第35代アメリカ合衆国大統であるジョン・F・ケネディ。合衆国史上もっとも若い年齢で大統領に就任した人物です。現在の世論調査でも好きな元大統領の上位を行く存在。彼の在任中、キューバ危機、ベルリンの壁の建設、米ソの宇宙開発競争、公民権運動、ベトナム戦争など、次々と世界をゆるがす出来事が起こった。当時は、女性問題を含めて注目度が高かったものの、政策が不十分であると米国民の支持率がどんどん低下していった。

それじゃ、関係する出来事を取り上げながら、ジョン・F・ケネディの政策の結果やその後の評価、世間の興味を集めたスキャンダルなどを、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。世界史を語るときジョン・F・ケネディを避けて通ることはできない。ケネディ元大統領は、今日でも女性問題で有名な人物だが、彼の在任中は世界史的にも重要な出来事が多発している。そこでケネディが関係した政策とその後の評価をまとめてみた。

ジョン・F・ケネディ大統領の幼少期

John F. Kennedy home, Brookline, Massachusetts LCCN2011630152.tif
By Carol M. Highsmith - Library of Congress Catalog: http://lccn.loc.gov/2011630152 Image download: https://cdn.loc.gov/master/pnp/highsm/11900/11956a.tif Original url: http://hdl.loc.gov/loc.pnp/highsm.11956, Public Domain, Link

ジョン・F・ケネディが生まれたのは1917年5月29日。マサチューセッツ州のブルックラインという地区で、アイルランド系移民の息子として生まれました。彼の名前は、ボストン市長を務めた母方の祖父ジョン・F・フィッツジェラルドに由来します。

アイルランド系移民のもと生まれたジョン・F・ケネディ

ケネディ家がアイルランドからアメリカに移住したのは1848年。このときのアイルランドは英国領であり、差別に苦しんでいました。また、飢饉により生活が困窮したことも、移住を後押しします。これらの状況を打破するために、ケネディ家は新大陸アメリカに渡り、事業を成功させました。

ジョン・F・ケネディは病弱な幼少時代を過ごす

ジョン・F・ケネディは、家族と一緒にボストンのブルックライン地区で幼少期を過ごします。小さいころからケネディは病弱で、さまざまな病気に苦しめられました。背骨に障害があり、障害に渡って痛みと戦うことになります。体が弱いことはケネディのコンプレックスであり、成人になってからそれを打破するためにスポーツに打ち込みました。

若き日のケネディは海軍士官として働く

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By Collections of the U.S. National Archives, downloaded from the Naval Historical Center [1], Public Domain, Link

ハーバード大学を卒業したあとのジョン・F・ケネディは、陸軍士官候補学校と海軍を受験します。虚弱体質であったことから合格には至りませんでした。しかし、父親の口利きにより海軍士官養成コースに入ることが許されます。1941年のことでした。

ワシントンD.C.の海軍情報局に配属される

その後、ケネディは海軍士官に任命されます。彼が配属されたのはワシントンD.C.の海軍情報局でした。これは父の意向によるもの。海軍情報局であれば戦場に赴く必要がないという理由でした。ケネディが海軍士官になった1941年は第二次世界大戦の最中。日本の真珠湾攻撃が決行されたのも1941年です。そのため海軍に入隊すると戦地に赴く可能性が高く、それを回避するために海軍情報局に入りました。

FBIジャーナリストの女性と恋に落ちる

この時期にケネディはスウェーデン人の女性インガ・アバドと親密な関係になります。インガ・アバドはFBIジャーナリストというキャリアウーマン。ベルリンオリンピックの取材でアドルフ・ヒトラーと面会したことがあり、ナチス支持者やドイツのスパイという噂が出ます。ケネディはインガ・アバドと別れますが、しばらくはこっそり会っていたようです

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1960年大統領選におけるジョン・F・ケネディ陣営の戦略

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ジョン・F・ケネディは、ボストン市長である父親の支持基盤を引き継ぎ、下院議員として政界入りを果たします。その後、実績を積んだケネディは、1960年に民主党予備選挙に立候補することを表明しました。妹パトリシアの夫が映画俳優だったこともあり芸能界の支持を獲得。華やかな取り巻きと共に予備選勝利に向けて戦いを挑みます。

テレビ討論会はケネディの知名度をアップさせる

1960年9月26日、大統領選挙としては初めてとなるテレビ討論が行われました。そこにジョン・F・ケネディも参加。アメリカ人の有権者に向けて政策をアピールしました。ケネディは視聴者の印象をよくするためにこだわったのがテレビ向けのメイクやファッション。当初は対立候補のニクソンの方が支持率が高かったのですが好印象により逆転、勝利に近づきました。

キング牧師の婦人に電話をかけて黒人勢力の支持を獲得

同時期にアメリカを沸かせていたのが公民権運動。中心人物であるキング牧師がジョージア州アトランタで逮捕されたばかりでした。ケネディ陣営が行ったことはキング夫人に電話をすること。その様子をマスコミに公開しました。さらに弟のロバート・ケネディを介してキング牧師の釈放を後押しします。一連の行動を公開することで黒人層の支持を取り付け、支持基盤をさらに広げました。

大統領就任後のケネディの政策1 宇宙開発競争

The cone-shaped command module, attached to the cylindrical service module, orbits the Moon with a panel removed, exposing the scientific instrument module
By NASA - http://www.hq.nasa.gov/office/pao/History/alsj/a15/as15-88-11963.jpg, Public Domain, Link

大統領に就任したあとのジョン・F・ケネディが力を入れたのが宇宙開発競争への参戦です。1957年にソ連は世界ではじめて、人工衛星スプートニクの打ち上げに成功します。アメリカはソ連に先を越させる形となっていました。

アポロ計画を実行に移すために巨額の予算を投じる

そこでケネディが打ち出したのがアポロ計画です。アポロ計画とは人間を月に送って帰還させるというもの。人工衛星の打ち上げに成功したソ連を追い抜くには、人間を月に送ることがいちばんでした。今では、月に人間が行くことは当たり前となっていますが、当時は無謀な計画であると反対が続出。半数以上のアメリカ人がアポロ計画の推進に反対します。

アメリカ国内の経済活性化のための政策

アイゼンハワー政権の終わりごろからアメリカは不況にみまわれており、ケネディ政権はそれを打破することが求められていました。失業対策や税制改革を行うものの結果はいまいち。ケネディは、アポロ計画が成功することでアメリカ人の士気が高まり、経済的にもいい影響を与えるとも考えました。

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大統領就任後のケネディの政策2 ベルリン危機の関与

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ケネディ大統領の在任中に起こった大きな出来事のひとつがベルリン危機です。西ドイツと東ドイツの緊張が高まり、東ドイツを支援していたソ連のフルシチョフが、1961年にベルリンの壁を建設することを表明しました。それにより自由に東西を往来することができなくなり、家族がバラバラになる事態も発生します。

ベルリンの壁の建設

米ソの冷戦の影響により当時のドイツは東西に陣営が分裂。東は共産主義、西は資本主義が採用されていました。往来に関しては自由だったため、貧しい東側から豊かな西側に移動する人が増えていきます。東ドイツは人口流出を食い止めるために、バリケードとしてベルリンの壁を建設したのです。

共産主義から西ベルリンを防衛することがミッション

そこでケネディは、ジョンソン副大統領とクレイ将軍を西ベルリンに行かせます。さらにアメリカ軍を西ベルリンに派遣。その結果、ソ連との緊張状態がさらに高まりました。ケネディが派遣を決断したのは、共産主義の波から西ベルリンを防衛するため。水面下で、ケネディはフルシチョフと話し合いを進めます。そして、戦車を撤退させることを条件に、危機を回避させました。

大統領就任後のケネディの政策3 キューバ危機の回避 

Cubacrisis 17 Oct 1962.jpg
USAF - [1], パブリック・ドメイン, リンクによる

ケネディの政策は優柔不断と言われることが多いものの、キューバ危機の回避については高い評価を得ています。

核戦争勃発に向かうと言われたキューバ危機

キューバ危機は、1962年10月から11月にかけて勃発。ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設していることが分かり、アメリカはキューバの海上封鎖を行います。それにより米ソのあいだの緊張がクライマックスに。核戦争が始まるのではないかと世界中に緊張が走りました。

ケネディは巧みな駆け引きによりキューバ危機を回避

ケネディはベルリン危機などでフルシチョフを連絡を取り合っていたことから、話し合いを進めることに成功。いくつかの条件をソ連がのんだら、アメリカは海上封鎖を解くことを提案します。最終的に、アメリカがキューバに侵攻しなければミサイルを撤去すると、ケネディの提案に同意しました。

大統領就任後のケネディの政策4 ベトナム戦争の拡大

The President's News Conference, 23 March 1961.jpg
By Abbie Rowe, National Park Service - John F. Kennedy Presidential Library and Museum, Boston [1], Public Domain, Link

ケネディ政権のが行った政策の中でもっとも非難されたのがベトナム戦争に対する対応です。

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ベトナムへの軍事介入を拡大させるも失敗続き

ケネディは、南ベトナム軍を支援するために、アイゼンハワー政権時代の5倍にあたる軍事顧問団を派遣します。しかし、支援しているはずの南ベトナムはアメリカに対して不信感を抱くように。軍事顧問団を派遣する意味自体、疑問を投げかけられるようになります。

国内経済を逼迫させていると世論は反発

ベトナム戦争が起こっている時期、アメリカの景気は良いとは言えず、ふくれあがる軍事費に対する世間の目は冷たいものでした。ベトナム戦争は想定よりも長期化したことで、アメリカ経済をひっ迫させます。政策に対する批判が高まり、ケネディ大統領はアメリカ軍の完全撤収を決定しました。

在職中はスキャンダルが多発したジョン・F・ケネディ

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Cecil W. Stoughton, official White House photographer - Actual version uploaded was from : Telegraph UK; Past verion: CNN; First version to PBS., パブリック・ドメイン, リンクによる

ジョン・F・ケネディと言えば、女性スキャンダルを思い浮かべる人も多いでしょう。ケネディは下院議員時代からさまざまな女性と浮名を流してきました。

マリリン・モンローとのシークレットラブ

もっとも有名な不倫スキャンダルの相手が歌手のマリリン・モンロー。1950年代後半から大統領に就任する1962年まで不倫関係にありました。モンローは、不倫関係が終わったあとに開催されたケネディのバースデーパーティで「ハッピーバースデー・ミスタープレジデント」と色っぽく歌う姿が映像に残されています。

シカゴ・マフィアの愛人との不倫も

モンローと同時進行で不倫関係にあったのがジュディス・キャンベルという女性。シカゴのマフィアであるシカゴ・アウトフィットのボスの愛人でした。ボスの指示によりキャンベルをケネディに接近させたと言われています。

ジョン・F・ケネディは激動の時代について行けなかった大統領

1963年11月22日、テキサス州を遊説していたケネディは、ダラス市内をパレードしている最中に銃撃されて亡くなります。犯人はリー・ハーヴェイ・オズワルドという名前の男性ですが、彼自身もダラス警察署で銃撃されて死亡。真相は謎につつまれたままです。このような終わり方をしたケネディですが、若いころから親の助けを借りながら成功をおさめてきました。彼の政策そのものは「優柔不断」であると、決して高い評価ではありません。ただ、在任中は世界を揺るがす出来事が多発していたことも事実。女性にはモテましたが、激動の時代について行けなかった大統領とも言えそうですね。

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アメリカの歴史世界史歴史独立後

合衆国史上最年少の大統領「ジョン・F・ケネディ」とは?生涯・政治家活動を元大学教員がわかりやすく解説

第35代アメリカ合衆国大統であるジョン・F・ケネディ。合衆国史上もっとも若い年齢で大統領に就任した人物です。現在の世論調査でも好きな元大統領の上位を行く存在。彼の在任中、キューバ危機、ベルリンの壁の建設、米ソの宇宙開発競争、公民権運動、ベトナム戦争など、次々と世界をゆるがす出来事が起こった。当時は、女性問題を含めて注目度が高かったものの、政策が不十分であると米国民の支持率がどんどん低下していった。

それじゃ、関係する出来事を取り上げながら、ジョン・F・ケネディの政策の結果やその後の評価、世間の興味を集めたスキャンダルなどを、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。世界史を語るときジョン・F・ケネディを避けて通ることはできない。ケネディ元大統領は、今日でも女性問題で有名な人物だが、彼の在任中は世界史的にも重要な出来事が多発している。そこでケネディが関係した政策とその後の評価をまとめてみた。

ジョン・F・ケネディ大統領の幼少期

ジョン・F・ケネディが生まれたのは1917年5月29日。マサチューセッツ州のブルックラインという地区で、アイルランド系移民の息子として生まれました。彼の名前は、ボストン市長を務めた母方の祖父ジョン・F・フィッツジェラルドに由来します。

アイルランド系移民のもと生まれたジョン・F・ケネディ

ケネディ家がアイルランドからアメリカに移住したのは1848年。このときのアイルランドは英国領であり、差別に苦しんでいました。また、飢饉により生活が困窮したことも、移住を後押しします。これらの状況を打破するために、ケネディ家は新大陸アメリカに渡り、事業を成功させました。

ジョン・F・ケネディは病弱な幼少時代を過ごす

ジョン・F・ケネディは、家族と一緒にボストンのブルックライン地区で幼少期を過ごします。小さいころからケネディは病弱で、さまざまな病気に苦しめられました。背骨に障害があり、障害に渡って痛みと戦うことになります。体が弱いことはケネディのコンプレックスであり、成人になってからそれを打破するためにスポーツに打ち込みました。

若き日のケネディは海軍士官として働く

PT-109 crew.jpg
By Collections of the U.S. National Archives, downloaded from the Naval Historical Center [1], Public Domain, Link

ハーバード大学を卒業したあとのジョン・F・ケネディは、陸軍士官候補学校と海軍を受験します。虚弱体質であったことから合格には至りませんでした。しかし、父親の口利きにより海軍士官養成コースに入ることが許されます。1941年のことでした。

ワシントンD.C.の海軍情報局に配属される

その後、ケネディは海軍士官に任命されます。彼が配属されたのはワシントンD.C.の海軍情報局でした。これは父の意向によるもの。海軍情報局であれば戦場に赴く必要がないという理由でした。ケネディが海軍士官になった1941年は第二次世界大戦の最中。日本の真珠湾攻撃が決行されたのも1941年です。そのため海軍に入隊すると戦地に赴く可能性が高く、それを回避するために海軍情報局に入りました。

FBIジャーナリストの女性と恋に落ちる

この時期にケネディはスウェーデン人の女性インガ・アバドと親密な関係になります。インガ・アバドはFBIジャーナリストというキャリアウーマン。ベルリンオリンピックの取材でアドルフ・ヒトラーと面会したことがあり、ナチス支持者やドイツのスパイという噂が出ます。ケネディはインガ・アバドと別れますが、しばらくはこっそり会っていたようです

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