
その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
- 1-1、江戸城とは
- 1-2、江戸城の成り立ち、プレ徳川家康時代
- 1-3、太田道灌の時代の江戸城
- 1-4、徳川家康が江戸入り後、本格的な築城開始
- 2-1、家康が江戸を拠点にした理由とは
- 2-2、秀吉が提案
- 2-3、家康が秀吉を警戒した
- 3-1、家康による築城
- 3-2、3代にわたった天下普請
- 4-1、江戸城の特徴
- 4-2、とにかく広い
- 4-3、本丸御殿は1万坪以上
- 4-4、江戸城の天守閣
- 4-5、門がやたらと多く枡形門に
- 4-6、江戸城、被災の歴史
- 4-7、明治後の江戸城
- 5-1、江戸城の逸話
- 5-2、天守台の下には金銀が埋まっている?
- 5-3、伏見櫓から人骨
- 5-4、宇治の間の謎
- 5-5、和宮の大叔母が元の火事
- 5-6、自然の宝庫
- 日本最大の広さ、格式を誇った城
この記事の目次

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代やお城にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、江戸城について5分でわかるようにまとめた。
1-1、江戸城とは

江戸城(えどじょう)は、武蔵国豊嶋郡江戸(現東京都千代田区千代田)に存在し、江戸時代には徳川将軍が起居し幕府政治の中心だった城で、明治維新後は皇居になりました。別名を江城(こうじょう)または千代田城(ちよだじょう)、江戸時代には一般に「江城」が用いられたということ。財団法人日本城郭協会による日本百名城のひとつ。
1-2、江戸城の成り立ち、プレ徳川家康時代
江戸城の歴史は古く、鎌倉時代の歴史書の吾妻鑑(あずまかがみ)によれば、平安時代の治承4年(1180年)頃に秩父重綱の4男重継が麹町台地の東端(武蔵国豊嶋郡江ノ戸)に豪族館城を構えたのが始まり。当時の館は木造平屋建てで高さ2m程の土塁と浅い空壕をめぐらし、大手門と搦手門(からめて、裏門のこと)に櫓門を備えていたらしいということ。
そして源頼朝が鎌倉幕府を開いたときに重継の嫡子重長が活躍し、武蔵国の支配を命じられたのですね。鎌倉幕府に仕えていた江戸氏は、元寇の乱のときは新田義貞の鎌倉攻めに加わり、その後は新田氏から足利尊氏に乗り換えるなど世渡り上手で、室町時代には応永23年(1416年)上杉禅秀の乱、永享10年(1438年)永享の乱などでも活躍したが、次第に一族は弱体化し、江戸を離れて周辺に散って南北朝時代に突入。
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江戸の名称
江戸という地名は、平川の流れが日比谷入江に注ぐ周辺が「江の戸」と呼ばれたのがもとになって、江戸の地名となったといわれていて、秩父重継が入江の高台に城を築いて住んだため江戸冠者と呼ばれ、江戸氏を名乗るように。
1-3、太田道灌の時代の江戸城
ということで、南北朝の頃は江戸城も廃城同然だったが、室町時代後期の康正年間(1455年~1457年)に、当時南関東を治めていた扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家臣、太田道灌(どうかん)が江戸城を再築城。
以前は江戸は漁民が細々と生活する寒村で過疎っているという認識でしたが、江戸湾の最奥地にある江戸は水運の中心であり、地形的にも低湿地上の台地があるということで戦略的に要害の地として選ばれた場所と、近年の研究で再検証されているそうです。
道灌の築城した江戸城は、近世城郭の本丸、二ノ丸、三ノ丸に相当する「子城」「中城」「外城」の三重構造となっており、周囲を切岸や水堀が巡らせて門や橋で結んだ3郭で構成され、現在の本丸東側の潮見坂が大手門になる中世城郭ということ。北側の城の背後に梅林を目隠しに残していたので、現在の江戸城にも道灌堀、本丸から二ノ丸へ至る経路にある梅林坂と名称が残っているということです。
山吹の里伝説
太田道灌は知将として知られていますが、鷹狩の途中、にわか雨にあって農家で蓑(雨具)を借りようとしたとき、娘が出てきて、一輪の山吹の花を差し出したということ。道灌は蓑を借りようとしたのになんで山吹の花なんだと、意味が分からず、後でこの話を家臣にしたところ、後拾遺和歌集の兼明親王の「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」という歌から、貧しくて蓑(実の)がないことを伝えたと教わり、以後道灌は教養のなさを恥じて歌道に励んだという話は有名です。
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