩藤堂家の家臣たちは、毎日を死ぬ日だという覚悟を持って生きよという藩祖高虎の遺訓を座右の銘としたということです。

次々主君を変えたが、裏切りはせず築城技術も最高だった武将

藤堂高虎は近江の出身で浅井長政の足軽を発端に7度も主君を変え、最後は家康に信頼されて32万石の大名になりあがったことで、江戸時代の評判がよくなかった人でした。

しかし主君を裏切り行為で滅ぼしたりなどはしていないし、むしろ行き場を失った丹羽長秀の息子を養子に迎えたり、一旦よそに仕えた家来が戻ってきてもあたたかく迎え、餅屋の恩返し話などもあって苦労人を感じさせる人柄のよう。そして近江出身だけあって高い築城技術を持ち多くの城の改修も請け負ったなど、かなり有能なため、家康の高い評価を受けて信頼され、江戸城の築城も任されたほど。

戦国時代の価値観では主君を変えることはよくあることだが、江戸時代の儒教的に、忠臣は二君に仕えず的な価値観で低評価を受けてきたようなものなので、21世紀の現代、高虎の建てた江戸城以下の数々の城の研究や発掘も進み、改めて再評価されているようです。

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室町時代戦国時代日本史歴史

家康から信頼され江戸城を作った武将「藤堂高虎」をわかりやすく歴女が解説

今回は藤堂高虎を取り上げるぞ。7人主君を変えたというが、再評価されてるんだって、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、藤堂高虎について5分でわかるようにまとめた。

1-1、藤堂高虎は近江の生まれ

藤堂高虎(とうどうたかとら)は、弘治2年(1556年)1月、近江国犬上郡藤堂村(現滋賀県犬上郡甲良町在士)の土豪、藤堂虎高の次男として誕生。幼名は与吉、きょうだいは兄高則(21歳で戦死)、姉ひとり、弟が2人で妹が2人の7人きょうだいです。

高虎の父は、近江鯰江城主三井乗綱の次男三井虎高で、江戸時代の豪商三井家とも近縁だそう。また、虎高は若い頃に近江から甲斐の武田信虎に仕えて虎の字をもらったほどだが、他国から来たためか他の家臣に嫉妬されて藤堂村に戻り、藤堂忠高の娘婿となったという話です。尚、藤堂氏は先祖代々藤堂村の小領主だったが、戦国時代に没落、農民となっていたそう。

1-2、高虎、浅井氏を皮切りに転々と主を変える

高虎は父と兄とともに近江国の戦国大名浅井長政に足軽として仕え、13歳の頃に父と兄の後を追って北近江の一揆の平定に向かい一揆の一人を討ち取るなどで浅井長政に金一枚と兼光の刀を拝領。元亀元年(1570年)姉川の戦いに参戦して首級を取る武功を挙げ、長政から感状を受けたが、不意のいさかいで同僚を殺害して逃走。

その後は、浅井氏の旧臣で信長に仕えた阿閉貞征(あつじさだゆき)、次に同じく浅井氏旧臣で信長に仕えた磯野員昌(かずまさ)の家臣となった相性が合わず、その後近江国を去り、信長の甥織田信澄の家臣となったが丹波攻めの武功のわりに恩賞が少なかったなどが不満で出奔、転々として流浪生活をした間に、無銭飲食をした話は有名に。

2-1、秀吉の弟秀長家臣として活躍、大名に

高虎は天正4年(1576年)に、信長の重臣となった羽柴秀吉の弟秀長に300石で仕官し、天正9年(1581年)には但馬国の土豪を討った功績で3000石の所領を加増され鉄砲大将になりました。

その後も秀長のもとで中国攻めに参加、そして賤ヶ岳の戦いでは佐久間盛政を銃撃して敗走させ、戦勝の端緒を開く戦功で1300石を加増。天正13年(1585年)の紀州征伐にも従軍、10月に湯川直晴を降伏させ、山本主膳を斬るなどの活躍をし、秀長の命令で雑賀党の鈴木重意を謀略で自害に追い込んだ話もあるそう。

そして戦後は紀伊国粉河に5000石を与えられ、猿岡山城、和歌山城の築城の普請奉行に任命されて高虎にとって最初の築城を行ったのですね。また四国攻めで功績が認められて、秀吉から5400石の加増があり、ついに1万石の大名に。

2-2、作事奉行として家康の屋敷を作る

天正14年(1586年)、関白となった秀吉は、京都の聚楽第に、秀吉への謁見のため上洛予定の徳川家康の屋敷を作るよう秀長に指示し、秀長は作事奉行として高虎を指名。高虎は設計図に警備上の難点があったと独断で設計を変更して、自前の費用で直したそう。

そして家康に、設計図と違う点を尋ねられたときに、天下の家康様に御不慮があれば、主人秀長の不行き届きとなり関白秀吉公の面目に関わるために、自分の一存で変更したが、御不興であればご容赦なくお手討ちをと返したために、家康は高虎の心遣いに感心したという話があり、このときから家康に注目され、手紙のやり取りをするようになったらしいです。

2-3、高虎、その後も戦争と城つくりに活躍

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高虎は天正15年(1587年)の秀吉の九州征伐にも参加して、根白坂の戦いで島津軍に攻められた宮部継潤を救援して2万石に加増、秀吉の推挙で正五位下佐渡守に叙任しました。また天正17年(1589年)、北山一揆の鎮圧の拠点として赤木城(現三重県熊野市紀和町)を築城。高虎は一揆鎮圧も容赦なく行って多数の農民が田平子峠で斬首され、「行たら戻らぬ赤木の城へ、身捨てどころは田平子じゃ」と歌に歌われたほど。

高虎は天正19年(1591年)に秀長が死去後、跡を継いだ秀長の甥で養子の秀保に仕え、若い秀保の代理で翌年の文禄の役に出征しましたが、文禄4年(1595年)に秀保が早世したので出家して高野山入り。しかし秀吉が高虎の将才を惜しみ、生駒親正に説得させて召還。高虎は還俗したうえに5万石加増で、伊予国板島(現在の宇和島市)7万石の大名にランクアップ。

そして慶長2年(1597年)の慶長の役には水軍を率いて参加、漆川梁海戦で、朝鮮水軍の武将元均率いる水軍を殲滅、南原城の戦い、鳴梁海戦にも参加したなどで、帰国後、大洲城1万石を加増されて8万石となったので、居城の板島丸串城の大規模な改修を行って宇和島城に改称しました。朝鮮の官僚で儒学者の姜沆(カン・ハン、きょうこう)を捕虜にして日本へ移送したのもこの時期だったということ。

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