今回はチャールズ・リンドバーグを取り上げるぞ。大西洋単独飛行が成功して英雄となったパイロットですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところをアメリカの歴史にも興味を持っているあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、アメリカの歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、チャールズ・リンドバーグについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、リンドバーグはミシガン州デトロイト生まれ

チャールズ・オーガスタス・リンドバーグは、1902年2月4日にアメリカ合衆国の中部ミシガン州デトロイトで誕生しました。父チャールズは弁護士でしたが、その後共和党から出馬して下院議員となり、母エヴァンジェリンは化学教師。リンドバーグの父は母とは再婚で前の結婚で2人の子供がいて、リンドバーグは父にとっては3番目の子でした。

1-2、リンドバーグの子供時代

リンドバーグは両親が5歳で別居、7歳で離婚した後、ミネソタ州リトルフォールズで成長しました。リンドバーグは母が仕事でいない間、家の中でひとり遊びする子供だったそう。そして近所に住む歯科医で発明家だった祖父の実験室で、化学や機械に夢中になったということで、10歳の時に試験飛行する飛行機を見に行き、空を飛びたいと思ったそう。

そしてリンドバーグは地元で母の務めるリトルフォールズの高校、父のいるワシントンDC、カリフォルニアの高校などを転々とした後、ウィスコンシン大学マディソン校に入学し機械工学を専攻したが2年で中退しています。

1-3、リンドバーグ、飛行学校へ入学

1922年、20歳の時リンドバーグは飛行学校に入学してパイロットを目指しました。在学中にアルバイトで稼いだお金で中古の飛行機を手に入れ、曲芸飛行で「命知らずの空中軽業師」として全米をまわった後、1924年にはアメリカ陸軍飛行学校に入学し、航空隊飛行士としての訓練を受けて翌年には首席で卒業したということです。

1-4、リンドバーグ、セントルイスに移住

リンドバーグは卒業後、当時航空産業の中心だった中西部のミズーリ州セントルイスへ移住し、発足したばかりの民間航空郵便会社のチーフパイロットに就任しました。この民間航空郵便会社のパイロットは最も危険な職業とされていて、夜間飛行は当たり前、天候の悪いときでも飛ぶために墜落死亡事故が後を絶たず、リンドバーグも2度墜落し、かろうじてパラシュートで脱出したことがあるそう。

2-1、リンドバーグ、大西洋横断レースに挑戦することに

LindberghStLouis.jpg
不明 - This image is available from the United States Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID cph.3a23920. This tag does not indicate the copyright status of the attached work. A normal copyright tag is still required. See Commons:Licensing for more information., パブリック・ドメイン, リンクによる

この頃はまだ飛行機の創世記だったので、ニューヨークとパリ間は前人未到の距離でした。そこで命知らずの飛行機野郎が腕を競う大西洋横断のレースが開催されていたのですが、リンドバーグは賞金よりもそのコースを飛んでみたいと挑戦。このレースは遠距離のために、30時間以上未着陸で飛ばなければならず、通常は2人乗りで交代で操縦することになっていましたが、リンドバーグは飛行機の軽量化と安く製造するために飛行機の設計段階から無茶ぶりを注文、1人乗り機で、しかも無線やパラシュートなどもなし、なんと操縦席の前にガソリンタンクを置き、前は見えないが燃料が多く詰めるような飛行機を作ったのでした。

リンドバーグは航空郵便でよく闇夜を飛んだ経験から、メーターを見れば高度などがわかるし高度な操縦技術とともに自身の感覚にも自信があったため、前面の視界がなくても飛行状態が把握できる自信があったから出来たことなのですが、それにしても大胆で自信過剰とすら思えるほどですよね。

尚、このリンドバーグの飛行機はセントルイスの投資家たちの寄付で作られたため、「スピリット・オブ・セントルイス」号と名づけられました。

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2-2、リンドバーグ、単独無着陸飛行を達成しヒーローに

image by PIXTA / 7951622

1927年、リンドバーグは、サンドイッチ5食分と水だけを積み込みました。それで足りるのかと聞かれて、「パリに着けばサンドイッチはいらないし、着かなくてもサンドイッチはいらなくなる」と答えたということです。

リンドバーグは飛行中、メディアの取材攻勢での寝不足がたたり睡魔に襲われて幻覚も見つつ、窓から顔を出してプロペラ機の風に顔を当てて眠気を覚まして操縦を続けたのですが、33時間後、無事にパリのル・ブルジェ空港に着陸、初の大西洋単独無着陸飛行を達成。

この偉業でリンドバーグは、ニューヨーク-パリ間無着陸飛行者に与えられるオルティーグ賞と賞金25000ドルをゲットしただけでなく、15万人のパリ市民の歓迎を受ける大騒動から始まり、アメリカ大統領はリンドバーグのアメリカ帰還のために軍艦を差し回して凱旋帰国したのちは、大統領からは勲章が与えられ、ニューヨークでパレードを行い、さらに全米82都市をまわって歓迎を受け、25歳でアメリカの英雄になったのですね。

「翼よ、あれがパリの灯だ!」はうそだった

リンドバーグは、パリ上空で「翼よ、あれがパリの灯だ!」と叫んだとされていますが、これは後世の脚色で、リンドバーグは、自分がパリに着いたこともわからなかったという話です。実際には着陸後、英語圏の人の定番である「誰か英語を話せる人はいませんか?」と聞き、英語がわかる人に対して「ここはパリですか?」と尋ねたという説と、よくあるジョークでしょうが、「トイレはどこですか?」と聞いたという説があるそう。

2-3、リンドバーグ、メキシコ大使令嬢と結婚

端正なマスクと長身のリンドバーグは、全米屈指の大スターとなり分刻みのスケジュールで動くようになりました。そして1927年、アメリカ親善大使としてメキシコを訪問したとき、メキシコ駐在アメリカ大使ドワイト・モローの次女アンと知り合って、1929年に結婚。アンは夫のリンドバーグの勧めでパイロットや無線通信士の技術を身につけたということ。ふたりの間には1930年、チャールズ・オーガスタス・ジュニアが生まれ、その後次々と4男2女が生まれました。

リンドバーグは航空会社の技術顧問に就任し、アメリカ大陸横断、ニューヨークからロサンジェルスへの航路を開発するため、安全で効率の良いルートを探してアンとともに調査飛行、1929年に、両都市を48時間で結ぶリンドバーグ・ラインと呼ばれる大陸横断航路の旅客機の運航が開始されたということ。

2-4、リンドバーグ夫妻、日本訪問

Charles Lindbergh and his wife visit to Japan.jpg
不明 - 歴史写真会「歴史写真(昭和6年10月号)」より。, パブリック・ドメイン, リンクによる

リンドバーグ夫妻は昭和6年(1931年)、パン・アメリカン航空から依頼され、アラスカから日本への北太平洋航路の開発調査のために、ニューヨーク、カナダ、アラスカ州を経て日本と中華民国までを飛行しました。
途中8月23日に、日本の国後島、根室、26日には千葉県の霞ヶ浦に降り立ち、その後9月13日には大阪、9月17日に福岡を訪問して大歓迎され、中華民国の南京と漢口まで飛行したそうです。妻のアンはのちにこの体験を「 NORTH TO THE ORIENT」として出版したのですね。

\次のページで「3-1、リンドバーグ・ジュニア誘拐事件」を解説!/

3-1、リンドバーグ・ジュニア誘拐事件

Lindbergh after grand jury.jpg
World Telegram staff photographer - Library of Congress. New York World-Telegram & Sun Collection. http://hdl.loc.gov/loc.pnp/cph.3c09414, パブリック・ドメイン, リンクによる

この頃、リンドバーグはニューヨークから車で2時間の郊外の邸宅に住んでいましたが、1932年3月1日、1歳8か月だった長男チャールズ・ジュニアが自宅から誘拐される事件が勃発。現場には身代金5万ドルを要求する手紙が残され、10週間の捜索と誘拐犯人との身代金交渉の後に、自宅から7キロの森の中で誘拐直後に殺されたとみられるチャールズ・ジュニアの遺体が発見。

その後、ドイツ系移民のリチャード・ハウプトマンが逮捕され、約3年後に、ハウプトマンは殺人で告訴され裁判となりました。ハウプトマンは一貫して無罪を主張したが、死刑判決が下されて、1936年4月3日に死刑執行。

この事件は当時のアメリカでセンセーショナルな報道合戦となり、報道規制もなくマスメディアや衆人環視の状況にいたたまれず、リンドバーグは一家でイギリスに移住したということ。

3-2、リンドバーグ、第二次世界大戦前夜にナチスを支持

1935年、リンドバーグがイギリスに移住した翌年、アメリカ政府の依頼でドイツ空軍の視察を依頼されてドイツを訪問。そしてヒトラーの右腕のゲーリングに大歓迎され、軍事機密の戦闘機の視察も許されたリンドバーグはドイツの高い技術力に感銘を受け、第一次世界大戦後のドイツの復興を高く評価したということです。

リンドバーグはヒトラーを「批判があるが偉大な人物、若干の狂信性はあるがそれがないと達成できなかっただろう」と日記に書き、ドイツに貢献した外国人に授与される荒鷲十字勲章を受けたことで、アメリカ国内で、ユダヤ人を差別する政策を行うナチス党政権と親密になりすぎているとして批判されたのですが、リンドバーグは、ドイツに対する過剰な非難だと反論したそう。

そして1939年、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発したのでリンドバーグはアメリカに帰国。共和党員だったリンドバーグは、アメリカの孤立主義とドイツの政策の支持者としてアメリカ各地で講演を行ったりと活動し、1941年1月23日、アメリカ連邦議会で演説してドイツと中立条約を結ぶべきと主張して、ルーズベルト大統領と対立。また、1941年9月11日のアイオワ州デモインでの演説で、アメリカを戦争に引きずり込む3大勢力はイギリス人とユダヤ人とルーズベルト政権だと発言したことで、ユダヤ系アメリカ人が反発して親ナチスとしてバッシングを受け、ルーズベルト大統領はリンドバーグのアメリカ陸軍航空隊での委任を解除、また各地にあったリンドバーグの名がつけられたものはすべて改名されちゃったんですね。

しかし1941年、日本が真珠湾を攻撃後、リンドバーグもアメリカの参戦に同意。

3-3、太平洋戦争でのリンドバーグ

1941年12月7日、アメリカは対日本との戦争を開始しましたが、リンドバーグは「参戦には反対だったが、開戦した以上は祖国への義務を果たしたい」として陸軍航空隊へ復帰したいと申し出ました。しかしそれまでの主張が主張だったため、真意を疑われてしまい、ルーズベルト大統領や、当時の陸軍長官らに拒否されて復帰できず。

そういうことで軍に入る代わりに、戦闘機を製造する民間航空会社の顧問として太平洋ニューギニアに向かい、軍法違反をしてまで爆撃機に乗り込みました。リンドバーグは40歳になっていましたが、長距離飛行に関してはトップクラスの腕だったので、最高司令官のダグラス・マッカーサーはリンドバーグの軍法違反を黙認し、若いパイロットに燃料を節約する飛行技術を指導させたのでした。

しかしリンドバーグは地上に降り立ったときに、自分の落とした爆弾で亡くなった日本兵の死体をみてショックを受けたなど、強烈な戦争体験を日記に書いているということです。

3-4、第二次世界大戦後のリンドバーグ

1945年5月、ドイツの降伏後、リンドバーグはアメリカ政府の依頼で、ドイツ空軍の技術調査のためにドイツへ派遣。そして調査の一環として、ナチスのユダヤ人強制収容所を訪問。多くのユダヤ人が虐殺された現場をみたため、開戦前はあれほどドイツ支持者だったリンドバーグは、日記にこのような施設を正当化することは絶対に不可能と、強い嫌悪と怒りを著し、また1948年には占領中の日本へ行き、原爆での被害を被った広島を空から視察し目の当たりに。

リンドバーグは1953年、大西洋単独無着陸飛行について書いた 「The Spirit of St. Louis」(邦題は「翼よ、あれがパリの灯だ」)を出版、1954年のピュリッツァー賞を受賞、著書のなかで25年前と今とでは全く違う気持ちだと語り、飛行機に命をささげてきたが、それを作り出した文明を私たちは破壊していると考えたということです。

3-5、リンドバーグ、自然保護に尽力

image by PIXTA / 41440236

リンドバーグは、60歳以降になると、妻のアンや子供たちと共にハワイ州のマウイ島に移住して、文明から遠ざかり、電気やガスもひかずにランプと薪の生活を送るようになりました。

そして世界自然保護基金などの団体と連携し、絶滅を危惧される動物の保護や自然環境の保全に力を注ぐために世界各地を回り、環境保護活動に参加、多額の資金を寄付するようになったということ。フィリピンの野生の水牛タマラオも知名度を生かして当時マルコス大統領に直談判し、自然保護区を作り絶滅から救ったりハクトウワシ、ホッキョクグマ、シロナガスクジラにマウンテンゴリラなどを救うことに命をささげたということで、今の自分は飛行機よりも鳥を選ぶと言ったそう。

1973年、リンドバーグは、ニューヨークの病院で悪性のリンパ腫の診断を受けたが、医師の反対を押し切ってハワイに帰って、葬儀の準備を確認し、葬儀で歌う讃美歌も指定、お墓の建て方も自分で決めたのちに、8月26日朝にマウイ島ハナのキパフルにある別荘にて72歳で死去。

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4-1、リンドバーグの逸話

いろいろな逸話があります。

4-2、リンドバーグ・ジュニア誘拐事件の謎

この事件は、当時から犯人のハウプトマンは冤罪ではないかと言われていて、事件についてはリンドバーグが長男のちょっとした障害を気にしていたこと、リンドバーグがかなり悪ふざけをする癖があったこと、事件当初からリンドバーグが警察やFBIの捜査に非協力的で、長男の遺体も少し見ただけですぐに火葬してしまったなどもあり、犯人とされたハウプトマンには状況証拠ばかりで最初から犯人と決めつけられていた様子もあったということで、じつは誘拐事件はなかった、リンドバーグが誤って長男を殺してしまったために誘拐事件をでっち上げたのではと言う説もあるということです。

また、後に死体で見つかったはずの長男を名乗る男性も現れたが、リンドバーグ家はDNA鑑定を拒否しているという後日談も存在。

4-3、リンドバーグの隠し子

リンドバーグは、ミュンヘンの帽子屋だったブリギッテ・ヘスハイマーと不倫関係があり、1957年からリンドバーグの死まで継続。ヘスハイマーの1958年、1960年、1967年にドイツで誕生した3人の子供たちはリンドバーグの非嫡出子だということが、2003年11月、DNA鑑定で証明されました。尚、ヘスハイマーは2001年に74歳で死去しています。

4-4、人工心臓の開発に協力

リンドバーグには心臓弁膜症を患っていた異母姉がいたので、心臓病の治療法を開発したいという思いがあって、生理学者アレクシス・カレルの研究室を訪問し、2人の生理学と工学知識を生かして共同研究を行った成果として、1935年に「カレル・リンドバーグポンプ」が開発されたということです。これは今日の人工心臓に影響を与えているもので、リンドバーグの大きな業績の一つとされています。

4-5、孫も大西洋無着陸飛行を成功

2002年5月2日に、大西洋単独無着陸飛行75周年記念として、リンドバーグの孫のエリックが「ニュー・スピリット・オブ・セントルイス号」で大西洋単独無着陸飛行を行って成功したということです。

初の大西洋単独飛行を成し遂げたアメリカン・ドリームの体現者

チャールズ・リンドバーグは、まだ発展途上の分野だった飛行機パイロットのパイオニア的存在で、25歳の時に初の大西洋単独飛行という大冒険を成し遂げて、一躍アメリカン・ヒーローとなった人。

若くして成功し富と名声を手に入れ、美しい妻もゲットしたが、謎めいた長男の誘拐事件というスキャンダル、そして戦争前夜のナチス支持などでバッシングを受けて名声を失いましたが、晩年は知名度を生かして自然保護に尽力しました。

リンドバーグの人生は、大西洋単独飛行横断の冒険が大成功したアメリカン・ドリームの体現者であることといい、謎に包まれた長男誘拐事件といい、ナチス支持でのバッシングでの人気凋落といい、ハリウッドや大衆が大好きな要素がたくさんあるため、今後も忘れられることがないでしょう。

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アメリカの歴史世界史歴史独立後

初の大西洋無着陸単独飛行の英雄「リンドバーグ」をわかりやすく歴女が解説

今回はチャールズ・リンドバーグを取り上げるぞ。大西洋単独飛行が成功して英雄となったパイロットですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところをアメリカの歴史にも興味を持っているあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、アメリカの歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、チャールズ・リンドバーグについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、リンドバーグはミシガン州デトロイト生まれ

チャールズ・オーガスタス・リンドバーグは、1902年2月4日にアメリカ合衆国の中部ミシガン州デトロイトで誕生しました。父チャールズは弁護士でしたが、その後共和党から出馬して下院議員となり、母エヴァンジェリンは化学教師。リンドバーグの父は母とは再婚で前の結婚で2人の子供がいて、リンドバーグは父にとっては3番目の子でした。

1-2、リンドバーグの子供時代

リンドバーグは両親が5歳で別居、7歳で離婚した後、ミネソタ州リトルフォールズで成長しました。リンドバーグは母が仕事でいない間、家の中でひとり遊びする子供だったそう。そして近所に住む歯科医で発明家だった祖父の実験室で、化学や機械に夢中になったということで、10歳の時に試験飛行する飛行機を見に行き、空を飛びたいと思ったそう。

そしてリンドバーグは地元で母の務めるリトルフォールズの高校、父のいるワシントンDC、カリフォルニアの高校などを転々とした後、ウィスコンシン大学マディソン校に入学し機械工学を専攻したが2年で中退しています。

1-3、リンドバーグ、飛行学校へ入学

1922年、20歳の時リンドバーグは飛行学校に入学してパイロットを目指しました。在学中にアルバイトで稼いだお金で中古の飛行機を手に入れ、曲芸飛行で「命知らずの空中軽業師」として全米をまわった後、1924年にはアメリカ陸軍飛行学校に入学し、航空隊飛行士としての訓練を受けて翌年には首席で卒業したということです。

1-4、リンドバーグ、セントルイスに移住

リンドバーグは卒業後、当時航空産業の中心だった中西部のミズーリ州セントルイスへ移住し、発足したばかりの民間航空郵便会社のチーフパイロットに就任しました。この民間航空郵便会社のパイロットは最も危険な職業とされていて、夜間飛行は当たり前、天候の悪いときでも飛ぶために墜落死亡事故が後を絶たず、リンドバーグも2度墜落し、かろうじてパラシュートで脱出したことがあるそう。

2-1、リンドバーグ、大西洋横断レースに挑戦することに

LindberghStLouis.jpg
不明 – This image is available from the United States Library of Congress‘s Prints and Photographs division under the digital ID cph.3a23920. This tag does not indicate the copyright status of the attached work. A normal copyright tag is still required. See Commons:Licensing for more information., パブリック・ドメイン, リンクによる

この頃はまだ飛行機の創世記だったので、ニューヨークとパリ間は前人未到の距離でした。そこで命知らずの飛行機野郎が腕を競う大西洋横断のレースが開催されていたのですが、リンドバーグは賞金よりもそのコースを飛んでみたいと挑戦。このレースは遠距離のために、30時間以上未着陸で飛ばなければならず、通常は2人乗りで交代で操縦することになっていましたが、リンドバーグは飛行機の軽量化と安く製造するために飛行機の設計段階から無茶ぶりを注文、1人乗り機で、しかも無線やパラシュートなどもなし、なんと操縦席の前にガソリンタンクを置き、前は見えないが燃料が多く詰めるような飛行機を作ったのでした。

リンドバーグは航空郵便でよく闇夜を飛んだ経験から、メーターを見れば高度などがわかるし高度な操縦技術とともに自身の感覚にも自信があったため、前面の視界がなくても飛行状態が把握できる自信があったから出来たことなのですが、それにしても大胆で自信過剰とすら思えるほどですよね。

尚、このリンドバーグの飛行機はセントルイスの投資家たちの寄付で作られたため、「スピリット・オブ・セントルイス」号と名づけられました。

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