2-2、明治天皇の対応
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ニコライ皇太子の接待係であった有栖川宮威仁(たけひと)親王(高松宮喜久子妃の祖父)は、この行列の3番目で、まったく犯行に気が付かなかったそう。
が、海軍軍人でイギリス海軍大学留学や軍事視察の経験があり、国際関係に精通していたために、この事件が重大な外交問題とすぐに判断、随行員に顛末を急いで書きまとめさせて東京の明治天皇に電報で上奏、ロシア側に誠意を見せるために明治天皇の京都への緊急行幸を要請するなど、じつに手際の良い対応をされたのですね。
そして明治天皇も直ちに了解して、威仁親王に自身の到着までニコライ皇太子の身辺警護を任せて、すぐに北白川宮能久親王陸軍少将を名代として京都へ派遣し、翌日早朝に汽車に乗って夜の10時に京都に到着するというスピード対応に。さすがにロシア皇太子に深夜の面会は憚られて、翌日常盤ホテルにお見舞いに行幸、皇族らとともにニコライ皇太子を神戸のロシア軍艦まで見送られたそう。ロシアでは母マリア皇后が心配で卒倒、ニコライ皇太子は父皇帝の命令で京都のホテルから神戸のロシア軍艦に移動し、予定を切り上げて帰国することになったということで、明治天皇は19日には神戸港のロシア軍艦を訪問してお別れの挨拶をされたが、重臣たちがもし拉致されたらと明治天皇が軍艦に乗り込むのを反対したのを振り切って乗り込まれたのです。
また、明治天皇の皇后の昭憲皇太后は、ニコライ皇太子の母マリア皇后あてに心を込めた電報を送ったということで、天皇、皇后、皇族の対応はニコライ皇太子もびっくりの懇切丁寧なもので、ロシア側も明治天皇のお見舞いを評価していたのでした。そして「皇太子ニコライの日記」でも、その後も大津事件について思い出しても日本人に対する悪い印象は全くなく、よく言われるような「猿」と呼んで日本人を憎んではいなかったんですね。
2-3、一般国民の反応
国を挙げての歓迎が一転、心無い人間が大国ロシアの皇太子を負傷させたことで色々な意味でパニックになりました。
事件の報復にロシアが日本に攻めてくると日本国中が震撼して、学校は謹慎の意を表すために休校、神社や寺院や教会では、ニコライ皇太子平癒の祈祷が行われたし、ニコライ皇太子の元に届けられた見舞い電報は1万通を超えて、山形県最上郡金山村(現金山町)では「津田」姓および「三蔵」の命名を禁じる条例が出来たほど。そして5月20日、ニコライ皇太子が予定を切り上げて日本を立ち去ったことで、死を以って詫びるとして京都府庁の前で剃刀で喉を突いて自殺、「房州の烈女」と呼ばれた畠山勇子という女性も出現したほどでした。
ニコライ皇太子は日記にも、日本国民たちが許しを乞うように、街頭に土下座して合掌する姿に感動したようで、離日直前に侍従武官長バリャティンスキーの名前で新聞に感謝状を載せたそう。
2-4、司法、国家か法かで論争に
この事件後、すぐに裁判が行われることになったが、当時の内閣総理大臣松方正義は、ロシアとの関係を考慮して犯人の津田を死刑にするべきと考え、刑法116条の「天皇、三后、皇太子に危害を加え、または加えようとした者は死刑に処す」の「皇太子」に外国の皇太子が含まれるかを巡り、政府と大審院院長児島惟謙(いけん)の間で論争になったということです。
松方は対ロシア対策として「国があっての法律。法律を厳格に守って国が滅びては意味なし」という主張だが、児島は「津田が死刑にならなかったからとロシアが戦争を起こすようなことはない。ヨーロッパの国の法律でも外国皇族が襲撃されたとき、自国の皇族に対するほど重い罪を定めている国はない。ヨーロッパから日本の法律の不備が指摘される今こそ日本の法治主義を示すときではないか」と主張、三権分立の考えが浸透していない明治時代に、政府と司法の分権が試されるときでもあったのですね。
結局津田は事件から16日後の5月27日に刑法116条ではなく一般人に対する謀殺未遂罪(刑法292条)で有罪、その最高刑の無期徒刑(無期懲役)判決を受けました(津田は7月に釧路集治監に移送収監され、9月末に急性肺炎で死亡)。
2-5、裁判の影響
津田の判決はロシアにも伝わったが、日本政府の心配の元だった軍事行動は起こりませんでした。が、ロシア外相は、日本の裁判所が津田に死刑判決を下し、それに対してロシア皇帝が減刑嘆願を行って減刑されるというシナリオがロシアにとっても日本にとっても最善と考えていたので、津田に死刑判決を出さなかったのに不満だったという話もありますが、ニコライ皇太子の父皇帝アレクサンドル3世は冷静に対処し、明治天皇の迅速な直接謝罪とお見舞いを高く評価、日本政府の処置にも満足していたそう。
またこの事件の判決で司法の独立を達成したことで、曖昧だった大日本帝国憲法の三権分立の意識が広まり、司法のあり方などについて活発な議論がされるきっかけになりました。また海外でもこの裁判は大きく報じられたので、国際的にも日本の司法権に対する信頼を高めることにつながったようです。そして日本が近代法を運用する主権国家と認められることで、不平等条約改正へのはずみにもなったといえるようですね。
3-1、大津事件の逸話
いろいろな逸話があるのでご紹介しますね。
3-2、お手柄の人力車夫たちの明暗
匿名 – http://www.tsaritsyno.net/upload/medialibrary/e73/No.9.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる
大津事件で犯人の津田を取り押さえた人力車夫の向畑治三郎と北賀市市太郎の2人は、事件後の18日夜にロシア軍艦に招待されて、ロシア軍水兵から大歓迎を受け、ニコライ皇太子からは直接聖アンナ勲章が授与、当時の金額で2500円(現代の貨幣価値換算でおおよそ1000万円前後)の報奨金と、ロシア政府から1000円の終身年金が与えられることになりました。
ふたりには日本政府からも、勲八等白色桐葉章と年金36円が与えられたのですが、低い身分と見なされていた人力車夫に勲章授与はかなり異例だったので、その後も「帯勲車夫」と呼ばれて脚光を浴びました。なにしろ明治天皇がロシアからの巨額の報奨金と年金で身を持ち崩さないようにと心配したというほどだったそう。
もともと前科のあった向畑治三郎は、京都府が毎月25円を生活費として渡して、残りは京都府が管理する方式だったが、いろいろ事業に手を出して失敗、事業を名目に恩賞金を引き出しては賭博と女に使い果たしたということで、勲位も剥奪され、婦女暴行事件を起こして逮捕、みじめな晩年を迎えたということ。
北賀市市太郎の方は、郷里の石川県で田畑を購入して地主となり、勉学して郡会議員になったが、日露戦争が始まるとロシアのスパイ扱いをされて戦死者の遺族から糾弾されたりという目に遭い、家の門に飾っていた勲章を取り外して軍隊に志願したなど、質素に後半生を送りました。
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