新劇運動のリーダーのひとりとなった島村抱月
自然主義文学運動を牽引する中心人物となった島村抱月。次に抱月が関わったのが新劇運動でした。早大の大先輩である坪内逍遥と行動を共にするようになったことで、転換期が訪れました。
坪内逍遥が主宰する文芸協会に参加
島村抱月は明治39年に、坪内逍遥と一緒に文芸協会を設立。新劇運動の母体となりました。本郷座で抱月が翻訳を担当した『ハムレット』などを上演。明治42年に文芸協会の附属である演劇研究所で本格的に新劇運動を開始します。そこでのちのパートナーとなる松井須磨子と出会いました。文芸協会の演目の質は低く、最終的に借金を抱えて終了します。
こちらの記事もおすすめ
日本初の歌う新劇女優「松井須磨子」の芸能史における貢献を元大学教員がわかりやすく解説
島村抱月の人生のなかで大きな影響を与えた人物が坪内逍遥です。代表作は『小説神髄』。小説を書くうえで大切なことは、人情を描くこと。そのうえで、世の中の様子や風俗を描くことが大事であると主張しました。これは当時の勧善懲悪に対抗する考え方です。また、シェイクスピア全集を翻訳したことも坪内逍遥の功績。早稲田大学にある坪内博士記念演劇博物館は、シェイクスピア全訳の偉業をたたえてつくられた記念館なんですよ。
芸術座を立ち上げて新劇運動を本格化
抱月は松井須磨子と一緒に劇団・芸術座を結成します。芸術座の上演を通じて新劇運動を本格化させていきました。公演は大衆に受け入れられ、数々のヒット作も生まれます。
松井須磨子との恋愛スキャンダルにより逍遥と対立
抱月が恩師である坪内逍遥の文芸協会を去ったのは、恋愛スキャンダルが原因。妻子がいるにも関わらず、抱月は看板女優の松井須磨子との不倫します。それに激怒した逍遥との関係が悪くなり、文芸協会を去らざるを得なくなりました。その後も抱月は須磨子と行動を共にします。しかし、妻と離婚することはせず、須磨子は愛人という位置づけでした。
島村抱月のパートナーである松井須磨子は、日本の芸能史に大きな爪痕を残した女性。自分を西洋風の顔にするために、当時の最新技術である整形を行ったことでも知られています。須磨子がいなければ抱月の名声もなかったというほど重要な存在。このあとに紹介しますが、須磨子や歌謡歌手としても大成功をおさめ、芸術座を有名劇団へと引き上げました。
\次のページで「トルストイ原作の『復活』が大当たり」を解説!/