今回は土佐藩を取り上げるぞ。坂本龍馬とか幕末に志士を輩出した藩ですが、どんな藩だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代やお城にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、土佐藩について5分でわかるようにまとめた。

1-1、土佐藩とは

土佐藩(とさはん)は、江戸時代から明治初期に廃藩置県となるまで、現在の高知県にあった外様藩のこと。明治初年の正式名称は高知藩(こうちはん)で、藩庁は高知城(現高知市)。江戸時代は配置換えもなく、一貫して山内家(やまうち)が藩主でした。

1-2、土佐藩の成り立ち

四国は讃岐の国(現香川県)、阿波(現徳島県)、伊予の国(現愛媛県)、土佐の国(現高知県)からなっていて、戦国時代は土佐の長曾我部元親が四国をほぼ制覇しました。しかし元親の息子盛親が、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に加担したため改易処分となり、遠江掛川城主だった山内一豊(やまうちかつとよ)が、徳川家康から功績を認められて土佐20万2600石に加増転封となり、土佐藩主に。

「功名が辻」によると、長曾我部盛親も東軍に加担するために家康に使者を送ったが、石田三成の領地の近江の関所で土佐弁丸出しのために疑われて通れず、仕方なく引き返して西軍に付いたが、同じ頃に山内一豊の千代夫人は大坂から三成の書状と夫にあてた手紙を「笠の緒の文」として、近江なまりのある近江出身の使者に託したため、無事に近江の関所を通過し山賊に遭ったもののなんとか届けることが出来、一豊が夫人の指示通りに家康に未開封で見せたことなどで絶大な信頼を得たという、けっこう皮肉なめぐりあわせのある話も。

2-1、土佐藩の歴史

image by PIXTA / 62988348

土佐藩成立から明治4年(1871年)に廃藩置県により高知県となるに至る、幕末までの土佐藩の主な歴史的事件をご紹介しますね。

2-2、長宗我部侍の弾圧

藩祖山内一豊は、慶長6年(1601年)に、掛川から土佐に移封となり浦戸城に入城しました。当時、大幅に加増されて、他地方から入った大名は、人員補充のために地元の元家臣を大量に雇用するのが常でした。

しかし土佐では長宗我部盛親が関ヶ原の敗戦後、改易追放となったため、前年に浦戸城を明け渡すのを拒んだ長曾我部の元家臣たちが反乱を起こして浦戸城に立て籠もって鎮圧された浦戸一揆という事件があったのですね。なので一豊は、新規召し抱えの家臣は上方で募り、重要な役職は主に外来の家臣で固め、一部の有益な長宗我部旧臣だけを懐柔して登用したということです。なので、一領具足を中心とした旧長宗我部氏の家臣団は新領主に反発し、土佐国内のあちこちで一揆を起こすことに。

浦戸一揆とは
慶長5年(1600年)、長曾我部氏の家臣竹内惣右衛門を中心とする一領具足たちが、浦戸城の引渡しを拒否、主君長曾我部盛親に土佐半国を与えろと要求して、城の受取り上使の宿所だった雪蹊寺を1万7千人で包囲。激怒した徳川家康は四国諸大名に土佐への派兵を命じ、新土佐領主内定の山内一豊は弟の山内康豊を鎮圧に派遣したのですね。長曾我部遺臣団側は浦戸城に篭城し50日間ほど抵抗。

徳川方は、長曾我部家臣団の重臣桑名弥次兵衛と蜷川親長と秘密裏に接触、助命する代わりに篭城家臣団を討てと命じたので、野田右京や山川五郎左衛門らの同志らとはかり、城の要所を固めて徳川方に浦戸城を明渡したので、12月1日に動揺した一揆軍は追討軍が浦戸城外で撃破され、降伏

そして273人の一領具足が斬首され、その首は塩漬けにされて、関ヶ原戦後処理担当の大坂の井伊直政のもとへ送られたそう。12月5日に浦戸城の接収作業は完了し、翌年1月に新領主となった山内一豊が浦戸城に入城。

2-3、相撲興行で一揆の残存勢力を鎮圧

慶長6年(1601年)3月1日、新国主入城の祝賀行事の一環として、藩が相撲の興行を開催。土佐中の相撲大好きで力自慢のいごっそうたちが集まり、真剣勝負に大勢の見物客がつめかけたということです。しかし藩の上層部は、前もって浦戸一揆に関係していた一領具足や庄屋を調査していたため、集まった人々のうちの関係者73人を捕られて種崎で磔にしたということ。

これは「功名が辻」ほかでも、力自慢するために集まった無邪気で素朴な相撲好きの一領具足たちを、無残にも山内侍たちが皆殺しにするという衝撃的な事件とされているのですが、史実は上記のようなことだったそうです。

\次のページで「2-5、浦戸一揆、一領具足反乱の背景」を解説!/

2-5、浦戸一揆、一領具足反乱の背景

発掘された石を移設した石垣
Reggaeman - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

この一領具足たちの一揆の背景にあるものは、関ヶ原の主戦派でなかった長曾我部盛親改易という過酷な処分に対する反発と、もうひとつは兵農分離が進んでいた時代に逆行するような、長曾我部氏独特の一領具足の軍制との関係もあるそう。

一領具足としては、日本の中心で進んでいた兵農分離に対し、土佐と無関係な支配者山内一豊がやって来て土佐を治めることで一領具足の身分剥奪への不安があったのですね。一領具足はその後、高石左馬助を中心とする滝山一揆(本山一揆)などの反乱を相次いで起こしたが、藩が鎮圧。

新領主の山内一豊は、その後、表面上は長曾我部時代の政策を尊重しながら、実際には旧長曾我部侍(郷士)に対する厳しい差別と弾圧を行う土佐藩の基礎を確立。

一領具足とは
一領具足(いちりょうぐそく)は、土佐国の戦国大名、長宗我部国親が考案したと言われる、兵農分離前の武装農民、地侍のことで、半農半兵の兵士、またはその組織の呼称です。

一領具足は、ふだんは田畑を耕して農民として生活を営んでいるが、領主から動員されると、一領(ひとそろい)の具足(鎧)を携えて、直ちに召集に応じたのですね。また、突然の召集にもすぐに応じられるように、農作業中に、常に槍と鎧を田畑の傍らに置いていたので一領具足と呼ばれたとも、正規の武士ならば予備を含めて二領の具足を持っているが、半農半兵なので予備がなくて一領しか具足を持っていないので、一領具足と呼ばれたという説もあるそう。また一領具足は農作業があるので通常の武士が行う仕事は免除されていたが、農作業で鍛えられたために身体壮健で集団行動の適性も高く、兵士として高い水準だったということで、「死生知らずの野武士なり」と恐れられたということです。

しかし農繁期の動員が困難で、長期にわたって地元を離れた戦役は無理だったということで、織田軍をはじめとして、兵農分離で農繁期でも大規模な軍事行動を起こせるようになっていったが、一領具足はそれとは逆行する制度なので、一揆の背景として山内家の支配で、土佐独特の一領具足の身分はく奪を恐れたことも関係したということ。

2-6、高知城の築城と城下町の整備

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長曾我部氏の築いた浦戸城では城下町が整備できないために、一豊は築城名人の百々越前綱家(どど)を築城総奉行に任命し、高知平野内の大高坂山に統治の中心拠点とした城の築城と城下町の縄張りを行わせました。

築城工事は慶長6年(1601年)9月開始して、慶長8年(1603年)1月には、本丸と二ノ丸の石垣が、8月には本丸が完成したので一豊夫妻は9月に入城。この際、真如寺の僧だった在川(ざいせん)の提案で、河中山城(こうちやまじょう)と命名

尚、2代目藩主の忠義は、度重なる水害のため、慶長15年(1610年)に河中の表記変更を命じて、竹林寺の僧だった空鏡(くうきょう)の提案で高智山城と改名。そして後に省略されて高知城と呼ばれるようになったのですね。

そして慶長16年(1611年)には、難関の三ノ丸が竣工して、高知城が完成

2-7、土佐藩の石高

天正年間(16世紀末)に豊臣秀吉が行った太閤検地の際、長曾我部家が届け出た土佐国の石高は、9万8000石だったということですが、山内一豊が土佐入国後に再度算定、江戸幕府には慶長10年(1605年)に20万2600石余りと届け出たということ。そして元和元年(1615年)に隣国の阿波徳島藩が淡路国を加増されて、表高が17万石余から25万7000石になったために土佐藩は対抗して25万7000余石と申告したそう。しかし幕府はこの申告を認めずに、朱印状は従来の20万2600石余のまま据え置きに。

その後江戸時代を通じての新田開発が進んだ結果として、明治3年(1870年)の廃藩置県前には倍近い49万4000石余に達していたそうです。

2-8、郷士の身分制度確立

どこの藩でも家中の侍と郷士とがいて、身分差はあったということですが、土佐藩ではこれが特に厳しかったということは有名。山内家とともに土佐に入府した藩士を山内侍と呼び、上士に属し、長宗我部の遺臣は郷士と呼ばれ下士として色々な格差を設けて支配するようになりました。

例えば、下駄や日傘などは上士しか使用が許されないとか、日常生活でもかなり細かい差別化がされていて、下士階級も、白札、郷士、徒士、徒士格、下席組外、古足軽、足軽、下足軽、庄屋と細分化されていたそう。尚、坂本龍馬の坂本家はもともと商家だったが、曽祖父の代に郷士株を取得して郷士となったので、身分は郷士でもかなり裕福な家で、岩崎弥太郎の家は郷士の株を売った地下人だが、40年以上郷士だったので、名字帯刀は許されていたということです。

また藩としては新田開発での増収に熱心なために、新田開発を奨励して郷士に取り立てるように。そして元禄期になると、郷士も公役に就けるようになり下級役人となった者も出てきたということで、幕末には郷士総数は800人を数え、そのうちの370人が大組で、それぞれが土佐藩の家老の家に属した御預郷士。残り430人が小組と呼ばれて6隊の駆付郷士として非常時における海防に従事していたということ。

3-1、土佐藩の藩政改革

江戸時代に行われた土佐藩の藩政改革についてご紹介しますね。

3-2、野中兼山の藩政改革

土佐藩の藩政が確立したのは2代山内忠義の時代で、忠義は野中兼山を登用。

野中は八田堰、山田堰などの堰及び用水路の建設による新田開発、日本最初の掘り込み港湾の手結内港(ていないこう)、津呂港、室津港、そして防波堤や波止場を作って漁港の機能を回復。

「土木神の化身」と呼ばれるほどの土木工事を行い、捕鯨、ミツバチの導入、アサリの繁殖から、山林経営の基となったサイクル方式の「輪伐制」導入、紙、茶などの専売制と、殖産興業に努めたが、かなり強引な施策だったために政敵の恨みを買った野中兼山は弾劾されて失脚し、宿毛に幽閉されて3か月後に死去、兼山死後も40年も男系が絶えるまで一族は幽閉されたということです。

\次のページで「3-3、その後の藩政改革」を解説!/

3-3、その後の藩政改革

土佐藩の財政は、江戸時代中期頃までは比較的安定していましたが、宝暦期(1751年 - 1764年)以降、一揆、農民の他領への逃散が起こるように。

そこで9代藩主山内豊雍(とよちか)が天明時代に質素倹約基本の藩政改革を実行してやや立ち直り、さらに13代山内豊熈(とよてる)は、馬淵嘉平中心の「おこぜ組」という改革派を起用、藩政改革に乗り出したが、馬渕が当時異学視されていた心学を学んでいたので保守派が糾弾して失脚、豊熈も嘉永元年(1848年)の参勤交代で江戸に出た直後に34歳で死去したため、藩政改革は失敗に。

3-4、吉田東洋の藩政改革

吉田東洋は最初は13代藩主山内豊熙の進めていた藩政改革の一環として、飢饉に備えた済営倉の設立を進言したが、一時病のために療養して、弘化4年(1847年)に再出仕、人事についてや法令改正、海防などの意見書として、「時事五箇条」を上程したが、翌年、藩主の豊熙が死去したために、12月には辞任。

そして近畿地方に国学者の鹿持雅澄、伊勢国の漢学者斎藤拙堂、京都の梁川星巌、頼山陽の弟の頼三樹三郎らと会合後の嘉永6年(1853年)7月、15代藩主豊信(とよしげ、号は容堂)に大目付に抜擢され、12月には参政として藩政改革を主導することになりました。東洋は安政3年(1855年)3月、参勤交代で江戸へ出府し、藤田東湖や塩谷宕陰、安井息軒らと親交したが、酒宴で旗本殴打事件を引き起こして罷免されて、隠居に。

そして帰郷して高知郊外に私塾(少林塾)を開き、甥の後藤象二郎、その友人の乾退助、福岡孝弟、岩崎弥太郎らの若手藩士に影響を与え、彼らが幕末の土佐藩の動向を左右する「新おこぜ組」と称する一大勢力となったのですね。

その後、東洋は許されて安政5年(1858年)1月に参政として藩政に復帰。法律書「海南政典」を定めて、殖産興業、軍制改革、開国貿易、富国強兵、門閥打破を掲げた改革を遂行したのですが、保守的な門閥勢力や尊皇攘夷を唱える土佐勤王党との政治的対立を生じさせる結果となり、文久2年4月8日(1862年5月6日)、帰邸途次の帯屋町にて武市半平太の指令を受けた土佐勤王党の那須信吾らによって暗殺。

4-1、幕末の土佐藩

image by PIXTA / 16480924

幕末の土佐藩について簡単にご紹介しますね。

4-2、土佐勤皇党

文久元年(1861年)、土佐藩の郷士階級白札の出身の武市半平太瑞山らが中心になって江戸で結成。大石弥太郎の起草による盟約書には、尊王攘夷思想と、安政の大獄で失脚中だった前藩主山内容堂の意志を継ぐと謳われ、武市は血盟書を土佐へ持ち帰り、坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村虎太郎ら200人余が参加し、血盟外同志や協力者を含めると500名を超えたといわれる土佐の尊攘運動の一大勢力でした。

土佐勤皇党のメンバーは、郷士を中心とした下士層が圧倒的に多く、次いで庄屋階級、上士からはわずかの人数が参加したということで、他藩の志士は個人で動くが、武市は土佐藩の内部から活動し、藩全体をあげて勤皇佐幕を行おうとしたそう。尚、坂本龍馬は脱藩したが、武市とはその後も交流。

この文久初め頃は尊攘運動の高まりの中、薩摩藩、長州藩の同志との会合で、武市が三藩主同時入京を提案し実行に移されたが、土佐藩主の入京を土佐藩参政の吉田東洋に説いたが受け入れられず、結果的に文久2年(1862年)4月に東洋を暗殺して、武市の牛耳る保守派の傀儡政権が誕生

一時は武市は若年の藩主山内豊範の入京に随行し、平井収二郎らとともに他藩応接役として各藩と交渉、朝廷工作のほか、岡田以蔵や田中新兵衛等らを用いて安政の大獄で尊攘派弾圧に関与した者を粛清したりと、京都での急進的尊攘運動を推進し、同年10月には、朝廷が攘夷実行を迫る勅使を江戸に派遣した際には、武市ら相当数の勤王党員が衛士として随行するなど活躍。

しかし文久3年(1863年)4月、吉田東洋を重用していた前藩主容堂が謹慎を解かれて土佐へ帰国するや、粛清が開始。武市の参謀的存在の平井収二郎らが3名が切腹に処せられ、八月十八日の政変で、尊攘派が京都から追放となり、公武合体派が勢力を強めたこともあり、容堂は土佐勤皇党を弾圧、武市を筆頭にして主要なメンバーは投獄され、武市以外は拷問にかけられ、岡田以蔵の自白で慶応元年(1865年)閏5月、具体的な罪状は立証されないまま「君主に対する不敬行為」で、武市は切腹となり、以蔵らは獄内で斬首。中岡慎太郎は脱藩し、土佐勤王党は指導者の大半を失ったことで、事実上壊滅に。

\次のページで「4-3、藩祖一豊が土佐一国拝領事情の影響」を解説!/

4-3、藩祖一豊が土佐一国拝領事情の影響

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published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) - The Japanese book "幕末・明治・大正 回顧八十年史" (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho), パブリック・ドメイン, リンクによる

「功名が辻」などによれば、土佐藩士たちは特に幕末の頃、活発に他藩士と交流するようになると、貴殿の殿様はどういう武功で土佐一国を得られたのでござろうかと、わざとらしく聞かれて困ったという話。

要するに武士の世界では、先祖が関ヶ原の華々しい武功で得た知行ではなく、政治的な駆け引きが家康に評価されて土佐一国を得た話は肩身が狭かったということなんですね。なので、藩祖は福耳だったとか、当時の将軍が阿呆だったとか、冗談で流したそう。

また藩公は藩公で、子孫の山内容堂は先祖が徳川家康のおかげで土佐一国の藩主となれたことと、自身の藩主継承時に幕府の温情で取り潰しを免れたことを恩義に感じていたため、ぎりぎりまで倒幕に踏み切れなかったということです。

4-4、土佐藩出身の偉人たち

土佐藩主山内家からは藩祖一豊以後は、幕末の容堂までは歴史に名の残るような名君は出ず仕舞い。しかし、土佐藩独特の郷士制度で抑圧されたせいか、幕末には郷士から燦然と輝く活躍をした坂本龍馬と庄屋階級出身の中岡慎太郎が出たほかに、坂本龍馬の海援隊の遺産を継ぎ、明治の政商として三菱財閥を築いた地下浪人の岩崎弥太郎、土佐勤皇党の武市半平太瑞山、人斬りこと岡田以蔵、漂流後にアメリカの船に助けられて教育を受けて帰国した漁師の中浜ジョン万次郎、自由民権運動の板垣退助、幕末に龍馬考案の船中八策を自分の意見として容堂候に建白して大政奉還に持ち込んだ後藤象二郎などの人材を輩出。

尚、暗殺された坂本龍馬と中岡慎太郎が奔走した置き土産で、土佐藩は明治維新の官軍となった薩長土肥の一角に滑り込んだと言えるかも。

抑圧された長曾我部侍の子孫が幕末に活躍

土佐藩は勇猛果敢な一領具足たちの活躍で、梟雄長曾我部元親が四国を制覇したが、息子盛親が関ヶ原で西軍について改易され、小山評定で流れを変える功績があったことで山内一豊が土佐藩主となって明治まで続いた藩。

幕末に討幕のために立ち上がった藩は、江戸時代に転封がなかったという共通点がありますが、山内家は入府の時に一揆をおこした半兵半農の一領具足の長曾我部侍たちを徹底的に弾圧、その後も郷士として支配し、身分的にもかなり抑圧した理不尽な状態に置いたのですね。そのために幕末になると不満が鬱積、自分たちの扱いについても疑問を呈した彼ら郷士たちが、藩主や江戸幕府に忠誠を誓うより、もっとより良い世の中を描いて行動したのは無理のないことでは。

そう考えると約300年に及んだ郷士制度は過酷なものではあったが、志士たちを輩出するために必要だったのかもしれず、また幕末に奔走した郷士出身の坂本と中岡のおかげで土佐藩は薩摩と長州の仲間入りができたこと、彼らが暗殺後に上士出身の後藤象二郎らが明治政府で高官となりおいしいところ取りというのも、皮肉な現実に思えることかも。

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幕末日本史歴史江戸時代

江戸時代四国の外様藩だった「土佐藩」をわかりやすく歴女が解説

今回は土佐藩を取り上げるぞ。坂本龍馬とか幕末に志士を輩出した藩ですが、どんな藩だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代やお城にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、土佐藩について5分でわかるようにまとめた。

1-1、土佐藩とは

土佐藩(とさはん)は、江戸時代から明治初期に廃藩置県となるまで、現在の高知県にあった外様藩のこと。明治初年の正式名称は高知藩(こうちはん)で、藩庁は高知城(現高知市)。江戸時代は配置換えもなく、一貫して山内家(やまうち)が藩主でした。

1-2、土佐藩の成り立ち

四国は讃岐の国(現香川県)、阿波(現徳島県)、伊予の国(現愛媛県)、土佐の国(現高知県)からなっていて、戦国時代は土佐の長曾我部元親が四国をほぼ制覇しました。しかし元親の息子盛親が、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に加担したため改易処分となり、遠江掛川城主だった山内一豊(やまうちかつとよ)が、徳川家康から功績を認められて土佐20万2600石に加増転封となり、土佐藩主に。

「功名が辻」によると、長曾我部盛親も東軍に加担するために家康に使者を送ったが、石田三成の領地の近江の関所で土佐弁丸出しのために疑われて通れず、仕方なく引き返して西軍に付いたが、同じ頃に山内一豊の千代夫人は大坂から三成の書状と夫にあてた手紙を「笠の緒の文」として、近江なまりのある近江出身の使者に託したため、無事に近江の関所を通過し山賊に遭ったもののなんとか届けることが出来、一豊が夫人の指示通りに家康に未開封で見せたことなどで絶大な信頼を得たという、けっこう皮肉なめぐりあわせのある話も。

2-1、土佐藩の歴史

image by PIXTA / 62988348

土佐藩成立から明治4年(1871年)に廃藩置県により高知県となるに至る、幕末までの土佐藩の主な歴史的事件をご紹介しますね。

2-2、長宗我部侍の弾圧

藩祖山内一豊は、慶長6年(1601年)に、掛川から土佐に移封となり浦戸城に入城しました。当時、大幅に加増されて、他地方から入った大名は、人員補充のために地元の元家臣を大量に雇用するのが常でした。

しかし土佐では長宗我部盛親が関ヶ原の敗戦後、改易追放となったため、前年に浦戸城を明け渡すのを拒んだ長曾我部の元家臣たちが反乱を起こして浦戸城に立て籠もって鎮圧された浦戸一揆という事件があったのですね。なので一豊は、新規召し抱えの家臣は上方で募り、重要な役職は主に外来の家臣で固め、一部の有益な長宗我部旧臣だけを懐柔して登用したということです。なので、一領具足を中心とした旧長宗我部氏の家臣団は新領主に反発し、土佐国内のあちこちで一揆を起こすことに。

浦戸一揆とは
慶長5年(1600年)、長曾我部氏の家臣竹内惣右衛門を中心とする一領具足たちが、浦戸城の引渡しを拒否、主君長曾我部盛親に土佐半国を与えろと要求して、城の受取り上使の宿所だった雪蹊寺を1万7千人で包囲。激怒した徳川家康は四国諸大名に土佐への派兵を命じ、新土佐領主内定の山内一豊は弟の山内康豊を鎮圧に派遣したのですね。長曾我部遺臣団側は浦戸城に篭城し50日間ほど抵抗。

徳川方は、長曾我部家臣団の重臣桑名弥次兵衛と蜷川親長と秘密裏に接触、助命する代わりに篭城家臣団を討てと命じたので、野田右京や山川五郎左衛門らの同志らとはかり、城の要所を固めて徳川方に浦戸城を明渡したので、12月1日に動揺した一揆軍は追討軍が浦戸城外で撃破され、降伏

そして273人の一領具足が斬首され、その首は塩漬けにされて、関ヶ原戦後処理担当の大坂の井伊直政のもとへ送られたそう。12月5日に浦戸城の接収作業は完了し、翌年1月に新領主となった山内一豊が浦戸城に入城。

2-3、相撲興行で一揆の残存勢力を鎮圧

慶長6年(1601年)3月1日、新国主入城の祝賀行事の一環として、藩が相撲の興行を開催。土佐中の相撲大好きで力自慢のいごっそうたちが集まり、真剣勝負に大勢の見物客がつめかけたということです。しかし藩の上層部は、前もって浦戸一揆に関係していた一領具足や庄屋を調査していたため、集まった人々のうちの関係者73人を捕られて種崎で磔にしたということ。

これは「功名が辻」ほかでも、力自慢するために集まった無邪気で素朴な相撲好きの一領具足たちを、無残にも山内侍たちが皆殺しにするという衝撃的な事件とされているのですが、史実は上記のようなことだったそうです。

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