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初の大西洋無着陸単独飛行の英雄「リンドバーグ」をわかりやすく歴女が解説

3-1、リンドバーグ・ジュニア誘拐事件

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World Telegram staff photographer – Library of Congress. New York World-Telegram & Sun Collection. http://hdl.loc.gov/loc.pnp/cph.3c09414, パブリック・ドメイン, リンクによる

この頃、リンドバーグはニューヨークから車で2時間の郊外の邸宅に住んでいましたが、1932年3月1日、1歳8か月だった長男チャールズ・ジュニアが自宅から誘拐される事件が勃発。現場には身代金5万ドルを要求する手紙が残され、10週間の捜索と誘拐犯人との身代金交渉の後に、自宅から7キロの森の中で誘拐直後に殺されたとみられるチャールズ・ジュニアの遺体が発見。

その後、ドイツ系移民のリチャード・ハウプトマンが逮捕され、約3年後に、ハウプトマンは殺人で告訴され裁判となりました。ハウプトマンは一貫して無罪を主張したが、死刑判決が下されて、1936年4月3日に死刑執行。

この事件は当時のアメリカでセンセーショナルな報道合戦となり、報道規制もなくマスメディアや衆人環視の状況にいたたまれず、リンドバーグは一家でイギリスに移住したということ。

3-2、リンドバーグ、第二次世界大戦前夜にナチスを支持

1935年、リンドバーグがイギリスに移住した翌年、アメリカ政府の依頼でドイツ空軍の視察を依頼されてドイツを訪問。そしてヒトラーの右腕のゲーリングに大歓迎され、軍事機密の戦闘機の視察も許されたリンドバーグはドイツの高い技術力に感銘を受け、第一次世界大戦後のドイツの復興を高く評価したということです。

リンドバーグはヒトラーを「批判があるが偉大な人物、若干の狂信性はあるがそれがないと達成できなかっただろう」と日記に書き、ドイツに貢献した外国人に授与される荒鷲十字勲章を受けたことで、アメリカ国内で、ユダヤ人を差別する政策を行うナチス党政権と親密になりすぎているとして批判されたのですが、リンドバーグは、ドイツに対する過剰な非難だと反論したそう。

そして1939年、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発したのでリンドバーグはアメリカに帰国。共和党員だったリンドバーグは、アメリカの孤立主義とドイツの政策の支持者としてアメリカ各地で講演を行ったりと活動し、1941年1月23日、アメリカ連邦議会で演説してドイツと中立条約を結ぶべきと主張して、ルーズベルト大統領と対立。また、1941年9月11日のアイオワ州デモインでの演説で、アメリカを戦争に引きずり込む3大勢力はイギリス人とユダヤ人とルーズベルト政権だと発言したことで、ユダヤ系アメリカ人が反発して親ナチスとしてバッシングを受け、ルーズベルト大統領はリンドバーグのアメリカ陸軍航空隊での委任を解除、また各地にあったリンドバーグの名がつけられたものはすべて改名されちゃったんですね。

しかし1941年、日本が真珠湾を攻撃後、リンドバーグもアメリカの参戦に同意。

3-3、太平洋戦争でのリンドバーグ

1941年12月7日、アメリカは対日本との戦争を開始しましたが、リンドバーグは「参戦には反対だったが、開戦した以上は祖国への義務を果たしたい」として陸軍航空隊へ復帰したいと申し出ました。しかしそれまでの主張が主張だったため、真意を疑われてしまい、ルーズベルト大統領や、当時の陸軍長官らに拒否されて復帰できず。

そういうことで軍に入る代わりに、戦闘機を製造する民間航空会社の顧問として太平洋ニューギニアに向かい、軍法違反をしてまで爆撃機に乗り込みました。リンドバーグは40歳になっていましたが、長距離飛行に関してはトップクラスの腕だったので、最高司令官のダグラス・マッカーサーはリンドバーグの軍法違反を黙認し、若いパイロットに燃料を節約する飛行技術を指導させたのでした。

しかしリンドバーグは地上に降り立ったときに、自分の落とした爆弾で亡くなった日本兵の死体をみてショックを受けたなど、強烈な戦争体験を日記に書いているということです。

3-4、第二次世界大戦後のリンドバーグ

1945年5月、ドイツの降伏後、リンドバーグはアメリカ政府の依頼で、ドイツ空軍の技術調査のためにドイツへ派遣。そして調査の一環として、ナチスのユダヤ人強制収容所を訪問。多くのユダヤ人が虐殺された現場をみたため、開戦前はあれほどドイツ支持者だったリンドバーグは、日記にこのような施設を正当化することは絶対に不可能と、強い嫌悪と怒りを著し、また1948年には占領中の日本へ行き、原爆での被害を被った広島を空から視察し目の当たりに。

リンドバーグは1953年、大西洋単独無着陸飛行について書いた 「The Spirit of St. Louis」(邦題は「翼よ、あれがパリの灯だ」)を出版、1954年のピュリッツァー賞を受賞、著書のなかで25年前と今とでは全く違う気持ちだと語り、飛行機に命をささげてきたが、それを作り出した文明を私たちは破壊していると考えたということです。

3-5、リンドバーグ、自然保護に尽力

image by PIXTA / 41440236

リンドバーグは、60歳以降になると、妻のアンや子供たちと共にハワイ州のマウイ島に移住して、文明から遠ざかり、電気やガスもひかずにランプと薪の生活を送るようになりました。

そして世界自然保護基金などの団体と連携し、絶滅を危惧される動物の保護や自然環境の保全に力を注ぐために世界各地を回り、環境保護活動に参加、多額の資金を寄付するようになったということ。フィリピンの野生の水牛タマラオも知名度を生かして当時マルコス大統領に直談判し、自然保護区を作り絶滅から救ったりハクトウワシ、ホッキョクグマ、シロナガスクジラにマウンテンゴリラなどを救うことに命をささげたということで、今の自分は飛行機よりも鳥を選ぶと言ったそう。

1973年、リンドバーグは、ニューヨークの病院で悪性のリンパ腫の診断を受けたが、医師の反対を押し切ってハワイに帰って、葬儀の準備を確認し、葬儀で歌う讃美歌も指定、お墓の建て方も自分で決めたのちに、8月26日朝にマウイ島ハナのキパフルにある別荘にて72歳で死去。

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angelica