1-4 レパントの海戦
当時のスペインは大航海時代の技術によって、強力な海軍を持っていました。そんな中、オスマン帝国はフランスと結んで、バルセロナとイタリア間のスペイン船を襲っていました。これに対して危機感を募らせたフェリペとヴェネツィア共和国がローマ教皇に働きかけたことで、この3者(スペインとヴェネツィア、ローマ教皇)の連合艦隊を結成することに。ちなみにこの連合艦隊の総指揮を執ったのは、フェリペの異母弟のドン・ファン。こうして連合艦隊とオスマン帝国はレパント湾で戦い、連合艦隊側が勝利を収めることに。その後もスペインは艦隊を強化していくことに。
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2 イングランドの事情
さて、これまでの章では大国スペインについて見ていきました。次にスペインと海上で対決することになったイングランド側を見ていきます。イングランドではヘンリー8世以降、エドワード6世、わずか数日間の女王だったジェーン・グレイ、メアリ1世と続くことに。このメアリ1世がイギリスを再カトリック化するため、カトリック教徒らに激しい弾圧を加えたことで、国内は荒廃。その後女王となったのがエリザベス1世でした。それでは詳しく見ていきましょう。
2-1 母を父に殺されたエリザベス
Henry VIII is by Hans Holbein the Younger; Anne Boleyn by unknown artist. Uploaded by qp10qp. – The Yorck Project (2002年) 10.000 Meisterwerke der Malerei (DVD-ROM), distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH. ISBN: 3936122202. And [1]. The image was made by joining together Image:Hans Holbein d. J. 049.jpg and Image:Anne boleyn.jpg., パブリック・ドメイン, リンクによる
エリザベス1世は1度父から王女から庶子へと降格させられたことがある人物。しかしなぜ庶子に格下げされることになったのでしょうか。
これは父ヘンリー8世が後継者となる男児誕生を熱望したため。ヘンリーは兄の妃で寡婦だったスペイン王女キャサリンと結婚していました。ところが2人の間に男児は生まれなかったため、ヘンリーは離婚することに。次に妃となったのがエリザベスの母である、アン・ブーリン。しかしアンは男児ではなく女児(エリザベス)を産むことに。これに対して怒ったヘンリーはアンを処刑。こうしてヘンリーは最終的に6人の妃を迎えることに。
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2-2 王冠の行方
6人の妃を迎えて、念願だった男児が生まれたヘンリー8世。彼の亡き後は、ジェーン・シーモアとの間に生まれたエドワード6世が王となることに。ところが彼はもともと病弱だったため、夭逝することに。その後王位に就いたのがジェーン・グレイ。ところが次の王位継承順はエドワードの子ども、次にメアリ、エリザベス、最後にジェーン・グレイでした。このジェーンに目をつけたノーサンバラ公が自身の息子とジェーンを結婚させた後に、死の床についていたエドワードに次の王をジェーンとするように促すことに。こうしてエドワードは次期王にジェーンを指名し、死去。ところがメアリが逃亡しその後女王宣言し、ジェーンらを逮捕します。こうしてわずか9日間だけ君臨したイギリス初の女王、ジェーン・グレイは処刑されることに。
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2-3 ブラッディ・メアリの時代
メアリが王冠を被ったのは、37歳の時。それまでは庶子に落とされ、父の6番目の妃キャサリン・パーの進言によって王位を回復したのが30歳の時だったそう。エリザベスも同様ですが、王女への身分の回復がとても遅かったことが分かりますね。
メアリは母の影響からカトリックを信仰していました。そんな中、スペインのフェリペとの結婚が決まることに。この結婚の条件で、カール5世は息子フェリペの身の安全のために宗教的安定を要求することに。要するにプロテスタント勢力の一掃を求めました。このためメアリは国教会の解散だけではなく、多くのプロテスタントを弾圧。短い期間の間に300人もの人々を火あぶりに。こうして彼女は「ブラッディ・メアリ(血まみれメアリ)」というあだ名がつくことに。
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