今回は大津事件を取り上げるぞ。明治時代にロシア皇太子が巡査に襲われた事件だっけ、どんな事件だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを明治時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、明治時代の歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、大津事件について5分でわかるようにまとめた。

1-1、大津事件とは

大津事件(おおつじけん)は、明治24年(1891年)5月11日、当時日本を訪問中だったロシア帝国皇太子ニコライ(後の皇帝ニコライ2世)が、滋賀県滋賀郡大津町(現大津市)訪問で人力車に乗って移動中、警備にあたっていた警察官津田三蔵に突然斬りつけられて負傷した事件のことで、明治時代の日本はパニックと言っていいほど大騒動になりました。

1-2、ロシア皇太子の来日

Prince Nicolas at Nagasaki.jpg
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ヨーロッパの貴族や王族では若い王子を軍隊に入れるか、大学で教育するか、または外国旅行をして見聞を広めさせる時代でした。なので22歳のロシアのニコライ皇太子は、弟ゲオルギーとともに世界周遊の旅に出たのですね(弟は途中で病気になって帰国)。

まずウィーンからギリシャへ向かい、ギリシャ王ゲオルギオス1世の次男で母方従弟のゲオルギオス王子(言エリザベス女王の夫君フィリップ殿下の伯父)がニコライ皇太子に同行することになり、その後、エジプト、英領インド、コロンボ(イギリス領セイロン)、イギリス領シンガポール、サイゴン(フランス領インドシナ)、オランダ領東インド、バンコク(シャム)、イギリス領香港、上海と広東(清)を歴訪した後、最後に日本を訪問したのです。

また開国以来、イギリスはじめヨーロッパの王族が日本に来るのが流行していたこともあり、ニコライ皇太子の母方の従兄のイギリス王子のちのジョージ5世も海軍士官として兄アルバート・ヴィクター王子と明治初期に来日経験があるため、ニコライ皇太子は日本の芸者遊びとか、刺青の技術も口コミで知っていたとみていいでしょう。

現在のようにプライベートジェット機で来日して1泊2日なんてのじゃなく、ニコライ皇太子はロシア海軍の軍艦で明治24年(1891年)4月27日長崎に入港、その後は長崎、鹿児島、兵庫、大阪、京都、滋賀、東京、栃木、福島、宮城、岩手、青森、北海道と日本を縦断し、5月31日に帰国の予定でした。ニコライ皇太子は長崎では滞在中に右腕に竜の入れ墨を入れ、鹿児島では島津家に歓待されて犬追い物を見物したり、京都では季節外れの5山の送り火とか蹴鞠なども見学。

私的旅行のつもりが明治天皇の鶴の一声で国賓待遇となり、日本では各地で国を挙げてニコライ皇太子を歓待、東京では公式行事が待っているところだったのです。

1-3、大津事件勃発

そして5月11日、ニコライ皇太子一行は京都から日帰りで琵琶湖を観光、滋賀県庁で昼食をとった後の帰り道のことでした。

ニコライ皇太子、従弟のゲオルギオス皇子、接待役の有栖川宮威仁(たけひと)親王の順番で人力車に乗って大津町内を通過中、警備担当の滋賀県警察部巡査津田三蔵が、突如サーベルを抜いてニコライ皇太子に斬りかかり、右耳上部に頭蓋骨に裂傷が入るケガを負ったニコライ皇太子は人力車から飛び降りて脇の路地へ逃げ込み、追いかける津田に対しゲオルギオスがおみやげに買ったばかりの竹の杖で背中を打ち、ニコライの人力車夫の向畑治三郎が津田にタックル、ゲオルギオス付き車夫の北賀市市太郎が津田自身が落としたサーベルで首を斬りつけ、警備中の巡査が確保。裁判の際の目撃者たちの証言によると、津田を取り押さえた一番の功労者はゲオルギオス王子ではなく、人力車の車夫だったそうです。

ニコライ皇太子の日記は現存していて、「ニコライ2世の日記」保田孝一著によれば、ニコライはその日の出来事を詳細に書き残していたということ。

1-4、犯人津田三蔵巡査の動機は

Sanzo Tsuda.jpg
published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) - The Japanese book "幕末・明治・大正 回顧八十年史" (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho), パブリック・ドメイン, リンクによる

津田は明治初期に陸軍に入り西南戦争に従軍した元軍人。この事件の10年前から病気で入退院を繰り返し、陸軍を退役後に三重県警巡査のときに暴力沙汰を起こして免職となり滋賀県警に採用、滋賀県警では功労褒章を2度受賞しているので警護役に選ばれたのでしょう。

津田がニコライ皇太子に斬り付けた理由は、以前からロシアが日本に対し、北方諸島などに関して強硬な姿勢をとるのをよく思っていなかったためと本人が供述。また事件前、西南戦争で戦死したはずの西郷隆盛が実はロシアに逃げ延びていて、ニコライ皇太子と共に帰って来るというデマがあり、西南戦争での勲功で勲章を授与された津田は、西郷が帰還すれば自分の勲章が剥奪されると恐れたという説もあります。津田はニコライ皇太子殺害までは考えていなかったようで、事件後の取り調べでは「殺すつもりはなく、一本(一太刀)献上したまで」と供述したという記録があるそうですが、津田は、「俄に逆上して」斬りつけ、犯行時は「一時目が眩みまして覚えていません」と答えた記録もあるそうで、津田には精神病歴があることが判明したんですね。

2-1、事件の影響

日露戦争の前でロシアとは友好関係にありましたが、なにしろ超大国なのでニコライ皇太子にことがあれば日本は植民地にされてしまうなどと、上は明治天皇から明治政府、国民に至るまで震え上がった大事件で、各方面にいろいろな影響がありました。

\次のページで「2-2、明治天皇の対応」を解説!/

2-2、明治天皇の対応

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ニコライ皇太子の接待係であった有栖川宮威仁(たけひと)親王(高松宮喜久子妃の祖父)は、この行列の3番目で、まったく犯行に気が付かなかったそう。

が、海軍軍人でイギリス海軍大学留学や軍事視察の経験があり、国際関係に精通していたために、この事件が重大な外交問題とすぐに判断、随行員に顛末を急いで書きまとめさせて東京の明治天皇に電報で上奏、ロシア側に誠意を見せるために明治天皇の京都への緊急行幸を要請するなど、じつに手際の良い対応をされたのですね。

そして明治天皇も直ちに了解して、威仁親王に自身の到着までニコライ皇太子の身辺警護を任せて、すぐに北白川宮能久親王陸軍少将を名代として京都へ派遣し、翌日早朝に汽車に乗って夜の10時に京都に到着するというスピード対応に。さすがにロシア皇太子に深夜の面会は憚られて、翌日常盤ホテルにお見舞いに行幸、皇族らとともにニコライ皇太子を神戸のロシア軍艦まで見送られたそう。ロシアでは母マリア皇后が心配で卒倒、ニコライ皇太子は父皇帝の命令で京都のホテルから神戸のロシア軍艦に移動し、予定を切り上げて帰国することになったということで、明治天皇は19日には神戸港のロシア軍艦を訪問してお別れの挨拶をされたが、重臣たちがもし拉致されたらと明治天皇が軍艦に乗り込むのを反対したのを振り切って乗り込まれたのです。

また、明治天皇の皇后の昭憲皇太后は、ニコライ皇太子の母マリア皇后あてに心を込めた電報を送ったということで、天皇、皇后、皇族の対応はニコライ皇太子もびっくりの懇切丁寧なもので、ロシア側も明治天皇のお見舞いを評価していたのでした。そして「皇太子ニコライの日記」でも、その後も大津事件について思い出しても日本人に対する悪い印象は全くなく、よく言われるような「猿」と呼んで日本人を憎んではいなかったんですね。

2-3、一般国民の反応

国を挙げての歓迎が一転、心無い人間が大国ロシアの皇太子を負傷させたことで色々な意味でパニックになりました。

事件の報復にロシアが日本に攻めてくると日本国中が震撼して、学校は謹慎の意を表すために休校、神社や寺院や教会では、ニコライ皇太子平癒の祈祷が行われたし、ニコライ皇太子の元に届けられた見舞い電報は1万通を超えて、山形県最上郡金山村(現金山町)では「津田」姓および「三蔵」の命名を禁じる条例が出来たほど。そして5月20日、ニコライ皇太子が予定を切り上げて日本を立ち去ったことで、死を以って詫びるとして京都府庁の前で剃刀で喉を突いて自殺、「房州の烈女」と呼ばれた畠山勇子という女性も出現したほどでした。

ニコライ皇太子は日記にも、日本国民たちが許しを乞うように、街頭に土下座して合掌する姿に感動したようで、離日直前に侍従武官長バリャティンスキーの名前で新聞に感謝状を載せたそう。

2-4、司法、国家か法かで論争に

この事件後、すぐに裁判が行われることになったが、当時の内閣総理大臣松方正義は、ロシアとの関係を考慮して犯人の津田を死刑にするべきと考え、刑法116条の「天皇、三后、皇太子に危害を加え、または加えようとした者は死刑に処す」の「皇太子」に外国の皇太子が含まれるかを巡り、政府と大審院院長児島惟謙(いけん)の間で論争になったということです。

松方は対ロシア対策として「国があっての法律。法律を厳格に守って国が滅びては意味なし」という主張だが、児島は「津田が死刑にならなかったからとロシアが戦争を起こすようなことはない。ヨーロッパの国の法律でも外国皇族が襲撃されたとき、自国の皇族に対するほど重い罪を定めている国はない。ヨーロッパから日本の法律の不備が指摘される今こそ日本の法治主義を示すときではないか」と主張、三権分立の考えが浸透していない明治時代に、政府と司法の分権が試されるときでもあったのですね。

結局津田は事件から16日後の5月27日に刑法116条ではなく一般人に対する謀殺未遂罪(刑法292条)で有罪、その最高刑の無期徒刑(無期懲役)判決を受けました(津田は7月に釧路集治監に移送収監され、9月末に急性肺炎で死亡)。

2-5、裁判の影響

津田の判決はロシアにも伝わったが、日本政府の心配の元だった軍事行動は起こりませんでした。が、ロシア外相は、日本の裁判所が津田に死刑判決を下し、それに対してロシア皇帝が減刑嘆願を行って減刑されるというシナリオがロシアにとっても日本にとっても最善と考えていたので、津田に死刑判決を出さなかったのに不満だったという話もありますが、ニコライ皇太子の父皇帝アレクサンドル3世は冷静に対処し、明治天皇の迅速な直接謝罪とお見舞いを高く評価、日本政府の処置にも満足していたそう。

またこの事件の判決で司法の独立を達成したことで、曖昧だった大日本帝国憲法の三権分立の意識が広まり、司法のあり方などについて活発な議論がされるきっかけになりました。また海外でもこの裁判は大きく報じられたので、国際的にも日本の司法権に対する信頼を高めることにつながったようです。そして日本が近代法を運用する主権国家と認められることで、不平等条約改正へのはずみにもなったといえるようですね。

3-1、大津事件の逸話

いろいろな逸話があるのでご紹介しますね。

3-2、お手柄の人力車夫たちの明暗

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匿名 - http://www.tsaritsyno.net/upload/medialibrary/e73/No.9.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる

大津事件で犯人の津田を取り押さえた人力車夫の向畑治三郎と北賀市市太郎の2人は、事件後の18日夜にロシア軍艦に招待されて、ロシア軍水兵から大歓迎を受け、ニコライ皇太子からは直接聖アンナ勲章が授与、当時の金額で2500円(現代の貨幣価値換算でおおよそ1000万円前後)の報奨金と、ロシア政府から1000円の終身年金が与えられることになりました。

ふたりには日本政府からも、勲八等白色桐葉章と年金36円が与えられたのですが、低い身分と見なされていた人力車夫に勲章授与はかなり異例だったので、その後も「帯勲車夫」と呼ばれて脚光を浴びました。なにしろ明治天皇がロシアからの巨額の報奨金と年金で身を持ち崩さないようにと心配したというほどだったそう。

もともと前科のあった向畑治三郎は、京都府が毎月25円を生活費として渡して、残りは京都府が管理する方式だったが、いろいろ事業に手を出して失敗、事業を名目に恩賞金を引き出しては賭博と女に使い果たしたということで、勲位も剥奪され、婦女暴行事件を起こして逮捕、みじめな晩年を迎えたということ。

北賀市市太郎の方は、郷里の石川県で田畑を購入して地主となり、勉学して郡会議員になったが、日露戦争が始まるとロシアのスパイ扱いをされて戦死者の遺族から糾弾されたりという目に遭い、家の門に飾っていた勲章を取り外して軍隊に志願したなど、質素に後半生を送りました

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3-3、ニコライへ皇太子への贈り物

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「ニコライ2世の日記」保田孝一著によれば、大津事件前後にニコライ皇太子が日本訪問で見舞い品や贈り物として持ち帰った数々の品は、掛け軸、舞妓の等身大の人形、明治天皇からの鎧兜、大判小判、西陣の川島織物の3年がかりの力作という「綴錦壁掛け犬追い物」などが、日露戦争や第二次世界大戦、ソビエト連邦時代を経ているのにエルミタージュ美術館などに今もきちんと保存されているということで、著者は太平洋戦争中に鬼畜米英と青い目の人形を燃やしたことが恥ずかしくなったそうです。

3-4、手当をした布の血がDNA鑑定に役立つ

1993年、革命で処刑されて埋められた皇帝ニコライ2世の遺骨のDNA鑑定のために、大津事件でニコライの手当てをした布についた血痕からDNAが採取され、1998年に鑑定の結果、白骨された骨は本物と正式に認められて、ロシア正教会はニコライ2世をロシア革命の犠牲者として列聖し、正式に埋葬されました。

明治時代半ばの事件で、被害者が大国の皇太子だったので大事に発展

大津事件は世界周遊の途中で来日したロシア皇太子が、観光目的で立ち寄った大津で警官に暴行を受けて傷を負った事件。犯人は精神障害を患っていて発作的に斬りつけたらしいが、相手が当時はまだ日露戦争の前で友好関係にあったとはいえ、大国ロシアの跡取り息子なので、国賓として歓迎ムード一色だった日本は上を下への大騒ぎになりました。

ロシアがこのことでインネンをつけ、武力報復されて植民地にされてしまう危機を感じたのでしょう。明治天皇は東京から光の速さで京都へ入り、誠心誠意ニコライ皇太子をお見舞いしたことでニコライ皇太子も父のロシア皇帝にも好印象となり、明治政府はロシアの顔色を窺いつつ犯人を死刑にしろと司法に圧力をかけたが、司法はこの正念場に法を曲げずに無期懲役にしたのですね。この出来事は三権分立の意識を高め近代日本の法学史上重要な事件となりました。

しかしお手柄の車夫のその後の明暗、ニコライ皇太子が持ち帰ったお土産がロシアにきちんと残されていること、ニコライ皇太子の血の付いた布がDNA鑑定に役立ったなど、他にも逸話が多いこの事件はもっと知られてもいいのではないでしょうか。

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日本史明治歴史

明治時代来日のロシア皇太子が襲撃された「大津事件」をわかりやすく歴女が解説

今回は大津事件を取り上げるぞ。明治時代にロシア皇太子が巡査に襲われた事件だっけ、どんな事件だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを明治時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、明治時代の歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、大津事件について5分でわかるようにまとめた。

1-1、大津事件とは

大津事件(おおつじけん)は、明治24年(1891年)5月11日、当時日本を訪問中だったロシア帝国皇太子ニコライ(後の皇帝ニコライ2世)が、滋賀県滋賀郡大津町(現大津市)訪問で人力車に乗って移動中、警備にあたっていた警察官津田三蔵に突然斬りつけられて負傷した事件のことで、明治時代の日本はパニックと言っていいほど大騒動になりました。

1-2、ロシア皇太子の来日

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ヨーロッパの貴族や王族では若い王子を軍隊に入れるか、大学で教育するか、または外国旅行をして見聞を広めさせる時代でした。なので22歳のロシアのニコライ皇太子は、弟ゲオルギーとともに世界周遊の旅に出たのですね(弟は途中で病気になって帰国)。

まずウィーンからギリシャへ向かい、ギリシャ王ゲオルギオス1世の次男で母方従弟のゲオルギオス王子(言エリザベス女王の夫君フィリップ殿下の伯父)がニコライ皇太子に同行することになり、その後、エジプト、英領インド、コロンボ(イギリス領セイロン)、イギリス領シンガポール、サイゴン(フランス領インドシナ)、オランダ領東インド、バンコク(シャム)、イギリス領香港、上海と広東(清)を歴訪した後、最後に日本を訪問したのです。

また開国以来、イギリスはじめヨーロッパの王族が日本に来るのが流行していたこともあり、ニコライ皇太子の母方の従兄のイギリス王子のちのジョージ5世も海軍士官として兄アルバート・ヴィクター王子と明治初期に来日経験があるため、ニコライ皇太子は日本の芸者遊びとか、刺青の技術も口コミで知っていたとみていいでしょう。

現在のようにプライベートジェット機で来日して1泊2日なんてのじゃなく、ニコライ皇太子はロシア海軍の軍艦で明治24年(1891年)4月27日長崎に入港、その後は長崎、鹿児島、兵庫、大阪、京都、滋賀、東京、栃木、福島、宮城、岩手、青森、北海道と日本を縦断し、5月31日に帰国の予定でした。ニコライ皇太子は長崎では滞在中に右腕に竜の入れ墨を入れ、鹿児島では島津家に歓待されて犬追い物を見物したり、京都では季節外れの5山の送り火とか蹴鞠なども見学。

私的旅行のつもりが明治天皇の鶴の一声で国賓待遇となり、日本では各地で国を挙げてニコライ皇太子を歓待、東京では公式行事が待っているところだったのです。

1-3、大津事件勃発

そして5月11日、ニコライ皇太子一行は京都から日帰りで琵琶湖を観光、滋賀県庁で昼食をとった後の帰り道のことでした。

ニコライ皇太子、従弟のゲオルギオス皇子、接待役の有栖川宮威仁(たけひと)親王の順番で人力車に乗って大津町内を通過中、警備担当の滋賀県警察部巡査津田三蔵が、突如サーベルを抜いてニコライ皇太子に斬りかかり、右耳上部に頭蓋骨に裂傷が入るケガを負ったニコライ皇太子は人力車から飛び降りて脇の路地へ逃げ込み、追いかける津田に対しゲオルギオスがおみやげに買ったばかりの竹の杖で背中を打ち、ニコライの人力車夫の向畑治三郎が津田にタックル、ゲオルギオス付き車夫の北賀市市太郎が津田自身が落としたサーベルで首を斬りつけ、警備中の巡査が確保。裁判の際の目撃者たちの証言によると、津田を取り押さえた一番の功労者はゲオルギオス王子ではなく、人力車の車夫だったそうです。

ニコライ皇太子の日記は現存していて、「ニコライ2世の日記」保田孝一著によれば、ニコライはその日の出来事を詳細に書き残していたということ。

1-4、犯人津田三蔵巡査の動機は

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published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) – The Japanese book “幕末・明治・大正 回顧八十年史” (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho), パブリック・ドメイン, リンクによる

津田は明治初期に陸軍に入り西南戦争に従軍した元軍人。この事件の10年前から病気で入退院を繰り返し、陸軍を退役後に三重県警巡査のときに暴力沙汰を起こして免職となり滋賀県警に採用、滋賀県警では功労褒章を2度受賞しているので警護役に選ばれたのでしょう。

津田がニコライ皇太子に斬り付けた理由は、以前からロシアが日本に対し、北方諸島などに関して強硬な姿勢をとるのをよく思っていなかったためと本人が供述。また事件前、西南戦争で戦死したはずの西郷隆盛が実はロシアに逃げ延びていて、ニコライ皇太子と共に帰って来るというデマがあり、西南戦争での勲功で勲章を授与された津田は、西郷が帰還すれば自分の勲章が剥奪されると恐れたという説もあります。津田はニコライ皇太子殺害までは考えていなかったようで、事件後の取り調べでは「殺すつもりはなく、一本(一太刀)献上したまで」と供述したという記録があるそうですが、津田は、「俄に逆上して」斬りつけ、犯行時は「一時目が眩みまして覚えていません」と答えた記録もあるそうで、津田には精神病歴があることが判明したんですね。

2-1、事件の影響

日露戦争の前でロシアとは友好関係にありましたが、なにしろ超大国なのでニコライ皇太子にことがあれば日本は植民地にされてしまうなどと、上は明治天皇から明治政府、国民に至るまで震え上がった大事件で、各方面にいろいろな影響がありました。

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