
ベトナムへの軍事介入を拡大させるも失敗続き
ケネディは、南ベトナム軍を支援するために、アイゼンハワー政権時代の5倍にあたる軍事顧問団を派遣します。しかし、支援しているはずの南ベトナムはアメリカに対して不信感を抱くように。軍事顧問団を派遣する意味自体、疑問を投げかけられるようになります。
国内経済を逼迫させていると世論は反発
ベトナム戦争が起こっている時期、アメリカの景気は良いとは言えず、ふくれあがる軍事費に対する世間の目は冷たいものでした。ベトナム戦争は想定よりも長期化したことで、アメリカ経済をひっ迫させます。政策に対する批判が高まり、ケネディ大統領はアメリカ軍の完全撤収を決定しました。
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在職中はスキャンダルが多発したジョン・F・ケネディ
Cecil W. Stoughton, official White House photographer – Actual version uploaded was from : Telegraph UK; Past verion: CNN; First version to PBS., パブリック・ドメイン, リンクによる
ジョン・F・ケネディと言えば、女性スキャンダルを思い浮かべる人も多いでしょう。ケネディは下院議員時代からさまざまな女性と浮名を流してきました。
マリリン・モンローとのシークレットラブ
もっとも有名な不倫スキャンダルの相手が歌手のマリリン・モンロー。1950年代後半から大統領に就任する1962年まで不倫関係にありました。モンローは、不倫関係が終わったあとに開催されたケネディのバースデーパーティで「ハッピーバースデー・ミスタープレジデント」と色っぽく歌う姿が映像に残されています。
シカゴ・マフィアの愛人との不倫も
モンローと同時進行で不倫関係にあったのがジュディス・キャンベルという女性。シカゴのマフィアであるシカゴ・アウトフィットのボスの愛人でした。ボスの指示によりキャンベルをケネディに接近させたと言われています。
ジョン・F・ケネディは激動の時代について行けなかった大統領
1963年11月22日、テキサス州を遊説していたケネディは、ダラス市内をパレードしている最中に銃撃されて亡くなります。犯人はリー・ハーヴェイ・オズワルドという名前の男性ですが、彼自身もダラス警察署で銃撃されて死亡。真相は謎につつまれたままです。このような終わり方をしたケネディですが、若いころから親の助けを借りながら成功をおさめてきました。彼の政策そのものは「優柔不断」であると、決して高い評価ではありません。ただ、在任中は世界を揺るがす出来事が多発していたことも事実。女性にはモテましたが、激動の時代について行けなかった大統領とも言えそうですね。