2-2、フランソワ1世、イタリアへ侵攻
フランソワ1世は、1515年、即位後すぐにミラノ公を宣言、2代前のシャルル8世が始めたイタリア侵攻を再開しました。そしてマリニャーノの戦いでスイス人傭兵部隊を破り、ミラノを占領してスフォルツァからミラノ公位を奪取。そして1515年12月に、フランソワ1世はボローニャで新教皇レオ10世と会談し、バチカンはパルマとピアチェンツァをフランスに、モデナをフェラーラ公国に譲って見返りとしてフランスのウルビーノ公への不干渉などが決定しました。
フランスとスペイン間の終戦条約は1516年8月にノワイヨンで調印されて、フランスのミラノに対する主権、スペインのナポリに対する主権が相互に認証。しかし神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世は、ロンバルディへ再侵入したが撃破されたため、1516年12月、ブリュッセルで条約が結ばれて、マクシミリアン1世はフランス軍のミラノ占領を認めたうえ、クレモナを除いたロンバルディの帝国領をヴェネツィアへ返還して、イタリア半島は1508年の戦争勃発以前の状態に戻ったのでした。
2-3、神聖ローマ皇帝選挙に敗れる
1519年、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世が死去。金印勅書の規定に従って神聖ローマ皇帝の選挙が行われることになりました。そしてマクシミリアン1世の孫であるハプスブルク家のスペイン王カルロス1世とフランソワ1世が立候補したのですね。
ふたりの国王は選挙権を持つ選帝侯に対し買収攻勢で競争したのですが、フランソワ1世は買収のための財源は臨時課税と官職の売り出し、不足分は借金でまかない、対するカルロス1世はヴェルザー、フッガーなどの大富豪の金融家が出資したために歯が立たず、1519年、カルロス1世が神聖ローマ皇帝に選出されてカール5世として即位したのです。
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2-4、フランソワ1世、ヘンリー8世と会見
British School. Previously attributed to Hans Holbein the Younger (c. 1497-1543) Details of artist on Google Art Project – bAFv_RSYuCwJlg at Google Cultural Institute maximum zoom level, パブリック・ドメイン, リンクによる
スペイン国王のカール5世が神聖ローマ皇帝になったために、フランスはハプスブルク家領に挟まれる形になり、脅威を感じたフランソワ1世は、翌年の1520年、イギリス王ヘンリー8世と同盟関係をはかるため、フランス北部のバランゲムで会見しました。この会見はフランソワ1世の寵姫シャトーブリアン伯爵夫人のアイデアで、平原に1万平方メートルの豪華な金糸織の布で仕立てられ、一面に当時は宝石にも等しかった板ガラスがはめられていた巨大幕舎で行われたので「金襴の陣」と呼ばれました。豪奢なぶどう酒が溢れる泉を囲んで、2人の王は連日連夜、酒池肉林のパーティーを楽しみ豪華なプレゼント合戦も行ったが、同盟には至らなかったということです。
それどころか、ヘンリー8世は会見の帰りにフランスとネーデルランドの国境近くのグラヴリーヌで質素なカール5世と会見して好感を持ち、対フランソワ1世同盟を秘密に結んだそう。
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2-5、フランソワ1世、イタリア戦争を再開したが、捕虜に
フランソワ1世はカール5世に対して深刻な脅威を感じていたために、1521年、イタリア戦争を再開、そしてカール5世のドイツ、スペイン連合軍がイタリアを制圧して優勢となりましたが、1525年2月のパヴィアの戦いで、フランソワ1世はスペイン軍に敗れて捕虜となり、マドリードに送られて幽閉されてしまいました。
フランスではフランソワ1世の母ルイーズ・ド・サヴォワが摂政として、ハプスブルク家と交渉に当たることに。カール5世側の事情も、ドイツ諸侯やイタリア諸都市に対する対策、オスマン帝国がウィーンに迫るという事態にも直面していたので、交渉によって妥協することになり、1526年1月、フランソワ1世はマドリード条約に署名して、領土の一部をカール5世に譲渡し、イタリアでの権益を放棄し、カール5世の姉エレオノールとフランソワ1世との結婚と、フランソワ1世の2人の息子フランソワ王太子とアンリを人質としてスペインに送ることなどを条件に釈放、フランスに戻りました。
2-6、ローマの劫略、コニャック同盟戦争
フランソワ1世はパリに戻り、復讐のための戦いを計画して、カール5世の急激な勢力拡大を恐れたローマ教皇クレメンス7世、ヴェネツィア共和国、フィレンツェ共和国、ミラノ公国らがフランソワ1世とコニャック同盟を結成し、カール5世包囲網が完了。
孤立したカール5世は1527年、ローマ教皇に圧力をかけるためスペイン軍を派遣したが、5月6日、給料の支払いが悪かった配下の兵たちによって、カール5世の名のもとで「ローマの劫略(ごうりゃく、きょうりゃく)」といわれた略奪、破壊行為が行われたのです。そしてローマ教皇クレメンス7世の要請で、フランソワ1世は北イタリアに出兵、ミラノなどを再び占領、マドリード条約の破棄を宣言。この戦争は、ペストの流行などもあって1529年に妥協が成立してカンブレーの和約が締結。
しかしフランソワ1世は1535年、またもやミラノ公国の皇位を要求してミラノに出兵したので、カール5世もフランス領内に侵攻したりと小競り合いが続き、1543年2月、にはインドランド王ヘンリー8世が再びカール5世と同盟してフランスに侵攻したため、フランスは北方からイングランド軍に、東からは神聖ローマ皇帝軍の侵攻を受ける羽目になって、1544年9月、クレピーの和約で講和、またこの対決は次の世代へ持ち越されることに。
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