その辺のところをヨーロッパの王室の歴史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパの歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ウォリス・シンプソンについて5分でわかるようにまとめた。
1-1、ウォリス・シンプソンはボルチモアの生まれ
ウォリス・シンプソンは、1896年6月、アメリカのメリーランド州ボルチモアとペンシルベニア州との州境にある夏のリゾート地で誕生しました。
父は市長に立候補したこともある裕福な小麦商人の末子で、ティークル・ウォリス・ウォーフィールド、母は株式仲買人の娘のアリス・モンタギュー。ウォリスは、母の姉の名と父の名をとってベッシー・ウォリス・ウォーフィールドと命名されましたが、生後5ヶ月で父は結核で死亡。
1-2、ウォリスの子供時代
父が亡くなった後、ウォリスと母は、裕福な銀行家で鉄道会社の社長となった父の兄である伯父の屋敷で独身の伯父と祖母と暮らし、後に母の姉が未亡人となったので、母が再婚するまで一緒にその屋敷に住み、富豪の親戚の援助のもとで良家の友人たちに囲まれて成長。
ウォリスが12歳の時、母は民主党の大物の息子と再婚、14歳から2年間、伯父の援助でメリーランド州の裕福な子女の通う学校に通って、上院議員の娘やセレブと知り合いました。そういうわけで、ウォリスは子供の頃から自分はお金持でなくても周囲はお金持ちやセレブばかりの生活に慣れていたのかも。後に同級生たちは、ウォリスは自分たちの誰よりも頭が良くて、クラス委員になるリーダーシップもあったと語ったそうです。
そしてウォリスはボルチモアの社交界にデビュー、女性のなかでは目立った美貌ではなかったが、ファッションセンスを磨き、会話術やダンスなどが上手だったりして男性たちを魅了していたということで、「お金持ちの男性を見つけて結婚するのが夢」だと周囲に語ったということ。
1-3、ウォリス、2度の結婚
English Photographer None of the sources name the photographer, they presumably would if he was known. – http://www.bridgemanartondemand.com/art/167955/Wallis_Simpson_1936 http://www.ilnpictures.co.uk/ProductDetails.asp?ProductDetailID=84068 http://www.gettyimages.com/Search/Search.aspx?contractUrl=1&language=en-US&family=creative&p=3097429&src=quick, パブリック・ドメイン, リンクによる
1916年、ウォリスは、フロリダ州ペンサコーラへ母方の従兄を訪ねたときに出会ったアメリカ海軍の航空士官で中尉のウィンフィールド・スペンサー・ジュニアと20歳で結婚。が、夫のアルコール依存症に起因するDVと女癖の悪さで、1927年の夫の中国への転勤をきっかけにして離婚。
そして1928年32歳のウォリスは、ニューヨーク生まれの船舶仲介会社社長のアーネスト・シンプソンと出会って2度目の結婚をしました。アーネストも前夫人と離婚したばかりのバツイチ同士で、シンプソン氏は父の故郷であるイギリスに憧れていて、イギリス国籍を取るためにイギリス軍に入隊して近衛歩兵連隊の少尉になった経歴のある人。
ウォリスは裕福な夫と召使が何人もいるロンドンの豪華なアパートに住み、社交界にも出入りし、すぐに社交界で友人もできてロンドン社交界の花形になったということです。
2-1、エドワード王太子との出会い
シンプソン夫妻を王太子エドワードに紹介したのは、当時の王太子の愛人のファーネス子爵夫人テルマでした。1931年1月に、夫人の別荘で催されたパーティーで出会ったといわれ、35歳のウォリスは36歳の王太子に一目惚れ。
そして1933年の冬頃、テルマがエドワード王太子を頼むとウォリスに言い置いてニューヨークに出かけた間に、ウォリスとエドワード王太子との不倫関係が始まったのでした。その後は、シンプソン夫妻はそろってロンドン郊外の王室所有の別荘に招待されるようになり、エドワード王太子はすぐにウォリスだけと親密にするのを隠さないようになったそうです。エドワード王太子はウォリス同伴で外遊し、高価な宝石も好きなだけ買い与えて、王太子の邸宅で同棲するまでになったというのですね。
エドワード王太子は1934年に、バッキンガム宮殿のパーティーでジョージ5世とメアリ王妃にウォリスを紹介したが、離婚経験のあるアメリカ人女性なんてもってのほかと、両親の国王夫妻は激怒したとか。そしてウォリスが公然と王太子の愛人となる一方、夫のシンプソン氏も愛人がいたため、妻と王太子の浮気をほぼ黙認。またウォリスもエドワード王太子だけでなく、イギリス駐在ドイツ大使でその後ドイツ外務大臣となったヨアヒム・フォン・リッベントロップ、他のイギリス人とも性的関係があったという噂でした。 もちろんウォリスとの交際については両親だけでなく、大多数の国民にも反対された模様。
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エドワード王太子とは
エドワード王太子は1894年生まれで、当時のイギリス国王ジョージ5世とメアリ王妃の長男の次期国王。デイビッドと呼ばれ、性格は気さくでフレンドリーだが問題発言も多く、型にはまらない王族として有名でした。エドワード王太子は、母のメアリ王妃が母性に欠けた人だったために寂しい子供時代を送ったと公言し、王室の跡取りらしくなく、年頃になっても親の進める縁談には見向きもせず、社交界の既婚夫人たちと浮名を流し続ける年上好みのプレイボーイで、スキャンダルになるような事件もたびたび起こしていたような人だったんです。20世紀初めとはいえ、37歳で独身の王太子は普通じゃないでしょう。
エドワード王太子の父ジョージ5世は愛人が多くいた父エドワード7世と違い、メアリ王妃一筋で浮気や愛人の一人もいなかった珍しい国王で、長男の王太子の行状を心配し、「自分が死んだら10日以内に身を滅ぼすだろう」と予言、エドワード王太子には結婚も跡継ぎも望まない、次男ヨーク公アルバート(ジョージ6世)と溺愛する孫娘のエリザベス王女(現エリザベス女王)のと王冠の間に何の邪魔も入らないことを祈ると言い残したということです。
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