
4-3、メアリーの側近、リッチオ殺害事件
そしてメアリーはピエモンテ人の音楽家デビッド・リッチオが有能だったために側近にし、秘書として重用するようになったのですが、ダーンリー卿は翌1566年3月、嫉妬からメアリーに反感を持つ貴族たちと共謀して、当時妊娠6カ月だったメアリーの目の前でリッチオを殺害。
このリッチオはメアリーの浮気相手のようにいわれますが、「スコットランド女王メアリー」によると、リッチオは背中が曲がった醜い容姿で、フランスやイタリアの話が通じるメアリーの話相手、恋愛対象ではなかったということで、もちろん息子ジェームズの本当の父親という噂も否定されてました。
4-4、メアリー、跡継ぎの王子を出産
1566年11月、メアリーは長男ジェームス王子(のちのジェームズ6世、ジェームズ1世)を出産。そしてメアリーは、精力的な軍人ボスウェル伯ら貴族が集まり、反抗的で傍若無人の振る舞いが激しくなった夫、ダーンリー卿への対策を練るのを黙認したのですね。この時点でメアリーは母スウェル伯と恋愛関係になったようにいわれますが、そうではなかったよう。しかしボスウェル伯の方はメアリーとの結婚でスコットランド王になる野心を持っていたと言われています。
4-5、ダーンリー卿の死、ボスウェル伯との再婚と廃位
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メアリーは息子ジェームズの洗礼式を行い、病気になったダーンリー卿を看病するなど一時的に関係回復しましたが、1567年2月10日、病気回復のお祝いの後、ダーンリー卿の宿舎の建物は爆破されたが、ダーンリー卿は爆破に巻き込まれず絞殺体で発見されるという謎の事件で暗殺されました。
当時、ダーンリー卿殺害の首謀者はボスウェル伯、共謀者はメアリーであると見られたが、ボスウェル伯は裁判で無罪となり、メアリーは夫ダーンリー卿の葬儀後40日の喪に服したのちに、ボスウェル伯がメアリーに結婚を申し込み、数日後ダンバー城にメアリーを連行して結婚に踏み切らせ、5月15日に結婚式が挙行。メアリーは、プロテスタント式で行われた結婚式が不満で幸せそうな様子がなかったということで、ボスウェル伯への愛ではなくスコットランドを共同統治してくれる相手が必要だったよう。
そしてカトリック、プロテスタントの貴族たち双方が結婚に反対し、第4代モートン伯爵ジェイムズ・ダグラスなどの、反ボスウェル伯派の貴族たちが反乱を起こし、敗色濃厚になるとボスウェル伯は逃亡、6月15日、メアリーは反乱軍に投降してロッホ・リーヴン城に軟禁されました
。そして7月26日に1歳の息子ジェームズ王子への退位を要求され、ジェームズの教育を数名の貴族に任せる、マリ伯を摂政に任命する条件で、命の保証はないという脅迫のもとで無理矢理署名させられてスコットランド女王を退位。尚、ボスウェル伯はその後デンマークで逮捕されて約10年後に狂死。
4-6、メアリー、脱走して兵をあげるが敗北
1568年5月、ロッホ・リーヴン城を脱走したメアリーは6千人の兵を集めて軍を起こすが、マリ伯の軍に敗れ、イングランドのエリザベス1世の元に亡命。捕らえられたメアリーはエリザベス1世によって幽閉の身となり、その後18年間にわたってイングランドの北部や中部の城を、囚人とも客人ともいえる軟禁状態として転々としました。
4-7、メアリー、エリザベス1世暗殺陰謀関与で処刑
最初はメアリーは楽観的に、エリザベス1世が女王として復権に助力してくれると信じていたみたいですが、エリザベス1世はメアリーの夫殺しの疑惑を盾にして、メアリーを確固たる理由もなく自費で監禁し続けました。
なぜかといえば、メアリーはカトリックでイングランド国内で反乱の火種になりかねない存在だし、メアリーが行きたいと希望していたフランスやスペインに亡命させれば、カトリックの反イングランド勢力の中心的存在に祭り上げられる恐れがあったためなのです。一方、スコットランドでは、幼い息子ジェームス6世の摂政の庶兄マリ伯(マレー伯の爵位ももらった)が、権力保持のためにメアリーの帰還を妨害し、ジェームズにも母メアリーの悪口を吹き込んでいたということで、メアリーはどこにも行く場所がなかったのは確かでしょう。
そして幽閉が長引けば長引くほどメアリーも、エリザベス1世への憎しみを募らせるようになり、イングランド王位継承権を主張し、エリザベス1世を廃位、暗殺の陰謀に関係したということで、1570年にはリドルフィ事件、1586年にはカトリックでメアリーの小姓だった、アンソニー・バビントンがエリザベス1世の暗殺を狙ったバビントン事件が起り、この裁判で、メアリーが関与した証拠が提示されて、ついに有罪となり死刑を言い渡されました。
エリザベス1世は死刑執行書への署名を渋ったものの、結局は1587年2月8日、フォザリンゲイ城のグレートホールでメアリーは42歳で斬首の刑に。尚、この事態を受けたことで、スペイン王フェリペ2世は、無敵艦隊アルマダをイングランドへ派遣して、アルマダの海戦が勃発しました。
エリザベス1世がメアリーを警戒した理由は
現代から見るとエリザベス1世はイギリスの繁栄を築いた押しも押されもしない名君ですが、当時は王位継承権について弱味を持っていたんですね。
ローマ教皇は依然として父ヘンリー8世と最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの離婚を認めておらず、ヘンリー8世も、遺言状には「エリザベスにイングランド王位を継がせる」と書いていたが、その前に自ら「エリザベスは嫡出子ではない」と宣言した時期もあったしで、前述のようにローマ教皇やカトリック国の王たちからはエリザベスは非嫡出子とされ、メアリーが正当なイングランド王位継承権の持ち主とされていたそう。
そしてメアリーがフランス王太子と結婚時、メアリーはフランスで2通の結婚契約書にサインしたのですが、1通には夫のフランソワをスコットランド王として即位させること(実際、フランソワはスコットランド王と呼ばれていた)と、義父アンリ2世の死後はフランスとスコットランド両国を統合すること。
また将来メアリーとフランソワの間に生まれる最初の王子も引き続き両国を統治、生まれたのが女子のみならば、サリカ法典適応のためフランス国王とはなれず、王女はスコットランドだけを統治。フランソワの弟、その子孫がフランス国王になるというもの。
そしてもう1通の極秘契約書は、もしメアリーが子供を産まずに死去した場合、スコットランドに加えてイングランドの王位継承権もフランスに譲渡するという内容だったということで、この結婚契約書が明らかになると、メアリーとエリザベスとの間に深い確執が起きたのは当然と言えば当然のことかも。
選んだ再婚相手が最悪で、その後は悲劇へまっしぐら
メアリー・ステュアートは生後6日でスコットランド女王に即位、しかし内乱のために5歳の時に母の母国フランスへ送られて育てられ、王太子と婚約、フランス王妃となりました。フランス宮廷は当時はスコットランドとは比べ物にならない洗練されたところで、メアリーはそこで教養やセンスを身に着け、愛されて美しく成長しましたが、夫が早世したため、18歳でスコットランドへ帰国。
スコットランド女王として国を治めて再婚することに。しかし、見かけはイケメンで家柄も立派だが人間的に不適格なドラ息子を選んでしまい、息子は生まれたものの数カ月で破局に。そして夫はメアリーが黙認して貴族が謀殺、その相手とメアリーは再婚、内乱となって敗れたメアリーはイングランドへ亡命、エリザベス1世の庇護下という名の幽閉生活に突入。結局、メアリーは24歳から18年間幽閉生活を送り、その間一度も会うことがなかったエリザベス1世暗殺の謀議に加担し(謀略という話も)、裁判で有罪となり処刑。
しかしメアリーは死の数年前に「わが終わりにわが始まりあり」との謎の言葉を残したということで、この予言はやがて息子ジェームズがエリザベスの死後イングランド王位を継承しスコットランドとイングランドの連合王国が実現、メアリーの子孫たちがイングランド国王となることで成就。
生まれながらの女王で美しく成長したが、悲劇性に満ちたメアリーの生涯は、クィーンオブスコッツと呼ばれ映画や演劇の題材になり、現在に至るまで人々の関心の的となっているのであります。