島村抱月は明治から大正時代にかけて活躍した、文芸評論家、劇作家、演出家などマルチな才能を発揮した人物。また、坪内逍遥や松井須磨子などと共に、新劇運動を牽引した中心人物のひとりとしても知られている。早稲田大学の教員として教壇に立った時期もあった。

島村抱月は、どのような人々と交流し、当時の新劇運動に貢献したのでしょうか。それじゃ、島村抱月の代表的な活動や、女優・松井須磨子との恋愛などを、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。日本芸術史を語るとき島村抱月を避けて通ることはできない。嶋浦抱月は、女優の松井須磨子と恋愛関係にあったことで有名だが、彼は近代演劇の確立に大きな貢献をした人物だ。そこで抱月の芸術運動に関連する人々や出来事をまとめてみた。

島根県で生まれた島村抱月

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島村抱月が生まれたのは島根県那賀郡の小国村。現在の浜田市に該当するエリアです。父親は佐々山一平。抱月は長男として生まれました。抱月は、子どものころの名前は瀧太郎。島村は、その後の養父の苗字なので、旧姓は佐々山になります。

島村抱月は幼少期を貧困家庭で過ごす

佐々山家は非常に貧しく、抱月は貧しい幼少期を送ることになりました。小学校を卒業してからも勉強に励み、浜田町の裁判所の書記としての仕事に就きます。同町の裁判所で出会ったのが、検事として働いていた島村文耕。抱月の能力に気が付いた文耕は、学資を支援します。そのお金を使って抱月は上京。明治24年に、抱月は文耕の養子となり、苗字が島村となります。

養父の支援を受けて早稲田大学を卒業

養父となった文耕の支援を受けながら、抱月は才覚をあらわしていきます。早稲田大学の前身である東京専門学校に合格。卒業してからは、「早稲田文学」の記者として働きます。「早稲田文学」とは、その後に出会う坪内逍遥が創刊した文芸誌。坪内逍遥と森鴎外の論争が掲載されたことでも知られています。「早稲田文学」を離れたあと、抱月は読売新聞に入社し、社会部主任となりました。

早大を舞台に自然主義文学を牽引

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不明 - ノーベル書房株式会社編集部「写真集 旧制大学の青春」1984年1月20日発行, パブリック・ドメイン, リンクによる

早稲田大学文学部の講師となったのち、抱月は大学の援助によりヨーロッパに留学します。明治35年から3年間の留学でした。早稲田大学の海外留学生として、イギリスのオックスフォード大学そしてドイツのベルリン大学で勉強に励みます。

ヨーロッパ留学にて自然主義文学に触れる

抱月は帰国したあと、晴れて早稲田大学文学部の教授に就任します。そして、休刊していた「早稲田文学」を復刊。議論の中心人物して主宰しました。そこで抱月が積極的に紹介したのが自然主義文学。日本の文壇で沸き起こったこの運動を牽引していきます。

自然主義文学とは、19世紀末のフランスで流行した文学理論に基づく作品のこと。理論を確立したのはエミール・ゾラ。人間のキャラクターは、環境や遺伝により形成されると考え、それを自分の小説で表現しました。背景にあるのがチャールズ・ダーウィンの進化論。あらゆる生物の祖先は共通しており、長い時間をかけて、自然選択を通じて進化したという学説です。ヨーロッパ留学中に自然主義文学に触れた島村抱月は、それを日本に持ち込みました。抱月の他にも自然主義文学に影響を受けた作家は多く、日本では20世紀の初頭に自然主義文学のブームが沸き起こったのですね。

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新劇運動のリーダーのひとりとなった島村抱月

自然主義文学運動を牽引する中心人物となった島村抱月。次に抱月が関わったのが新劇運動でした。早大の大先輩である坪内逍遥と行動を共にするようになったことで、転換期が訪れました。

坪内逍遥が主宰する文芸協会に参加

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島村抱月は明治39年に、坪内逍遥と一緒に文芸協会を設立。新劇運動の母体となりました。本郷座で抱月が翻訳を担当した『ハムレット』などを上演。明治42年に文芸協会の附属である演劇研究所で本格的に新劇運動を開始します。そこでのちのパートナーとなる松井須磨子と出会いました。文芸協会の演目の質は低く、最終的に借金を抱えて終了します。

島村抱月の人生のなかで大きな影響を与えた人物が坪内逍遥です。代表作は『小説神髄』。小説を書くうえで大切なことは、人情を描くこと。そのうえで、世の中の様子や風俗を描くことが大事であると主張しました。これは当時の勧善懲悪に対抗する考え方です。また、シェイクスピア全集を翻訳したことも坪内逍遥の功績。早稲田大学にある坪内博士記念演劇博物館は、シェイクスピア全訳の偉業をたたえてつくられた記念館なんですよ。

芸術座を立ち上げて新劇運動を本格化

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抱月は松井須磨子と一緒に劇団・芸術座を結成します。芸術座の上演を通じて新劇運動を本格化させていきました。公演は大衆に受け入れられ、数々のヒット作も生まれます。

松井須磨子との恋愛スキャンダルにより逍遥と対立

抱月が恩師である坪内逍遥の文芸協会を去ったのは、恋愛スキャンダルが原因。妻子がいるにも関わらず、抱月は看板女優の松井須磨子との不倫します。それに激怒した逍遥との関係が悪くなり、文芸協会を去らざるを得なくなりました。その後も抱月は須磨子と行動を共にします。しかし、妻と離婚することはせず、須磨子は愛人という位置づけでした。

島村抱月のパートナーである松井須磨子は、日本の芸能史に大きな爪痕を残した女性。自分を西洋風の顔にするために、当時の最新技術である整形を行ったことでも知られています。須磨子がいなければ抱月の名声もなかったというほど重要な存在。このあとに紹介しますが、須磨子や歌謡歌手としても大成功をおさめ、芸術座を有名劇団へと引き上げました。

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トルストイ原作の『復活』が大当たり

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By Francisco Peralta Torrejón - Own work, CC BY 3.0, Link

抱月の芸術座を有名にしたのがトルストイの小説をもとに抱月が脚色した『復活』の舞台。第一次世界大戦がはじまる1914年(大正3年)に上演されました。この成功をきっかけに抱月と須磨子は快進撃を続けます。

劇中歌「カチューシャの唄」が大ヒット

『復活』が広く受け入れられた理由が劇中歌の大ヒット。須磨子が歌った「カチューシャの唄」はレコード化され、舞台から独り歩きして大ヒットしました。芸術性と大衆性を上手くミックスしたことが芸術座の成功の秘訣。松井須磨子は女優としてはもちろん、歌手としても知られた存在になりました。

「カチューシャの唄」のヒットにより、映画のカチューシャブームが起こります。大正3年に日本キネトフォンの制作で『カチューシャの唄』が公開されました。さらに同年、細山喜代松監督により『カチューシャ』が、翌年に同監督で『後のカチューシャ』『カチューシャ続々篇』が上映されます。トルストイの『復活』や、劇中歌の「カチューシャの唄」は、大正時代の新しい芸術の流れを感じさせるテーマだったのでしょうね。

ヨーロッパ文学の紹介者としても活躍した島村抱月

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島村抱月は、翻訳家としての仕事もたくさんしています。当時の日本ではまだ知られていなかった作品を翻訳することで紹介。さらにそれを舞台用に脚色し、興味を持つ人を増やしていきました。

新劇運動の推進は翻訳とワンセット

島村抱月の仕事でとくに有名なのがロシアの文豪であるトルストイの作品の翻訳『戦争と平和』や『復活』を翻訳・脚色しました。ミゲル・デ・セルバンテス『ドン・キホーテ』の翻訳も抱月と、さまざまなタイプの作品を翻訳して世に送り出しました。

ヘンリック・イプセン『人形の家』の翻訳も、抱月ならではの成果です。『人形の家』は、家庭に入る女性の生き方に異議を申し立てた作品。『人形の家』の主人公であるノラは、大正時代にあらわれつつあった「新しい女性」に位置づけられました。「新しい女性」とは、男性から自立した、新しい考え方を持つ女性のこと。新しい女性の生き方を代表する松井須磨子と重なる作品でした。

松井須磨子と共にウラジオストクで合同公演を実現

島村抱月と松井須磨子の功績はロシア革命前のロシア帝国にも届きます。ロシア帝国から正式に招待された劇団は、ウラジオストクに赴いて合同公演を成功させました。

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抱月の芸術座はモスクワ芸術座から命名

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A.Savin (Wikimedia Commons · WikiPhotoSpace) - 投稿者自身による作品, FAL, リンクによる

島村抱月の劇団の名前である芸術座はモスクワ芸術座に由来します。モスクワ芸術座は、リアリズム演劇の確立に貢献した劇団。世界の演劇界に強い影響を与えました。演目も、トルストイ、イプセン、シェイクスピアと、抱月の芸術座と共通しています。抱月はトルストイの小説の翻訳でも知られていますが、ロシアの人間の苦悩をあぶりだす演劇スタイルに深い感銘を受けていたのでしょう。

抱月の新劇運動は、歌舞伎を意味する旧劇、書生芝居を意味する新派に対抗するもの。歌舞伎の場合、キャラクターは型が決まっており、リアルな心理描写はありません。新派は、歌舞伎とは違う現代劇として発展しましたが、歌舞伎の影響も残っていました。そこで追求されたのが苦悩する魂を表現すること。ロシアの小説は人間の苦悩の描写にすぐれており、抱月はそれを舞台上で表現することを目指したのでしょう。

島村抱月はスペイン風邪により死去

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(Image: courtesy of the National Museum of Health and Medicine, Armed Forces Institute of Pathology, Washington, D.C., United States.) - Pandemic Influenza: The Inside Story. Nicholls H, PLoS Biology Vol. 4/2/2006, e50 https://dx.doi.org/10.1371/journal.pbio.0040050, CC 表示 2.5, リンクによる

ロシア帝国における巡業を成功させた抱月ですが、不幸にもスペイン風邪にかかって亡くなってしまいます。スペイン風邪にかかっていた須磨子の看病をし、うつされてしまった形です。

松井須磨子は抱月のあとを追い自殺

抱月がスペイン風邪で亡くなったのは1918年。急性肺炎が併発したのが死因でした。須磨子は2か月ほど芸術座の巡業を行いますが、抱月のあとを追って自殺。抱月と同じ墓に入れて欲しいと遺言を残しましたが、抱月の妻はそれを受け入れませんでした。須磨子の骨は、故郷である長野県におさめられました。

1918年に大流行したスペイン風邪は、世界中で多数の死者を出したパンデミック。当時の世界の人口の4分の1に該当する5億人が感染したと言われています。死者数は諸説ありますが、1億人を超えたという説もあるほど。スペイン風邪と言われていますが、スペインが発生地であるわけではないようです。アメリカにて最初の流行があり、海軍の移動と共に、ヨーロッパに感染が拡大しました。日本では2,300万ほどの人が感染。そのひとりが不運にも抱月だったというわけです。

島村抱月は日本の近代化の歴史のシンボル

島村抱月は、文芸評論家、翻訳家、演出家、劇作家など、オールマイティに活躍した人物。彼の仕事に一貫しているのは、伝統的な価値観を否定し、新しい芸術を生み出そうとしていることです。大正デモクラシーに代表されるように、大正時代は新旧の考え方がせめぎあっていました。島村抱月は、仕事はもちろん、生き方も含めて、近代人のシンボルだったと言えるでしょう。人物の生き方を通じて、その時代の雰囲気を感じ取れると、歴史のリアリティがさらに増しますので、ぜひ意識してみてください。

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演劇と愛に生きた「島村抱月」とは?功績を元大学教員がわかりやすく解説

トルストイ原作の『復活』が大当たり

抱月の芸術座を有名にしたのがトルストイの小説をもとに抱月が脚色した『復活』の舞台。第一次世界大戦がはじまる1914年(大正3年)に上演されました。この成功をきっかけに抱月と須磨子は快進撃を続けます。

劇中歌「カチューシャの唄」が大ヒット

『復活』が広く受け入れられた理由が劇中歌の大ヒット。須磨子が歌った「カチューシャの唄」はレコード化され、舞台から独り歩きして大ヒットしました。芸術性と大衆性を上手くミックスしたことが芸術座の成功の秘訣。松井須磨子は女優としてはもちろん、歌手としても知られた存在になりました。

「カチューシャの唄」のヒットにより、映画のカチューシャブームが起こります。大正3年に日本キネトフォンの制作で『カチューシャの唄』が公開されました。さらに同年、細山喜代松監督により『カチューシャ』が、翌年に同監督で『後のカチューシャ』『カチューシャ続々篇』が上映されます。トルストイの『復活』や、劇中歌の「カチューシャの唄」は、大正時代の新しい芸術の流れを感じさせるテーマだったのでしょうね。

ヨーロッパ文学の紹介者としても活躍した島村抱月

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島村抱月は、翻訳家としての仕事もたくさんしています。当時の日本ではまだ知られていなかった作品を翻訳することで紹介。さらにそれを舞台用に脚色し、興味を持つ人を増やしていきました。

新劇運動の推進は翻訳とワンセット

島村抱月の仕事でとくに有名なのがロシアの文豪であるトルストイの作品の翻訳『戦争と平和』や『復活』を翻訳・脚色しました。ミゲル・デ・セルバンテス『ドン・キホーテ』の翻訳も抱月と、さまざまなタイプの作品を翻訳して世に送り出しました。

ヘンリック・イプセン『人形の家』の翻訳も、抱月ならではの成果です。『人形の家』は、家庭に入る女性の生き方に異議を申し立てた作品。『人形の家』の主人公であるノラは、大正時代にあらわれつつあった「新しい女性」に位置づけられました。「新しい女性」とは、男性から自立した、新しい考え方を持つ女性のこと。新しい女性の生き方を代表する松井須磨子と重なる作品でした。

松井須磨子と共にウラジオストクで合同公演を実現

島村抱月と松井須磨子の功績はロシア革命前のロシア帝国にも届きます。ロシア帝国から正式に招待された劇団は、ウラジオストクに赴いて合同公演を成功させました。

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