第40代アメリカ大統領だった「ロナルド・レーガン」。映画俳優からカリフォルニア州知事になり、合衆国大統領となった人物です。2001年に米海軍の洋上被曝の空母のひとつが「ロナルド・レーガン」と名付けられるなど、今日でもアメリカを代表する政治家のひとりです。

日本との安全保障条約を強固にするため米軍基地の誘致も積極的に行った。そんなレーガンの政治活動や疑惑、いまの評価などを世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。世界史を語るときロナルド・レーガンを避けて通ることはできない。レーガン元大統領は、ソ連や共産主義を脅威と見なして軍隊の配備に力を入れた。実際、彼の在任中は世界史的にも重要な出来事が多発している。そこでレーガンンに関連する政策とその後の評価を、写真と共にまとめてみた。

イリノイ州にて生まれた「ロナルド・レーガン」

Ronald Reagan Boyhood Home (8030104930).jpg
By Teemu008 from Palatine, Illinois - Ronald Reagan Boyhood Home Uploaded by AlbertHerring, CC BY-SA 2.0, Link

ロナルド・レーガンは69歳という年齢ではじめてアメリカ大統領に選ばれた人物です。そんなレーガンが生まれたのは1911年、アメリカのイリノイ州でした。父親はジョン・レーガン。母親はネル・ウィルソンで、次男として生まれました。

信仰心が強い両親のもとに生まれる

ロナルド・レーガンの両親は二人とも信心深い性格でした。父親はアイルランド系だったためカトリックの信者。一方、母親はスコットランド系で、プロテスタントの主流派であるディサイプル教会に所属していました。

レーガンは11歳で母親と同じプロテスタントの洗礼を受けます。兄は父親と同じカトリックを選んだとのこと。父親と母親は、宗教だけではなく、お酒に対する対応も正反対でした。母親はお酒を飲まない禁酒派、一方、父親はアルコール依存症の傾向があったそうです。

ラジオアナウンサーとして巧みな話術を披露

レーガンは幼少期から話術に長けていました。その才能を活かして彼が選んだ最初の職業がラジオのアナウンサー。イリノイ州のシカゴに拠点がある大リーグチームであるシカゴ・カブスの専属アナウンサーとなり、頭角をあらわします。

臨機応変に対処する力も相当なものだったようです。1934年、カブスが9回の攻撃をしているとき、なんと放送回線が故障。そのあいだ、実況放送を即興で何事もなかったように行ったことは、伝説となっています。

ハリウッド映画俳優としての「ロナルド・レーガン」

a gathering of men in an American West scene with the two in the foreground peeling potatoes
By unknown (film screenshot) - http://www.cinema.de/kino/filmarchiv/film/land-der-gottlosen,1301186,ApplicationMovie.html, Public Domain, Link

ロナルド・レーガンは政界入りする前にハリウッド俳優として活躍していたことは有名な話。前カリフォルニア知事のシュワルツェネッガーの大先輩ということになります。西部劇を中心に古典的名作として知られる作品にも登場しました。

有名作品の撮影にも参加

レーガンは1937年にワーナーブラザースと契約し。2枚目俳優としてキャリアをスタートさせます。『風と共に去りぬ』のオーディションにも参加。『カンサス騎兵隊』や『決闘の町』など古典的名作にも名を連ねます。

同時にレーガンは俳優組合にも参加し、政治的発言を積極的に行いました。そのため俳優としてのキャリアは、最初に期待されたほどのものになりません。第二次世界大戦後になると映画における活躍は影を潜めます。

俳優後期はテレビ出演で話題に

そこで次にレーガンが活路を見出したのがテレビ。巧みな話術を活かしてテレビショーの司会やwp_で活躍します。レーガンの愛嬌あるキャラクターが受けて、アメリカのお茶の間の人気者になりました。

レーガンが政治の世界に身を移してからも、お茶の間における知名度が支持率を支えます。歴代大統領のなかでも安定した支持率を維持し続け、いろいろありながらも2期を務めあげました。

\次のページで「俳優時代に赤狩りに協力した「ロナルド・レーガン」」を解説!/

俳優時代に赤狩りに協力した「ロナルド・レーガン」

Welch-McCarthy-Hearings.jpg
By United States Senate - http://www.senate.gov/artandhistory/history/resources/graphic/xlarge/Welch_McCarthy.jpg, Public Domain, Link

赤狩りとは第二次世界大戦後のアメリカで起こった、共産党員およびその支持者を追放する動きのこと。ハリウッドでも赤狩りが行われ、チャーリー・チャップリンなど、多くの有名俳優が亡命を余儀なくされました。レーガンは赤狩りをサポートする姿勢を持ちます。

映画俳優組合の委員長でありながら赤狩りをサポート

当時のロナルド・レーガンは映画俳優組合の委員長。俳優の人権を守る立場にあります。しかしながらレーガンは、赤狩りの中心人物で共和党の議員であるジョセフ・マッカーシーに積極的に協力しました。

彼はアメリカ共産党の非合法化には反対の姿勢を示しており、ほかの反共産主義者とくらべると、強硬な態度ではありません。ただ、赤狩りに協力したことでテレビの仕事が決まることもありました。

反共産主義のスピーチでテレビショーの司会を獲得

レーガンはラジオ放送を通じて反共産主義のスピーチを実施。それが認められて「ジェネラル・エレクトリック・シアター」の司会者に決まりました。スポンサーが、政府との密な関係にある大企業ゼネラル・エレクトリックだったことが決め手でした。

しかしながらレーガンは、ゼネラル・エレクトリックが取引しているテネシー川流域開発公社を批判。スポンサーを起こさせた結果、「ジェネラル・エレクトリック・シアター」を降板することになりました。

カリフォルニア州知事時代は歯に衣をきせぬ会話で物議をかもす

Ronald Reagan and Nancy Reagan aboard a boat in California 1964.jpg
By Unknown author - http://www.reagan.utexas.edu/archives/photographs/photo.html, Public Domain, Link

1967年、レーガンはカリフォルニア州知事として政治家活動を本格化させていきます。ハリウッド俳優だったことから知名度が高く、初めての映画俳優知事となりました。そんなレーガンの政策は基本的に自由主義。個人の権利や考えを最大限に認めましたが、やや行き過ぎるところもありました。

バイク事故はすべて自己責任と断定

カリフォルニア州会議にて、バイクのヘルメット着用について議論されたとき、レーガンは反対を貫きます。すでにヘルメット着用を義務化する法案が通過しているにも関わらず、それを知事権限により取り消しました。

取り消した理由は自己責任。バイクに乗っている人は、すでにそれが危険なものであることを分かっています。そのため、わざわざ法律で罰則化する必要はないという考えでした。その結果、ヘルメット着用の義務化は1992年まで待つことになります。

\次のページで「ベトナムを駐車場にする発言も」を解説!/

ベトナムを駐車場にする発言も

レーガンのカリフォルニア州知事時代、ちょうど議論されていたのがベトナム戦争。激化する情勢に対してレーガンは強硬派の立場をとります。そこで物議をかもした発言が「ベトナムを焼き払って駐車場にすればいい」というものです。

アメリカはベトナム戦争にて巨額の軍事費を投入。しかし、まったく結果が出ないどころか、国内外の批判も高まります。ベトナム戦争を通じてアメリカの威信は完全に崩壊。名誉を回復させたいがために、レーガンはこのような発言をしたようです。

第40代アメリカ大統領になった「ロナルド・レーガン」

image by PIXTA / 7951599

1968年にレーガンは大統領選に出馬しますが、ニクソン元副大統領に敗退。1972年の大統領選は、ベトナム戦争から撤退する機運が高まっていたことから出馬せず。1976年の大統領選でレーガンは惨敗。なんどもチャレンジを繰りかえし、とうとうレーガンは1980年の大統領選にて当選を果たします

暗殺未遂事件に巻き込まれる

念願のアメリカ大統領の就任を果たしたレーガンですが、すぐに事件に巻き込まれます。それが1981年に起こった暗殺未遂事件でした。演説を終えたあとヒルトンホテルの裏口から出ようとした際、ジョン・ヒンクリーに撃たれます。

護衛していたシークレットサービス3名が怪我を負い、レーガン本人も重傷を負いました。すぐに救急車で搬送されますが、意識がもうろう、呼吸もできなくなります。しかし、弾丸摘出の緊急手術によりレーガンは無事に生還しました。

ユニークな対応で身近な存在に

これだけの重傷を負ったレーガンですが、本人はユニークな言動をしたことで話題となります。それが手術前のひとこと。医師たちに向かって「みんなが共和党員だといいのだが」と軽いジョークを言ったそう。これは民主党員がいたら手術中に殺される、という意味の冗談でした。

実際は、医師チームのなかには民主党員がいましたが、「今はみんな共和党員です」と返したとのこと。一刻を争う状態のときにジョークを飛ばすキャラクターは、長期に渡ってアメリカで親しまれることになります。

「ロナルド・レーガン」の外交政策

Ivana Trump shakes hands with Fahd of Saudi Arabia.jpg
By Series: Reagan White House Photographs, 1/20/1981 - 1/20/1989 Collection: White House Photographic Collection, 1/20/1981 - 1/20/1989 - https://catalog.archives.gov/id/75853939, Public Domain, Link

ロナルド・レーガンの在任中、冷戦の激化、中南米の社会主義国家に対する干渉など、軍事を駆使した強硬な政策を展開します。さらに中東で勃発していたさまざまな衝突にも積極的に関与しました。

イランの軍事支援に関与した情報が拡散

1975年から続いていたレバノン内戦。アメリカやソ連の思惑が入り込んだこともあり、状況はどんどん複雑になりました。1980年代になるとレバノンとイスラエルの戦闘が激化。そのようななか、ブッシュのスキャンダルがニュースとなります。

レバノン内戦で活動していた米軍人がイスラム教シーア派の過激派に拘束。人質を救出するために、イラン・イラク戦争で劣勢となっていたイランに、人質救出と引き換えに、武器輸出を密約します。約束通りレーガンはイランに武器を売り、さらに売り上げをニカラグアの反政府グループに与えた疑惑が浮上しました。

\次のページで「日本をソ連の脅威の防衛拠点国と位置づける」を解説!/

日本をソ連の脅威の防衛拠点国と位置づける

レーガンが重視した国のひとつが日本。冷戦の緊張が大きくなるなか、資本主義陣営と社会主義陣営の対立が際立ってきます。ソ連の脅威を太平洋側から防衛できる日本は、軍事戦略的に重視されました。 

とくに密な関係を築いたのが、レーガンと同じく保守傾向がある中曽根康弘。それぞれを「ロン」「ヤス」とニックネームで呼び、会談の機会を積極的に設けていきます。レーガンは当時としては異例のペースで日本を公式訪問。在職中に3度の訪日を実現しました。

政権末期から健康不安説が流れだす

GHW Bush presents Reagan Presidential Medal of Freedom 1993.jpg
Public Domain, Link

ロナルド・レーガンは歴代大統領のなかでも高齢で就任。さらに2期を務めたことから、70代後半になる政権末期は健康不安説が流れます。手術をする機会も増え、受け答えがたどたどしくなりました。

ラスト2年は政策関与の詳細が不明

2期目の後半になると、レーガンは妻のナンシーを横に座らせてサポートを受けるようになります。レーガンは聞き取れないことがあったら、妻に耳打ちしてもらいました。そのため妻の政治関与も取りざたされるようになります。

政権の最後の2年は、レーガンの大統領としての執務時間は激減。実際、政策に対する関与はほとんどなくなっていたとも言われています。そしてレーガンは、同じ共和党のジョージ・ブッシュに大統領の座を譲りました。

政治家引退後はアルツハイマー病の診断結果を公表

政界を引退したレーガンの名前がふたたび浮上するのは約5年後。アルツハイマー病であることを公式に発表したからです。1994年にレーガンは国民に向けた手紙というかたちで自分の病状を報告しました。

アルツハイマー病を発症していた時期は定かではありません。いろいろな状況から、大統領在任中に発症していた可能性も指摘されています。公表後、レーガンは公に姿をあらわすことはありませんでした。

ハリウッド俳優として人気者だったレロナルド・レーガン

ロナルド・レーガンの大統領在任中、米ソの冷戦、中東や中南米の情勢の悪化など、世界史的にも重要な出来事が起こっています。しかしながら、レーガンがどのように対応して解決に向かわせたのか、あまりはっきりしません。レーガンはスキャンダルや健康不安説を抱えながらも、ホワイトハウスを去るまで高い支持率を誇りました。その人気のほとんどは、政策の評価ではなくハリウッド俳優としての人気やキャラクターだったと言われています。レーガンの強硬的な政策は、次のジョージ・ブッシュ政権に引き継がれたと言えるでしょう。

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アメリカの歴史世界史歴史独立後

ハリウッド俳優だった大統領「ロナルド・レーガン」その生涯・政治家活動を元大学教員がわかりやすく解説

第40代アメリカ大統領だった「ロナルド・レーガン」。映画俳優からカリフォルニア州知事になり、合衆国大統領となった人物です。2001年に米海軍の洋上被曝の空母のひとつが「ロナルド・レーガン」と名付けられるなど、今日でもアメリカを代表する政治家のひとりです。

日本との安全保障条約を強固にするため米軍基地の誘致も積極的に行った。そんなレーガンの政治活動や疑惑、いまの評価などを世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。世界史を語るときロナルド・レーガンを避けて通ることはできない。レーガン元大統領は、ソ連や共産主義を脅威と見なして軍隊の配備に力を入れた。実際、彼の在任中は世界史的にも重要な出来事が多発している。そこでレーガンンに関連する政策とその後の評価を、写真と共にまとめてみた。

イリノイ州にて生まれた「ロナルド・レーガン」

Ronald Reagan Boyhood Home (8030104930).jpg
By Teemu008 from Palatine, Illinois – Ronald Reagan Boyhood Home Uploaded by AlbertHerring, CC BY-SA 2.0, Link

ロナルド・レーガンは69歳という年齢ではじめてアメリカ大統領に選ばれた人物です。そんなレーガンが生まれたのは1911年、アメリカのイリノイ州でした。父親はジョン・レーガン。母親はネル・ウィルソンで、次男として生まれました。

信仰心が強い両親のもとに生まれる

ロナルド・レーガンの両親は二人とも信心深い性格でした。父親はアイルランド系だったためカトリックの信者。一方、母親はスコットランド系で、プロテスタントの主流派であるディサイプル教会に所属していました。

レーガンは11歳で母親と同じプロテスタントの洗礼を受けます。兄は父親と同じカトリックを選んだとのこと。父親と母親は、宗教だけではなく、お酒に対する対応も正反対でした。母親はお酒を飲まない禁酒派、一方、父親はアルコール依存症の傾向があったそうです。

ラジオアナウンサーとして巧みな話術を披露

レーガンは幼少期から話術に長けていました。その才能を活かして彼が選んだ最初の職業がラジオのアナウンサー。イリノイ州のシカゴに拠点がある大リーグチームであるシカゴ・カブスの専属アナウンサーとなり、頭角をあらわします。

臨機応変に対処する力も相当なものだったようです。1934年、カブスが9回の攻撃をしているとき、なんと放送回線が故障。そのあいだ、実況放送を即興で何事もなかったように行ったことは、伝説となっています。

ハリウッド映画俳優としての「ロナルド・レーガン」

ロナルド・レーガンは政界入りする前にハリウッド俳優として活躍していたことは有名な話。前カリフォルニア知事のシュワルツェネッガーの大先輩ということになります。西部劇を中心に古典的名作として知られる作品にも登場しました。

有名作品の撮影にも参加

レーガンは1937年にワーナーブラザースと契約し。2枚目俳優としてキャリアをスタートさせます。『風と共に去りぬ』のオーディションにも参加。『カンサス騎兵隊』や『決闘の町』など古典的名作にも名を連ねます。

同時にレーガンは俳優組合にも参加し、政治的発言を積極的に行いました。そのため俳優としてのキャリアは、最初に期待されたほどのものになりません。第二次世界大戦後になると映画における活躍は影を潜めます。

俳優後期はテレビ出演で話題に

そこで次にレーガンが活路を見出したのがテレビ。巧みな話術を活かしてテレビショーの司会やwp_で活躍します。レーガンの愛嬌あるキャラクターが受けて、アメリカのお茶の間の人気者になりました。

レーガンが政治の世界に身を移してからも、お茶の間における知名度が支持率を支えます。歴代大統領のなかでも安定した支持率を維持し続け、いろいろありながらも2期を務めあげました。

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