第二次世界大戦期のドイツで独裁政治を展開したナチスの指導者「ヒトラー」。アーリア民族至上主義者であり、ユダヤ人の虐殺を行ったことでも知られている。暴君のイメージも強いヒトラーですが、大衆心理を巧みに操る魅力的な芸術作品のプロデュースにもたけていた。女性写真家に製作させたオリンピックのドキュメンタリー映画は歴史的にも価値が高い。

それじゃ、「ヒトラー」に関連する歴史的出来事や彼の功罪について、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。世界史を語るときヒトラーを避けて通ることはできない。ヒトラーは、今日でも残忍な政策をしたことで有名な人物だが、彼が生きた時代は世界史的にも重要な出来事が多発している。そこでヒトラーが関係した政策とその後の評価を、筆者の視点をまじえてまとめてみた。

アドルフ・ヒトラーとは?

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不明 - Published in Hitler, Ian Kershaw, Penguin Books / Flammarion 2008., パブリック・ドメイン, リンクによる

アドルフ・ヒトラーは、ドイツの政治家であり、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の指導者。また、世界を第二次世界大戦に向かわせたこと、ユダヤ人を虐殺するホロコーストで世界を震撼させたことでも知られています。民主主義を危機にさらす独裁者としてのイメージも強いでしょう。

ルーツがよく分からないヒトラー

ヒトラーは自分の生い立ちを語るとき、しばしばよく分からないと言っていました。なぜならヒトラーの父親は私生児として生まれ、誰が父親なのかはっきりしないからです。ヒトラーの父親は、生活が安定している母親の親戚の養子となり、ここからヒトラーという苗字が使われるように。そのためヒトラーは一族意識がまったくなく、あるのは民族意識のみだったと言われています。

オーストラリアでヒトラーは誕生

アドルフ・ヒトラーが誕生したのはオーストリア。ヒトラーが3歳のときに家族はドイツに引っ越しました。ヒトラー家は家業が上手くいかず、ドイツ国内を転々とします。ヒトラーは母親とは仲が良かったのですが父親とは不仲。父親はオーストリアのハプスブルク家の熱狂的な支持者であり、それと対立する大ドイツ主義を嫌っていました。それがヒトラーの政治思想の形成に関わったとも考えられます。

芸術に興味を深める青年ヒトラー

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By Peter Haas, CC BY-SA 3.0, Link

若いころのヒトラーは政治家ではなく芸術家になりたいという夢を持っていました。ヒトラーは小学校の勉強について行けず、教師と対立するたびに暴れるなど、かなりの問題児。なんとか小学校は卒業するものの実技学校は退学。画家になることを志します。

芸術への興味からウィーンに渡る

ヒトラーが画家になるために渡ったのがオーストリアの芸術の都であるウィーンです。ウィーン美術アカデミーを受験しますが不合格。成績が十分でなく、さらに課題提出にも不備があったようです。人物デッサンが嫌いなことから建築家を目指した方がいいと言われますが、実技学校を卒業していないと、目指すこと自体が無理でした。ヒトラーは建築家にも興味がありましたが、あきらめざるを得ませんでした。

画家としての才能は乏しかったヒトラー

実際、ヒトラーの画家としての才能はどうだったのでしょうか。緻密な再現は得意なものの、作品は模写にとどまり、個性がなかったようです。そのため個性的な芸術表現を追求するダダイズムやキュビズムをひどく嫌悪。独裁者となってからは、それらの芸術運動を弾圧します。ヒトラーは画家の道を模索し続けますがアカデミーに合格することはなく、その道は絶たれました。

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政治の道に足を踏み入れていくヒトラー

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Bundesarchiv, Bild 102-00344A / Heinrich Hoffmann / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

画家としての才能を発揮してきなかったヒトラーは徐々に政治の領域に足を踏み入れます。まずはバイエルン陸軍に志願、その後、ミュンヘンがドイツに占領されると、ヒトラーは革命調査委員会の委員に転身。そこで高い評価を得たヒトラーはドイツの諜報機関お情報員となりました。

国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の結成を発表

軍隊時代に上司だったのがカール・マイヤー大尉。マイヤーは、自分が所属していた鉄拳団の代表であるエルンスト・レームをヒトラーに紹介します。それをきっかけにヒトラー派が形成されて鉄拳団はナチ党として生まれ変わりました。いわば党内のクーデターです。反ヒトラー派は追放されてヒトラーは第一議長に就任。正式な党の指導者となりました。

ミュンヘン一揆を画策

ナチ党など右派政党から構成されるドイツ闘争連盟は、イタリアのファシスト党によるローマ進軍に感化され、ベルリン進軍を計画します。1923年の11月、ヒトラーたちはドイツ闘争連盟の雄姿を引き連れてミュンヘン中心部に向かって行進しました。バイエルン州の警察が発砲したことから行進はとん挫。ヒトラーは逃亡をはかりますが、あえなく逮捕されます。

世界恐慌をきっかけにナチ党が躍進

image by PIXTA / 12774947

ナチ党の勢力を一気に拡大させたのが1929年の世界恐慌です。ドイツは景気が悪くなったことで失業者が増加。人々の間には不穏な空気が漂いはじめました。そこで与党であるドイツ社会民主党に対する反感が強まり、それと対立する政党の支持率が伸びていきます。

1933年にヒトラー内閣は発足

1930年に行われた国会選挙でナチ党は第二党に躍進。その後も与党の政策は上手くいかず、さまざまな交渉を経て、1933年にヒトラー内閣が発足します。このときのナチ党の公約は3つ。国際社会と共存する、ワイマール憲法を順守する、共産党を弾圧しないことでした。しかし、これらはすべて破られます。とくにナチ党に続いて力をつけていた共産党に対する弾圧は2日後に開始。国会議事堂が炎上させたとして逮捕しました。

全権委任法の可決により独裁支配体制を確立

国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の特徴は国家=政党と捉えたこと。こん体制がひかれたのは1934年のことでした。「ドイツ国および国民の国家元首に関する法律」を発効させ、すべての権限を指導者であるヒトラーに集約。それにより、指導者すなわちヒトラーは国家や法律の上に立つ存在となりました。ヒトラーは神格化され、人々は右手を挙げて「ハイル・ヒトラー」と挨拶する形式が生まれた。

第二次世界大戦を勃発させたヒトラー政権

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Bundesarchiv, Bild 146-1972-028-14 / CC-BY-SA, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

ヒトラーはポーランド侵攻を指示、第二次世界大戦の引き金となります。イギリスとフランスによりドイツへの宣戦布告が行われ、戦争がはじまりました。さらにドイツ軍はデンマークとノルウェーに向かい占領に成功。ヒトラーは自ら指揮所に駐在して指示を出していました。作戦についてもかなり細かく指示を出していたそうです。

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演説では自分の男性性をアピールするパフォーマンス

独裁者としてのヒトラーは、演説等をする際、自分自身の演出にもこだわります。ヒトラーは軍服に身を包み、手足を力強く動かしました。また、力強い表情によりカリスマ性を演出。とくに男性性をアピールしました。なぜなら男性性は国の力そのもの。ドイツ国以上の存在であるヒトラーは、自分の身体を軍事力のシンボルとしたのです。

ドイツ、イタリア、日本の協力関係を強化

ヒトラーの功罪は日本人にとっても無関係ではありません。日本はドイツとイタリアと協力関係を強化するために「日独伊三国条約」を締結します。このときの日本の役割はアジア圏における侵攻を進めること。このような関係から、日本はアジア圏における軍事侵攻を拡大し、太平洋戦争を開始させます。ドイツとの密な関係は終戦の間際まで続きました。

反ユダヤ主義を貫いたヒトラー

image by PIXTA / 41169086

ヒトラーの生涯を語るうえで避けて通れないのが反ユダヤ主義です。反ユダヤ主義が形成される過程には諸説ありますが、はっきりとは分かりません。

ユダヤ人に対する憎しみの感情を形成

ヒトラー自身は、ウィーンで生活をしている時期に反ユダヤ主義的な考えを持つようになったと言っています。ウィーンで出会った友だちのユダヤ人が、金銭トラブルで警察沙汰になるような人間。それにより不信感を深めたと言われています。ただ、ウィーンに来た時にすでに反ユダヤ主義的な思想があったという証言も。その他にもヒトラーは多くのユダヤ人と交流を持っており、そこで何かがあったと思われます。

ホロコーストの方針を決定

ヒトラー率いるナチ党が、ユダヤ人などに対して組織的に行った大量虐殺のことをホロコーストと言います。ヒトラーにとってユダヤ人は「反ドイツ的なもの」のシンボル。ホロコーストは、ヒトラーにとっての反ドイツ的な要素を抹消するために行われました。このとき女性や子供の容赦なく隔離・虐殺。とくに有名なユダヤ人の被害者が、アンネ・フランクです。彼女の日記は、当時のユダヤ人の様子を詳細に記していました。

ヒトラーはメディアの政治利用のセンスを発揮

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Von Bundesarchiv, Bild 183-1982-1130-502 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, Link

私たちの多くはヒトラーの姿を鮮明に記憶しています。それはヒトラーがメディア利用に長けていたことの証。また、画家としての才能はありませんでしたが、芸術をプロデュースする才能はありました。そのため政策とは切り離して、彼を再評価する流れもあります。

記録映画『オリンピア』は身体美を表現

『オリンピア』とは1938年にドイツで製作されたベルリンオリンピックの記録映画。二部作となっています。監督を務めたのがレニ・リーフェンシュタールという女性写真家。ナチスの党大会の記録映画である『意志の勝利』の出来の良さからアドルフ・ヒトラーに指名されました。『オリンピア』は単なるニュース映画ではなく、アスリートの身体の美しさをとらえたもの。身体美はヒトラーが唱えたアーリア民族至上主義とつながるものでした。

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デザイン性の高いプロパガンダのポスター

ヒトラーの時代のドイツは民衆の気持ちをひとつにするためのプロパガンダのポスターを積極的に制作します。そのポスターは、幾何学的な斬新なデザインが特徴。革命後のロシア芸術の影響を強く受けています。ヒトラーを評価することの難しさから、長いあいだ日の目を見ることはありませんでした。しかし今では美術館などで企画展もよく行われています。

芸術愛好に楽しみを見出すヒトラー

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By Bundesarchiv, B 145 Bild-F051673-0059 / CC-BY-SA, CC BY-SA 3.0 de, Link

またヒトラーは、自分の本質は政治家ではなく芸術家であると言っていました。それを裏づけるように、彼には芸術愛好家としての一面があります。

ワーグナーの音楽をこよなく愛する

ヒトラーが熱狂的に愛していたのがワーグナーです。19世紀に活躍したドイツの作曲家。歌劇王という別名も持っています。代表作は『ニーベルングの指環』です。ワーグナーの感情をゆさぶる壮大な音楽と舞台は、ヒトラーのアーリア人至上主義をあらわすと考えられました。そのためワーグナーとナチスは無関係。しかし、ナチ的な音楽と位置づけられた時期もありました。

ディズニー映画の大ファンでもあった

さらに以外にもヒトラーはディズニー映画の大ファンでした。敵国であるアメリカのディズニー映画をヒトラーはこっそりと楽しんでいました。ヒトラーの自己プロデュース力の高さはハリウッド映画にあったと推測することもできそうです。

ヒトラーが芸術家になれていたら戦争はなかった

ヒトラーは、画家になる道は非常に険しかったものの、政治家としてはとんとん拍子。しかしながらヒトラーは最後まで芸術を愛し、意欲的な作品を世に送り出すことに貢献しました。ヒトラーが行ったユダヤ人の虐殺や戦争の拡大は批判されるべきもの。ただ、彼自身が本当に望んでいたことは別にあったのかもしれません。画家になる才能をヒトラーが持っていたら世界はどのように変わっていたのでしょうか。そんなことを考えて歴史を学ぶのも有意義ですね。

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ドイツナチスドイツヨーロッパの歴史世界史歴史

ドイツの独裁者「ヒトラー」の功罪とは?知られざる才能などを元大学教員がわかりやすく解説

第二次世界大戦期のドイツで独裁政治を展開したナチスの指導者「ヒトラー」。アーリア民族至上主義者であり、ユダヤ人の虐殺を行ったことでも知られている。暴君のイメージも強いヒトラーですが、大衆心理を巧みに操る魅力的な芸術作品のプロデュースにもたけていた。女性写真家に製作させたオリンピックのドキュメンタリー映画は歴史的にも価値が高い。

それじゃ、「ヒトラー」に関連する歴史的出来事や彼の功罪について、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。世界史を語るときヒトラーを避けて通ることはできない。ヒトラーは、今日でも残忍な政策をしたことで有名な人物だが、彼が生きた時代は世界史的にも重要な出来事が多発している。そこでヒトラーが関係した政策とその後の評価を、筆者の視点をまじえてまとめてみた。

アドルフ・ヒトラーとは?

Hitler at school 1899.jpg
不明 – Published in Hitler, Ian Kershaw, Penguin Books / Flammarion 2008., パブリック・ドメイン, リンクによる

アドルフ・ヒトラーは、ドイツの政治家であり、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の指導者。また、世界を第二次世界大戦に向かわせたこと、ユダヤ人を虐殺するホロコーストで世界を震撼させたことでも知られています。民主主義を危機にさらす独裁者としてのイメージも強いでしょう。

ルーツがよく分からないヒトラー

ヒトラーは自分の生い立ちを語るとき、しばしばよく分からないと言っていました。なぜならヒトラーの父親は私生児として生まれ、誰が父親なのかはっきりしないからです。ヒトラーの父親は、生活が安定している母親の親戚の養子となり、ここからヒトラーという苗字が使われるように。そのためヒトラーは一族意識がまったくなく、あるのは民族意識のみだったと言われています。

オーストラリアでヒトラーは誕生

アドルフ・ヒトラーが誕生したのはオーストリア。ヒトラーが3歳のときに家族はドイツに引っ越しました。ヒトラー家は家業が上手くいかず、ドイツ国内を転々とします。ヒトラーは母親とは仲が良かったのですが父親とは不仲。父親はオーストリアのハプスブルク家の熱狂的な支持者であり、それと対立する大ドイツ主義を嫌っていました。それがヒトラーの政治思想の形成に関わったとも考えられます。

芸術に興味を深める青年ヒトラー

Akademie der bildenden Kuenste DSC 2400w.jpg
By Peter Haas, CC BY-SA 3.0, Link

若いころのヒトラーは政治家ではなく芸術家になりたいという夢を持っていました。ヒトラーは小学校の勉強について行けず、教師と対立するたびに暴れるなど、かなりの問題児。なんとか小学校は卒業するものの実技学校は退学。画家になることを志します。

芸術への興味からウィーンに渡る

ヒトラーが画家になるために渡ったのがオーストリアの芸術の都であるウィーンです。ウィーン美術アカデミーを受験しますが不合格。成績が十分でなく、さらに課題提出にも不備があったようです。人物デッサンが嫌いなことから建築家を目指した方がいいと言われますが、実技学校を卒業していないと、目指すこと自体が無理でした。ヒトラーは建築家にも興味がありましたが、あきらめざるを得ませんでした。

画家としての才能は乏しかったヒトラー

実際、ヒトラーの画家としての才能はどうだったのでしょうか。緻密な再現は得意なものの、作品は模写にとどまり、個性がなかったようです。そのため個性的な芸術表現を追求するダダイズムやキュビズムをひどく嫌悪。独裁者となってからは、それらの芸術運動を弾圧します。ヒトラーは画家の道を模索し続けますがアカデミーに合格することはなく、その道は絶たれました。

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