「明治時代」とは政府の方針により和洋折衷が進められた時期です。生活に欧米諸国の文化が浸透し、衣食住の洋風化が進んです。着物ではなく洋服を着る人も増え、西洋風の住宅も出現。それだけではない。役所、軍隊、法律、経済など、あらゆる制度の改革が断行されたのも明治時代。近代化が進むと共に混乱も多かった時代です。

「明治時代」に起こった変化は現代に大きな影響を与えているものもある。そこで「明治時代」を特徴づける現象や、それまでとの生活の変化について、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。日本の近代化の歴史を語るとき「明治時代」を避けて通ることはできない。封建制度が崩壊し、日本人の精神的な変化も大きかった「明治時代」。この時代の制度や習慣の変化について筆者の視点を交えながら解説する。

「明治時代」は天皇中心の国家がつくられた時代

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楊洲周延 - an original print(The contributor has this source.), パブリック・ドメイン, リンクによる

江戸時代は、京都に天皇は住んでいたものの、徳川幕府を中心に政治が行われていました。明治時代になると、天皇を中心に据えた国家体制がつくられ始めます。それにともない天皇は京都から東京に行幸。そして、明治政府はあらゆる拠点を東京に集約していきます。

名称が江戸から東京に変わる

明治時代の大きな変化は、江戸という名称がなくなり、東京に変わったこと。東京という名前は江戸時代の後期から構想されていました。江戸時代の経済学者である佐藤信淵が『混同秘策』のなかで、東京という名称を提案しています。

佐藤信淵は、江戸を東京、大阪を西教と呼ぶことを提案。京都を入れて3京体制をつくることを構想しました。そこから江戸を東京を呼ぶ案が出たとのこと。東京に政治機能が集中することで、銀座をはじめとする新しい商業発展エリアが瞬く間に発展します。

廃藩置県により中央集権国家となる

東京に機能を集中させると共に廃止されたのが「藩」。もともと江戸時代は、江戸幕府を中心に、地方では藩による分権体制が敷かれていました。明治4年から、全国にある261藩は廃止。代わりに、3府302県に変更されました。

廃藩置県により日本は中央集権の国となります。藩が廃止されるにともない、身分制度にも改革の波が。大名・公家は、西洋の貴族制度にならい、華族と位置づけられました。士農工商のうち「士」は士族とされます。そして、その他の身分は撤廃されてすべて国民となりました。

「明治時代」に政府は日本の近代化を推進

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不明 (photo was made in London) - 1. From the arabic Wikipedia [1] 2. Japanese class [2], パブリック・ドメイン, リンクによる

明治政府は、ヨーロッパ諸国との外交を深めるなか、日本は対等に扱われていないことを痛感します。そこで、明治政府が取り組んだのが日本の近代化・西洋化を促進すること。制度や見た目を西洋化することで、ヨーロッパ諸国の一員として認めてもらおうとしました。

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岩倉使節団は不平等条約の改正に失敗

岩倉使節団とは、明治4年から明治6年にかけて欧米に派遣された使節団のことです。使節団のリーダーは岩倉具視。政府関係者や留学生などすべて合わせて107名でが派遣されます。木戸孝允、大久保利通、伊藤博文など、明治期を代表する人物が含まれたことも特徴です。

この使節団の目的は、西洋の制度や慣習を実際に見て情報収集すること。もうひとつが不平等な条約を見直してほしいと、各国の元首にお願いすることでした。不平等な条約の見直しはまったくなされず、日本は自国が置かれた立場を痛感する結果となりました。

岩倉使節団はドイツの首相であるビスマルクに対して不平等条約の改善を訴えます。そのとき使節団はビスマルクに、弱い国が西洋の真似だけしても意味がないと言わました。

実はこのとき、日本は西洋を真似して国際法の導入を検討中。それに対してビスマルクは、国際法を導入してもその権利は守られないと一刀両断します。日本が軍隊制度を整えてアジアに乗り出していく布石となるような言葉。その後の日本の軍事化の道を考えると複雑な気持ちになりますね。

役所や軍隊の制度を改革

岩倉使節団は、条約の見直しについては成果を上げることはできませんでした。しかし政府の中心人物たちが西洋の制度を直接見ることで、日本の制度改革の着手を後押ししました。とくに、役所や軍隊の制度が大きく変わったことで、日本は脱江戸時代を加速させていきます。

宮内省、民部省、大蔵省、刑部省、兵部省、外務省の6省を置くことで、役所の機能を合理化しました。役所間の派閥争いが激化する、大蔵省に権力が集中する等も問題が残ります。軍事上の改革を担ったのが民部省。徴兵制度を整備し、満20歳以上の青年は兵役につくことが義務化されました。

近代的な経済システムが登場したのも「明治時代」

一圓金貨(原貨), 一圓銀貨
As6673 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

江戸時代にもお金は存在していました。それらは全国共通で使えるお金ではなく、藩がそれぞれ独自に発効する「藩札」というもの。さらに旗本、寺社、宮家、地域、私人など、お金のバリエーションはかなりのものでした。そんなバラバラのお金を統一する動きがあらわれたのが明治時代です。

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貨幣に関連する制度が変わる

江戸時代の後期になると幕府体制が混乱していたこともあり、藩札が大量が発行されている状況でした。そこで明治政府は、廃藩置県と同じタイミングで貨幣改革を断行。藩札回収令を出して、各藩札を新しい貨幣単位にて査定します。そして、圓、銭、厘と両替することで、藩札を回収しました。

とはいえ、新貨幣の製造が明治7年にようやく開始され、すべての藩札の両替が終わったのは明治12年。明治時代に新しい貨幣がすぐに浸透したわけではありません。しばらくのあいだは、明治政府の印が押された藩札と、新貨幣が同時に使われていました。

地租改正により地租を現金払い

明治9年、明治政府が国の予算を創出するために行ったのが地租改正です。地租改正とは、地価の3%を地租と見なし、土地の所有者に現金で納めさせるというもの。地主は、土地の所有が法的に認められる代わりに、小作料を現物でもらう制度は廃止されました。

しかしながら、この制度はすぐに定着しません。その結果、小作人だった農民は地租を現金で払いながら小作料も納めるはめに。いわば税金を二重取りされている状態となります。地主はこの抜け道を使って資産をふやし、それをお金に変えることで資産家として成長していきました。

明治政府に対する不満も増幅

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明治時代に行われた改革は、これまでの伝統を急に変えること。人々の生活にすぐになじまず、不満が噴出しました。その不満の矛先となったのが政府の関係者たちです。明治政府は、天皇が幼かったこともあり一部の藩閥の人物により独占されていました。江戸時代の名残が政治体制に一定の影響を与えていたのです。

自由民権運動がもりあがりを見せる

これらの不満が爆発して起こったのが自由民権運動。これは、明治時代の日本で活発化した政治運動です。自由民権運動により要求されたのが制度の改善。憲法を制定すること、議会を開設すること、地租を軽減することなどを、藩閥からなる政府に要求しました。

さらに、自由民権運動は、不平等条約改正の阻止、言論の自由、集会の自由なども要求。とくに、地租が人々に大きな負担を与えていたことから、運動は全国からの支持を集めるようになります。

板垣退助や大隈重信が国会開設を準備

自由民権運動の影響もあり、国会の開設を約束する「国会開設の勅諭」が出され、開設準備が具体的に進められます。国会期成同盟第3回大会にて板垣退助を党首とする自由党が結成。大隈重信は政変により野党的位置づけになり、立憲改進党の党首となりました。 

しばらくのあいだ自由党は混乱期。板垣退助を批判する政党関係者は党を追放されます。自由民権運動の思想的な中心人物であったジャーナリストの中江兆民は、そんな板垣体制に不満をいだいて自由党を自ら去りました。

板垣退助は自由民権運動の中心人物のひとり。自由党を結成したのち、幾度となく入閣を果たして日本の政治に影響力をもちました。そして、藩閥政治を完全になくすために、いちどは対立した大隈重信と再び手を組み、大隈の進歩党と共同で憲政党をたちあげます。しかし、伊藤博文を総裁とする立憲政友会の立ち上げと共に、板垣は政界を引退することになりました。

「明治時代」に行われた日本の西洋化政策

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明治時代と言えば、日本文化を西洋化する文明開化のイメージが強いでしょう。明治政府は、制度や組織を改革するとともに、外国人に認めてもらうために人々の生活スタイルを洋風にしようと試みました。

日比谷に鹿鳴館を建設

鹿鳴館とは明治16年に建てられた西洋館のこと。イギリス人の建築家コンドルにより設計されました。日本の外務卿である井上馨がすすめた西洋化政策の一部として活躍。華やかなドレスを着て踊る明治時代のイメージは、この鹿鳴館の催し物から来ています。

鹿鳴館の用途は国賓や外国の外交官をもてなすこと。服装や食事も完全に西洋スタイルの接待となりました。接待内容も日本風のものを排除。日本人は、食事をするときはスプーンやフォークを使い、ドレスや燕尾服を着て西洋人とダンスを踊りました。

髪型や服装など生活スタイルの変化を推奨

明治時代と言えば、ちょんまげを切って短髪にするエピソードが有名です。「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」という表現が大流行しました。さらに着物を洋服に変えることを推奨。これまで禁止されていた肉食が解禁されたことで牛鍋ブームが起こります。

さらに、江戸時代に飛脚が受け持っていた郵便制度が整備されました。まずは東京と大阪がむすばれ、さらに全国に広げられていきました。また、新橋と横浜をつなぐ路線を皮切りに鉄道の建設も徐々に進んでいきます。馬が線路のうえを走る鉄道馬車もスタート。東京都電の前身となりました。

馬車鉄道とは、馬が線路の上を走って車を引く鉄道の一種。 19世紀にイギリスで生まれた輸送のスタイルです。西欧では、蒸気機関車や路面電車が発展することにより消滅しましたが、明治時代の日本では西洋化のシンボルとして存在感を示しました。

日本で馬車鉄道は全国的に広まります。 宮崎県にある銀鏡軌道(しろみきどう)は昭和24年まで続いたそう。今、馬車鉄道から見る景色を体験するなら東京都電がおすすめです。

「明治時代」は日本が生まれ変わろうとした時代

明治時代は、江戸時代の名残が色濃く残る時期。それをいかに払拭するのかが大きな課題となりました。表面的には、髪形や服装、建物などを一新。役所、軍隊、貨幣制度などの整備も進めていきます。徳川幕府時代の藩による地方自治の影響から、庶民にかなりのしわ寄せがきたことも分かりますね。江戸時代を脱却して生まれ変わろうと模索していたのが、まさに明治時代だと言えるでしょう。明治時代は、制度を整えて国の中央集権体制を構築したあと軍国主義をつよめていきます。文明開化の華やかさと軍国主義の強化の両方の視点から、明治時代を学んでいくことが大切でしょう。

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簡単でわかりやすい!「明治時代」とはどんな時代?江戸時代からの変化を元大学教員が詳しく解説

「明治時代」とは政府の方針により和洋折衷が進められた時期です。生活に欧米諸国の文化が浸透し、衣食住の洋風化が進んです。着物ではなく洋服を着る人も増え、西洋風の住宅も出現。それだけではない。役所、軍隊、法律、経済など、あらゆる制度の改革が断行されたのも明治時代。近代化が進むと共に混乱も多かった時代です。

「明治時代」に起こった変化は現代に大きな影響を与えているものもある。そこで「明治時代」を特徴づける現象や、それまでとの生活の変化について、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。日本の近代化の歴史を語るとき「明治時代」を避けて通ることはできない。封建制度が崩壊し、日本人の精神的な変化も大きかった「明治時代」。この時代の制度や習慣の変化について筆者の視点を交えながら解説する。

「明治時代」は天皇中心の国家がつくられた時代

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楊洲周延 – an original print(The contributor has this source.), パブリック・ドメイン, リンクによる

江戸時代は、京都に天皇は住んでいたものの、徳川幕府を中心に政治が行われていました。明治時代になると、天皇を中心に据えた国家体制がつくられ始めます。それにともない天皇は京都から東京に行幸。そして、明治政府はあらゆる拠点を東京に集約していきます。

名称が江戸から東京に変わる

明治時代の大きな変化は、江戸という名称がなくなり、東京に変わったこと。東京という名前は江戸時代の後期から構想されていました。江戸時代の経済学者である佐藤信淵が『混同秘策』のなかで、東京という名称を提案しています。

佐藤信淵は、江戸を東京、大阪を西教と呼ぶことを提案。京都を入れて3京体制をつくることを構想しました。そこから江戸を東京を呼ぶ案が出たとのこと。東京に政治機能が集中することで、銀座をはじめとする新しい商業発展エリアが瞬く間に発展します。

廃藩置県により中央集権国家となる

東京に機能を集中させると共に廃止されたのが「藩」。もともと江戸時代は、江戸幕府を中心に、地方では藩による分権体制が敷かれていました。明治4年から、全国にある261藩は廃止。代わりに、3府302県に変更されました。

廃藩置県により日本は中央集権の国となります。藩が廃止されるにともない、身分制度にも改革の波が。大名・公家は、西洋の貴族制度にならい、華族と位置づけられました。士農工商のうち「士」は士族とされます。そして、その他の身分は撤廃されてすべて国民となりました。

「明治時代」に政府は日本の近代化を推進

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不明 (photo was made in London) – 1. From the arabic Wikipedia [1] 2. Japanese class [2], パブリック・ドメイン, リンクによる

明治政府は、ヨーロッパ諸国との外交を深めるなか、日本は対等に扱われていないことを痛感します。そこで、明治政府が取り組んだのが日本の近代化・西洋化を促進すること。制度や見た目を西洋化することで、ヨーロッパ諸国の一員として認めてもらおうとしました。

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