
3-1、メアリー女王、親政と再婚問題
作者不明 – http://www.arthermitage.org/Painting/Portrait-of-Maria-Stuart.big.html, パブリック・ドメイン, リンクによる
1561年にメアリーはフランスを去って、13年ぶりにスコットランドに帰国。当時のスコットランドはプロテスタントとカトリックの対立が激化し、国民のほとんどが新教徒という状態でした。なのでカトリックの女王メアリーの帰国を迎える空気は歓迎にはほど遠いものであり、メアリーはスコットランド国民に外国人とすら思われていたらしいです。また、メアリーの帰国早々には、有名な狂信的な宗教改革者ジョン・ノックスが、メアリーにカトリックからプロテスタントへの改宗を迫ったこともあったが、メアリーの信仰はゆらぐことはなかったそう。
そしてメアリーは国内を馬に乗って周遊し、国民に美貌やフランス仕込みの優雅なマナーを披露したことや、20歳そこそこのうら若い未亡人という立場などから、しだいに国民の感情もメアリー支持に変化していったということ。
3-2、メアリー、庶兄のマリ伯を政治顧問に
メアリーは父の庶子で異母兄、プロテスタントのマリ伯ジェームズ・ステュアートとウィリアム・メイトランドを政治顧問にして、スコットランド親政を開始しました。この当時のスコットランドは宗教改革が進み、マリ伯とメイトランドと同様に多くの貴族がプロテスタントに改宗したが、カトリックの貴族も相当数残っている状態で、メアリーは宗教の選択には寛容な態度で臨むと宣言し、両派の融和を図る姿勢でした。
3-3、メアリー女王、再婚相手を検討
メアリーは未亡人とはいえまだ20代になったばかりなので、再婚相手の検討が開始されました。候補として名前が挙がったのは、オーストリアのカール大公、スウェーデンのエリク14世、デンマークのフレゼリク2世、フランスのヌムール公ジャック・ド・サヴォワなど。
メアリーは相手の性格とか容姿よりも財産や国を持っている人物に関心を示したといわれていて、特に関心を持ったのはカトリック国でもあるスペインの国王フェリペ2世の息子ドン・カルロスだったそう。しかし、元の義母フランス皇太后のカトリーヌ・ド・メディシスやエリザベス1世が、大国とスコットランドとの結びつきに警戒して妨害したなど、色々な理由で結婚には至らず。
そしてメアリーは、1565年2月18日に出会ったステュアート家傍系の従弟ダーンリー卿ヘンリーに一目ぼれし、結婚を考えるように。
Unidentified painter – http://www.magnoliabox.com/art/525669/Henry_Stuart_Lord_Darnley_1545_-_1567_Consort_of_Mary_Queen_of, パブリック・ドメイン, リンクによる
ダーンリー卿ヘンリーとは
メアリーはフランス王妃で王太后、再婚相手もヨーロッパの王族がほとんどのため、ダーンリー卿ってスコットランドの貴族かと思いがちですよね。でもダーンリー卿ヘンリーの父レノックス伯は、父系では王家の先祖と同じ第4代王室執事長アレグザンダー・ステュアートの末裔なので、ステュアート王家の一員、日本では宮家とか徳川御三家みたいなものでしょう。
そして父方の祖母エリザベス・ハミルトンは、スコットランド王ジェームズ2世の外孫なのでスコットランド王位継承権も持っているんですよ。そのうえにダーンリー卿の母マーガレットはヘンリー8世の姉マーガレットとアンガス伯アーチボルド・ダグラスの娘なので、女王メアリーの父ジェームズ5世の異父妹というつながりと、なんとイングランド王位継承権も持っていた人なのです。尚、ダーンリー卿の母マーガレット・ダグラスは野心家で、息子ダーンリー卿とメアリー女王を接近させようと画策し1560年にフランスにメアリーの夫フランソワ2世の弔問にダーンリー卿を赴かせたということ。
ダーンリー卿はメアリーより4歳年下で、180wp_もあったメアリーよりも長身で均整のとれたすらっとした体つき、洗練された優雅な物腰で陽気な性格で、メアリーと同じく狩猟好きでリュートも弾けるし詩やダンスも得意と、共通点がいっぱいでメアリーのタイプ、なによりカトリックで前述のようなメアリーとは親戚の家柄も都合がよかったんですね。
4-1、メアリー、ダーンリー卿と結婚
しかしこの結婚は、スコットランド内でもメアリーの庶兄マリ伯らが、それにエリザベス1世が強硬に反対したということです。エリザベス1世は、メアリーがイングランド王位継承権を持つダーンリー卿と結婚することで、メアリーの王位継承権が強化されること、このふたりの間に生まれる子供がスコットランドとイングランドの王位継承権を得るのが脅威だったんですね。
そして1565年7月29日、メアリーはダーンリー卿ヘンリーと再婚。メアリーは夫となったダーンリー卿ヘンリーに、多くの貴族の反感を買ってまでダーンリー卿が熱望していた王族にしか与えられないロス伯、オールバニ公の爵位を与えたうえ、スコットランド王の称号も与えたのです。
尚、8月1日に庶兄マリ伯は、エリザベス1世の援助を得てメアリー夫妻に対して反乱を起こし、メアリーとダーンリーも戦場に向かったが、ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンが鎮圧し、マリ伯らはイングランドに亡命。
4-2、ダーンリー卿とメアリー、すぐに破局に
しかし結婚後間もなく夫のダーンリー卿は、両親から甘やかされて育った非常なエゴイストで、野心家であるという本性をあらわしてきました。ダーンリー卿はメアリーに盛んに共同統治者との地位と完全な実権を与えるよう要求、そして浮気もするしと、ダーンリー卿の傲慢な態度は露わになり、メアリーは軽率な結婚を後悔、周囲の人たちも怒るように。11月にダーンリー卿はメアリーが病気になっても、ほんの数分見舞っただけで狩猟に行き、9日も帰って来なかったため、メアリーは12月にダーンリー卿から国王の称号を取り上げ、2人の顔を彫らせた銀貨も回収。
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