その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
- 1-1、池田輝政は、尾張の国清州の生まれ
- 1-2、輝政の子供時代
- 1-3、本能寺の変後の輝政
- 1-4、長久手の戦いで、父と兄が戦死
- 2-1、豊臣政権下で厚遇
- 2-2、輝政、家康の娘と結婚
- 2-3、輝政の妹、秀次事件で助命に
- 2-4、秀吉没後、武断派として行動、関ヶ原合戦へ
- 3-1、関ヶ原後、初代姫路藩主に
- 3-2、輝政、姫路城を大規模に改修
- 3-3、輝政、外様大名ながら徳川家の親藩同様に
- 4-1、輝政の逸話
- 4-2、輝政の性格
- 4-3、父の首をとった相手を加増させた
- 4-4、輝政の祖母養徳院とは
- 4-5、母も信長の異母兄の未亡人
- 4-6、輝政のきょうだいたち
- 4-7、輝政後の池田家
- 織田信長の側近として成長、秀吉、家康と上手にシフトして大大名に
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、池田輝政について5分でわかるようにまとめた。
1-1、池田輝政は、尾張の国清州の生まれ
池田輝政(いけだてるまさ)は、永禄7年(1564年)、織田信長の重臣池田恒興の次男として尾張国清洲で誕生。母は荒尾善次の娘で善応院、きょうだいは兄が元助、姉がせん、弟が長吉、長政の2人と妹が2人。幼名は古新丸。
元服後は照政に。尚、照政は慶長12年(1607年)閏4月までで、同年7月に輝政と改名したそうです。
1-2、輝政の子供時代
輝政の父の恒興は、天文14年(1545年)10歳で乳兄弟の信長の御伽小姓となり、元亀4年(1573年)には信秀の後を継いだ信長に知行150貫を与えられ、桶狭間の戦い、美濃攻略、姉川の戦いで活躍し、犬山城主となり1万貫の身上に。以後も比叡山焼き討ち、長島一向一揆、槙島城の戦いなど信長の戦いに付き従いました。
そして輝政は兄とともに信長の近習として仕えつつ成長し、次男だったために天正元年(1573年)11歳で、母方の伯父荒尾善久の養子となって尾張の国知多郡の木田城主に。天正7年(1579年)11月、信長に反旗を翻した荒木村重との有岡城の戦いで、父と兄と共に摂津倉橋に陣をとり、天正8年(1580年)の花隈城(花熊城)攻略の際には、北諏訪ヶ峰に布陣、荒木軍の武士5、6名を討ち取って信長から感状を授けられる功名を。
こちらの記事もおすすめ
尾張の大うつけが海道一の弓取りを打ち破った「桶狭間の戦い」を戦国通サラリーマンが5分でわかりやすく解説
1-3、本能寺の変後の輝政
天正10年(1582年)2月、18歳の輝政は父や兄と共に信長の嫡男信忠軍に属し、甲州征伐に出陣。
その後、摂津の留守を守るよう信長から命令されたが、同年6月2日、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、父と兄とともに中国攻めから引き返した羽柴秀吉と合流、父恒興は3男で12歳の長吉を天正9年(1581年)に秀吉の猶子(養子)としていましたが、次男輝政も秀吉の養子にするという約束をして秀吉と同盟を結び、山崎の戦いでは5000人の兵を率いて右翼先鋒を務め、光秀を破るのに多大な貢献をしたのですね。
そして父恒興は織田家の宿老に列して、10月に行われた京都大徳寺での信長の葬儀では、輝政は羽柴秀勝と共に木造を入れた信長の棺を担ぎ、織田家の後継を巡る清洲会議では、輝政の池田家は柴田勝家らに対抗、秀吉、丹羽長秀と共に信長嫡孫で輝政兄の義理の甥でもある三法師(織田秀信)を擁立。そして清須会議での領地の再分配で、父と兄と輝政で摂津国の大坂、尼崎、兵庫の12万石を領有することになり、父は大坂へ、元助が伊丹城、輝政は尼崎城主に。
翌天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いには参戦しなかったものの、美濃国内にて13万石を拝領し父恒興は大垣城主、兄元助は岐阜城主、輝政は池尻城主となったということです。
こちらの記事もおすすめ
信長の嫡男として嘱望された「織田信忠」本能寺の変で散った若大将について歴女がわかりやすく解説
\次のページで「1-4、長久手の戦いで、父と兄が戦死」を解説!/