
日本初のノーベル賞受賞者「湯川秀樹」の功績を科学館職員がわかりやすく解説!
日本人で初めてノーベル賞を受賞した人物を知っているか?かの有名な理論物理学者の湯川秀樹博士です。湯川博士は中間子の存在を予言し、終戦から4年後に日本初のノーベル賞としてノーベル物理学賞を授賞した。湯川博士はあの天才物理学者、アインシュタイとも交流があったんです。
湯川秀樹という名前は知っているものの、湯川博士の経歴や研究内容を知らないという人も多くいるでしょう。そこで今回は湯川秀樹の経歴や功績、さらにノーベル賞につながった研究について伝記大好き科学館職員、たかはしふみかが解説してくぞ。

ライター/たかはし ふみか
読書家の文系よりリケジョ。小学生の頃から科学者の伝記をよく読んでいた。高校では化学部、大学では工学部化学系で化学漬けの日々を送っていた科学館職員。
湯川秀樹の生涯
始めに湯川博士の経歴を解説します。
小川秀樹の少年時代

1907年(明治40年)1月23日に東京で生まれた湯川博士。ところで湯川という苗字は婿入りした先の苗字であり、生まれた時は小川秀樹だったそうです。父親の小川琢治(おがわたくじ)は地質学者、地理学者で当時の京都帝国大学(現在の京都大学)の教授に就任したのを機に1歳の頃、家族で京都に移りました。成績のためではなく自分の好きなことを深く学べという教育方針のもと勉強や読書に励む少年時代だったそうです。
湯川博士は三男で上の兄は冶金(金属工学)学者、下の兄は東洋史学者、弟は中国文学者、さらに核物理学者として活躍した甥もいます。湯川博士の家系は父の教え通り皆好きな分野を極め幅広い分野で活躍する研究者の一族ですね。また、遠縁に元首相の森喜朗氏がいるそうです。
このような家庭に育ったため、お兄さんと物質はどこまで小さくできるのかなどを議題に議論することもあったと言います。当時はまだ原子が発見されていなかったかにも関わらず、秀樹少年はすでに物質は分子よりも小さな単位に分けられると主張していたそうです。
小川秀樹の青年期

京都の小学校、中学校で学んだ湯川博士は物静かな少年だったそうです。中学校の先輩にはなんと同じくノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎(ともながしんいちろう)博士がいます。湯川博士は高校時代にはすでにドイツ語で量子論の本を読んでいたそうです。そして当時研究され始めたばかりであった量子力学を京都帝国大学(現在の京都大学)理学部物理学科で学ぶこととなります。
今では化学の教科書の最初に載っている原子核の構造などがわかり始めた1929年(昭和4年)に湯川博士は京都帝国大学理学部物理学科を卒業し、研究室で働くようになりました。3年後には講師となり、その翌年からは大阪帝国大学(現在の大阪大学)でも講師を務めるようになったのです。一方、私生活では1931年に見合い頃結婚し、ついに湯川に苗字が変わります。
研究者、湯川秀樹の功績

当時の日本ではまだあまり素粒子などに注目が集まっておらず、海外の文献を頼りに研究を行っていた湯川博士。1934年に27歳の若さで日本初のノーベル賞につながる「中間子理論構想」を発表し、さらに翌年に「素粒子の相互作用について」を発表しました。中間子とは原子核の中にある陽子と中性子を結びつける粒子のことで、新たな粒子の存在を予測したのです。しかし、湯川博士がこの中間子について発表した時はあまり受け入れられませんでした。
それが1937年にアメリカのアンダーソンが宇宙線(宇宙空間にある放射線)に中間子と質量の近い粒子を発見し、これがミュー中間子と名付けられます。そして1942年に2つの違いを示した「二中間子論」が発表されました。そしてπ中間子を1947年にセシル・パウエルらが発見し、1949年に湯川博士がノーベル物理学賞を授賞したのです。日本初、アジアでも3人目の受賞でした。
ちなみに1936年に陽電子の発見でアンダーソンが、湯川博士授賞した翌年の50年にはパウエルが原子核崩壊過程の研究方法の開発および諸中間子の発見を理由にノーベル物理学賞を受賞しています。
湯川博士の晩年

ノーベル賞受賞後、湯川博士は母校京都大学で次世代の育成に力を注ぎます。また現代物理学の父と呼ばれ核兵器の廃止を目指していたアルベルト・アインシュタインとの交流をきっかけに反戦と核兵器廃止のための平和活動も行うようになりました。
1981年に急性肺炎で74歳でこの世を去ります。湯川博士は亡くなる3か月前も科学者の会議の発起人として活動し、会議では車いすで参加し核廃絶を訴えていました。
\次のページで「湯川博士の研究内容」を解説!/