その辺のところをヨーロッパの歴史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
- 1-1、メアリー・ステュアートはスコットランドの生まれ
- 1-2、メアリーの華麗なる家系
- 1-3、メアリー、生後6日で女王に即位
- 1-4、メアリー女王、ヘンリー8世の息子と婚約
- 2-1、メアリー、フランス宮廷へ
- 2-2、当時のフランス宮廷
- 2-3、メアリー、フランス王太子と結婚
- 2-4、エリザベス1世との対決開始
- 2-5、メアリー、フランス王妃に
- 2-6、フランソワとメアリー
- 2-7、メアリー、未亡人となりスコットランドへ帰国
- 3-1、メアリー女王、親政と再婚問題
- 3-2、メアリー、庶兄のマリ伯を政治顧問に
- 3-3、メアリー女王、再婚相手を検討
- 4-1、メアリー、ダーンリー卿と結婚
- 4-2、ダーンリー卿とメアリー、すぐに破局に
- 4-3、メアリーの側近、リッチオ殺害事件
- 4-4、メアリー、跡継ぎの王子を出産
- 4-5、ダーンリー卿の死、ボスウェル伯との再婚と廃位
- 4-6、メアリー、脱走して兵をあげるが敗北
- 4-7、メアリー、エリザベス1世暗殺陰謀関与で処刑
- 選んだ再婚相手が最悪で、その後は悲劇へまっしぐら
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパの歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、メアリー・ステュアートについて5分でわかるようにまとめた。
1-1、メアリー・ステュアートはスコットランドの生まれ
メアリー・ステュアートは、1542年12月8日、スコットランドのリンリスゴー城で生まれました。メアリーの父はスコットランド国王ジェームズ5世で、母はフランスのギーズ公爵の娘メアリーオブギーズ、メアリーの同母兄は2人とも夭折してメアリーは第3子。
アントニア・フレイザー著「スコットランド女王メアリー」によると、メアリーの父ジェームズ5世には少なくとも9人の庶子がいたということで、そのうちのひとりがメアリーより12歳年上のマリ伯ジェームズ・ステュアート。
1-2、メアリーの華麗なる家系
メアリーの父ジェームズ5世の母でメアリーの祖母はジェームズ4世の王妃マーガレット・テューダーで、イギリスのヘンリー7世の王女、あのヘンリー8世の姉にあたります。そしてメアリーの母メアリーはフランス名をマリー・ド・ギーズといい、フランスの超有力貴族で王室に近いギーズ公爵家の娘。また、父のジェームズ5世はメアリーの母の前にフランス国王フランソワ1世の娘と結婚したが16歳で亡くなったために、フランスとの同盟関係を考えて、未亡人だったメアリーの母が22歳で再婚したという事情がありました。
ということで、メアリーはスコットランド女王でありながら、父方祖母を通じてイングランドの王位継承権を持ち、母方からフランス王室と近い関係だということがわかりますよね。
尚、メアリーの祖父ジェームズ4世が亡くなり、未亡人となったマーガレット・チュダーは、第6代アンガス伯アーチボルド・ダグラス再婚してマーガレットという娘を生み、マーガレットはレノックス伯と結婚して生まれたのが、メアリーの2度目の夫ダーンリー卿ヘンリー・ステュアートということも、あとで重要になってきますよ。
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1-3、メアリー、生後6日で女王に即位
メアリーが生まれた6日後、父ジェームズ5世が30歳で急死。メアリー王女はわずか生後6日で女王に即位し、摂政は最初はジェームズ2世の曾孫で第2代アラン伯爵ジェームズ・ハミルトンが、後に母のメアリー(ややこしいので、以後はマリー・ド・ギーズ)が就任したということ。
1-4、メアリー女王、ヘンリー8世の息子と婚約
君主が若くして亡くなり幼い跡継ぎが継承すると、臣下の貴族たちの統率が取れず、外敵も襲ってきてややこしくなるのが常ですが、メアリーの場合もそうでした。そしてメアリーにとって祖母の弟で大叔父にあたるイングランドのヘンリー8世は、メアリーと、やっと生まれた自分の跡継ぎのエドワード皇太子(当時5歳)とを結婚させるために、スコットランド貴族を買収したりと画策し、メアリーとエドワードの婚約の成立にこぎつけたのですね。
2-1、メアリー、フランス宮廷へ
しかしメアリーの母で皇太后のマリー・ド・ギーズはカトリック教徒でもあり、当然のことながら王妃をとっかえひっかえしてそのうちの2人を処刑したヘンリー8世に対して強い警戒心を持っていたため、幼いメアリー女王を修道院に匿って育てました。
しかし1547年にヘンリー8世が亡くなった後、イングランドの政権を握って護国卿となったエドワード6世の伯父でジェーン・シーモアの兄のサマセット公の攻撃を受け、迎撃したスコットランド軍のアラン伯が敗れたことと、スコットランド国内の親イングランド派貴族の中にもイングランド軍協力者がいたため、皇太后マリー・ド・ギーズはフランスに援軍要請。
フランス王アンリ2世がメアリーをフランスに送って皇太子フランソワと結婚させるという条件を提示したんですね。マリー・ド・ギーズにとってはやはりフランスは母国なので、1548年7月、スコットランドとフランス両国間でハディントン条約が締結され、メアリーのフランス行きが決定。数千のフランス軍がスコットランド各地の城砦に駐留して、南部のイングランド侵略軍と対峙したので、1年後にはイングランド軍も本国に撤収。
そしてメアリーは5歳で母と別れて、遊び友達兼侍女を務める同年齢でスコットランド貴族の娘から選ばれた「4人のメアリー」とともにフランスへ行き、フランスのフランソワ王太子と婚約。メアリーは以後、母方祖母のアントワネット・ド・ギーズ、それにアンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスとアンリ2世の愛人ディアーヌ・ド・ポアティエの宮廷で、カトリーヌの子供たちと一緒に育てられたのです。
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2-2、当時のフランス宮廷
6世紀なかばのフランス宮廷は、ヨーロッパの宮廷の中でも最も洗練され華やかだったということで、ルネサンス真っ只中。カトリーヌ・ド・メディシスがイタリアから持ち込んだ洗練されたお料理やマナーが、フランスでも定着しつつあり、中世の騎士道精神とルネサンスの華麗な古典文化が一つになっていたそうです。
メアリーはスコットランドの女王のうえに母方の有力貴族ギーズ公爵がバックにいたしで、誰からも大切にされ甘やかされて育つんですね。またメアリー自身も愛くるしく賢さを発揮し、未来のフランス王妃として、フランス語、イタリア語、スペイン語にラテン語、ギリシア語も学び、詩を書き、刺繍もでき、馬術もうまいアウトドア派として、義父となるアンリ2世にも可愛がられ、未来の夫であるフランソワとその妹エリザベートと大の仲良しとしてのびのびと成長することに。
2-3、メアリー、フランス王太子と結婚
1558年4月、15歳になったメアリーは、予定通りにパリのノートルダム寺院で14歳のフランソワ王太子と、フランスでは200年ぶりという王太子の豪華絢爛な結婚式を挙行。病弱で常に耳から膿を出していたというフランソワ皇太子は180wp_の長身で美貌のメアリーに5歳の時からぞっこんで、いつも後ろをついて歩いていたといわれるほどだし、メアリーは子供の頃から人に愛されたいと願う子供だったので、病弱なフランソワとも仲睦まじかったといわれています。
2-4、エリザベス1世との対決開始
メアリーが正式にフランス王太子妃となった同じ年の11月、メアリーからみると、父ジェームズ5世の従妹でヘンリー8世の次女のエリザベス1世がイングランド女王に即位しました。するとメアリーの義父であるフランス国王アンリ2世は、庶子であるエリザベスの王位継承権に異議を唱え、メアリーこそが正当なイングランド王位継承権者と抗議したということで、さらに、1559年9月のフランスとイングランドの講和条約締結の後、駐仏イングランド大使を招いた祝宴の席で、メアリーがイングランド王位継承権者と示す紋章(イングランドの象徴である金の獅子入り)を発表して、エリザベス1世を激怒させるんですね。
2-5、メアリー、フランス王妃に
そして1559年7月10日にアンリ2世が、あのモンゴメリー伯とのトーナメントで重傷を負って亡くなった後、王太子フランソワがフランソワ2世として即位し、メアリーはフランス王妃になりました。この年から翌年にかけてスコットランドではプロテスタントの反乱が起こり、これにイングランドが介入し、フランス海軍は大打撃を受けたのですが、7月6日、エディンバラ条約が締結されたときに、フランスのスコットランドへの軍事介入の禁止、メアリーのイングランド王位継承者とする紋章の使用禁止が盛り込まれたが、メアリーはその後もこの紋章を使用し続けたそう。
その頃は、イングランド国内でもエリザベス1世の王位継承に不満を持つ大貴族がいたこと、そしてローマ教皇を含めた多くのカトリックの有力者は、メアリーがイングランド女王と考えていたこともあって、エリザベス1世の王位はまだ不安定。そのせいでメアリーがエリザベスを庶子として、自分のイングランド王位継承権の正当性を主張するのは、エリザベス1世の政権を揺るがす事態になりかねない重要問題でした。
2-6、フランソワとメアリー
不明 – http://www.blastmilk.com/decollete/gallery/tudor/maryqosandfrancis-thumb.jpg From Catherine de’ Medici’s Book of Hours, パブリック・ドメイン, リンクによる
6才にならないうちに王太子フランソワの婚約者としてフランスに連れてこられ、宮廷で一緒に育った2人は仲が良く、メアリーは病身の夫に優しく連れ添いました。
フランソワ2世は生まれつき極度に病弱な体質で、あらゆる病気を患ったということですが、自分の弱さを克服したい、人気者の美しい妻メアリーに遅れをとるまいとする思いは強く、焦りもあって、激しい運動や狩に自分を駆り立てたりしたという話もあって無理したみたいで、1560年、フランソワ2世は16歳の若さで死去。
2-7、メアリー、未亡人となりスコットランドへ帰国
1560年フランソワ2世が亡くなり、メアリーは18歳で未亡人、王太后に。フランソワ2世との間に子どもがなかったこと、しかもフランソワの死から半年もたたず、スコットランドで摂政だった母のマリー・ド・ギーズが亡くなったために、スコットランドへ帰国することに。
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