島村抱月は、どのような人々と交流し、当時の新劇運動に貢献したのでしょうか。それじゃ、島村抱月の代表的な活動や、女優・松井須磨子との恋愛などを、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。
- 島根県で生まれた島村抱月
- 島村抱月は幼少期を貧困家庭で過ごす
- 養父の支援を受けて早稲田大学を卒業
- 早大を舞台に自然主義文学を牽引
- ヨーロッパ留学にて自然主義文学に触れる
- 新劇運動のリーダーのひとりとなった島村抱月
- 坪内逍遥が主宰する文芸協会に参加
- 芸術座を立ち上げて新劇運動を本格化
- 松井須磨子との恋愛スキャンダルにより逍遥と対立
- トルストイ原作の『復活』が大当たり
- 劇中歌「カチューシャの唄」が大ヒット
- ヨーロッパ文学の紹介者としても活躍した島村抱月
- 新劇運動の推進は翻訳とワンセット
- 松井須磨子と共にウラジオストクで合同公演を実現
- 抱月の芸術座はモスクワ芸術座から命名
- 島村抱月はスペイン風邪により死去
- 松井須磨子は抱月のあとを追い自殺
- 島村抱月は日本の近代化の歴史のシンボル
この記事の目次
ライター/ひこすけ
文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。日本芸術史を語るとき島村抱月を避けて通ることはできない。嶋浦抱月は、女優の松井須磨子と恋愛関係にあったことで有名だが、彼は近代演劇の確立に大きな貢献をした人物だ。そこで抱月の芸術運動に関連する人々や出来事をまとめてみた。
島根県で生まれた島村抱月
島村抱月が生まれたのは島根県那賀郡の小国村。現在の浜田市に該当するエリアです。父親は佐々山一平。抱月は長男として生まれました。抱月は、子どものころの名前は瀧太郎。島村は、その後の養父の苗字なので、旧姓は佐々山になります。
島村抱月は幼少期を貧困家庭で過ごす
佐々山家は非常に貧しく、抱月は貧しい幼少期を送ることになりました。小学校を卒業してからも勉強に励み、浜田町の裁判所の書記としての仕事に就きます。同町の裁判所で出会ったのが、検事として働いていた島村文耕。抱月の能力に気が付いた文耕は、学資を支援します。そのお金を使って抱月は上京。明治24年に、抱月は文耕の養子となり、苗字が島村となります。
養父の支援を受けて早稲田大学を卒業
養父となった文耕の支援を受けながら、抱月は才覚をあらわしていきます。早稲田大学の前身である東京専門学校に合格。卒業してからは、「早稲田文学」の記者として働きます。「早稲田文学」とは、その後に出会う坪内逍遥が創刊した文芸誌。坪内逍遥と森鴎外の論争が掲載されたことでも知られています。「早稲田文学」を離れたあと、抱月は読売新聞に入社し、社会部主任となりました。
早大を舞台に自然主義文学を牽引

不明 – ノーベル書房株式会社編集部「写真集 旧制大学の青春」1984年1月20日発行, パブリック・ドメイン, リンクによる
早稲田大学文学部の講師となったのち、抱月は大学の援助によりヨーロッパに留学します。明治35年から3年間の留学でした。早稲田大学の海外留学生として、イギリスのオックスフォード大学そしてドイツのベルリン大学で勉強に励みます。
ヨーロッパ留学にて自然主義文学に触れる
抱月は帰国したあと、晴れて早稲田大学文学部の教授に就任します。そして、休刊していた「早稲田文学」を復刊。議論の中心人物して主宰しました。そこで抱月が積極的に紹介したのが自然主義文学。日本の文壇で沸き起こったこの運動を牽引していきます。
自然主義文学とは、19世紀末のフランスで流行した文学理論に基づく作品のこと。理論を確立したのはエミール・ゾラ。人間のキャラクターは、環境や遺伝により形成されると考え、それを自分の小説で表現しました。背景にあるのがチャールズ・ダーウィンの進化論。あらゆる生物の祖先は共通しており、長い時間をかけて、自然選択を通じて進化したという学説です。ヨーロッパ留学中に自然主義文学に触れた島村抱月は、それを日本に持ち込みました。抱月の他にも自然主義文学に影響を受けた作家は多く、日本では20世紀の初頭に自然主義文学のブームが沸き起こったのですね。
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