今回は池田輝政を取り上げるぞ。信長の家来だった戦国武将ですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、池田輝政について5分でわかるようにまとめた。

1-1、池田輝政は、尾張の国清州の生まれ

池田輝政(いけだてるまさ)は、永禄7年(1564年)、織田信長の重臣池田恒興の次男として尾張国清洲で誕生。母は荒尾善次の娘で善応院、きょうだいは兄が元助、姉がせん、弟が長吉、長政の2人と妹が2人。幼名は古新丸。

元服後は照政に。尚、照政は慶長12年(1607年)閏4月までで、同年7月に輝政と改名したそうです。

1-2、輝政の子供時代

輝政の父の恒興は、天文14年(1545年)10歳で乳兄弟の信長の御伽小姓となり、元亀4年(1573年)には信秀の後を継いだ信長に知行150貫を与えられ、桶狭間の戦い、美濃攻略、姉川の戦いで活躍し、犬山城主となり1万貫の身上に。以後も比叡山焼き討ち、長島一向一揆、槙島城の戦いなど信長の戦いに付き従いました。

そして輝政は兄とともに信長の近習として仕えつつ成長し、次男だったために天正元年(1573年)11歳で、母方の伯父荒尾善久の養子となって尾張の国知多郡の木田城主に。天正7年(1579年)11月、信長に反旗を翻した荒木村重との有岡城の戦いで、父と兄と共に摂津倉橋に陣をとり、天正8年(1580年)の花隈城(花熊城)攻略の際には、北諏訪ヶ峰に布陣、荒木軍の武士5、6名を討ち取って信長から感状を授けられる功名を。

1-3、本能寺の変後の輝政

image by PIXTA / 60780011

天正10年(1582年)2月、18歳の輝政は父や兄と共に信長の嫡男信忠軍に属し、甲州征伐に出陣。

その後、摂津の留守を守るよう信長から命令されたが、同年6月2日、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、父と兄とともに中国攻めから引き返した羽柴秀吉と合流、父恒興は3男で12歳の長吉を天正9年(1581年)に秀吉の猶子(養子)としていましたが、次男輝政も秀吉の養子にするという約束をして秀吉と同盟を結び、山崎の戦いでは5000人の兵を率いて右翼先鋒を務め、光秀を破るのに多大な貢献をしたのですね。

そして父恒興は織田家の宿老に列して、10月に行われた京都大徳寺での信長の葬儀では、輝政は羽柴秀勝と共に木造を入れた信長の棺を担ぎ、織田家の後継を巡る清洲会議では、輝政の池田家は柴田勝家らに対抗、秀吉、丹羽長秀と共に信長嫡孫で輝政兄の義理の甥でもある三法師(織田秀信)を擁立。そして清須会議での領地の再分配で、父と兄と輝政で摂津国の大坂、尼崎、兵庫の12万石を領有することになり、父は大坂へ、元助が伊丹城、輝政は尼崎城主に。

翌天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いには参戦しなかったものの、美濃国内にて13万石を拝領し父恒興は大垣城主、兄元助は岐阜城主、輝政は池尻城主となったということです。

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1-4、長久手の戦いで、父と兄が戦死

輝政の池田家は、秀吉と信長の次男信雄の関係が悪化した後は秀吉側につき、天正12年(1584年)、長久手の戦いでは三河を奇襲する部隊の一翼だったが、4月9日、徳川家康、井伊直政、織田信雄らが率いる軍の攻撃で、父と兄の元助、そして姉婿だった森長可も討死。父恒興は秀吉に、勝利のあかつきには尾張1国が約束されていたそうです。

2-1、豊臣政権下で厚遇

輝政は父と兄の死後、重臣の尽力もあって池田家を継承。天正13年(1585年)には岐阜城主に配置換えとなり、秀吉に従ってその後の小田原攻め、九州平定にも従軍し、天正15年(1587年)には秀吉より羽柴姓を、天正16年(1588年)に豊臣姓を与えられ、そして天正18年(1590年)、輝政は奥州仕置に参加した功績で三河国15万2000石に加増されて吉田城主となりました。

吉田城主時代の輝政は、同時期に尾張を任された秀吉の甥の秀次に付属、文禄の役では国内守備の任務だった秀次に近侍して吉田城に留まり、東国警衛の任を任されたということ。輝政は朝鮮出兵に関しては、大船建造、兵糧米の名護屋城回送などを行い、伏見城の普請、秀次の弟の秀保の大和多内城普請を務めたなど、輝政は豊臣一族に準じた扱いだったのですね。

2-2、輝政、家康の娘と結婚

文禄3年(1594年)、秀吉の仲介によって、徳川家康の娘で後北条氏の北条氏直の正室だった督姫と結婚。それまでの輝政の正室糸姫は中川家の出身だったが、長男利隆を出産後に病気になり実家に帰り亡くなったということで、中川家とはその後も関係は良好、関ヶ原の戦前には糸姫の弟の中川秀成は、輝政の仲介で家康に忠誠を誓ったそう。

督姫と輝政との間は円満で、5男2女が生まれることになります。

2-3、輝政の妹、秀次事件で助命に

文禄4年(1595年)、関白だった豊臣秀次の失脚時、秀次の妻妾の多くが殺害されたのですが、輝政の妹で秀次の正室だった若政所は例外的に助命され、特別丁重に扱われたそう。

2-4、秀吉没後、武断派として行動、関ヶ原合戦へ

慶長3年(1598年)8月、輝政は、秀吉没後、家康に接近。福島正則や加藤清正ら武断派の諸将として、文治派の石田三成らと対立、慶長4年(1599年)閏3月に、武断派と文治派の仲裁をしていた五大老の前田利家が死去すると、輝政は七将のひとりとして、福島正則、浅野幸長、加藤清正、加藤嘉明、黒田長政らと石田三成襲撃事件に加わりました。

その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦では、前哨戦として、兄の甥でもある織田秀信の岐阜城攻略に参加、輝政にとっては勝手知ったる元の居城のため、福島正則と共に戦功を挙げたが、関ヶ原の本戦では毛利秀元、吉川広家ら南宮山の西軍の抑えだったために、直接の戦闘には参加しなかったそう。

3-1、関ヶ原後、初代姫路藩主に

輝政は、慶長5年(1600年)に、関ヶ原の戦で豊臣方についた木下家定に代わって、岐阜城攻略の功績で播磨国姫路52万石に加増移封となり、初代姫路藩主に。輝政は外様ながら、関ヶ原合戦以後、徳川氏一門以外の大名として少将以上の任官となり、福島正則に次いで国持大名として8番目に高い知行を得て、初期の徳川政権でかなり高い政治的地位を獲得しました。

輝政以外にも、武将として活躍した弟長吉は因幡鳥取藩6万石、督姫との間に生まれた5男忠継は備前岡山藩28万石、6男忠雄は淡路洲本藩6万石を合せると、一族で計92万石、約100万石を統治、西国最大の大大名となり、「西国将軍」「姫路宰相百万石」と呼ばれるようになりました。

\次のページで「3-2、輝政、姫路城を大規模に改修」を解説!/

3-2、輝政、姫路城を大規模に改修

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輝政は、慶長6年(1601年)から慶長14年(1609年)にかけて、秀吉の築いた姫路城を100万石の城にふさわしい大規模なものに改修することに。また、慶長11年(1606年)からは、姫路城と同時進行で近隣にある加古川流域の改修も始めたということで、加古川上流の田高川の河川開発事業下流域の高砂の都市開発事業姫路港と姫路城を結ぶ運河の建設(これは完成ならず)も行いました。

また、諸大名らと共に、慶長11年(1606年)の江戸城普請、同14年(1609年)の篠山城普請、翌15年(1610年)の名古屋城普請などの天下普請にも参加、篠山城普請では総普請奉行を務めたということで、現在残る姫路城は、天守閣も江戸城のものと酷似し、造りも江戸城のミニ版として西国大名の抑えに睨みを利かせる存在だったそう。

3-3、輝政、外様大名ながら徳川家の親藩同様に

慶長16年(1611年)3月、輝政は二条城での家康と豊臣秀頼との会見に同席。慶長17年(1612年)には、徳川一門以外で初の正三位参議となり、また外様大名初の松平姓を許されて「松平播磨宰相」と呼ばれることに。徳川家との縁組はその後も続き、池田家は外様大名ながらも徳川家の親藩同様となりました。

慶長18年(1613年)1月25日に姫路城で50歳で死去。死因は中風といわれていて、輝政が中風を患ったと本多正純から事情を聴いた家康は、中風の薬として鳥犀円を遣わしたとか、大坂城の豊臣秀頼の重臣らが輝政の死を聞き、輝政は大坂の抑えとして大切な人だったのに、亡くなったうえは関東が黙っていない、大坂城も危ないと愕然としたという話もあるそう。

4-1、輝政の逸話

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不明 - 鳥取県立美術館所蔵品。Tottori prefectural art museum,Japan, パブリック・ドメイン, リンクによる

織田信長、秀吉、家康時代を上手に生きて大大名となった秘密がわかるような逸話をご紹介しますね。

4-2、輝政の性格

輝政は、幼い頃からはきはきした性格で、成長するに従い雄々しく逞しく、剛直な人となりに成長し、下の者には寛容な態度で口数の少ない寡黙な人物だったそう。

あまり物事には執着しないタイプだったようで、関ヶ原前哨戦の岐阜城攻めでは、福島正則と激しい功名争いを演じたが、実際には一番乗りの手柄を上げたのに、あっさりと福島正則に功を譲って、同時に城を落としたことにしたという話があり、また家康の娘との縁組で大大名になったことを、福島正則に「お主は槍ではなく一物で国を得た」といわれたときも、輝政は「確かにその通りだが、槍を振るえば天下を取ったわい」とうまく返したという話も有名。

尚、輝政の後室の家康の娘督姫の菩提寺である鳥取の慶安寺の寺伝には、最初、秀吉は家康に、輝政と淀殿の妹のお江との結婚はどうかと相談したところ、家康がお江は秀忠と結婚させるから、輝政は督姫と結婚させたいと申し出たという話が残っているそう。

4-3、父の首をとった相手を加増させた

輝政は、家康の娘の督姫と結婚したときに伏見の徳川屋敷を訪れて、周りが止めるのも聞かず、長久手の戦いで父恒興を討った家康の家臣の永井直勝に会いたいと所望して、父の最期を語らせたということです。直勝の話を最後まで黙って聞いた輝政は、最後に「それでお手前はどれくらい加増されたのか」と聞き、直勝が5000石の身上だと知ると輝政はため息をついて「父の首はたったの5000石か」とぼそっと言ったそう。それを聞いた家康が慌てて直勝を1万石の大名に加増したという話はかなり有名。

\次のページで「4-4、輝政の祖母養徳院とは」を解説!/

4-4、輝政の祖母養徳院とは

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蔵知矩 - 『池田勝入斎信輝公小伝』 国立国会図書館デジタルコレクション, パブリック・ドメイン, リンクによる

輝政の父恒興は、尾張織田氏家臣池田恒利の子で、母は養徳院、大御乳様と呼ばれた信長の乳母でした。信長は子供の頃、お乳の出の悪い乳母の乳首をかみ切り、次々と乳母を変えたという話があります(もろにアスペルガー症候群っぽい)。この養徳院は数え3歳の信長にたっぷりとお乳を与えることが出来、信長にも慕われたのか後々まで大御乳様と呼ばれ、元亀4年(1573年)6月には信長に知行150貫を与えられ、天正12年(1584年)、恒興が小牧、長久手の戦いで戦死後、豊臣秀吉から慰めの手紙をもらい、天正17年(1589年)11月には秀吉に美濃国方県郡長良に800石の隠居地をもらって住み、慶長13年(1608年)10月16日、94歳で死去。

尚、天文7年(1538年)の恒利の死後に出家して養徳院となったが、信長の父信秀の側室となり、娘の小田井殿(のちに織田一族と結婚)をもうけたため、信長の異母妹の母でもあったのですね。

4-5、母も信長の異母兄の未亡人

恒興の正室で輝政きょうだいの母である善応院は、最初は織田信長の異母兄の信時の正室で、七条(飯尾敏成正室、のちの下間頼龍正室)を産んだが、信時が自害後、信長の命で池田恒興と再婚した人です。また、恒興の父池田恒利は滝川貞勝の三男(または次男)で近江浪人という説で、尾張へ来て池田政秀の娘の養徳院と結婚、池田家の入婿になった人で、織田家家臣となった滝川一益とは兄弟説もあるということ。

4-6、輝政のきょうだいたち

輝政の姉は森蘭丸の兄森長可に嫁ぎ、その後中村一氏と結婚妹の若政所は秀吉の甥の秀次の正室、もうひとりの妹は浅野幸長の正室、もうひとりは織田勝長(御坊丸、信長の5男)の正室で兄元助の継室は信長の嫡男信忠の側室の姉なので、信忠の息子三法師秀信は元助の義理の甥、そして異父姉は飯尾敏成正の正室後に下間頼龍正室、織田信長家とは切っても切れない間柄。

4-7、輝政後の池田家

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不明 - 林原美術館所蔵品、Owned by Hayashibara Museumn of Art, パブリック・ドメイン, リンクによる

慶長18年(1613年)1月、輝政の死後、長男利隆が2代目藩主となり父の輝政が死去したため、6月に家督を継いだ。その際に父輝政の後室の家康娘督姫の化粧料、西播磨三郡(宍粟郡、佐用郡、赤穂郡)10万石を督姫の息子で異母弟の忠継に分与したので、姫路藩の所領は42万石になりました。

輝政の息子たちは、側室から生まれた次男、4男は池田家の家老となり、5男、6男、7男、8男、9男は家康の娘振姫が母だったために、それぞれ支藩に。そして利隆が元和2年(1616年)6月にわずか33歳で死去、長男の光政は7歳で相続したが、元和3年(1617年)3月6日、幼少を理由に因幡鳥取32万5000石に減転封に、そして寛永5年(1628年)1月本多忠刻の娘勝姫(千姫の娘で秀忠の孫)を大御所秀忠の養女として正室に迎え、寛永9年(1632年)に、輝政の5男で光政の叔父の岡山藩主池田忠雄が死去したとき、光政の従弟で忠雄の嫡男光仲が継承したが、3歳幼少藩主では山陽道の要所の岡山は治め難いとして光政は岡山31万5000石へ、光仲は鳥取32万5000石に国替えとなり、明治維新まで続くことに。

織田信長の側近として成長、秀吉、家康と上手にシフトして大大名に

池田輝政は祖母が信長の乳母で信長の父信秀の側室、父は信長の乳兄弟として側近、母も信長の異母兄の未亡人という家の出身です。小姓として兄とともに信長、嫡男の信忠に仕え、いわば子供の頃から信長を家族のように身近に成長した武将。

そして本能寺の変後も、父恒興が息子たちと秀吉に付いて山崎の合戦を戦い、長久手の合戦で父と兄が戦死後に輝政が池田家を継ぎ、秀吉にも信頼されて、秀吉のお声がかりで家康の女婿に。そして関ヶ原でも当然のごとく義父家康の東軍に付き、岐阜城を落とすなどの功績でとうとう播磨の国をゲット。家康の娘の正室督姫の化粧料10万石に分家の弟や息子たちの分も合わせるとほぼ100万石という大大名、西国宰相といわれて今に残る世界遺産姫路城を築き、子孫は岡山藩と鳥取藩で明治維新まで続きました。

父や兄の存命中に信長から秀吉へのシフトチェンジを上手に行い、家臣にも助けられて輝政も秀吉や家康に不思議なほど重用された気がするのですが、あの父の首をとった家康の武将に話を聞き、「父の首をとってたったそれだけ」と言ったのを聞いた家康が慌てて加増したことや、福島正則にからかわれても受け流す鷹揚さから想像するに、爽やかな印象を受けるけっこう育ちの良い有能な人物であったのかも。

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室町時代戦国時代日本史歴史

姫路城を現在の形に作り上げた戦国武将「池田輝政」をわかりやすく歴女が解説

今回は池田輝政を取り上げるぞ。信長の家来だった戦国武将ですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、池田輝政について5分でわかるようにまとめた。

1-1、池田輝政は、尾張の国清州の生まれ

池田輝政(いけだてるまさ)は、永禄7年(1564年)、織田信長の重臣池田恒興の次男として尾張国清洲で誕生。母は荒尾善次の娘で善応院、きょうだいは兄が元助、姉がせん、弟が長吉、長政の2人と妹が2人。幼名は古新丸。

元服後は照政に。尚、照政は慶長12年(1607年)閏4月までで、同年7月に輝政と改名したそうです。

1-2、輝政の子供時代

輝政の父の恒興は、天文14年(1545年)10歳で乳兄弟の信長の御伽小姓となり、元亀4年(1573年)には信秀の後を継いだ信長に知行150貫を与えられ、桶狭間の戦い、美濃攻略、姉川の戦いで活躍し、犬山城主となり1万貫の身上に。以後も比叡山焼き討ち、長島一向一揆、槙島城の戦いなど信長の戦いに付き従いました。

そして輝政は兄とともに信長の近習として仕えつつ成長し、次男だったために天正元年(1573年)11歳で、母方の伯父荒尾善久の養子となって尾張の国知多郡の木田城主に。天正7年(1579年)11月、信長に反旗を翻した荒木村重との有岡城の戦いで、父と兄と共に摂津倉橋に陣をとり、天正8年(1580年)の花隈城(花熊城)攻略の際には、北諏訪ヶ峰に布陣、荒木軍の武士5、6名を討ち取って信長から感状を授けられる功名を。

1-3、本能寺の変後の輝政

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天正10年(1582年)2月、18歳の輝政は父や兄と共に信長の嫡男信忠軍に属し、甲州征伐に出陣。

その後、摂津の留守を守るよう信長から命令されたが、同年6月2日、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、父と兄とともに中国攻めから引き返した羽柴秀吉と合流、父恒興は3男で12歳の長吉を天正9年(1581年)に秀吉の猶子(養子)としていましたが、次男輝政も秀吉の養子にするという約束をして秀吉と同盟を結び、山崎の戦いでは5000人の兵を率いて右翼先鋒を務め、光秀を破るのに多大な貢献をしたのですね。

そして父恒興は織田家の宿老に列して、10月に行われた京都大徳寺での信長の葬儀では、輝政は羽柴秀勝と共に木造を入れた信長の棺を担ぎ、織田家の後継を巡る清洲会議では、輝政の池田家は柴田勝家らに対抗、秀吉、丹羽長秀と共に信長嫡孫で輝政兄の義理の甥でもある三法師(織田秀信)を擁立。そして清須会議での領地の再分配で、父と兄と輝政で摂津国の大坂、尼崎、兵庫の12万石を領有することになり、父は大坂へ、元助が伊丹城、輝政は尼崎城主に。

翌天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いには参戦しなかったものの、美濃国内にて13万石を拝領し父恒興は大垣城主、兄元助は岐阜城主、輝政は池尻城主となったということです。

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