今回は受験生にとってはかなりショッキングな出来事を紹介しよう。「東大紛争」です。東大を目指す受験生諸君、もし入試が中止になったらどうする?関東の有名私立にするか、京大を受けるか。そもそも東大の志願者が半端なく多く彼らが他の大学を受験したら?こうなると影響は東大志願者だけじゃなくなり、特に京大など受験偏差値高めの大学はめちゃくちゃ狭き門と化す。冗談じゃない。

1969年、実際にこの「冗談じゃない」状況が起きていた。平成生まれのライターR175と客観的に見ていこう。

ライター/R175

学生時代、個人的に昭和史に興味があり図書館やネットで知識を得ていた。理系学部に属しながら、社会科学系図書館に通っていた。

1.学生運動と東大の混乱

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1960年代後半、日本中の大学に「学生運動」が広まっていました。授業料値上げ反対したり、大学の諸制度を変えるよう要求したり動機は様々。デモ行進をしたり、キャンパス内を占拠したり。ストライキにより授業がまともに行えない等大学の運営に支障が来たすケースもありました。

東京大学でも混乱が起きており、なんと1969年は入学試験が中止になってしまいました。受験生にとっては大変ショッキングなニュース。一体どんな背景でこういった学生運動が広がっていったのか?そして、こと東京大学ではどういう理由で入学試験中止になるような事態が起きていたか。そしてその後どうなっていったか。順をおってみていきましょう。

2.学生運動が広がった背景

東大紛争の要因となった「学生運動」ですが、そもそもその「学生運動」はどういう背景で広まったのか見ていきましょう。

安保闘争~安保条約の改定を阻止~

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60年代後半に盛んになった「学生運動」の要因は「安保闘争」と言えるでしょう。安保闘争とは、日本とアメリカが結んでいる「日米安全保障条約」の改定を阻止しようとして行われた運動。連日国会周辺で数十万人がデモに参加するなど、猛反発。なぜ、そこまでして条約改定を阻止しようとしたのだろうか。

平和の維持

1960年に行われた日米安保条約の主な改定内容のうち、問題になったのが「日米共同防衛の明文化」です。在日米軍が攻撃を受けた時には日本の自衛隊も協力して戦わなければならないという内容。これに対し、「アメリカの戦争に日本も巻き込まれる」という解釈がされ大きな反発を生みました。第二次世界大戦から日が浅く、「戦争」に対する拒否感が強かったのです。

安保改定の強行採決

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アメリカの戦争に巻き込まれる恐れのある内容に改定したくないということで、大きな反発を生んでいました。しかし当時、条約改定の承認を急ぎたいという背景があったため、反対する議員が居たにも関わらず強行採決してします。

その後の情勢

安保改定を強行採決にて承認してしまうという手法がさらなる反発を招き、反対運動が激しくなりました。反対運動の矛先は「安保改定の阻止」に加え、「内閣の倒閣」という面もありました。当時の首相岸信介は、戦前の東條内閣の閣僚でありA級戦犯でもあります。第二次世界大戦に対して何らかの過失がある人が率いているということで、内閣そのものにも不満が持たれていました。

強行採決された条約承認が成立する頃には、国会周辺のデモ参加者は数十万人規模に膨れ上がり、ついには死者まで出てしまいます。こういった一連の混乱の責任を取り、首相は退任、内閣も総辞職となりました。

ずばり、反対運動のきっかけ

連日のデモが大成して、安保改定の阻止こそ叶わなかったものの「内閣の退陣」には成功しました。このことから、「自分たちの運動で政治を変えられる」という風潮になり反体制運動が広がるきっかけとなりました。

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3.学生運動の広がり

安保闘争後、「安保関連」だけでなくさまざまな理由で反体制運動が起こりました。大学で起きた運動の例を見ていきましょう。

学生寮規定の改悪阻止

お茶の水女子大学では、両規定の改悪反対を訴えて授業放棄。しかし、学生の中には「学業を放棄し続けるのはよくない」という意見もあり1週間ほどで授業放棄をやめました。

授業料値上げ反対

高度成長期、物価が上がったことに加え学生数も増えキャンパスを増強する必要が出てきました。そんな背景から大幅な授業料値上げをした結果反対運動が起きました。以下、いくつか例を挙げます。

国際基督大学:1963年に授業料値上げ反対、1966年には受験料値上げに反対の運動が起きる。

高崎経済大学:1965年9月、大学を運営する高崎市が財政難を理由に「私学化」を提唱するも教授会、学生の反対で断念。代わりに授業料大幅値上げ打ち出したところ反対運動が起きた。

明治大学:1966年11月、学費値上げに反対し無期限ストライキ

使途不明金への怒り

高い学費を払っているのだから、学生が納得のいくお金の使い方をしほしいもの。しかし日本大学では、1963~67年の5年間で約20億円もの使途不明金があることが判明。21世紀初頭の物価に換算すると、約10倍の200億円程度といったところか。

これに紛糾した学生たちが討論会を実施したがそれも妨害され、大規模なデモが行われました。

4.東大での学生運動

ここではいよいよ、この記事での主テーマ「東大紛争」の背景を追っていきましょう。東大では「医学部」が学生紛争の発端となりました。どんな事情があったのでしょうか。

きっかけはインターン制度

現在でもよく耳にする「インターン」。学生が特定の職の経験を積むため労働に従事するという意味。自分が志望する企業で実際に一定期間働いてみれば、仕事内容をイメージしやすいし「志望動機」も経験を元に語れるので説得力が増しますね。しかし、この「インターン」が東大紛争の発端だったのです。

\次のページで「無給の研修医の怒り」を解説!/

無給の研修医の怒り

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インターンは一般的に給料は出ませんがら、言い換えればタダ働き同然。当時、医学部卒業生が医師国家試験を受験するためには「診療実施修練」を受ける必要がありました。インターン制度と呼ばれています。医師の仕事を覚えるためという名目の元、研修医として過酷な環境で「タダ働き」させられたわけです。反体制運動が盛んになっていた1967年、このインターン制度を巡って東大医学部生が中心となって医師国家試験をボイコット。翌68年1月には無期限のストライキに突入。

大学当局と学生の対立

68年2月、ストライキ状態の医学部で医局員と学生が衝突する事件が発生。これにより、学生・研修医17名が処分されたが、このうちの1人が誤認処分された疑いが強まりました。

学生側は処分の撤回を求めますが、大学側は大学側は全く応じず話し合いが進みません。この局面を打開しようと急進派の学生が安田講堂を占拠。「東大紛争」と検索して、まず最初に出てくるのは「安田講堂」が占拠されていて、それを機動隊が解除しようとしている様子を捉えた写真であろう。

大学側の機動隊導入が更なる反発を生む

占拠する学生に対し大学総長は「機動隊」を導入し退去させました。大学当局が機動隊の力に頼ったことから「大学当局は自分自身で大学を自治するのを放棄している」と解釈され、医学部以外の学生や教職員など多数の反発を招き、大学全体に紛争が広がる結果となりました。

安田講堂の長期的な占拠

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6月に一旦は機動隊によって安田講堂の占拠が解除されますが、7月上旬には再び占拠されました。この時の占拠には外部の新左翼メンバーも参加し、東大闘争全学共闘会議(以下、東大全共闘)が結成されました。

東大全共闘は大学側に、前述の医学部生の処分撤回などを求めた7項目の要求を掲げ、安田講堂を長期的に占拠しました。その後硬直状態が続き、10月上旬には全学部が無期限ストライキに。

スト長期化による不安の声も

全共闘が大学側と激しく対立する一方、ストの長期化を懸念する学生もいました。11月には東大民主化行動委員会と無党派学生グループが全共闘と対立。しだいに紛争状態を終わらせたいと思う学生たちが増えてきたのです。

紛争が続けば、授業や部活動その他学校行事に色々影響が出てきて「普通の学生生活」ができません。むろん学問も進みません。あくまで勉強しに大学に来ているのだから、あまりにも長期間それがストップされるのは困りもの。それを気にせず徹底的に戦う全共闘とは意見が合いません。

5.大学側の歩み寄りとバリケード解体

紛争が長期化し不安の声が広がる中、大学側は学生側の主張に歩み寄る姿勢を見せました。

大学幹部の辞任と学生側への歩み寄り

1968年11月1日、大河内総長はじめ全学部の学部長らが辞任。その後、加藤一郎総長代行率いる新執行部が発足。11月中旬には紛争解決を呼びかけるための全学集会を開催。「集会を開くのでお互い話し合おう」そう言って、大学側が学生側に歩み寄る姿勢を見せます。

前述の通り、この頃にはデモの長期化に不安を抱く学生が多数はとなっていました。学生たちは「要求をのんでもらうこと」も重要でしたが、「いつまでも紛争は困る」というのが正直なところ。このタイミングで大学が歩み寄りを見せたことで多くの学生が闘争をやめようとしました。そして多くの学部でストが解除されていきました。

大学当局ついに要求をのむ

学生側と話し合いを進める中、大学はついに学生側がずっと主張していた要求の一部を認めます。1969年1月10日、学生側と加藤総長代行は「確認書」を取り交わしました。確認書の内容は「医学部処分の撤回、自治活動の自由化、今後の大学改革の方向性」など。こうして大学当局と多くの学生との紛争は解決。

\次のページで「6.安田講堂事件」を解説!/

6.安田講堂事件

大学側が歩み寄りを見せるもなおも抵抗し続けた全共闘。69年1月10日に大学側が学生側の要求をのむべく「確認書」を提示しますが、全共闘は紛争続行を選択。安田講堂はじめ一部の大学施設でバリケード封鎖を続けました。

全共闘との意見合致は不可能

多くの学生とは分かり合えストの解除が進みますが、全共闘とは最後まで意見が合わず、大学側は機動隊の導入を決意しました。

2日にわたる抗争

機動隊導入1日目。午前7時に作戦を開始した機動隊は医学部、工学部、法学部、経済学部など各学部のバリケード解除にあっさり成功。午後1時の時点で残るは「安田講堂」のみに。しかし安田講堂では全共闘から激しい抵抗を受けます。火炎瓶や野球のベース並みの大きさの石の投石、そして硫酸やガソリンなどの劇薬による抵抗。

しかも、当時の警察は学生運動に対してあまり強く出られないという事情がありました。学生側から犠牲者を出すなど酷い攻撃をすると後々反発が広がり、さらに過激な運動が起きる恐れがあります。そのため機動隊側の方針は、「なるべくけがをさせず、生きたまま逮捕する」でした。

全共闘に強く攻撃できない機動隊はその後も苦戦し、封鎖を解除できたのは作戦2日目の夕方でした。

まさかの入試中止

何か月も授業はストライキ。機動隊が入ってきて学生と戦う。そんな大混乱があった東京大学。なんと1969年春の入学試験は佐藤内閣で話し合いの結果中止に

7.その後の流れ

安田講堂事件で制圧されたことで東大での全共闘運動は収束に向かいました。

しかしそれと同時に今度は全国の大学に全共闘運動が広がります。1969年頃が最も学生運動が盛んだったという解釈する場合が多い。こと東大では、69年に入ったくらいのタイミングで収束に向かうも、並行して全国の大学に学生運動が広がったようです。

空前絶後の混乱

自分たちの思いを主張したい。そのために学生運動。それによって権利を勝ち取る例が出ていたというのもあり、60年代後半は非常に盛んでした。東大の入試が中止になるほど社会的影響が大きかったと捉えましょう。

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現代社会

東大入試が中止にもなった「東大紛争」を平成生まれのライターが客観的にわかりやすく解説

今回は受験生にとってはかなりショッキングな出来事を紹介しよう。「東大紛争」です。東大を目指す受験生諸君、もし入試が中止になったらどうする?関東の有名私立にするか、京大を受けるか。そもそも東大の志願者が半端なく多く彼らが他の大学を受験したら?こうなると影響は東大志願者だけじゃなくなり、特に京大など受験偏差値高めの大学はめちゃくちゃ狭き門と化す。冗談じゃない。

1969年、実際にこの「冗談じゃない」状況が起きていた。平成生まれのライターR175と客観的に見ていこう。

ライター/R175

学生時代、個人的に昭和史に興味があり図書館やネットで知識を得ていた。理系学部に属しながら、社会科学系図書館に通っていた。

1.学生運動と東大の混乱

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1960年代後半、日本中の大学に「学生運動」が広まっていました。授業料値上げ反対したり、大学の諸制度を変えるよう要求したり動機は様々。デモ行進をしたり、キャンパス内を占拠したり。ストライキにより授業がまともに行えない等大学の運営に支障が来たすケースもありました。

東京大学でも混乱が起きており、なんと1969年は入学試験が中止になってしまいました。受験生にとっては大変ショッキングなニュース。一体どんな背景でこういった学生運動が広がっていったのか?そして、こと東京大学ではどういう理由で入学試験中止になるような事態が起きていたか。そしてその後どうなっていったか。順をおってみていきましょう。

2.学生運動が広がった背景

東大紛争の要因となった「学生運動」ですが、そもそもその「学生運動」はどういう背景で広まったのか見ていきましょう。

安保闘争~安保条約の改定を阻止~

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60年代後半に盛んになった「学生運動」の要因は「安保闘争」と言えるでしょう。安保闘争とは、日本とアメリカが結んでいる「日米安全保障条約」の改定を阻止しようとして行われた運動。連日国会周辺で数十万人がデモに参加するなど、猛反発。なぜ、そこまでして条約改定を阻止しようとしたのだろうか。

平和の維持

1960年に行われた日米安保条約の主な改定内容のうち、問題になったのが「日米共同防衛の明文化」です。在日米軍が攻撃を受けた時には日本の自衛隊も協力して戦わなければならないという内容。これに対し、「アメリカの戦争に日本も巻き込まれる」という解釈がされ大きな反発を生みました。第二次世界大戦から日が浅く、「戦争」に対する拒否感が強かったのです。

安保改定の強行採決

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アメリカの戦争に巻き込まれる恐れのある内容に改定したくないということで、大きな反発を生んでいました。しかし当時、条約改定の承認を急ぎたいという背景があったため、反対する議員が居たにも関わらず強行採決してします。

その後の情勢

安保改定を強行採決にて承認してしまうという手法がさらなる反発を招き、反対運動が激しくなりました。反対運動の矛先は「安保改定の阻止」に加え、「内閣の倒閣」という面もありました。当時の首相岸信介は、戦前の東條内閣の閣僚でありA級戦犯でもあります。第二次世界大戦に対して何らかの過失がある人が率いているということで、内閣そのものにも不満が持たれていました。

強行採決された条約承認が成立する頃には、国会周辺のデモ参加者は数十万人規模に膨れ上がり、ついには死者まで出てしまいます。こういった一連の混乱の責任を取り、首相は退任、内閣も総辞職となりました。

ずばり、反対運動のきっかけ

連日のデモが大成して、安保改定の阻止こそ叶わなかったものの「内閣の退陣」には成功しました。このことから、「自分たちの運動で政治を変えられる」という風潮になり反体制運動が広がるきっかけとなりました。

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