今回はフランソワ1世を取り上げるぞ。ルネサンス期のフランス国王だっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパ史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパの歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、フランソワ1世について5分でわかるようにまとめた。

1-1、フランソワ1世はコニャックの生まれ

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フランソワ1世は、1494年9月12日、フランスの中西部コニャックにあるコニャック城で誕生しました。父はフランス王シャルル5世の曾孫にあたり、ヴァロワ・アングレーム家のアングレーム伯シャルル、母はサヴォワ公フィリッポ2世の娘ルイーズ・ド・サヴォワで、姉のマルグリットに次ぐ第2子で唯一の男子です。

尚、父シャルルは1496年に死去したので、フランソワは1歳3ヶ月でアングレーム伯を継承したのですね。

1-2、フランソワ1世の子供時代

フランソワ1世はフランス国王の王座には遠く、まさか将来国王になるとは思われていなかったが、生まれる前に母ルイーズ・ド・サヴォワの枕元にパオラの聖フランチェスコが出現して次期フランス国王となる男子誕生を予言した、という伝説があるのです。そしてフランソワ1世が生まれたので、ルイーズ・ド・サヴォワと夫のアングレーム伯は、聖人に感謝の意をこめてフランソワと命名。

夫に先立たれたルイーズ・ド・サヴォワが国王となる期待を込めて熱心な教育をしたうえに、大変かわいがって愛されて育ったということです。そしてルイーズがルネサンス美術に関心を持っていたこともあり、教育はもろにイタリア・ルネサンスの影響を受けたそう。

フランソワ1世は、人道主義者の家庭教師たちからみっちりと数学、地理学、文法、歴史や綴り方を教わり、哲学、神学、芸術、文学、詩、科学、語学はヘブライ語やラテン語から、イタリア語、スペイン語に至るまでマスター。フランソワ1世は約2メートルの大男に成長して、ダンスや音楽から、騎士道精神を体現するみたいな馬上槍試合のトーナメントに、鷹狩り、乗馬、アーチェリー、テニス、レスリングなどを好むアウトドア派でもあったということなんですね。

1-3、フランソワ1世、フランス国王の跡継ぎに

フランスではサリカ法典に基づき、国王の娘は女王として継承できないことになっていたのです。そして1498年に即位したルイ12世には男子がいなかったので、従甥(ルイ12世の又従兄の息子)にあたるフランソワ1世が王位継承者となり、ルイ12世と王妃アンヌ・ド・ブルターニュとの間に生まれた5歳年下のクロード王女と1514年に結婚、クロード王女が母から受け継いだブルターニュ公も継承、そして翌年1515年、ルイ12世の死によってフランス国王フランソワ1世として即位しました。

尚、フランソワ1世とクロード王妃の間には、3男4女が次々と生まれましたが、1524年にクロード王妃は26歳で死去。

2-1、フランソワ1世の治世での出来事

フランソワ1世の在位中の出来事をまとめてご紹介しますね。

\次のページで「2-2、フランソワ1世、イタリアへ侵攻」を解説!/

2-2、フランソワ1世、イタリアへ侵攻

フランソワ1世は、1515年、即位後すぐにミラノ公を宣言、2代前のシャルル8世が始めたイタリア侵攻を再開しました。そしてマリニャーノの戦いでスイス人傭兵部隊を破り、ミラノを占領してスフォルツァからミラノ公位を奪取。そして1515年12月に、フランソワ1世はボローニャで新教皇レオ10世と会談し、バチカンはパルマとピアチェンツァをフランスに、モデナをフェラーラ公国に譲って見返りとしてフランスのウルビーノ公への不干渉などが決定しました。

フランスとスペイン間の終戦条約は1516年8月にノワイヨンで調印されて、フランスのミラノに対する主権、スペインのナポリに対する主権が相互に認証。しかし神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世は、ロンバルディへ再侵入したが撃破されたため、1516年12月、ブリュッセルで条約が結ばれて、マクシミリアン1世はフランス軍のミラノ占領を認めたうえ、クレモナを除いたロンバルディの帝国領をヴェネツィアへ返還して、イタリア半島は1508年の戦争勃発以前の状態に戻ったのでした。

2-3、神聖ローマ皇帝選挙に敗れる

1519年、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世が死去。金印勅書の規定に従って神聖ローマ皇帝の選挙が行われることになりました。そしてマクシミリアン1世の孫であるハプスブルク家のスペイン王カルロス1世とフランソワ1世が立候補したのですね。

ふたりの国王は選挙権を持つ選帝侯に対し買収攻勢で競争したのですが、フランソワ1世は買収のための財源は臨時課税と官職の売り出し、不足分は借金でまかない、対するカルロス1世はヴェルザー、フッガーなどの大富豪の金融家が出資したために歯が立たず、1519年、カルロス1世が神聖ローマ皇帝に選出されてカール5世として即位したのです。

2-4、フランソワ1世、ヘンリー8世と会見

British - Field of the Cloth of Gold - Google Art Project.jpg
British School. Previously attributed to Hans Holbein the Younger (c. 1497-1543) Details of artist on Google Art Project - bAFv_RSYuCwJlg at Google Cultural Institute maximum zoom level, パブリック・ドメイン, リンクによる

スペイン国王のカール5世が神聖ローマ皇帝になったために、フランスはハプスブルク家領に挟まれる形になり、脅威を感じたフランソワ1世は、翌年の1520年、イギリス王ヘンリー8世と同盟関係をはかるため、フランス北部のバランゲムで会見しました。この会見はフランソワ1世の寵姫シャトーブリアン伯爵夫人のアイデアで、平原に1万平方メートルの豪華な金糸織の布で仕立てられ、一面に当時は宝石にも等しかった板ガラスがはめられていた巨大幕舎で行われたので「金襴の陣」と呼ばれました。豪奢なぶどう酒が溢れる泉を囲んで、2人の王は連日連夜、酒池肉林のパーティーを楽しみ豪華なプレゼント合戦も行ったが、同盟には至らなかったということです。

それどころか、ヘンリー8世は会見の帰りにフランスとネーデルランドの国境近くのグラヴリーヌで質素なカール5世と会見して好感を持ち、対フランソワ1世同盟を秘密に結んだそう。

2-5、フランソワ1世、イタリア戦争を再開したが、捕虜に

フランソワ1世はカール5世に対して深刻な脅威を感じていたために、1521年、イタリア戦争を再開、そしてカール5世のドイツ、スペイン連合軍がイタリアを制圧して優勢となりましたが、1525年2月のパヴィアの戦いで、フランソワ1世はスペイン軍に敗れて捕虜となり、マドリードに送られて幽閉されてしまいました。

フランスではフランソワ1世の母ルイーズ・ド・サヴォワが摂政として、ハプスブルク家と交渉に当たることに。カール5世側の事情も、ドイツ諸侯やイタリア諸都市に対する対策、オスマン帝国がウィーンに迫るという事態にも直面していたので、交渉によって妥協することになり、1526年1月、フランソワ1世はマドリード条約に署名して、領土の一部をカール5世に譲渡し、イタリアでの権益を放棄し、カール5世の姉エレオノールとフランソワ1世との結婚と、フランソワ1世の2人の息子フランソワ王太子とアンリを人質としてスペインに送ることなどを条件に釈放、フランスに戻りました

2-6、ローマの劫略、コニャック同盟戦争

フランソワ1世はパリに戻り、復讐のための戦いを計画して、カール5世の急激な勢力拡大を恐れたローマ教皇クレメンス7世、ヴェネツィア共和国、フィレンツェ共和国、ミラノ公国らがフランソワ1世とコニャック同盟を結成し、カール5世包囲網が完了。

孤立したカール5世は1527年、ローマ教皇に圧力をかけるためスペイン軍を派遣したが、5月6日、給料の支払いが悪かった配下の兵たちによって、カール5世の名のもとで「ローマの劫略(ごうりゃく、きょうりゃく)」といわれた略奪、破壊行為が行われたのです。そしてローマ教皇クレメンス7世の要請で、フランソワ1世は北イタリアに出兵、ミラノなどを再び占領、マドリード条約の破棄を宣言。この戦争は、ペストの流行などもあって1529年に妥協が成立してカンブレーの和約が締結

しかしフランソワ1世は1535年、またもやミラノ公国の皇位を要求してミラノに出兵したので、カール5世もフランス領内に侵攻したりと小競り合いが続き、1543年2月、にはインドランド王ヘンリー8世が再びカール5世と同盟してフランスに侵攻したため、フランスは北方からイングランド軍に、東からは神聖ローマ皇帝軍の侵攻を受ける羽目になって、1544年9月、クレピーの和約で講和、またこの対決は次の世代へ持ち越されることに。

\次のページで「2-7、フランソワ1世の息子アンリとカトリーヌ・ド・メディシス政略結婚」を解説!/

カンブレーの和約とは
貴婦人の和約ともいわれ、1529年、コニャック同盟戦争の当事者の神聖ローマ皇帝カール5世とフランソワ1世が犬猿の仲で会見を嫌がったため、カール5世の叔母で育ての親でもあるネーデルランド総督のマルグリット大公女(マクシミリアン皇帝の娘)と、フランソワ1世の母ルイーズ・ド・サヴォワがフランスの都市カンブレーで交渉を行いました

この女性たちはマルグリットがルイーズの弟の未亡人だったため義理の姉妹でもありましたが、交渉は厳しいやり取りになって、条約の内容は1526年のマドリード条約をほぼ踏襲する形となり、またマドリードで人質となっていたフランソワ1世の2人の息子のフランソワとアンリが、200万エキュの身代金と引き換えに解放、そしてフランソワ1世はカール5世の姉エレオノールと結婚することなどを協定。

2-7、フランソワ1世の息子アンリとカトリーヌ・ド・メディシス政略結婚

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Vasari - http://derniersvalois.canalblog.com/archives/catherine_de_medicis/index.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

フィレンツェのメディチ家のロレンツォ・デ・メディチは、フランソワ1世の肝入りで同盟の一環としてブローニュ・オーヴェルニュ伯ジャン・ド・ラ・トゥールの娘マドレーヌと結婚し、生まれたのがカトリーヌ・ド・メディシスでした。

カトリーヌが生まれてすぐに両親が亡くなったため、フランソワ1世は後見人を申し出たが、カトリーヌの従兄であるローマ教皇レオ10世が断ったという経過があったそう。そして1533年初め、フランソワ1世は次男オルレアン公アンリとカトリーヌの縁談を持ちかけるとメディチ家出身で遠縁の教皇クレメンス7世は同意。このとき、メディチ家とフランス王家との結婚は不釣り合いと反対意見もあったが、カトリーヌの母方の血統を持ち出してフランソワ1世に結婚の正当性を説いたのが、のちにアンリの愛人となるディアーヌ・ド・ポワティエだったんですね。

アンリとカトリーヌの結婚式は派手な装飾や贈答品、教皇の司式で1533年10月28日にマルセイユで挙行されました。

2-8、フランソワ1世、アメリカ大陸に進出

1534年4月、フランソワ1世はスペインがコルテスを派遣してアラスカを征服したのに刺激を受け、カルティエを船長とする船団を新大陸に派遣しました。カルティエは数度の航海で、ラブラドル半島、セントローレンス川などを発見して、フランス領カナダへの道を開きました。

またフランソワ1世は1535年に、オスマン帝国のスレイマン1世と手を結んだので、オスマン帝国がフランスに与えたとされる通商特権であるカピチュレーションを認められたとの説もあるが、疑問視されているそう。

3-1、フランソワ1世、文化面での功績

フランソワ1世はたびたびイタリア侵攻をしたせいか、イタリアの洗練された文化と芸術に強く憧れ、フランスへルネサンス文化を持ち込み、保護したので、文化面の功績をご紹介しますね。

3-2、コラージュ・ド・フランスの基礎を築く

1530年フランソワ1世は人文主義者の勧告をいれ、ラテン語、ヘブライ語、ギリシア語の学者6名からの「王立教授団」をパリに設置しました。以後、この王立教授団はパリ大学神学部に対抗する人文主義者の集まりとなり、変遷を経て19世紀の王政復古のときにコラージュ・ド・フランスとなって現代に至っているそうです。

3-3、フランソワ1世、レオナルド・ダ・ヴィンチを招聘

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フランソワ1世は、ダ・ヴィンチの作った機械仕掛けの獅子に感銘を受け、ダ・ヴィンチをロワール渓谷に招待したのち、ダ・ヴィンチは、フランソワ1世の宮廷のあるアンボワーズ城敷地内のクロ・リュセ城で暮らしました。

ダ・ヴィンチはクロ・リュセ城で最晩年の3年をここで過ごし、ダ・ヴィンチを「父」と呼んだフランソワ1世に地下道から会いに行ったということなんですね。そしてダ・ヴィンチがイタリアからフランスへ持ち込み、生涯手放さなかった「モナ・リザ」「聖アンナと聖母子」「洗礼者ヨハネ」の3つの絵画は、1519年、67歳でダ・ヴィンチが亡くなった後、フランス王室に受け継がれ、宮殿に飾られることに。

また、フランシス1世はロワール地方のロモランタンを理想的なフランスの首都にするために、ダ・ヴィンチに設計を依頼、運河や王宮、庭園、水車小屋、灌漑農地、下水道、近郊都市の建設を含んだ壮大な設計図が出来たものの、ダ・ヴィンチの死で実現せずじまいに。

また、シャンボール城はダ・ヴィンチが亡くなった年に建設が開始されたのですが、ダ・ヴィンチ研究者によれば、オリジナルの設計図は未発見ながら、そこかしこにダ・ヴィンチらしさが見られるということです。フランソワ1世はほかにもロッソ・フィオレンティーノらの芸術家をイタリアから招聘して、フォンテーヌブロー宮殿、ルーブル宮殿などのルネサンス様式の宮殿を建設

\次のページで「4-1、フランソワ1世の逸話」を解説!/

4-1、フランソワ1世の逸話

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ジャン・クルーエ - wartburg.edu, パブリック・ドメイン, リンクによる

ちょっとした逸話をご紹介しますね

4-2、女たらしだった

フランス国王で愛妾がいなかった人はルイ16世くらいだと思いますが、フランソワ1世も、「フランスの歴史を作った女たち」によれば、義父のルイ12世の再婚相手のヘンリー8世の妹マリー・ダングルテール(メアリ・チュダー)と関係があったとか、「私の可愛い仲間」と呼ぶハーレムを持っていたそう。また、美人の誉れ高かったシャトーブリアン伯爵夫人フランソワーズ・ド・フォワを3年ほどかかって口説き落としてしばらく寵姫としたが、捕虜から解放された後はポイ捨てて、母の侍女だったアンヌ・ド・ピスルー・デイリーにエタンプ公爵夫人の称号を与え、新王妃エレアノールを迎えたときもフランソワ1世と一緒に出迎えたということです。

また、ヘンリー8世の2度目の王妃アン・ブーリンもフランソワ1世のクロード王妃に仕えていたことがあり、フランス宮廷仕込みの洗練された女性としてヘンリー8世に見初められたということ。

4-3、フランス病かナポリ病か

イタリア戦争は、火縄銃装備の傭兵隊が主力となって戦った最初の戦争だったということで、ヨーロッパ中の主要国が参戦して国際紛争となったので国際法形成のきっかけになりましたが、また、スペイン人が新大陸から持ち込んだ梅毒が、戦場のナポリを中心に大流行したことでも歴史的な事件となっています。

そしてイタリア人はこの病気を「フランス病」と呼び、フランス人は「ナポリ病」と呼んだことは有名。

尚、フランソワ1世は、1547年3月に57歳で死去。嫡男のフランソワが早世したので次男がアンリ2世として即位。フランソワ1世、ヘンリー8世も梅毒が死因ではと言われています。

イタリア・ルネッサンスをフランスへ持ち込んだ文化的貢献大の国王

フランソワ1世はフランス王家の傍系に生まれたが、国王ルイ12世に娘しか生まれなかったためにフランス国王となった人。

こういう日本で言えば婿養子的な位置の人は有能であればあるほど、何か偉業を達成したいとがんばるものですが、フランソワ1世もご他聞にもれず、イタリア戦争を再開して何度も攻め入り、ハプスブルク家のカール5世にかなりライバル意識を持ち、対抗して神聖ローマ皇帝に立候補したりしました。

そしてイタリアにかぶれちゃって、ロワール渓谷の城、パリのルーブル宮やフォンテーヌブロー宮を建てたり、ダ・ヴィンチを招聘したり、王立教授団を設立したりと芸術文化面でも大活躍。

日本ではカトリーヌ・ド・メディシスの義父として知られる程度だが、フランスでは長身のイケメンで女性関係も派手、そしてなによりフランスにルネサンスを持ち込んだ芸術パトロンの面で評価され、今でも大変人気のある人物だということです。

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フランスヨーロッパの歴史世界史歴史

フランスにルネサンスを持ち込んだ「フランソワ1世」をわかりやすく歴女が解説

2-2、フランソワ1世、イタリアへ侵攻

フランソワ1世は、1515年、即位後すぐにミラノ公を宣言、2代前のシャルル8世が始めたイタリア侵攻を再開しました。そしてマリニャーノの戦いでスイス人傭兵部隊を破り、ミラノを占領してスフォルツァからミラノ公位を奪取。そして1515年12月に、フランソワ1世はボローニャで新教皇レオ10世と会談し、バチカンはパルマとピアチェンツァをフランスに、モデナをフェラーラ公国に譲って見返りとしてフランスのウルビーノ公への不干渉などが決定しました。

フランスとスペイン間の終戦条約は1516年8月にノワイヨンで調印されて、フランスのミラノに対する主権、スペインのナポリに対する主権が相互に認証。しかし神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世は、ロンバルディへ再侵入したが撃破されたため、1516年12月、ブリュッセルで条約が結ばれて、マクシミリアン1世はフランス軍のミラノ占領を認めたうえ、クレモナを除いたロンバルディの帝国領をヴェネツィアへ返還して、イタリア半島は1508年の戦争勃発以前の状態に戻ったのでした。

2-3、神聖ローマ皇帝選挙に敗れる

1519年、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世が死去。金印勅書の規定に従って神聖ローマ皇帝の選挙が行われることになりました。そしてマクシミリアン1世の孫であるハプスブルク家のスペイン王カルロス1世とフランソワ1世が立候補したのですね。

ふたりの国王は選挙権を持つ選帝侯に対し買収攻勢で競争したのですが、フランソワ1世は買収のための財源は臨時課税と官職の売り出し、不足分は借金でまかない、対するカルロス1世はヴェルザー、フッガーなどの大富豪の金融家が出資したために歯が立たず、1519年、カルロス1世が神聖ローマ皇帝に選出されてカール5世として即位したのです。

2-4、フランソワ1世、ヘンリー8世と会見

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British School. Previously attributed to Hans Holbein the Younger (c. 1497-1543) Details of artist on Google Art ProjectbAFv_RSYuCwJlg at Google Cultural Institute maximum zoom level, パブリック・ドメイン, リンクによる

スペイン国王のカール5世が神聖ローマ皇帝になったために、フランスはハプスブルク家領に挟まれる形になり、脅威を感じたフランソワ1世は、翌年の1520年、イギリス王ヘンリー8世と同盟関係をはかるため、フランス北部のバランゲムで会見しました。この会見はフランソワ1世の寵姫シャトーブリアン伯爵夫人のアイデアで、平原に1万平方メートルの豪華な金糸織の布で仕立てられ、一面に当時は宝石にも等しかった板ガラスがはめられていた巨大幕舎で行われたので「金襴の陣」と呼ばれました。豪奢なぶどう酒が溢れる泉を囲んで、2人の王は連日連夜、酒池肉林のパーティーを楽しみ豪華なプレゼント合戦も行ったが、同盟には至らなかったということです。

それどころか、ヘンリー8世は会見の帰りにフランスとネーデルランドの国境近くのグラヴリーヌで質素なカール5世と会見して好感を持ち、対フランソワ1世同盟を秘密に結んだそう。

2-5、フランソワ1世、イタリア戦争を再開したが、捕虜に

フランソワ1世はカール5世に対して深刻な脅威を感じていたために、1521年、イタリア戦争を再開、そしてカール5世のドイツ、スペイン連合軍がイタリアを制圧して優勢となりましたが、1525年2月のパヴィアの戦いで、フランソワ1世はスペイン軍に敗れて捕虜となり、マドリードに送られて幽閉されてしまいました。

フランスではフランソワ1世の母ルイーズ・ド・サヴォワが摂政として、ハプスブルク家と交渉に当たることに。カール5世側の事情も、ドイツ諸侯やイタリア諸都市に対する対策、オスマン帝国がウィーンに迫るという事態にも直面していたので、交渉によって妥協することになり、1526年1月、フランソワ1世はマドリード条約に署名して、領土の一部をカール5世に譲渡し、イタリアでの権益を放棄し、カール5世の姉エレオノールとフランソワ1世との結婚と、フランソワ1世の2人の息子フランソワ王太子とアンリを人質としてスペインに送ることなどを条件に釈放、フランスに戻りました

2-6、ローマの劫略、コニャック同盟戦争

フランソワ1世はパリに戻り、復讐のための戦いを計画して、カール5世の急激な勢力拡大を恐れたローマ教皇クレメンス7世、ヴェネツィア共和国、フィレンツェ共和国、ミラノ公国らがフランソワ1世とコニャック同盟を結成し、カール5世包囲網が完了。

孤立したカール5世は1527年、ローマ教皇に圧力をかけるためスペイン軍を派遣したが、5月6日、給料の支払いが悪かった配下の兵たちによって、カール5世の名のもとで「ローマの劫略(ごうりゃく、きょうりゃく)」といわれた略奪、破壊行為が行われたのです。そしてローマ教皇クレメンス7世の要請で、フランソワ1世は北イタリアに出兵、ミラノなどを再び占領、マドリード条約の破棄を宣言。この戦争は、ペストの流行などもあって1529年に妥協が成立してカンブレーの和約が締結

しかしフランソワ1世は1535年、またもやミラノ公国の皇位を要求してミラノに出兵したので、カール5世もフランス領内に侵攻したりと小競り合いが続き、1543年2月、にはインドランド王ヘンリー8世が再びカール5世と同盟してフランスに侵攻したため、フランスは北方からイングランド軍に、東からは神聖ローマ皇帝軍の侵攻を受ける羽目になって、1544年9月、クレピーの和約で講和、またこの対決は次の世代へ持ち越されることに。

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