江戸時代の民衆はちょんまげに和服が一般的だった。それが明治時代になると文化の西洋化が一気に進む。明治維新後の日本人のなかには近代的な思想を受け入れ、生活スタイルを大きく変化させた。

「文明開化」により日本人の風俗はどのように変わったのでしょうか。それじゃ、「文明開化」に関連する流行や変化を、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。日本の近代化の歴史を語るとき「文明開化」を避けて通ることはできない。生活スタイルだけではなく精神的な変化も大きかった「文明開化」について、筆者の視点を交えながら解説する。

文明開化とは何?

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揚洲周延 (1838-1912) - Waseda University Library, パブリック・ドメイン, リンクによる

文明開化とは明治時代に起こった西洋化ブームのこと。日本の伝統を否定し、なんでも西洋化しようとする現象のことを指します。文明開化により、文化のみならず制度や習慣も一気に変化しました。

言葉の起源は福澤諭吉の『文明論之概略』

文明開化という言葉を初めて使ったのは福澤諭吉。明治8年に出版された諭吉の『文明論之概略』のなかで、civilizationを文明開化と訳したことがはじまります。

この書籍で書かれたことは日本と西洋の文明の比較。西洋の文化を模倣したもの、日本と西洋の文化の融合させるもの、西洋風にアレンジしたものなど、いろいろなバリエーションが含まれていました。

数々の流行語を生んだ「文明開化」

文明開化は日本人の伝統的な生活を一転させます。そんな変化をうたったさまざまな流行語が登場。有名なものが「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」というもの。ちょんまげを切った頭のことを表した流行語です。

「牛鍋食わぬは開化不進奴」は牛鍋という新しい食文化に関連する流行語。「牛鍋を食わないとは、とんでもない時代遅れな奴だ」という意味です。江戸末期から明治時代にかけて活躍した戯曲家である仮名垣魯文の『安愚楽鍋』のなかに登場しました。

牛鍋が文明開化のシンボルであったことには、ちゃんとした理由があります。日本では天武天皇が肉食禁止令を出してから肉を食べることは禁止。実際はこっそり食べていたようですが、公的には肉を食べる習慣が長らくありませんでした。それが明治時代に解禁され、文明開化の政策により公的に推奨されたのです。実は「スキヤキ」と言う呼び名は、江戸時代に庶民がこっそり食べていたメニュー名。「杉やき」あるいは「鋤やき」と呼ばれていたそうよ。

世界は「文明開化」前の日本をどのように見ていた?

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不明 (photo was made in London) - 1. From the arabic Wikipedia [1] 2. Japanese class [2], パブリック・ドメイン, リンクによる

文明開化は、日本政府がヨーロッパとの親交を含めていくなかで、日本を西洋化する必要性を痛感して推進されました。明治時代の初期の日本は外国にとって未知の国。野蛮な国というイメージもありました。

日本人はちょんまげ・サムライのイメージ

世界から見る日本は地球の端っこにある国。文明化されていない国として認識されていました。とくに奇妙に思われていたのが、江戸時代の習慣である「ちょんまげ」です。ちょんまげスタイルは、外国ではありえない髪型。奇妙な文化を持つ人々というイメージが強固になりました。

また、サムライに関する興味も日本人の印象を歪めます。サムライと言えば切腹。キリスト教の精神からすると自殺は好ましくありません。また、サムライの刀は残忍なイメージを作りました。江戸時代が終わった日本では、こうしたイメージを払拭する必要があったのです。

風俗が乱れている印象も強かった

ちょんまげ・サムライに加えて、世界の人々は日本を性的に乱れた国と捉える傾向がありました。その根拠となるのが遊郭や吉原の存在です。遊郭や吉原は、外国人によっては売春宿のようなもの。それらが公然とあることに驚きを隠せませんでした。

そのため日本人は性的にオープンで、女性に対して乱暴なことをすると思われます。さらに、そのイメージに拍車をかけたのが温泉文化。日本では、男湯と女湯という考え方がなく、混浴があたりまえでした。それも野蛮と見なされます。

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「文明開化」は明治政府の政策のひとつ

image by PIXTA / 47536113

文明開化は自然に生まれた近代化ブームではなく、明治政府により仕掛けられたプロモーションです。そのため、産業、文化、軍事、法制度など、さまざまな角度からアプローチされました。

ヨーロッパの一員になることを熱望

明治政府が望んだことは日本がアジアではなくヨーロッパの一員となること。なぜならアジアは文明化されていない未発達の国と考えたからです。そこで政治政府が打ち出したスローガンが「脱亜入欧」でした。

福沢諭吉の『学問のすすめ』でも、日本が近代化する必要があることが説かれました。学者の立場から近代化の必要性を説く諭吉よりも、シンプルに「脱亜入欧」と言いきる方が分かりやすく、こちらの方が広まります。

開国してすぐの日本では、生糸、蚕種、茶などの輸出が増加します。そこで明治政府は近代的な設備をそなえた製糸場の建設を思案するようになりました。そこで建設されたのが富岡製糸場です。フランス人のエドモン・オーギュスト・バスチャンに設計を依頼。その設計図をもとにフランス人の技術者ポール・ブリューナがフランスにもどって機械を調達します。日本では尾高惇忠が責任者となり建設を進めました。となると、富岡製糸場はフランス式の施設ということなんですね。

富国強兵により海外の軍隊を模範とする

明治政府は「富国強兵」というスローガンも立ち上げ、軍事力の強化にも乗り出します。春秋戦国時代、諸侯の国で行われた政策が「富国強兵」。日本でも「富国強兵」の思想そのものは伝統的にありました。

明治時代は徴兵制度や軍制改革を実施。フランス軍やドイツ軍をモデルとしながら、軍隊制度を整えていきました。それが整うと日本はアジアの植民地化に乗り出します。

「文明開化」により西洋風の文化を取り入れる

image by PIXTA / 22577736

「文明開化」の一番の特徴は日本の文化の西洋化です。髪型、洋服、振る舞いなど、いろいろな面に変化が起こりました。「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」はまさにこの現象を指しています。

西洋スタイルの建築物の増加

文明開化により日本の建築の近代化が推進。レンガ造りなど西洋風の建物が増えました。有名なものが鹿鳴館。日本の外務である卿井上馨の方針により建設された西洋館です。ここで国賓や外交官など海外の要人が接待されました。

銀座などにあるデパートの先駆けとなる西洋風の建物もこの時期に建てられ始めています。東京駅の丸の内にあるレンガの駅舎も同様。それと合わせてガス灯がともされるようになり、日本の風景が変化していきます。

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旧三笠ホテルは、長野県の軽井沢にある歴史的な建造物で、国の重要文化財にも指定されています。設計したのは日本人ですが、純西洋風建築。多くの文化人財界人がとまったことでも知られています。「軽井沢の鹿鳴館」とも呼ばれたそう。建物はいろいろな国のスタイルをミックス。建築様式はアメリカスタイルがベースですが、扉のはイギリス風、下見板はドイツ風、用材は小瀬のアカマツを使用したそうです。

散髪、洋服、洋食を推進

「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」はちょんまげの散髪の話。男性は髪を切ることが推奨されました。また、服装も和装から洋装に変える、さらには食文化を変える流れも起こりました。

この流れに乗じたのは一部の富裕層のみ。とくに急激な食生活の変化は受入れが難しかったようです。そのため明治時代の日本は、しばらくのあいだ、西洋風の人と昔ながらのスタイルの人が入り混じっていました。

「文明開化」により登場したアレンジレシピ

「文明開化」は食文化の西洋化を推進しますが、日本人はそれを急に受け入れることはできませんでした。それで西洋の料理をアレンジするメニューが生まれたのです。

カレーはごはんと一緒に食べるスタイルが定着

日本でカレーは、明治時代イギリス料理として伝わりました。カレーをいち早く取り入れたのが軍隊。陸軍幼年学校の昼食としてカレーが登場しました。また海軍でも採用。イギリス式のカレーをアレンジしたのが「横須賀海軍カレー」です。

海外のカレーはお米とカレーは別々に提供されるのが通常。それに対して日本では、お米と一緒に食べるスタイルが定着しました。カレーだけの状態では、当時の日本人には馴染めず、食べなれたお米と一緒に食べさせたのです。カレーは滋養強壮にいいとされ、軍隊のメニューの定番となりました。

肉じゃがはビーフシチューをアレンジ

ビーフシチューをアレンジしたとされるのが肉じゃが。イギリスに留学していた東郷平八郎がビーフシチューに感動して、海軍に取り入れようとしたのがはじまりと言われています。東郷平八郎から話を聞いた料理長が想像で作ったのが肉じゃが。ただ、諸説あるので、本当の起源は定かではありません。

野菜と肉を、醤油や砂糖などの調味料で料理することで、日本人の口に合うようにアレンジされたことは確かでしょう。ちなみに東郷平八郎の名前は、明治37年にはじまった日露戦争の日本軍勝利により瞬く間に世界中に知れ渡り、海軍の英雄となります。

「文明開化」では法律により人々の行動の仕方を制限

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唐山健志郎 - 唐山健志郎, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

文明開化は、人間の無意識の行動の仕方の規制にもおよびました。これまで当たり前のように行われてきたこが法的に禁止され、罰金がとられるケースもでてきます。

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東京都は外で裸体になることを禁止

当時の東京都である東京府は「違式註違条例」を制定。屋外で裸体になることを禁止します。昔の日本では、とくに夏の暑い時期は、半裸でふらふら歩くことは当たり前。それが非近代的であると公的に禁止されました。

たとえば、銭湯から半裸で出てくる、路上で立小便をするなどは、当時としては当たり前。しかし「違式註違条例」の制定後は、これらが見つかると罰金がとられました。

シャーマニズムはご法度

文明開化の政策により肩身が狭くなったのが山伏や巫女など。加持祈祷や死者とコミュニケーションをとる行為は、科学的根拠がない宗教的な行為とみなされて排斥されていきます。

そこで一部のシャーマン系の宗教団体は、自らを神社と位置づけて認可を求めました。ただ大部分は、法制定などにより違法化されたわけではないので、ひっそりと活動を続けていたようです。

実際の日本人の生活はどうだったのでしょう。文明開化の影響が出てきたのは日本のほんの一部だったようです。明治政府の方針を受け入れたのは、西洋に興味がある知識人や官僚が中心でした。ほとんどの日本人は、江戸後期の服を着て、これまでと同じような生活をしていました。ほとんどの人は貧しく、文明開化とは程遠い生活をしていたというのが現実です。

「文明開化」は当時の日本人の四苦八苦が垣間見れる

「文明開化」というと、鹿鳴館のような西洋風の建物のなかで日本人が洋装でダンスをしているイメージが強いでしょう。この現象は、政府が意図的に推進してもので、政策としてはかなり無理がありました。そのため西洋の文化や制度がほんとうに馴染むのはもっと後になります。ここで強調したいのは「文明開化」による富国強兵・脱亜入欧のようなスローガンと共に、日本は軍事力を増していったこと。これがその後のアジア植民地政策につながっていくのです。広い視野から「文明開化」を見ていくと、日本の近代史の始まりが見えてくると思います。

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幕末日本史歴史江戸時代

ちょんまげに別れを告げる「文明開化」元大学教員がわかりやすく解説

江戸時代の民衆はちょんまげに和服が一般的だった。それが明治時代になると文化の西洋化が一気に進む。明治維新後の日本人のなかには近代的な思想を受け入れ、生活スタイルを大きく変化させた。

「文明開化」により日本人の風俗はどのように変わったのでしょうか。それじゃ、「文明開化」に関連する流行や変化を、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。日本の近代化の歴史を語るとき「文明開化」を避けて通ることはできない。生活スタイルだけではなく精神的な変化も大きかった「文明開化」について、筆者の視点を交えながら解説する。

文明開化とは何?

Rokumei-kan ni okeru kifujin jizenkai no zu.jpg
揚洲周延 (1838-1912) – Waseda University Library, パブリック・ドメイン, リンクによる

文明開化とは明治時代に起こった西洋化ブームのこと。日本の伝統を否定し、なんでも西洋化しようとする現象のことを指します。文明開化により、文化のみならず制度や習慣も一気に変化しました。

言葉の起源は福澤諭吉の『文明論之概略』

文明開化という言葉を初めて使ったのは福澤諭吉。明治8年に出版された諭吉の『文明論之概略』のなかで、civilizationを文明開化と訳したことがはじまります。

この書籍で書かれたことは日本と西洋の文明の比較。西洋の文化を模倣したもの、日本と西洋の文化の融合させるもの、西洋風にアレンジしたものなど、いろいろなバリエーションが含まれていました。

数々の流行語を生んだ「文明開化」

文明開化は日本人の伝統的な生活を一転させます。そんな変化をうたったさまざまな流行語が登場。有名なものが「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」というもの。ちょんまげを切った頭のことを表した流行語です。

「牛鍋食わぬは開化不進奴」は牛鍋という新しい食文化に関連する流行語。「牛鍋を食わないとは、とんでもない時代遅れな奴だ」という意味です。江戸末期から明治時代にかけて活躍した戯曲家である仮名垣魯文の『安愚楽鍋』のなかに登場しました。

牛鍋が文明開化のシンボルであったことには、ちゃんとした理由があります。日本では天武天皇が肉食禁止令を出してから肉を食べることは禁止。実際はこっそり食べていたようですが、公的には肉を食べる習慣が長らくありませんでした。それが明治時代に解禁され、文明開化の政策により公的に推奨されたのです。実は「スキヤキ」と言う呼び名は、江戸時代に庶民がこっそり食べていたメニュー名。「杉やき」あるいは「鋤やき」と呼ばれていたそうよ。

世界は「文明開化」前の日本をどのように見ていた?

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不明 (photo was made in London) – 1. From the arabic Wikipedia [1] 2. Japanese class [2], パブリック・ドメイン, リンクによる

文明開化は、日本政府がヨーロッパとの親交を含めていくなかで、日本を西洋化する必要性を痛感して推進されました。明治時代の初期の日本は外国にとって未知の国。野蛮な国というイメージもありました。

日本人はちょんまげ・サムライのイメージ

世界から見る日本は地球の端っこにある国。文明化されていない国として認識されていました。とくに奇妙に思われていたのが、江戸時代の習慣である「ちょんまげ」です。ちょんまげスタイルは、外国ではありえない髪型。奇妙な文化を持つ人々というイメージが強固になりました。

また、サムライに関する興味も日本人の印象を歪めます。サムライと言えば切腹。キリスト教の精神からすると自殺は好ましくありません。また、サムライの刀は残忍なイメージを作りました。江戸時代が終わった日本では、こうしたイメージを払拭する必要があったのです。

風俗が乱れている印象も強かった

ちょんまげ・サムライに加えて、世界の人々は日本を性的に乱れた国と捉える傾向がありました。その根拠となるのが遊郭や吉原の存在です。遊郭や吉原は、外国人によっては売春宿のようなもの。それらが公然とあることに驚きを隠せませんでした。

そのため日本人は性的にオープンで、女性に対して乱暴なことをすると思われます。さらに、そのイメージに拍車をかけたのが温泉文化。日本では、男湯と女湯という考え方がなく、混浴があたりまえでした。それも野蛮と見なされます。

\次のページで「「文明開化」は明治政府の政策のひとつ」を解説!/

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