
それじゃ、「ヒトラー」に関連する歴史的出来事や彼の功罪について、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。
- アドルフ・ヒトラーとは?
- ルーツがよく分からないヒトラー
- オーストラリアでヒトラーは誕生
- 芸術に興味を深める青年ヒトラー
- 芸術への興味からウィーンに渡る
- 画家としての才能は乏しかったヒトラー
- 政治の道に足を踏み入れていくヒトラー
- 国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の結成を発表
- ミュンヘン一揆を画策
- 世界恐慌をきっかけにナチ党が躍進
- 1933年にヒトラー内閣は発足
- 全権委任法の可決により独裁支配体制を確立
- 第二次世界大戦を勃発させたヒトラー政権
- 演説では自分の男性性をアピールするパフォーマンス
- ドイツ、イタリア、日本の協力関係を強化
- 反ユダヤ主義を貫いたヒトラー
- ユダヤ人に対する憎しみの感情を形成
- ホロコーストの方針を決定
- ヒトラーはメディアの政治利用のセンスを発揮
- 記録映画『オリンピア』は身体美を表現
- デザイン性の高いプロパガンダのポスター
- 芸術愛好に楽しみを見出すヒトラー
- ワーグナーの音楽をこよなく愛する
- ディズニー映画の大ファンでもあった
- ヒトラーが芸術家になれていたら戦争はなかった
この記事の目次

ライター/ひこすけ
文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。世界史を語るときヒトラーを避けて通ることはできない。ヒトラーは、今日でも残忍な政策をしたことで有名な人物だが、彼が生きた時代は世界史的にも重要な出来事が多発している。そこでヒトラーが関係した政策とその後の評価を、筆者の視点をまじえてまとめてみた。
アドルフ・ヒトラーとは?
不明 – Published in Hitler, Ian Kershaw, Penguin Books / Flammarion 2008., パブリック・ドメイン, リンクによる
アドルフ・ヒトラーは、ドイツの政治家であり、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の指導者。また、世界を第二次世界大戦に向かわせたこと、ユダヤ人を虐殺するホロコーストで世界を震撼させたことでも知られています。民主主義を危機にさらす独裁者としてのイメージも強いでしょう。
ルーツがよく分からないヒトラー
ヒトラーは自分の生い立ちを語るとき、しばしばよく分からないと言っていました。なぜならヒトラーの父親は私生児として生まれ、誰が父親なのかはっきりしないからです。ヒトラーの父親は、生活が安定している母親の親戚の養子となり、ここからヒトラーという苗字が使われるように。そのためヒトラーは一族意識がまったくなく、あるのは民族意識のみだったと言われています。
オーストラリアでヒトラーは誕生
アドルフ・ヒトラーが誕生したのはオーストリア。ヒトラーが3歳のときに家族はドイツに引っ越しました。ヒトラー家は家業が上手くいかず、ドイツ国内を転々とします。ヒトラーは母親とは仲が良かったのですが父親とは不仲。父親はオーストリアのハプスブルク家の熱狂的な支持者であり、それと対立する大ドイツ主義を嫌っていました。それがヒトラーの政治思想の形成に関わったとも考えられます。
こちらの記事もおすすめ

ヨーロッパを席巻した随一の名門王家「ハプスブルク家」を歴女がわかりやすく解説
芸術に興味を深める青年ヒトラー
By Peter Haas, CC BY-SA 3.0, Link
若いころのヒトラーは政治家ではなく芸術家になりたいという夢を持っていました。ヒトラーは小学校の勉強について行けず、教師と対立するたびに暴れるなど、かなりの問題児。なんとか小学校は卒業するものの実技学校は退学。画家になることを志します。
芸術への興味からウィーンに渡る
ヒトラーが画家になるために渡ったのがオーストリアの芸術の都であるウィーンです。ウィーン美術アカデミーを受験しますが不合格。成績が十分でなく、さらに課題提出にも不備があったようです。人物デッサンが嫌いなことから建築家を目指した方がいいと言われますが、実技学校を卒業していないと、目指すこと自体が無理でした。ヒトラーは建築家にも興味がありましたが、あきらめざるを得ませんでした。
画家としての才能は乏しかったヒトラー
実際、ヒトラーの画家としての才能はどうだったのでしょうか。緻密な再現は得意なものの、作品は模写にとどまり、個性がなかったようです。そのため個性的な芸術表現を追求するダダイズムやキュビズムをひどく嫌悪。独裁者となってからは、それらの芸術運動を弾圧します。ヒトラーは画家の道を模索し続けますがアカデミーに合格することはなく、その道は絶たれました。
\次のページで「政治の道に足を踏み入れていくヒトラー」を解説!/