
大統領就任後のケネディの政策2 ベルリン危機の関与

ケネディ大統領の在任中に起こった大きな出来事のひとつがベルリン危機です。西ドイツと東ドイツの緊張が高まり、東ドイツを支援していたソ連のフルシチョフが、1961年にベルリンの壁を建設することを表明しました。それにより自由に東西を往来することができなくなり、家族がバラバラになる事態も発生します。
ベルリンの壁の建設
米ソの冷戦の影響により当時のドイツは東西に陣営が分裂。東は共産主義、西は資本主義が採用されていました。往来に関しては自由だったため、貧しい東側から豊かな西側に移動する人が増えていきます。東ドイツは人口流出を食い止めるために、バリケードとしてベルリンの壁を建設したのです。
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共産主義から西ベルリンを防衛することがミッション
そこでケネディは、ジョンソン副大統領とクレイ将軍を西ベルリンに行かせます。さらにアメリカ軍を西ベルリンに派遣。その結果、ソ連との緊張状態がさらに高まりました。ケネディが派遣を決断したのは、共産主義の波から西ベルリンを防衛するため。水面下で、ケネディはフルシチョフと話し合いを進めます。そして、戦車を撤退させることを条件に、危機を回避させました。
大統領就任後のケネディの政策3 キューバ危機の回避
ケネディの政策は優柔不断と言われることが多いものの、キューバ危機の回避については高い評価を得ています。
核戦争勃発に向かうと言われたキューバ危機
キューバ危機は、1962年10月から11月にかけて勃発。ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設していることが分かり、アメリカはキューバの海上封鎖を行います。それにより米ソのあいだの緊張がクライマックスに。核戦争が始まるのではないかと世界中に緊張が走りました。
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ケネディは巧みな駆け引きによりキューバ危機を回避
ケネディはベルリン危機などでフルシチョフを連絡を取り合っていたことから、話し合いを進めることに成功。いくつかの条件をソ連がのんだら、アメリカは海上封鎖を解くことを提案します。最終的に、アメリカがキューバに侵攻しなければミサイルを撤去すると、ケネディの提案に同意しました。
大統領就任後のケネディの政策4 ベトナム戦争の拡大
By Abbie Rowe, National Park Service – John F. Kennedy Presidential Library and Museum, Boston [1], Public Domain, Link
ケネディ政権のが行った政策の中でもっとも非難されたのがベトナム戦争に対する対応です。
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