今回はウォリス・シンプソンを取り上げるぞ。シンプソン夫人で有名ですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパの王室の歴史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパの歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ウォリス・シンプソンについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、ウォリス・シンプソンはボルチモアの生まれ

ウォリス・シンプソンは、1896年6月、アメリカのメリーランド州ボルチモアとペンシルベニア州との州境にある夏のリゾート地で誕生しました。

父は市長に立候補したこともある裕福な小麦商人の末子で、ティークル・ウォリス・ウォーフィールド、母は株式仲買人の娘のアリス・モンタギュー。ウォリスは、母の姉の名と父の名をとってベッシー・ウォリス・ウォーフィールドと命名されましたが、生後5ヶ月で父は結核で死亡

1-2、ウォリスの子供時代

父が亡くなった後、ウォリスと母は、裕福な銀行家で鉄道会社の社長となった父の兄である伯父の屋敷で独身の伯父と祖母と暮らし、後に母の姉が未亡人となったので、母が再婚するまで一緒にその屋敷に住み、富豪の親戚の援助のもとで良家の友人たちに囲まれて成長

ウォリスが12歳の時、母は民主党の大物の息子と再婚、14歳から2年間、伯父の援助でメリーランド州の裕福な子女の通う学校に通って、上院議員の娘やセレブと知り合いました。そういうわけで、ウォリスは子供の頃から自分はお金持でなくても周囲はお金持ちやセレブばかりの生活に慣れていたのかも。後に同級生たちは、ウォリスは自分たちの誰よりも頭が良くて、クラス委員になるリーダーシップもあったと語ったそうです。

そしてウォリスはボルチモアの社交界にデビュー、女性のなかでは目立った美貌ではなかったが、ファッションセンスを磨き、会話術やダンスなどが上手だったりして男性たちを魅了していたということで、「お金持ちの男性を見つけて結婚するのが夢」だと周囲に語ったということ。

1-3、ウォリス、2度の結婚

Wallis Simpson -1936.JPG
English Photographer None of the sources name the photographer, they presumably would if he was known. - http://www.bridgemanartondemand.com/art/167955/Wallis_Simpson_1936 http://www.ilnpictures.co.uk/ProductDetails.asp?ProductDetailID=84068 http://www.gettyimages.com/Search/Search.aspx?contractUrl=1&language=en-US&family=creative&p=3097429&src=quick, パブリック・ドメイン, リンクによる

1916年、ウォリスは、フロリダ州ペンサコーラへ母方の従兄を訪ねたときに出会ったアメリカ海軍の航空士官で中尉のウィンフィールド・スペンサー・ジュニアと20歳で結婚。が、夫のアルコール依存症に起因するDVと女癖の悪さで、1927年の夫の中国への転勤をきっかけにして離婚

そして1928年32歳のウォリスは、ニューヨーク生まれの船舶仲介会社社長のアーネスト・シンプソンと出会って2度目の結婚をしました。アーネストも前夫人と離婚したばかりのバツイチ同士で、シンプソン氏は父の故郷であるイギリスに憧れていて、イギリス国籍を取るためにイギリス軍に入隊して近衛歩兵連隊の少尉になった経歴のある人。

ウォリスは裕福な夫と召使が何人もいるロンドンの豪華なアパートに住み、社交界にも出入りし、すぐに社交界で友人もできてロンドン社交界の花形になったということです。

2-1、エドワード王太子との出会い

シンプソン夫妻を王太子エドワードに紹介したのは、当時の王太子の愛人のファーネス子爵夫人テルマでした。1931年1月に、夫人の別荘で催されたパーティーで出会ったといわれ、35歳のウォリスは36歳の王太子に一目惚れ

そして1933年の冬頃、テルマがエドワード王太子を頼むとウォリスに言い置いてニューヨークに出かけた間に、ウォリスとエドワード王太子との不倫関係が始まったのでした。その後は、シンプソン夫妻はそろってロンドン郊外の王室所有の別荘に招待されるようになり、エドワード王太子はすぐにウォリスだけと親密にするのを隠さないようになったそうです。エドワード王太子はウォリス同伴で外遊し、高価な宝石も好きなだけ買い与えて、王太子の邸宅で同棲するまでになったというのですね。

エドワード王太子は1934年に、バッキンガム宮殿のパーティーでジョージ5世とメアリ王妃にウォリスを紹介したが、離婚経験のあるアメリカ人女性なんてもってのほかと、両親の国王夫妻は激怒したとか。そしてウォリスが公然と王太子の愛人となる一方、夫のシンプソン氏も愛人がいたため、妻と王太子の浮気をほぼ黙認。またウォリスもエドワード王太子だけでなく、イギリス駐在ドイツ大使でその後ドイツ外務大臣となったヨアヒム・フォン・リッベントロップ、他のイギリス人とも性的関係があったという噂でした。 もちろんウォリスとの交際については両親だけでなく、大多数の国民にも反対された模様。

Prince-Edward-Duke-of-Windsor-King-Edward-VIII (retouched).jpg
Lafayette - one or more third parties have made copyright claims against Wikimedia Commons in relation to the work from which this is sourced or a purely mechanical reproduction thereof. This may be due to recognition of the "sweat of the brow" doctrine, allowing works to be eligible for protection through skill and labour, and not purely by originality as is the case in the United States (where this website is hosted). These claims may or may not be valid in all jurisdictions. As such, use of this image in the jurisdiction of the claimant or other countries may be regarded as copyright infringement. Please see Commons:When to use the PD-Art tag for more information., パブリック・ドメイン, リンクによる

エドワード王太子とは
エドワード王太子は1894年生まれで、当時のイギリス国王ジョージ5世とメアリ王妃の長男の次期国王。デイビッドと呼ばれ、性格は気さくでフレンドリーだが問題発言も多く、型にはまらない王族として有名でした。エドワード王太子は、母のメアリ王妃が母性に欠けた人だったために寂しい子供時代を送ったと公言し、王室の跡取りらしくなく、年頃になっても親の進める縁談には見向きもせず、社交界の既婚夫人たちと浮名を流し続ける年上好みのプレイボーイで、スキャンダルになるような事件もたびたび起こしていたような人だったんです。20世紀初めとはいえ、37歳で独身の王太子は普通じゃないでしょう。

エドワード王太子の父ジョージ5世は愛人が多くいた父エドワード7世と違い、メアリ王妃一筋で浮気や愛人の一人もいなかった珍しい国王で、長男の王太子の行状を心配し、「自分が死んだら10日以内に身を滅ぼすだろう」と予言、エドワード王太子には結婚も跡継ぎも望まない、次男ヨーク公アルバート(ジョージ6世)と溺愛する孫娘のエリザベス王女(現エリザベス女王)のと王冠の間に何の邪魔も入らないことを祈ると言い残したということです。

\次のページで「2-2、エドワード王太子、国王に即位」を解説!/

2-2、エドワード王太子、国王に即位

エドワード王太子からみてウォリスは、母性を感じさせる魅力的な存在として結婚を真剣に検討するようになったのですが、結論が出ないうちに1936年1月に父の国王ジョージ5世が死去、エドワード王太子は独身のまま40歳でエドワード8世として王位を継承しました。

そして即位式(戴冠式ではない)に、同棲中のウォリスが立会人として付き添ったが、王室関係者の友人程度の扱いに不満を持ったエドワード8世は、即位後すぐに当時のボールドウィン首相にウォリスと結婚する意志を伝えると、ウォリスに離婚歴があり、まだ結婚している身であること、死別が伴わない離婚はイギリス国教会で認められていないためにイギリス国教会首長である国王の違反は許されないと拒絶されたのですね。

エドワード8世とイギリス議会はこの問題で対立を深め、エドワード8世はウォリスの存在をこれ見よがしにアピールする作戦に出て、王室専用のヨットで海外旅行に出かけたり、ペアルックのセーターで公の場に現れたりしたそう。また、ボールドウィン首相も列席するパーティーの席上でウォリスの夫に対して「さっさと離婚しろ」と恫喝した挙句、暴力行為に訴えるといった騒ぎまで引き起こしたりしました。

しかしウォリスのほうは残された手紙などから、どうしても結婚したいとは思っていなかったようで、別れ話を切り出すとエドワードが自殺をほのめかすなど、ここまで来たら後に引けないという状態だったということです。

2-3、エドワード8世の退位

ウォリスは夫の不貞を理由にして離婚裁判を起こし1936年10月27日に勝訴、晴れて離婚が成立。そしてエドワード8世は、愛する女性と結婚する固い決意でいることを国民に直接訴えるためにラジオ演説をすべく、文書を作成しましたが、ボールドウィン首相は、政府の助言なしでのこのような内容の演説は立憲君主制への重大違反だとして反対、個人的な国王の問題だけでなく、王制そのものに対しての問題に発展する恐れがあるとして、ウォリスと結婚しない、議会に背いて結婚する、または退位したのちに結婚の選択肢を提示され、エドワード8世は退位して結婚の道を選び、12月11日、BBCを通じて退位を表明したのです。

3-1、ウォリス、前国王エドワードと結婚

エドワード8世の退位後は、弟のヨーク公がジョージ6世として即位。エドワードは、マスメディアから逃れるためもあって、祖父の代から親密な関係の大富豪ロスチャイルド家が用意したウィーン郊外のエンツェスフェルト城に隠れたのち、フランスへ渡ったということです。

そして翌年の1937年3月にウィンザー公爵の称号を得ました。イギリス国内のメディアはウォリスバッシングを開始、今も昔もイギリスのタブロイド紙は強烈で、「アメリカの売春婦をやっつけろ」という見出しもあったそう。しかしウォリスの祖国自由の国アメリカはまだ好意的だったが、ウォリスも精神的ダメージを受けてカンヌの別荘に避難したのですね。

そして1937年6月3日、半年ぶりに再会したふたりはフランスのトゥールで挙式。ウォリスがもらった婚約指輪は、かつてムガール帝国皇帝が所有していた世界最大のエメラルドを半分にしたもので、式にはイギリス王室や政府からの出席者はなく親しい16人の友人を招待しただけの簡素なものでした。

3-2、ウォリスへの王室の対応は

image by PIXTA / 33139042

退位したエドワードには新国王の弟ジョージ6世から、新しく作られたウィンザー公爵の称号が授けられたが、このウィンザー公爵位の規定によれば、エドワードの妻や将来できる子供が王族としての称号を名乗ることは許可されていなかったということです。なので、ウォリスは一般的にはウィンザー公爵夫人と呼ばれるようになったが、イギリス王室では殿下の称号が与えられず、よって公式行事などに王族としては参列できないという扱いに。

そして当初、ウィンザー公はフランスで1、2年間を過ごした後、ほとぼりが冷めればイギリスへ帰れると思っていたようですが、弟のジョージ6世が、「許可を得ずにイギリスに帰国すれば、王室からの年金を打ち切る」ときっぱりとした態度をとったため、イギリスでの生活は実現しないことに。しかしウィンザー公は長男として王室伝来のバルモラル場やサンドリンガム宮殿などを私的財産として相続したため、弟のジョージ6世は国王に即位後、莫大な大金を払ってウィンザー公から買い戻す手続きが発生したので、イギリス王室からの年金とともにウィンザー公夫妻にはかなりまとまった不労所得が入ったのですね。

その後のイギリス王室との関係は、後継者として即位した気弱で病弱なジョージ6世は正直言って国王になりたくてなったわけではなく、エリザベス王妃もウィンザー公の身勝手な結婚で重責を担った夫を気遣い、こてこての昔気質の王族の母メアリー王太后は王族として恥となるスキャンダラスな結婚に怒り心頭などで、イギリスの王族たちは長男のウィンザー公とウォリスを激しく憎悪。エリザベス王妃は「あの女」、ジョージ6世も「シンプソン夫人」と呼び、ウィンザー公夫妻は王室行事に招待されることはなく、ほぼ絶縁状態に。

ウォリス、ドイツのスパイ説
ウォリスは、のちにヒトラーの外務大臣となったリッペントロップの愛人だったという噂がありましたが、それ以上にドイツ諜報部の職業的スパイだったというFBIの文書が公開されたそうです。

なのでウォリスが側にいる限り、エドワード8世国王自身からドイツ外務省に情報が筒抜けとなることをイギリスのスパイ摘発機関が指摘し、政府が国王にその事実を突きつけ、それでもエドワード8世がウォリスと別れないために、表面上は王冠をかけた恋として退位させたという、ウォリススパイ説が最近になってクローズアップされています。

3-3、ドイツとの親密な関係

この時代は第二次世界大戦前で、ヨーロッパ大陸ではナチスドイツが台頭してきたころでした。1937年10月、ウィンザー公夫妻はイギリス政府の忠告に反し、アドルフ・ヒトラー総統の招待でドイツを訪問、ヒトラーの山荘に滞在したということです。そしてウィンザー公夫妻の訪独はドイツのメディアで大々的に報道されることに。

ウィンザー公はもともと先祖がドイツ系ではあるが、イギリス王室から放り出された状態で、ドイツで大歓迎され国賓扱いされたことで、夫妻は舞い上がってしまったようでした。その後もドイツによる覇権拡大政策のせいで、ヨーロッパ大陸の情勢が緊迫化し、イギリスとドイツの関係が悪化した後もドイツを訪問し続けたため、イギリスでは、イギリス王室政府、マスコミからも強く反発されました。そして1939年9月、ドイツがポーランドへ侵攻開始した後、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告、ウィンザー公夫妻は滞在先のフランスから海軍駆逐艦「ケリー」でイギリスに帰国させられ、ウィンザー公はフランスのマジノ線で、陸軍の軍事作戦に従軍する少将に任命。

しかしウィンザー公夫妻はイギリスに留まることを拒否してフランスに戻り、1940年5月にはドイツのフランス国内への進軍に伴い、フランスのビアリッツ、スペインに滞在後、7月にはポルトガルのリスボン在住の知り合いの邸宅へ。そしてイギリス政府は8月にはウィンザー公をイギリス植民地のカリブ海のバハマの総督と駐在イギリス軍の総司令官に任命し、バハマへ行くことに

これは対独強硬派のチャーチル首相に対し、ウィンザー公が和平を呼び掛けたためで、戦争時のウィンザー公の影響力をなくす対策だったようです。またヒトラーのドイツ側としては、イギリスを占領して傀儡としてウィンザー公を国王に復帰させる計画もあったといわれているため、イギリス王族VIPとして利用されないようにという配慮だったのでしょう。

3-4、ウォリス、バハマでの生活

image by PIXTA / 53826097

バハマ総督というのは名誉職であり、閑職も同然だったが、ウィンザー公夫妻は第二次世界大戦中の5年間をバハマの首都ナッソーで暮らし、農業生産の拡大、子供を対象とした診療所の開設など、貧困対策に尽力したが、ウィンザー公もウォリスも人種差別的志向があったといわれていて、現地の黒人を差別するような言動も多く、ウォリスは、まるでナポレオンの流刑地のセントヘレナ島だと言ったとか。

またウォリスが飛行機でアメリカへ買い物にいく姿、特注のエルメスのバッグや毛皮や宝石で飾り立てる派手な生活は、戦時下で苦難の生活を強いられる人々の批判の的になったそう。

3-5、第二次世界大戦後のウォリス

image by PIXTA / 46189318

第二次世界大戦後はウィンザー公とウォリスはフランスに戻り、フランス政府から提供されたパリ郊外のブローニュの森のなかにある邸宅に住み、ブランド物や豪華な宝石のアクセサリーで社交界の華となパーティー三昧に。今でいうセレブとして贅沢な生活をし、アメリカなどもVIP待遇で訪問、テレビのインタビューを受けたり、回想録を出版したりという生活に。

しかし戦後となっても、イギリス王室のエリザベス王女の結婚式、弟ジョージ6世の死去による国葬、メアリ王太后の死去での葬儀もウィンザー公だけで、ウォリスは招待されず。1953年6月のエリザベス2世の戴冠式はウィンザー公も出席せず自邸でテレビ中継を見たという話です。

3-6、ウィンザー公没後のウォリス

1972年、ウォリスの夫ウィンザー公が亡くなり、葬儀のためにウォリスはエリザベス女王の計らいで、初めて公爵夫人としてバッキンガム宮殿に滞在。しかしクィーン・マザー、エリザベス王太后は、「どうお呼びすればいいのでしょう?」(ウォリスには王族としての殿下の敬称がないため)という立ち位置だったということですが、ウィンザー公の姉妹たち、エリザベス王太后、グロスター公爵夫人アリスらと並んで列席。

このときすでにウォリスは76歳ですでに老人痴呆状態で、「デイビッド、デイビッドはどこ?」と繰り返すのみだったという話もあり、葬儀を終えたのち、見送りに訪れた人々を一度も振り返らずに去ったそうです。 その後のウォリスは、ブローニュの森の邸宅で余生を過ごし、1986年4月に89歳で死去。葬儀はイギリスで王族として執り行われてウィンザー公と同様にウィンザー城近郊の王立墓地に埋葬されました。

尚、遺言で数々の宝石類などの遺産はオークションにかけられて、収益金はパスツール研究所に寄付され、当時人々を震え上がらせた伝染病のAIDS菌の発見や病気の解明が飛躍的に進歩するのに役立ったということで、夫妻に最後まで仕えた執事が、それがウィンザー公夫妻の最初で最後の功績と皮肉っぽくインタビューで答えていたのが忘れられないです。

\次のページで「イギリス国王退位の大スキャンダルの原因となった元祖ソーシャルクライマー」を解説!/

イギリス国王退位の大スキャンダルの原因となった元祖ソーシャルクライマー

ウォリスはアメリカのボルチモアの上流階級に生まれ、父は早く亡くなり母が再婚しても、係累や知人にお金持ちの援助がある環境で育ちました。最初の結婚が失敗したが、念願のお金持ちと再婚し、イギリス社交界で華やかな生活をするようになって、なんとプレイボーイのエドワード王太子と出会って恋に落ちたのですね。

ロマンチックに王冠をかけた恋と言われますが、この出会いはエドワード王太子は36歳でウォリスは35歳、今と違って分別盛りの年頃です。エドワード王太子は、母性的なウォリスに夢中になったが、当時は離婚経験のある貴族でもない女性はとうてい王族には受け入れられず、国民感情も許さず大スキャンダルに。国王となっても自分の好きな女性との結婚を認められず、結局は退位してウォリスとの結婚を選んだと言われますが、ウォリスドイツのスパイ説、そこまでしてエドワードと結婚したいと思っていなかったが、後に引けなくなった説もあり。

その後、ふたりはウィンザー公夫妻となり、戦後は社交界のセレブとして派手な生活を楽しんだが、仲はすっかり冷え切っていたということで、20世紀最大のロマンチックなお話としてはちょっと寂しい結末かも。

" /> エドワード8世との王冠をかけた恋「ウォリス・シンプソン」をわかりやすく歴女が解説 – Study-Z
イギリスヨーロッパの歴史世界史歴史

エドワード8世との王冠をかけた恋「ウォリス・シンプソン」をわかりやすく歴女が解説

今回はウォリス・シンプソンを取り上げるぞ。シンプソン夫人で有名ですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパの王室の歴史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパの歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ウォリス・シンプソンについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、ウォリス・シンプソンはボルチモアの生まれ

ウォリス・シンプソンは、1896年6月、アメリカのメリーランド州ボルチモアとペンシルベニア州との州境にある夏のリゾート地で誕生しました。

父は市長に立候補したこともある裕福な小麦商人の末子で、ティークル・ウォリス・ウォーフィールド、母は株式仲買人の娘のアリス・モンタギュー。ウォリスは、母の姉の名と父の名をとってベッシー・ウォリス・ウォーフィールドと命名されましたが、生後5ヶ月で父は結核で死亡

1-2、ウォリスの子供時代

父が亡くなった後、ウォリスと母は、裕福な銀行家で鉄道会社の社長となった父の兄である伯父の屋敷で独身の伯父と祖母と暮らし、後に母の姉が未亡人となったので、母が再婚するまで一緒にその屋敷に住み、富豪の親戚の援助のもとで良家の友人たちに囲まれて成長

ウォリスが12歳の時、母は民主党の大物の息子と再婚、14歳から2年間、伯父の援助でメリーランド州の裕福な子女の通う学校に通って、上院議員の娘やセレブと知り合いました。そういうわけで、ウォリスは子供の頃から自分はお金持でなくても周囲はお金持ちやセレブばかりの生活に慣れていたのかも。後に同級生たちは、ウォリスは自分たちの誰よりも頭が良くて、クラス委員になるリーダーシップもあったと語ったそうです。

そしてウォリスはボルチモアの社交界にデビュー、女性のなかでは目立った美貌ではなかったが、ファッションセンスを磨き、会話術やダンスなどが上手だったりして男性たちを魅了していたということで、「お金持ちの男性を見つけて結婚するのが夢」だと周囲に語ったということ。

1-3、ウォリス、2度の結婚

1916年、ウォリスは、フロリダ州ペンサコーラへ母方の従兄を訪ねたときに出会ったアメリカ海軍の航空士官で中尉のウィンフィールド・スペンサー・ジュニアと20歳で結婚。が、夫のアルコール依存症に起因するDVと女癖の悪さで、1927年の夫の中国への転勤をきっかけにして離婚

そして1928年32歳のウォリスは、ニューヨーク生まれの船舶仲介会社社長のアーネスト・シンプソンと出会って2度目の結婚をしました。アーネストも前夫人と離婚したばかりのバツイチ同士で、シンプソン氏は父の故郷であるイギリスに憧れていて、イギリス国籍を取るためにイギリス軍に入隊して近衛歩兵連隊の少尉になった経歴のある人。

ウォリスは裕福な夫と召使が何人もいるロンドンの豪華なアパートに住み、社交界にも出入りし、すぐに社交界で友人もできてロンドン社交界の花形になったということです。

2-1、エドワード王太子との出会い

シンプソン夫妻を王太子エドワードに紹介したのは、当時の王太子の愛人のファーネス子爵夫人テルマでした。1931年1月に、夫人の別荘で催されたパーティーで出会ったといわれ、35歳のウォリスは36歳の王太子に一目惚れ

そして1933年の冬頃、テルマがエドワード王太子を頼むとウォリスに言い置いてニューヨークに出かけた間に、ウォリスとエドワード王太子との不倫関係が始まったのでした。その後は、シンプソン夫妻はそろってロンドン郊外の王室所有の別荘に招待されるようになり、エドワード王太子はすぐにウォリスだけと親密にするのを隠さないようになったそうです。エドワード王太子はウォリス同伴で外遊し、高価な宝石も好きなだけ買い与えて、王太子の邸宅で同棲するまでになったというのですね。

エドワード王太子は1934年に、バッキンガム宮殿のパーティーでジョージ5世とメアリ王妃にウォリスを紹介したが、離婚経験のあるアメリカ人女性なんてもってのほかと、両親の国王夫妻は激怒したとか。そしてウォリスが公然と王太子の愛人となる一方、夫のシンプソン氏も愛人がいたため、妻と王太子の浮気をほぼ黙認。またウォリスもエドワード王太子だけでなく、イギリス駐在ドイツ大使でその後ドイツ外務大臣となったヨアヒム・フォン・リッベントロップ、他のイギリス人とも性的関係があったという噂でした。 もちろんウォリスとの交際については両親だけでなく、大多数の国民にも反対された模様。

Prince-Edward-Duke-of-Windsor-King-Edward-VIII (retouched).jpg
Lafayette – one or more third parties have made copyright claims against Wikimedia Commons in relation to the work from which this is sourced or a purely mechanical reproduction thereof. This may be due to recognition of the “sweat of the brow” doctrine, allowing works to be eligible for protection through skill and labour, and not purely by originality as is the case in the United States (where this website is hosted). These claims may or may not be valid in all jurisdictions. As such, use of this image in the jurisdiction of the claimant or other countries may be regarded as copyright infringement. Please see Commons:When to use the PD-Art tag for more information., パブリック・ドメイン, リンクによる

エドワード王太子とは
エドワード王太子は1894年生まれで、当時のイギリス国王ジョージ5世とメアリ王妃の長男の次期国王。デイビッドと呼ばれ、性格は気さくでフレンドリーだが問題発言も多く、型にはまらない王族として有名でした。エドワード王太子は、母のメアリ王妃が母性に欠けた人だったために寂しい子供時代を送ったと公言し、王室の跡取りらしくなく、年頃になっても親の進める縁談には見向きもせず、社交界の既婚夫人たちと浮名を流し続ける年上好みのプレイボーイで、スキャンダルになるような事件もたびたび起こしていたような人だったんです。20世紀初めとはいえ、37歳で独身の王太子は普通じゃないでしょう。

エドワード王太子の父ジョージ5世は愛人が多くいた父エドワード7世と違い、メアリ王妃一筋で浮気や愛人の一人もいなかった珍しい国王で、長男の王太子の行状を心配し、「自分が死んだら10日以内に身を滅ぼすだろう」と予言、エドワード王太子には結婚も跡継ぎも望まない、次男ヨーク公アルバート(ジョージ6世)と溺愛する孫娘のエリザベス王女(現エリザベス女王)のと王冠の間に何の邪魔も入らないことを祈ると言い残したということです。

\次のページで「2-2、エドワード王太子、国王に即位」を解説!/

次のページを読む
1 2 3
Share: