今回はメアリー・ステュアートを取り上げるぞ。スコットランド女王だっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパの歴史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパの歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、メアリー・ステュアートについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、メアリー・ステュアートはスコットランドの生まれ

メアリー・ステュアートは、1542年12月8日、スコットランドのリンリスゴー城で生まれました。メアリーの父はスコットランド国王ジェームズ5世で、母はフランスのギーズ公爵の娘メアリーオブギーズ、メアリーの同母兄は2人とも夭折してメアリーは第3子。

アントニア・フレイザー著「スコットランド女王メアリー」によると、メアリーの父ジェームズ5世には少なくとも9人の庶子がいたということで、そのうちのひとりがメアリーより12歳年上のマリ伯ジェームズ・ステュアート。

1-2、メアリーの華麗なる家系

メアリーの父ジェームズ5世の母でメアリーの祖母はジェームズ4世の王妃マーガレット・テューダーで、イギリスのヘンリー7世の王女、あのヘンリー8世の姉にあたります。そしてメアリーの母メアリーはフランス名をマリー・ド・ギーズといい、フランスの超有力貴族で王室に近いギーズ公爵家の娘。また、父のジェームズ5世はメアリーの母の前にフランス国王フランソワ1世の娘と結婚したが16歳で亡くなったために、フランスとの同盟関係を考えて、未亡人だったメアリーの母が22歳で再婚したという事情がありました。

ということで、メアリーはスコットランド女王でありながら、父方祖母を通じてイングランドの王位継承権を持ち、母方からフランス王室と近い関係だということがわかりますよね。

尚、メアリーの祖父ジェームズ4世が亡くなり、未亡人となったマーガレット・チュダーは、第6代アンガス伯アーチボルド・ダグラス再婚してマーガレットという娘を生み、マーガレットはレノックス伯と結婚して生まれたのが、メアリーの2度目の夫ダーンリー卿ヘンリー・ステュアートということも、あとで重要になってきますよ。

1-3、メアリー、生後6日で女王に即位

メアリーが生まれた6日後、父ジェームズ5世が30歳で急死。メアリー王女はわずか生後6日で女王に即位し、摂政は最初はジェームズ2世の曾孫で第2代アラン伯爵ジェームズ・ハミルトンが、後に母のメアリー(ややこしいので、以後はマリー・ド・ギーズ)が就任したということ。

1-4、メアリー女王、ヘンリー8世の息子と婚約

君主が若くして亡くなり幼い跡継ぎが継承すると、臣下の貴族たちの統率が取れず、外敵も襲ってきてややこしくなるのが常ですが、メアリーの場合もそうでした。そしてメアリーにとって祖母の弟で大叔父にあたるイングランドのヘンリー8世は、メアリーと、やっと生まれた自分の跡継ぎのエドワード皇太子(当時5歳)とを結婚させるために、スコットランド貴族を買収したりと画策し、メアリーとエドワードの婚約の成立にこぎつけたのですね。

2-1、メアリー、フランス宮廷へ

しかしメアリーの母で皇太后のマリー・ド・ギーズはカトリック教徒でもあり、当然のことながら王妃をとっかえひっかえしてそのうちの2人を処刑したヘンリー8世に対して強い警戒心を持っていたため、幼いメアリー女王を修道院に匿って育てました。

しかし1547年にヘンリー8世が亡くなった後、イングランドの政権を握って護国卿となったエドワード6世の伯父でジェーン・シーモアの兄のサマセット公の攻撃を受け、迎撃したスコットランド軍のアラン伯が敗れたことと、スコットランド国内の親イングランド派貴族の中にもイングランド軍協力者がいたため、皇太后マリー・ド・ギーズはフランスに援軍要請。

フランス王アンリ2世がメアリーをフランスに送って皇太子フランソワと結婚させるという条件を提示したんですね。マリー・ド・ギーズにとってはやはりフランスは母国なので、1548年7月、スコットランドとフランス両国間でハディントン条約が締結され、メアリーのフランス行きが決定。数千のフランス軍がスコットランド各地の城砦に駐留して、南部のイングランド侵略軍と対峙したので、1年後にはイングランド軍も本国に撤収。

そしてメアリーは5歳で母と別れて、遊び友達兼侍女を務める同年齢でスコットランド貴族の娘から選ばれた「4人のメアリー」とともにフランスへ行き、フランスのフランソワ王太子と婚約。メアリーは以後、母方祖母のアントワネット・ド・ギーズ、それにアンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスとアンリ2世の愛人ディアーヌ・ド・ポアティエの宮廷で、カトリーヌの子供たちと一緒に育てられたのです。

2-2、当時のフランス宮廷

6世紀なかばのフランス宮廷は、ヨーロッパの宮廷の中でも最も洗練され華やかだったということで、ルネサンス真っ只中。カトリーヌ・ド・メディシスがイタリアから持ち込んだ洗練されたお料理やマナーが、フランスでも定着しつつあり、中世の騎士道精神とルネサンスの華麗な古典文化が一つになっていたそうです。

メアリーはスコットランドの女王のうえに母方の有力貴族ギーズ公爵がバックにいたしで、誰からも大切にされ甘やかされて育つんですね。またメアリー自身も愛くるしく賢さを発揮し、未来のフランス王妃として、フランス語、イタリア語、スペイン語にラテン語、ギリシア語も学び、詩を書き、刺繍もでき、馬術もうまいアウトドア派として、義父となるアンリ2世にも可愛がられ、未来の夫であるフランソワとその妹エリザベートと大の仲良しとしてのびのびと成長することに。

2-3、メアリー、フランス王太子と結婚

1558年4月、15歳になったメアリーは、予定通りにパリのノートルダム寺院で14歳のフランソワ王太子と、フランスでは200年ぶりという王太子の豪華絢爛な結婚式を挙行。病弱で常に耳から膿を出していたというフランソワ皇太子は180wp_の長身で美貌のメアリーに5歳の時からぞっこんで、いつも後ろをついて歩いていたといわれるほどだし、メアリーは子供の頃から人に愛されたいと願う子供だったので、病弱なフランソワとも仲睦まじかったといわれています。

2-4、エリザベス1世との対決開始

メアリーが正式にフランス王太子妃となった同じ年の11月、メアリーからみると、父ジェームズ5世の従妹でヘンリー8世の次女のエリザベス1世がイングランド女王に即位しました。するとメアリーの義父であるフランス国王アンリ2世は、庶子であるエリザベスの王位継承権に異議を唱え、メアリーこそが正当なイングランド王位継承権者と抗議したということで、さらに、1559年9月のフランスとイングランドの講和条約締結の後、駐仏イングランド大使を招いた祝宴の席で、メアリーがイングランド王位継承権者と示す紋章(イングランドの象徴である金の獅子入り)を発表して、エリザベス1世を激怒させるんですね。

2-5、メアリー、フランス王妃に

そして1559年7月10日にアンリ2世が、あのモンゴメリー伯とのトーナメントで重傷を負って亡くなった後、王太子フランソワがフランソワ2世として即位し、メアリーはフランス王妃になりました。この年から翌年にかけてスコットランドではプロテスタントの反乱が起こり、これにイングランドが介入し、フランス海軍は大打撃を受けたのですが、7月6日、エディンバラ条約が締結されたときに、フランスのスコットランドへの軍事介入の禁止、メアリーのイングランド王位継承者とする紋章の使用禁止が盛り込まれたが、メアリーはその後もこの紋章を使用し続けたそう。

その頃は、イングランド国内でもエリザベス1世の王位継承に不満を持つ大貴族がいたこと、そしてローマ教皇を含めた多くのカトリックの有力者は、メアリーがイングランド女王と考えていたこともあって、エリザベス1世の王位はまだ不安定。そのせいでメアリーがエリザベスを庶子として、自分のイングランド王位継承権の正当性を主張するのは、エリザベス1世の政権を揺るがす事態になりかねない重要問題でした。

2-6、フランソワとメアリー

Francois Second Mary Stuart.jpg
不明 - http://www.blastmilk.com/decollete/gallery/tudor/maryqosandfrancis-thumb.jpg From Catherine de' Medici's Book of Hours, パブリック・ドメイン, リンクによる

6才にならないうちに王太子フランソワの婚約者としてフランスに連れてこられ、宮廷で一緒に育った2人は仲が良く、メアリーは病身の夫に優しく連れ添いました。

フランソワ2世は生まれつき極度に病弱な体質で、あらゆる病気を患ったということですが、自分の弱さを克服したい、人気者の美しい妻メアリーに遅れをとるまいとする思いは強く、焦りもあって、激しい運動や狩に自分を駆り立てたりしたという話もあって無理したみたいで、1560年、フランソワ2世は16歳の若さで死去

2-7、メアリー、未亡人となりスコットランドへ帰国

image by PIXTA / 57925224

1560年フランソワ2世が亡くなり、メアリーは18歳で未亡人、王太后に。フランソワ2世との間に子どもがなかったこと、しかもフランソワの死から半年もたたず、スコットランドで摂政だった母のマリー・ド・ギーズが亡くなったために、スコットランドへ帰国することに。

\次のページで「3-1、メアリー女王、親政と再婚問題」を解説!/

3-1、メアリー女王、親政と再婚問題

Mary Queen of Scots from Hermitage.jpg
作者不明 - http://www.arthermitage.org/Painting/Portrait-of-Maria-Stuart.big.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

1561年にメアリーはフランスを去って、13年ぶりにスコットランドに帰国。当時のスコットランドはプロテスタントとカトリックの対立が激化し、国民のほとんどが新教徒という状態でした。なのでカトリックの女王メアリーの帰国を迎える空気は歓迎にはほど遠いものであり、メアリーはスコットランド国民に外国人とすら思われていたらしいです。また、メアリーの帰国早々には、有名な狂信的な宗教改革者ジョン・ノックスが、メアリーにカトリックからプロテスタントへの改宗を迫ったこともあったが、メアリーの信仰はゆらぐことはなかったそう。

そしてメアリーは国内を馬に乗って周遊し、国民に美貌やフランス仕込みの優雅なマナーを披露したことや、20歳そこそこのうら若い未亡人という立場などから、しだいに国民の感情もメアリー支持に変化していったということ。

3-2、メアリー、庶兄のマリ伯を政治顧問に

 メアリーは父の庶子で異母兄、プロテスタントのマリ伯ジェームズ・ステュアートとウィリアム・メイトランドを政治顧問にして、スコットランド親政を開始しました。この当時のスコットランドは宗教改革が進み、マリ伯とメイトランドと同様に多くの貴族がプロテスタントに改宗したが、カトリックの貴族も相当数残っている状態で、メアリーは宗教の選択には寛容な態度で臨むと宣言し、両派の融和を図る姿勢でした。

3-3、メアリー女王、再婚相手を検討

メアリーは未亡人とはいえまだ20代になったばかりなので、再婚相手の検討が開始されました。候補として名前が挙がったのは、オーストリアのカール大公、スウェーデンのエリク14世、デンマークのフレゼリク2世、フランスのヌムール公ジャック・ド・サヴォワなど。

メアリーは相手の性格とか容姿よりも財産や国を持っている人物に関心を示したといわれていて、特に関心を持ったのはカトリック国でもあるスペインの国王フェリペ2世の息子ドン・カルロスだったそう。しかし、元の義母フランス皇太后のカトリーヌ・ド・メディシスやエリザベス1世が、大国とスコットランドとの結びつきに警戒して妨害したなど、色々な理由で結婚には至らず。
そしてメアリーは、1565年2月18日に出会ったステュアート家傍系の従弟ダーンリー卿ヘンリーに一目ぼれし、結婚を考えるように。

Henry Stuart, Lord Darnley.jpg
Unidentified painter - http://www.magnoliabox.com/art/525669/Henry_Stuart_Lord_Darnley_1545_-_1567_Consort_of_Mary_Queen_of, パブリック・ドメイン, リンクによる

ダーンリー卿ヘンリーとは
メアリーはフランス王妃で王太后、再婚相手もヨーロッパの王族がほとんどのため、ダーンリー卿ってスコットランドの貴族かと思いがちですよね。でもダーンリー卿ヘンリーの父レノックス伯は、父系では王家の先祖と同じ第4代王室執事長アレグザンダー・ステュアートの末裔なので、ステュアート王家の一員、日本では宮家とか徳川御三家みたいなものでしょう。

そして父方の祖母エリザベス・ハミルトンは、スコットランド王ジェームズ2世の外孫なのでスコットランド王位継承権も持っているんですよ。そのうえにダーンリー卿の母マーガレットはヘンリー8世の姉マーガレットとアンガス伯アーチボルド・ダグラスの娘なので、女王メアリーの父ジェームズ5世の異父妹というつながりと、なんとイングランド王位継承権も持っていた人なのです。尚、ダーンリー卿の母マーガレット・ダグラスは野心家で、息子ダーンリー卿とメアリー女王を接近させようと画策し1560年にフランスにメアリーの夫フランソワ2世の弔問にダーンリー卿を赴かせたということ。

ダーンリー卿はメアリーより4歳年下で、180wp_もあったメアリーよりも長身で均整のとれたすらっとした体つき、洗練された優雅な物腰で陽気な性格で、メアリーと同じく狩猟好きでリュートも弾けるし詩やダンスも得意と、共通点がいっぱいでメアリーのタイプ、なによりカトリックで前述のようなメアリーとは親戚の家柄も都合がよかったんですね。

4-1、メアリー、ダーンリー卿と結婚

しかしこの結婚は、スコットランド内でもメアリーの庶兄マリ伯らが、それにエリザベス1世が強硬に反対したということです。エリザベス1世は、メアリーがイングランド王位継承権を持つダーンリー卿と結婚することで、メアリーの王位継承権が強化されること、このふたりの間に生まれる子供がスコットランドとイングランドの王位継承権を得るのが脅威だったんですね。

そして1565年7月29日、メアリーはダーンリー卿ヘンリーと再婚。メアリーは夫となったダーンリー卿ヘンリーに、多くの貴族の反感を買ってまでダーンリー卿が熱望していた王族にしか与えられないロス伯、オールバニ公の爵位を与えたうえ、スコットランド王の称号も与えたのです。

尚、8月1日に庶兄マリ伯は、エリザベス1世の援助を得てメアリー夫妻に対して反乱を起こし、メアリーとダーンリーも戦場に向かったが、ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンが鎮圧し、マリ伯らはイングランドに亡命。

4-2、ダーンリー卿とメアリー、すぐに破局に

しかし結婚後間もなく夫のダーンリー卿は、両親から甘やかされて育った非常なエゴイストで、野心家であるという本性をあらわしてきました。ダーンリー卿はメアリーに盛んに共同統治者との地位と完全な実権を与えるよう要求、そして浮気もするしと、ダーンリー卿の傲慢な態度は露わになり、メアリーは軽率な結婚を後悔、周囲の人たちも怒るように。11月にダーンリー卿はメアリーが病気になっても、ほんの数分見舞っただけで狩猟に行き、9日も帰って来なかったため、メアリーは12月にダーンリー卿から国王の称号を取り上げ、2人の顔を彫らせた銀貨も回収。

\次のページで「4-3、メアリーの側近、リッチオ殺害事件」を解説!/

4-3、メアリーの側近、リッチオ殺害事件

そしてメアリーはピエモンテ人の音楽家デビッド・リッチオが有能だったために側近にし、秘書として重用するようになったのですが、ダーンリー卿は翌1566年3月、嫉妬からメアリーに反感を持つ貴族たちと共謀して、当時妊娠6カ月だったメアリーの目の前でリッチオを殺害。

このリッチオはメアリーの浮気相手のようにいわれますが、「スコットランド女王メアリー」によると、リッチオは背中が曲がった醜い容姿で、フランスやイタリアの話が通じるメアリーの話相手、恋愛対象ではなかったということで、もちろん息子ジェームズの本当の父親という噂も否定されてました。

4-4、メアリー、跡継ぎの王子を出産

1566年11月、メアリーは長男ジェームス王子(のちのジェームズ6世、ジェームズ1世)を出産。そしてメアリーは、精力的な軍人ボスウェル伯ら貴族が集まり、反抗的で傍若無人の振る舞いが激しくなった夫、ダーンリー卿への対策を練るのを黙認したのですね。この時点でメアリーは母スウェル伯と恋愛関係になったようにいわれますが、そうではなかったよう。しかしボスウェル伯の方はメアリーとの結婚でスコットランド王になる野心を持っていたと言われています。

4-5、ダーンリー卿の死、ボスウェル伯との再婚と廃位

James Hepburn, 4th Earl of Bothwell, c 1535 - 1578. Third husband of Mary Queen of Scots - Google Art Project.jpg
Unknown (Scottish) - iQFMpXROf6j7Ig at Google Cultural Institute maximum zoom level, パブリック・ドメイン, リンクによる

メアリーは息子ジェームズの洗礼式を行い、病気になったダーンリー卿を看病するなど一時的に関係回復しましたが、1567年2月10日、病気回復のお祝いの後、ダーンリー卿の宿舎の建物は爆破されたが、ダーンリー卿は爆破に巻き込まれず絞殺体で発見されるという謎の事件で暗殺されました。

当時、ダーンリー卿殺害の首謀者はボスウェル伯、共謀者はメアリーであると見られたが、ボスウェル伯は裁判で無罪となり、メアリーは夫ダーンリー卿の葬儀後40日の喪に服したのちに、ボスウェル伯がメアリーに結婚を申し込み、数日後ダンバー城にメアリーを連行して結婚に踏み切らせ、5月15日に結婚式が挙行。メアリーは、プロテスタント式で行われた結婚式が不満で幸せそうな様子がなかったということで、ボスウェル伯への愛ではなくスコットランドを共同統治してくれる相手が必要だったよう。

そしてカトリック、プロテスタントの貴族たち双方が結婚に反対し、第4代モートン伯爵ジェイムズ・ダグラスなどの、反ボスウェル伯派の貴族たちが反乱を起こし、敗色濃厚になるとボスウェル伯は逃亡、6月15日、メアリーは反乱軍に投降してロッホ・リーヴン城に軟禁されました

。そして7月26日に1歳の息子ジェームズ王子への退位を要求され、ジェームズの教育を数名の貴族に任せる、マリ伯を摂政に任命する条件で、命の保証はないという脅迫のもとで無理矢理署名させられてスコットランド女王を退位。尚、ボスウェル伯はその後デンマークで逮捕されて約10年後に狂死。

4-6、メアリー、脱走して兵をあげるが敗北

1568年5月、ロッホ・リーヴン城を脱走したメアリーは6千人の兵を集めて軍を起こすが、マリ伯の軍に敗れ、イングランドのエリザベス1世の元に亡命。捕らえられたメアリーはエリザベス1世によって幽閉の身となり、その後18年間にわたってイングランドの北部や中部の城を、囚人とも客人ともいえる軟禁状態として転々としました。

4-7、メアリー、エリザベス1世暗殺陰謀関与で処刑

最初はメアリーは楽観的に、エリザベス1世が女王として復権に助力してくれると信じていたみたいですが、エリザベス1世はメアリーの夫殺しの疑惑を盾にして、メアリーを確固たる理由もなく自費で監禁し続けました。

なぜかといえば、メアリーはカトリックでイングランド国内で反乱の火種になりかねない存在だし、メアリーが行きたいと希望していたフランスやスペインに亡命させれば、カトリックの反イングランド勢力の中心的存在に祭り上げられる恐れがあったためなのです。一方、スコットランドでは、幼い息子ジェームス6世の摂政の庶兄マリ伯(マレー伯の爵位ももらった)が、権力保持のためにメアリーの帰還を妨害し、ジェームズにも母メアリーの悪口を吹き込んでいたということで、メアリーはどこにも行く場所がなかったのは確かでしょう。

そして幽閉が長引けば長引くほどメアリーも、エリザベス1世への憎しみを募らせるようになり、イングランド王位継承権を主張し、エリザベス1世を廃位、暗殺の陰謀に関係したということで、1570年にはリドルフィ事件、1586年にはカトリックでメアリーの小姓だった、アンソニー・バビントンがエリザベス1世の暗殺を狙ったバビントン事件が起り、この裁判で、メアリーが関与した証拠が提示されて、ついに有罪となり死刑を言い渡されました。

エリザベス1世は死刑執行書への署名を渋ったものの、結局は1587年2月8日、フォザリンゲイ城のグレートホールでメアリーは42歳で斬首の刑に。尚、この事態を受けたことで、スペイン王フェリペ2世は、無敵艦隊アルマダをイングランドへ派遣して、アルマダの海戦が勃発しました。

エリザベス1世がメアリーを警戒した理由は
現代から見るとエリザベス1世はイギリスの繁栄を築いた押しも押されもしない名君ですが、当時は王位継承権について弱味を持っていたんですね。

ローマ教皇は依然として父ヘンリー8世と最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの離婚を認めておらず、ヘンリー8世も、遺言状には「エリザベスにイングランド王位を継がせる」と書いていたが、その前に自ら「エリザベスは嫡出子ではない」と宣言した時期もあったしで、前述のようにローマ教皇やカトリック国の王たちからはエリザベスは非嫡出子とされ、メアリーが正当なイングランド王位継承権の持ち主とされていたそう。

そしてメアリーがフランス王太子と結婚時、メアリーはフランスで2通の結婚契約書にサインしたのですが、1通には夫のフランソワをスコットランド王として即位させること(実際、フランソワはスコットランド王と呼ばれていた)と、義父アンリ2世の死後はフランスとスコットランド両国を統合すること。

また将来メアリーとフランソワの間に生まれる最初の王子も引き続き両国を統治、生まれたのが女子のみならば、サリカ法典適応のためフランス国王とはなれず、王女はスコットランドだけを統治。フランソワの弟、その子孫がフランス国王になるというもの。

そしてもう1通の極秘契約書は、もしメアリーが子供を産まずに死去した場合、スコットランドに加えてイングランドの王位継承権もフランスに譲渡するという内容だったということで、この結婚契約書が明らかになると、メアリーとエリザベスとの間に深い確執が起きたのは当然と言えば当然のことかも。

選んだ再婚相手が最悪で、その後は悲劇へまっしぐら

メアリー・ステュアートは生後6日でスコットランド女王に即位、しかし内乱のために5歳の時に母の母国フランスへ送られて育てられ、王太子と婚約、フランス王妃となりました。フランス宮廷は当時はスコットランドとは比べ物にならない洗練されたところで、メアリーはそこで教養やセンスを身に着け、愛されて美しく成長しましたが、夫が早世したため、18歳でスコットランドへ帰国。

スコットランド女王として国を治めて再婚することに。しかし、見かけはイケメンで家柄も立派だが人間的に不適格なドラ息子を選んでしまい、息子は生まれたものの数カ月で破局に。そして夫はメアリーが黙認して貴族が謀殺、その相手とメアリーは再婚、内乱となって敗れたメアリーはイングランドへ亡命、エリザベス1世の庇護下という名の幽閉生活に突入。結局、メアリーは24歳から18年間幽閉生活を送り、その間一度も会うことがなかったエリザベス1世暗殺の謀議に加担し(謀略という話も)、裁判で有罪となり処刑。

しかしメアリーは死の数年前に「わが終わりにわが始まりあり」との謎の言葉を残したということで、この予言はやがて息子ジェームズがエリザベスの死後イングランド王位を継承しスコットランドとイングランドの連合王国が実現、メアリーの子孫たちがイングランド国王となることで成就。

生まれながらの女王で美しく成長したが、悲劇性に満ちたメアリーの生涯は、クィーンオブスコッツと呼ばれ映画や演劇の題材になり、現在に至るまで人々の関心の的となっているのであります。

" /> スコットランドの悲劇の女王「メアリー・ステュアート(メアリー女王 )」をわかりやすく歴女が解説 – Study-Z
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スコットランドの悲劇の女王「メアリー・ステュアート(メアリー女王 )」をわかりやすく歴女が解説

今回はメアリー・ステュアートを取り上げるぞ。スコットランド女王だっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパの歴史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパの歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、メアリー・ステュアートについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、メアリー・ステュアートはスコットランドの生まれ

メアリー・ステュアートは、1542年12月8日、スコットランドのリンリスゴー城で生まれました。メアリーの父はスコットランド国王ジェームズ5世で、母はフランスのギーズ公爵の娘メアリーオブギーズ、メアリーの同母兄は2人とも夭折してメアリーは第3子。

アントニア・フレイザー著「スコットランド女王メアリー」によると、メアリーの父ジェームズ5世には少なくとも9人の庶子がいたということで、そのうちのひとりがメアリーより12歳年上のマリ伯ジェームズ・ステュアート。

1-2、メアリーの華麗なる家系

メアリーの父ジェームズ5世の母でメアリーの祖母はジェームズ4世の王妃マーガレット・テューダーで、イギリスのヘンリー7世の王女、あのヘンリー8世の姉にあたります。そしてメアリーの母メアリーはフランス名をマリー・ド・ギーズといい、フランスの超有力貴族で王室に近いギーズ公爵家の娘。また、父のジェームズ5世はメアリーの母の前にフランス国王フランソワ1世の娘と結婚したが16歳で亡くなったために、フランスとの同盟関係を考えて、未亡人だったメアリーの母が22歳で再婚したという事情がありました。

ということで、メアリーはスコットランド女王でありながら、父方祖母を通じてイングランドの王位継承権を持ち、母方からフランス王室と近い関係だということがわかりますよね。

尚、メアリーの祖父ジェームズ4世が亡くなり、未亡人となったマーガレット・チュダーは、第6代アンガス伯アーチボルド・ダグラス再婚してマーガレットという娘を生み、マーガレットはレノックス伯と結婚して生まれたのが、メアリーの2度目の夫ダーンリー卿ヘンリー・ステュアートということも、あとで重要になってきますよ。

1-3、メアリー、生後6日で女王に即位

メアリーが生まれた6日後、父ジェームズ5世が30歳で急死。メアリー王女はわずか生後6日で女王に即位し、摂政は最初はジェームズ2世の曾孫で第2代アラン伯爵ジェームズ・ハミルトンが、後に母のメアリー(ややこしいので、以後はマリー・ド・ギーズ)が就任したということ。

1-4、メアリー女王、ヘンリー8世の息子と婚約

君主が若くして亡くなり幼い跡継ぎが継承すると、臣下の貴族たちの統率が取れず、外敵も襲ってきてややこしくなるのが常ですが、メアリーの場合もそうでした。そしてメアリーにとって祖母の弟で大叔父にあたるイングランドのヘンリー8世は、メアリーと、やっと生まれた自分の跡継ぎのエドワード皇太子(当時5歳)とを結婚させるために、スコットランド貴族を買収したりと画策し、メアリーとエドワードの婚約の成立にこぎつけたのですね。

2-1、メアリー、フランス宮廷へ

しかしメアリーの母で皇太后のマリー・ド・ギーズはカトリック教徒でもあり、当然のことながら王妃をとっかえひっかえしてそのうちの2人を処刑したヘンリー8世に対して強い警戒心を持っていたため、幼いメアリー女王を修道院に匿って育てました。

しかし1547年にヘンリー8世が亡くなった後、イングランドの政権を握って護国卿となったエドワード6世の伯父でジェーン・シーモアの兄のサマセット公の攻撃を受け、迎撃したスコットランド軍のアラン伯が敗れたことと、スコットランド国内の親イングランド派貴族の中にもイングランド軍協力者がいたため、皇太后マリー・ド・ギーズはフランスに援軍要請。

フランス王アンリ2世がメアリーをフランスに送って皇太子フランソワと結婚させるという条件を提示したんですね。マリー・ド・ギーズにとってはやはりフランスは母国なので、1548年7月、スコットランドとフランス両国間でハディントン条約が締結され、メアリーのフランス行きが決定。数千のフランス軍がスコットランド各地の城砦に駐留して、南部のイングランド侵略軍と対峙したので、1年後にはイングランド軍も本国に撤収。

そしてメアリーは5歳で母と別れて、遊び友達兼侍女を務める同年齢でスコットランド貴族の娘から選ばれた「4人のメアリー」とともにフランスへ行き、フランスのフランソワ王太子と婚約。メアリーは以後、母方祖母のアントワネット・ド・ギーズ、それにアンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスとアンリ2世の愛人ディアーヌ・ド・ポアティエの宮廷で、カトリーヌの子供たちと一緒に育てられたのです。

2-2、当時のフランス宮廷

6世紀なかばのフランス宮廷は、ヨーロッパの宮廷の中でも最も洗練され華やかだったということで、ルネサンス真っ只中。カトリーヌ・ド・メディシスがイタリアから持ち込んだ洗練されたお料理やマナーが、フランスでも定着しつつあり、中世の騎士道精神とルネサンスの華麗な古典文化が一つになっていたそうです。

メアリーはスコットランドの女王のうえに母方の有力貴族ギーズ公爵がバックにいたしで、誰からも大切にされ甘やかされて育つんですね。またメアリー自身も愛くるしく賢さを発揮し、未来のフランス王妃として、フランス語、イタリア語、スペイン語にラテン語、ギリシア語も学び、詩を書き、刺繍もでき、馬術もうまいアウトドア派として、義父となるアンリ2世にも可愛がられ、未来の夫であるフランソワとその妹エリザベートと大の仲良しとしてのびのびと成長することに。

2-3、メアリー、フランス王太子と結婚

1558年4月、15歳になったメアリーは、予定通りにパリのノートルダム寺院で14歳のフランソワ王太子と、フランスでは200年ぶりという王太子の豪華絢爛な結婚式を挙行。病弱で常に耳から膿を出していたというフランソワ皇太子は180wp_の長身で美貌のメアリーに5歳の時からぞっこんで、いつも後ろをついて歩いていたといわれるほどだし、メアリーは子供の頃から人に愛されたいと願う子供だったので、病弱なフランソワとも仲睦まじかったといわれています。

2-4、エリザベス1世との対決開始

メアリーが正式にフランス王太子妃となった同じ年の11月、メアリーからみると、父ジェームズ5世の従妹でヘンリー8世の次女のエリザベス1世がイングランド女王に即位しました。するとメアリーの義父であるフランス国王アンリ2世は、庶子であるエリザベスの王位継承権に異議を唱え、メアリーこそが正当なイングランド王位継承権者と抗議したということで、さらに、1559年9月のフランスとイングランドの講和条約締結の後、駐仏イングランド大使を招いた祝宴の席で、メアリーがイングランド王位継承権者と示す紋章(イングランドの象徴である金の獅子入り)を発表して、エリザベス1世を激怒させるんですね。

2-5、メアリー、フランス王妃に

そして1559年7月10日にアンリ2世が、あのモンゴメリー伯とのトーナメントで重傷を負って亡くなった後、王太子フランソワがフランソワ2世として即位し、メアリーはフランス王妃になりました。この年から翌年にかけてスコットランドではプロテスタントの反乱が起こり、これにイングランドが介入し、フランス海軍は大打撃を受けたのですが、7月6日、エディンバラ条約が締結されたときに、フランスのスコットランドへの軍事介入の禁止、メアリーのイングランド王位継承者とする紋章の使用禁止が盛り込まれたが、メアリーはその後もこの紋章を使用し続けたそう。

その頃は、イングランド国内でもエリザベス1世の王位継承に不満を持つ大貴族がいたこと、そしてローマ教皇を含めた多くのカトリックの有力者は、メアリーがイングランド女王と考えていたこともあって、エリザベス1世の王位はまだ不安定。そのせいでメアリーがエリザベスを庶子として、自分のイングランド王位継承権の正当性を主張するのは、エリザベス1世の政権を揺るがす事態になりかねない重要問題でした。

2-6、フランソワとメアリー

Francois Second Mary Stuart.jpg
不明http://www.blastmilk.com/decollete/gallery/tudor/maryqosandfrancis-thumb.jpg From Catherine de’ Medici’s Book of Hours, パブリック・ドメイン, リンクによる

6才にならないうちに王太子フランソワの婚約者としてフランスに連れてこられ、宮廷で一緒に育った2人は仲が良く、メアリーは病身の夫に優しく連れ添いました。

フランソワ2世は生まれつき極度に病弱な体質で、あらゆる病気を患ったということですが、自分の弱さを克服したい、人気者の美しい妻メアリーに遅れをとるまいとする思いは強く、焦りもあって、激しい運動や狩に自分を駆り立てたりしたという話もあって無理したみたいで、1560年、フランソワ2世は16歳の若さで死去

2-7、メアリー、未亡人となりスコットランドへ帰国

image by PIXTA / 57925224

1560年フランソワ2世が亡くなり、メアリーは18歳で未亡人、王太后に。フランソワ2世との間に子どもがなかったこと、しかもフランソワの死から半年もたたず、スコットランドで摂政だった母のマリー・ド・ギーズが亡くなったために、スコットランドへ帰国することに。

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