今回は江戸城を取り上げるぞ。徳川幕府の象徴で今は皇居になっているのですが、どうやって出来たのか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代やお城にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、江戸城について5分でわかるようにまとめた。

1-1、江戸城とは

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江戸城(えどじょう)は、武蔵国豊嶋郡江戸(現東京都千代田区千代田)に存在し、江戸時代には徳川将軍が起居し幕府政治の中心だった城で、明治維新後は皇居になりました。別名を江城(こうじょう)または千代田城(ちよだじょう)、江戸時代には一般に「江城」が用いられたということ。財団法人日本城郭協会による日本百名城のひとつ。

1-2、江戸城の成り立ち、プレ徳川家康時代

江戸城の歴史は古く、鎌倉時代の歴史書の吾妻鑑(あずまかがみ)によれば、平安時代の治承4年(1180年)頃に秩父重綱の4男重継が麹町台地の東端(武蔵国豊嶋郡江ノ戸)に豪族館城を構えたのが始まり。当時の館は木造平屋建てで高さ2m程の土塁と浅い空壕をめぐらし、大手門と搦手門(からめて、裏門のこと)に櫓門を備えていたらしいということ。

そして源頼朝が鎌倉幕府を開いたときに重継の嫡子重長が活躍し、武蔵国の支配を命じられたのですね。鎌倉幕府に仕えていた江戸氏は、元寇の乱のときは新田義貞の鎌倉攻めに加わり、その後は新田氏から足利尊氏に乗り換えるなど世渡り上手で、室町時代には応永23年(1416年)上杉禅秀の乱、永享10年(1438年)永享の乱などでも活躍したが、次第に一族は弱体化し、江戸を離れて周辺に散って南北朝時代に突入。

江戸の名称
江戸という地名は、平川の流れが日比谷入江に注ぐ周辺が「江の戸」と呼ばれたのがもとになって、江戸の地名となったといわれていて、秩父重継が入江の高台に城を築いて住んだため江戸冠者と呼ばれ、江戸氏を名乗るように。

1-3、太田道灌の時代の江戸城

ということで、南北朝の頃は江戸城も廃城同然だったが、室町時代後期の康正年間(1455年~1457年)に、当時南関東を治めていた扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家臣、太田道灌(どうかん)が江戸城を再築城

以前は江戸は漁民が細々と生活する寒村で過疎っているという認識でしたが、江戸湾の最奥地にある江戸は水運の中心であり、地形的にも低湿地上の台地があるということで戦略的に要害の地として選ばれた場所と、近年の研究で再検証されているそうです。

道灌の築城した江戸城は、近世城郭の本丸、二ノ丸、三ノ丸に相当する「子城」「中城」「外城」の三重構造となっており、周囲を切岸や水堀が巡らせて門や橋で結んだ3郭で構成され、現在の本丸東側の潮見坂が大手門になる中世城郭ということ。北側の城の背後に梅林を目隠しに残していたので、現在の江戸城にも道灌堀、本丸から二ノ丸へ至る経路にある梅林坂と名称が残っているということです。

山吹の里伝説
太田道灌は知将として知られていますが、鷹狩の途中、にわか雨にあって農家で蓑(雨具)を借りようとしたとき、娘が出てきて、一輪の山吹の花を差し出したということ。道灌は蓑を借りようとしたのになんで山吹の花なんだと、意味が分からず、後でこの話を家臣にしたところ、後拾遺和歌集の兼明親王の「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」という歌から、貧しくて蓑(実の)がないことを伝えたと教わり、以後道灌は教養のなさを恥じて歌道に励んだという話は有名です。

\次のページで「1-4、徳川家康が江戸入り後、本格的な築城開始」を解説!/

1-4、徳川家康が江戸入り後、本格的な築城開始

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅ぼされたあと、家康は秀吉から関八州250万石を与えられました。そして家康は、天正18年(1590年)8月に、駿府から江戸入り

そこには、道灌による築城から時を経て荒れ果てた江戸城、そして茅葺の家が100軒ばかり大手門の北寄りにあり、家康とその家臣たちは雨漏りのする江戸城に不満たらたらで落ち着くことに。

2-1、家康が江戸を拠点にした理由とは

関八州の主となった家康は、なぜ駿府城や小田原城に入らず、わざわざ新しく江戸に城と城下町を築いたのかについて、様々な理由があるとされています。その理由について挙げてみますね。

2-2、秀吉が提案

秀吉が家康を呼び、関八州を治めるには江戸に中心地を置くようにと提案したという話があります。これは最大勢力の家康をなるべく遠いところに置きたかったから、と取る人もあるようですが、江戸は当時から水運の拠点だったために、築城や城下町作りには定評のある秀吉が自身の知恵誇りで、江戸がこれからの中心地に最適と指定したという理由がしっくりくるような気が。

2-3、家康が秀吉を警戒した

家康は何といっても秀吉が信長配下の一武将であった頃から信長の同盟者で、秀吉がもっとも恐れていた武将でしょう。家康はそのこともよく知っていたので、滅ぼしたばかりの後北条氏の小田原城へ入れば秀吉に警戒される恐れがあったのですね。

なので、新しく城下町や城を作る作業をすることで、秀吉にいらぬ誤解を招かないようにした説、または家康は秀吉が朝鮮出兵を行うことを聞いていたので、江戸築城で忙しくて行けないと理由が出来て派兵を避けるためだった、という説もあるそう。

3-1、家康による築城

家康が入城した当初、江戸城は道灌の築城した小規模な城でかなり荒廃した状態でしたが、入府から2年後の文禄元年(1592年)、家康は城の拡張工事に着手

それまでの本丸、二ノ丸に加えて、西ノ丸、三ノ丸、吹上、北ノ丸を増築し、道三堀や平川を江戸前島中央部(外濠川)へ移設、堀を作って出来た土で現在の西の丸下の半分以上の埋め立てを行って城下町を造ったのですね。

尚、この頃はまだ家康は豊臣政権の五大老筆頭とはいえ、豊臣配下のワンオブゼムの大名、徳川家本拠としての改築でした。そのうえ家康は秀吉の九州出兵などもあって、改修はなかなか進まなかったそう。

3-2、3代にわたった天下普請

その後、秀吉が死去したのち、慶長5年(1600年)9月15日、家康は関ヶ原で大勝し、名実共に天下の主となりましたが、慶長8年(1603年)2月、家康は征夷大将軍に任じられ、江戸城は徳川幕府の本拠地に。

そしてその後の慶長時代に行われた改修工事以降は、諸大名に賦役が課された「天下普請」となって大規模な工事が進められたのです。慶長11年(1606年)3月に開始された改修工事では、築城技術に定評がある藤堂高虎が縄張りして、城の主郭部には諸大名が競うように石垣が組まれ、数々の櫓や門、本丸御殿に、5重5階地下1階の天守閣も建てられたということ。慶長に建てられた天守は白漆喰塗込の連立式で、鉛瓦が葺かれていたそうで、本丸のほぼ中央に位置していました。この慶長期の改修工事は慶長19年(1614年)まで続き、主郭外部の整備、江戸の町割りも本格的になって、城の北にあった神田山が切り崩されて日比谷入江が埋め立てられて、大規模な埋め立て地となり、江戸城の南東側の曲輪が造成されて、江戸の街も拡大。

その後、2代将軍秀忠の代には元和の改修として、西ノ丸の紅葉山東照宮の造営、本丸敷地の拡張、それに伴っての本丸御殿の建替え、そして天守の更改などが行われたそうです。この元和6年(1620年)に着工して2年後に完成した元和度天守は白漆喰塗込層塔型、5重5階地下1階の構造だったということ。そして外郭部で神田川の掘削工事が行われ、江戸城外堀の概容が確定。

また3代将軍家光の代でも寛永期の改修がされて、本丸、西ノ丸の改造、各所石垣を積み直して二ノ丸を拡張したうえに、天守も更改。江戸城の拡張工事は万治3年(1660年)の江戸城外堀に当たる神田川拡幅工事で終了し、東西約5.5キロ、南北約4キロ、周囲は約16キロという巨大城郭となりました。

\次のページで「4-1、江戸城の特徴」を解説!/

4-1、江戸城の特徴

Honmaru and Ninomaru Palaces, Edo Castle, in the last years of the Tokugawa Shogunate, model scale 1 over 200 - Edo-Tokyo Museum - Sumida, Tokyo, Japan - DSC06586.jpg
Daderot - 投稿者自身による作品, CC0, リンクによる

史上最大規模を誇る木造建築の江戸城ならではの特徴を、いろいろとご紹介しますね。

4-2、とにかく広い

江戸城は、内郭と外郭で形成された二重構造の城郭になっていて、内郭は、本丸の周囲を二ノ丸、三ノ丸、西ノ丸、北ノ丸が渦巻き状に取り巻いている「輪郭式」の構造です。江戸時代は、この内郭を同心円状に、総延長が14キロに及ぶ外郭が取り囲んでいたのですね。

そして外郭を形成しているのは隅田川、神田川などの自然の河川と人工的につくられた外濠で、北はJR水道橋駅、東は両国橋、南は地下鉄の虎ノ門駅、西はJR四ツ谷駅という範囲となっているということ。

4-3、本丸御殿は1万坪以上

本丸とは、将軍が政務を行い、大名たちが伺候する表御殿、将軍が日常を過ごす中奥(なかおく)、男子禁制の大奥があったところです。慶長11年(1606年)に建てられたが、その後5回焼失して7度改築建て替えが行われたという、1万坪を超える建坪の壮大で豪華な御殿だったと言われています。

また西ノ丸は隠居した将軍または将軍の跡継ぎが住むところですが、本丸御殿を少し小規模にしたほぼ同じ作りで、6千坪の建坪だったそう。そして二の丸、三ノ丸にも御殿があり、将軍のお手付き中臈が晩年を過ごす場所だったとか。

4-4、江戸城の天守閣

江戸城の天守閣は、家康による初代天守、秀忠の再建、次いで家光のと代替わりごとに再建されましたが、家光の代に造られた天守は5層6階で高さ約58mという日本一の規模だったものの明暦の大火で焼失し、4代家綱の代に再建に着手され天守台だけが作られたが、戦乱もない世の中に必要ないとの保科正之の提言で天守閣は作られないことになり、天守閣があったのは最初の50年だけということです。

4-5、門がやたらと多く枡形門に

江戸城は内郭や外郭に沿って、数多くの「見附」(みつけ)が設けられました。見附とは、見張り番を置いた城門のことで、現在も地名として残る赤坂見附などでは、石垣が残存。

そして広大な江戸城には123棟も城門が設置され、警備を固めていたのですね。現在も残る内郭の田安門、清水門は御三卿の名前にもなった門で、外桜田門を合わせて、「桝形門」(ますがたもん)として歴史的価値が高いために重要文化財に指定されているそうです。

桝形門とは
枡形門は、城の出入口に内側と外側に門を二重に設置して四角形のスペースを設けた門のことで、外側の門から四角の空間に侵入者が入っても一挙に城の中に入れず、その空間にとどまらせて内側の門などの3方向から攻撃を仕掛けられる仕掛けになっている構造の門です。

4-6、江戸城、被災の歴史

地震や大火の多かった江戸時代ですが、江戸城は、寛永11年(1634年)に西ノ丸御殿が、寛永16年(1639年)に本丸御殿、明暦3年(1657年)に振袖火事(明暦の大火)で天守、本丸、二ノ丸、三ノ丸御殿が、延享4年(1747年)二ノ丸が、弘化元年(1844年)に本丸御殿、大奥など、嘉永5年(1852年)に西ノ丸御殿が、安政6年(1859年)に本丸御殿が、文久3年(1863年)に本丸、二ノ丸、西ノ丸御殿が焼失して本丸御殿は再建されずで、慶応3年(1867年)に二ノ丸御殿が焼失、明治6年(1873年)には旧西ノ丸御殿が焼失しています。

\次のページで「4-7、明治後の江戸城」を解説!/

4-7、明治後の江戸城

徳川幕藩体制の崩壊で江戸城は将軍家居城としての役割を終えて、慶応4年(1868年)4月、新政府軍に接収されました。

その後、明治元年と改元され、7月に江戸は東京(とうけい)と改名し、江戸城も東京城となり、明治2年(1869年)、明治天皇が東京へ行幸され、事実上の東京遷都となって、東京城は皇城とされて、天皇は西ノ丸と吹上に居住されるように。しかし明治6年(1873年)、火災にあって焼失し、明治21年(1888年)10月に明治宮殿が完成したことで宮城と呼ばれるように。そして関東大震災で被災し、東京大空襲で明治宮殿が焼失、昭和43年(1968年)に新宮殿が作られ現在に至っています。

5-1、江戸城の逸話

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Kyosai Kiyomitsu - [1], パブリック・ドメイン, リンクによる

色々と興味深い逸話をご紹介しますね。

5-2、天守台の下には金銀が埋まっている?

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明暦の大火で焼失した天守閣を建て直すために、加賀藩前田家が天守台を造り、その後天守閣建設は中止となり天守台だけが残っているのですが、「江戸城」村井益男著によれば、この天守台を作る前、焼け落ちた天守の後片付けで、天守閣の穴倉にあった幕府が蓄えた金銀が融けた塊が、たくさん出てきたということなんです。

かます(菰)に何千俵もあったうえに砂金まで出てきたので、いちいち拾っていてはキリがない状態で、全部回収しては工事が遅れるからと老中の許可を得て埋め戻し、天守台を造ったという話があるそう。この頃にはまだ家康の時代からため込んだ金銀がたくさんあったということなので、信ぴょう性がある話だということですが、本当ならば、天守台の下には今でも金塊が埋まっているということになりますね。

5-3、伏見櫓から人骨

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大正12年(1923年)、関東大震災で伏見櫓の土塁が倒壊したとき、人骨が16体も出てきたということで、人柱かと騒ぎになったが、もと局沢16寺のあったところで墓地説、または工事で亡くなった人夫を埋葬した説があるそう。

5-4、宇治の間の謎

江戸城大奥には宇治の茶摘みの襖絵が描かれた「宇治の間」というのが存在。これが開かずの間で入ってはいけないところだったそう。

なぜ開かずの間かといえば、この部屋で5代将軍綱吉が正室信子に殺されたという伝説があるからで、明治後に奥女中として大奥に勤めた人の回想として、12代将軍家慶が、この宇治の間の前で黒紋付の老女を見かけて、お付きの者にあれは誰だと訪ねたが、誰もこの老女を知らず、すぐに姿は見えなくなり、家慶はその後まもなく亡くなった話があるそうです。家慶が見た黒紋付の老女は、正室信子が綱吉を殺したときに手伝った女中だと言われていて、将軍家に凶事がある際に黒紋付の老女が現れるという噂が大奥で広がったということ。

しかし本丸が焼失して建て直されても相変わらず「宇治の間」は存在したということなのでかなり謎めいた部屋ではないでしょうか。

5-5、和宮の大叔母が元の火事

天保15年(1844年)、大奥の上臈御年寄で公家の橋本家の出身、14代将軍家茂の正室和宮の大叔母にあたる姉小路が、自分の部屋で作って食べていた天ぷらが原因で火事となり、本丸が全焼。この火事は大奥の女中たちが数百人も死亡するという大惨事となったが、姉小路は11代将軍家斉の正室広大院付きの上臈御年寄の梅渓に罪をなすり付け、梅渓のその後は知られていないという話があるそうです。

5-6、自然の宝庫

現在、立ち入りを制限されている皇居のなかは、大都会のど真ん中にもかかわらず、江戸城が出来たころの自然が残っているのですが、これは太田道灌時代の遺構に手を加えていない伝承の証明でもあり、明暦の大火後、防火帯として大名屋敷を整備して庭園にしたために古い生態系がそのまま閉じ込められた状態だということで、調査の結果、新種は発見されるわ、稀少種は残っているわという、大小の珍しい生き物や植物が生息する学者さん垂涎の場所だそうです。

日本最大の広さ、格式を誇った城

江戸城は秀吉から関八州280万石をもらった後の徳川家康が居城として、そののちは徳川幕府の中心地となった城。

天下普請として大名たちに負担させて作った結果、日本最大最強の城になり、同時に城下町として100万人都市としてのお江戸の街が整備されました。完成までに家康から孫の家光の代までかかりましたが、その後何度も大火で焼失し、現存していれば世界最大の木造建築だったはずの天守閣は再建されず。数々の歴史的事件の舞台となった本丸御殿や西ノ丸御殿も残っていませんが、今も残る伏見櫓や富士見櫓、桜田門などの門や石垣、堀の遺構だけを見てもその規模の大きさがわかるというものです。

また明治後も皇居となったため、大都会のど真ん中にしていまだに江戸開府以来手つかずの自然が残っていて、生物学、植物学的にも興味の尽きない場所、色々な意味で研究対象であることも間違いないでしょう。

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幕末日本史歴史江戸時代

日本最強で最大の城「江戸城」をわかりやすく歴女が解説

今回は江戸城を取り上げるぞ。徳川幕府の象徴で今は皇居になっているのですが、どうやって出来たのか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代やお城にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、江戸城について5分でわかるようにまとめた。

1-1、江戸城とは

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江戸城(えどじょう)は、武蔵国豊嶋郡江戸(現東京都千代田区千代田)に存在し、江戸時代には徳川将軍が起居し幕府政治の中心だった城で、明治維新後は皇居になりました。別名を江城(こうじょう)または千代田城(ちよだじょう)、江戸時代には一般に「江城」が用いられたということ。財団法人日本城郭協会による日本百名城のひとつ。

1-2、江戸城の成り立ち、プレ徳川家康時代

江戸城の歴史は古く、鎌倉時代の歴史書の吾妻鑑(あずまかがみ)によれば、平安時代の治承4年(1180年)頃に秩父重綱の4男重継が麹町台地の東端(武蔵国豊嶋郡江ノ戸)に豪族館城を構えたのが始まり。当時の館は木造平屋建てで高さ2m程の土塁と浅い空壕をめぐらし、大手門と搦手門(からめて、裏門のこと)に櫓門を備えていたらしいということ。

そして源頼朝が鎌倉幕府を開いたときに重継の嫡子重長が活躍し、武蔵国の支配を命じられたのですね。鎌倉幕府に仕えていた江戸氏は、元寇の乱のときは新田義貞の鎌倉攻めに加わり、その後は新田氏から足利尊氏に乗り換えるなど世渡り上手で、室町時代には応永23年(1416年)上杉禅秀の乱、永享10年(1438年)永享の乱などでも活躍したが、次第に一族は弱体化し、江戸を離れて周辺に散って南北朝時代に突入。

江戸の名称
江戸という地名は、平川の流れが日比谷入江に注ぐ周辺が「江の戸」と呼ばれたのがもとになって、江戸の地名となったといわれていて、秩父重継が入江の高台に城を築いて住んだため江戸冠者と呼ばれ、江戸氏を名乗るように。

1-3、太田道灌の時代の江戸城

ということで、南北朝の頃は江戸城も廃城同然だったが、室町時代後期の康正年間(1455年~1457年)に、当時南関東を治めていた扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家臣、太田道灌(どうかん)が江戸城を再築城

以前は江戸は漁民が細々と生活する寒村で過疎っているという認識でしたが、江戸湾の最奥地にある江戸は水運の中心であり、地形的にも低湿地上の台地があるということで戦略的に要害の地として選ばれた場所と、近年の研究で再検証されているそうです。

道灌の築城した江戸城は、近世城郭の本丸、二ノ丸、三ノ丸に相当する「子城」「中城」「外城」の三重構造となっており、周囲を切岸や水堀が巡らせて門や橋で結んだ3郭で構成され、現在の本丸東側の潮見坂が大手門になる中世城郭ということ。北側の城の背後に梅林を目隠しに残していたので、現在の江戸城にも道灌堀、本丸から二ノ丸へ至る経路にある梅林坂と名称が残っているということです。

山吹の里伝説
太田道灌は知将として知られていますが、鷹狩の途中、にわか雨にあって農家で蓑(雨具)を借りようとしたとき、娘が出てきて、一輪の山吹の花を差し出したということ。道灌は蓑を借りようとしたのになんで山吹の花なんだと、意味が分からず、後でこの話を家臣にしたところ、後拾遺和歌集の兼明親王の「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」という歌から、貧しくて蓑(実の)がないことを伝えたと教わり、以後道灌は教養のなさを恥じて歌道に励んだという話は有名です。

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