日本史明治歴史

演劇と愛に生きた「島村抱月」とは?功績を元大学教員がわかりやすく解説

よぉ、桜木建二だ。島村抱月は明治から大正時代にかけて活躍した、文芸評論家、劇作家、演出家などマルチな才能を発揮した人物。また、坪内逍遥や松井須磨子などと共に、新劇運動を牽引した中心人物のひとりとしても知られている。早稲田大学の教員として教壇に立った時期もあった。

島村抱月は、どのような人々と交流し、当時の新劇運動に貢献したのだろうか。それじゃ、島村抱月の代表的な活動や、女優・松井須磨子との恋愛などを、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。日本芸術史を語るとき島村抱月を避けて通ることはできない。嶋浦抱月は、女優の松井須磨子と恋愛関係にあったことで有名だが、彼は近代演劇の確立に大きな貢献をした人物だ。そこで抱月の芸術運動に関連する人々や出来事をまとめてみた。

島根県で生まれた島村抱月

image by PIXTA / 59021694

島村抱月が生まれたのは島根県那賀郡の小国村。現在の浜田市に該当するエリアです。父親は佐々山一平。抱月は長男として生まれました。抱月は、子どものころの名前は瀧太郎。島村は、その後の養父の苗字なので、旧姓は佐々山になります。

島村抱月は幼少期を貧困家庭で過ごす

佐々山家は非常に貧しく、抱月は貧しい幼少期を送ることになりました。小学校を卒業してからも勉強に励み、浜田町の裁判所の書記としての仕事に就きます。同町の裁判所で出会ったのが、検事として働いていた島村文耕。抱月の能力に気が付いた文耕は、学資を支援します。そのお金を使って抱月は上京。明治24年に、抱月は文耕の養子となり、苗字が島村となります。

養父の支援を受けて早稲田大学を卒業

養父となった文耕の支援を受けながら、抱月は才覚をあらわしていきます。早稲田大学の前身である東京専門学校に合格。卒業してからは、「早稲田文学」の記者として働きます。「早稲田文学」とは、その後に出会う坪内逍遥が創刊した文芸誌。坪内逍遥と森鴎外の論争が掲載されたことでも知られています。「早稲田文学」を離れたあと、抱月は読売新聞に入社し、社会部主任となりました。

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島村抱月はかなりの苦労人。しかし小さいことから、学問に対する素養がかなり高かったようだ。抱月がいたころの早稲田大学は文芸・芸術の議論がかなり活発。「早稲田文学」は、新進気鋭の評論家や小説家たちの議論の場でもあった。

早大を舞台に自然主義文学を牽引

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不明 – ノーベル書房株式会社編集部「写真集 旧制大学の青春」1984年1月20日発行, パブリック・ドメイン, リンクによる

早稲田大学文学部の講師となったのち、抱月は大学の援助によりヨーロッパに留学します。明治35年から3年間の留学でした。早稲田大学の海外留学生として、イギリスのオックスフォード大学そしてドイツのベルリン大学で勉強に励みます。

ヨーロッパ留学にて自然主義文学に触れる

抱月は帰国したあと、晴れて早稲田大学文学部の教授に就任します。そして、休刊していた「早稲田文学」を復刊。議論の中心人物して主宰しました。そこで抱月が積極的に紹介したのが自然主義文学。日本の文壇で沸き起こったこの運動を牽引していきます。

自然主義文学とは、19世紀末のフランスで流行した文学理論に基づく作品のこと。理論を確立したのはエミール・ゾラ。人間のキャラクターは、環境や遺伝により形成されると考え、それを自分の小説で表現しました。背景にあるのがチャールズ・ダーウィンの進化論。あらゆる生物の祖先は共通しており、長い時間をかけて、自然選択を通じて進化したという学説です。ヨーロッパ留学中に自然主義文学に触れた島村抱月は、それを日本に持ち込みました。抱月の他にも自然主義文学に影響を受けた作家は多く、日本では20世紀の初頭に自然主義文学のブームが沸き起こったのですね。

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